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第五回国際経済・金融システム研究会


【第二部】

<自由討議>

行天座長

 どうもありがとうございました。お2方からそれぞれ大変刺激的なプレゼンテーションをいただきました。早速ディスカッションに入りたいと思いますけれども、下村委員のおっしゃった、ドナーの側からの政治改革のような要求が、80年代の後半ぐらいから非常に強くなっているということは全く私も同感なんですが、そういうドナー側からの、つまり開発援助についての、ある意味では新しいというか、意義づけみたいな動きがあるのに対して、レシピエントのほうから、それにいわばアンチテーゼとして、開発援助というものはこういうものであるべきじゃないかというような理論的な動きというのは、今のところ全くないんでございましょうかね。
 私は勉強してないのでよくわからないんですけれども、昔からUNCTADの会議なんかに出ますと、途上国、援助受け国の代表が当時からたくさんいまして、この人たちは非常に声高に議論をして、一時期は援助を受けるほうがよっぽど大きな顔をして、日本なんかはむしろ、それに押しまくられておたおたしておったような時代もあったような記憶があるんですけれども、最近はそういう情勢がちょっと変わってしまって、非常にドナー優位の世界秩序みたいなものが出てきているように思うんですけれども、その辺もし何か教えていただけるような動きがあるのであれば、お願いしたいと思うのでございます。
 それから原委員のお話も、非常に私は身につまされたのは、実は私は今月の初めに、例の小渕さんが言い出したアジア経済再生ミッションというのがございまして、トヨタの奥田さんが団長になられて、あれでベトナムにも行ってまいりまして、ファン・バン・カイさん以下にも会ったんです。この石川プロジェクトは、現地では非常に評価が高いんですね。首相以下、会う人はみんな石川プロジェクトということを口にいたしましてね。ところが、あれは相当膨大なものなんですな。我々のほうもあまりよく勉強してないで行ったものですから、石川プロジェクトの評価が高いと言われて、ああそうですかと。
 ただ、どういうところをベトナム側が非常に高く評価しているかというと、私も本当に数日の印象で、間違っているかもしれないんで申しわけないんですけれども、さっき原委員が言っておられたように、やっぱりかなり世銀とか、国際機関なんかの考え方に比べると、あえていえばグラジュアリズムみたいなところが非常に受けておると。それからそれと関係があるんでしょうけれども、そうやたらに工業化と言わないで、まず農業をやれと。非常に心情にぴったりというところがかなりあるらしいんですね。それで、政府側には大変評判がいいと。
 グラジュアリズムにしても、農業優先にしてもいいんですけれども、政府の人たちにすると、非常に心情的に受け入れやすいとは思いながらも、やっぱり工業化というものの魅力というか、圧力というものは抗しがたいものがあるわけでありまして、やっぱりそれは何としてでも早く近代国家になりたい、工業国家になりたいということですから、その間に立って、ちょっと言葉は悪いですけれども、首相以下、完全に精神分裂の状態に陥っているのではないかという感じが私はしたんですよ。それで、本当にかわいそうだなと。頭の中がもうごっちゃごちゃになってしまって、本当に何をしたらいいかわからないという状態で、おっしゃるとおりほとんど進んでないんですね。日本の企業なんかでも行ってる人たちは文句たらたらなんですよ、何も決めてくれない、朝令暮改だ何だ、これは汚職だなんの。そういう状態を見ていると、本当に受け入れ国が実行できるような物の考え方なり政策というものを、やっぱりだれかが教えてやらないとどうにもならないのではないかなと。
 例えば中国みたいな国では、幸いなことに鄧小平がいたと、だから少なくともあそこまでいったんだろうと思うんですけれども、ベトナムみたいな国を見ていると、悩みとか希望は同じであっても、不幸なことに鄧小平がいないわけですよ。どうなってしまうのかなという、大変同情の気持ちも強かったんですけれども、そんな気持ちで帰ってまいりまして、ますます、そんな意味で、日本がということではないんですけれども、何かこれからの開発ということについての考え方で、特にアジアの人たちに貢献しないといかんのかなと思っておるのでございます。
 皆さん、どうぞご自由に、どなたからでも結構でございますけれども、今のお2人のお話に関連して、触発されたであろうお考えを、ぜひお聞かせいただきたいと思うんでございますけれども、いかがでございましょう。

野上・外務省外務審議官

 OECD等の場でも、政治的なコンディショナリティは議論にはなっているんですけれども、ここに来て若干、この辺の議論が低調になっているというわけです。その1つには、やはり従来のインプット・コミットメント型から結果志向になったのはいいんですけれども、その裏として、インプットのほうが非常に弱くなってきてしまって、言うなれば昔はODAのGDP比が0.7、0.3なりといろいろなことがあって、ところがそれが結果志向になったがゆえに、アメリカの場合には、昔のインプット型の指標でいえば0.3であったものが、今は0.0いくつという状況です。インプットに対するコミットが非常に薄くなってきて、これに対してかなり危機感を持ってきているという点では、一番危機感を持っているのはフランスではないかと思いますが、なかなかその辺は、こういうご時世だからと、日本の今のはやり言葉みたいに、すべてがこういうご時世だからと、この辺が非常に弱くなってきた。
 もう1つは、僕が非常に危険だと思っているのは、今、原委員なんかもおっしゃった普遍主義とか、政治的なドナー主導型ということなんですけれども、ドナー側のベンチマークが揺らいでいるということです。要するに民主主義体制というものががっちりあって、それをある程度普及していくというような視点があればよかったものが、今度のAPECなんかでも非常に感じていたんですけれども、いわゆる先進国側の民主主義というのが、非常にポピュリスト的に振れてる。そうなってくると、ドナー主導型というものが非常に不安定なものになってきている。これはまた答えはないんですけれども、レシピエントの発言力が強くてわあわあ言って、UNCTADのように南北対立時代に騒いでいた時代から、ドナー主導型になってきたところが、ドナーのほうの座標軸が揺るぎ出した。そのドナーの座標軸が非常に短期志向型、ポピュリスト型になっている。そういったときに、例えばOECDでは、ある国の人は、ポリティカル・コンディショナリティは女性の問題だけやっていればいいんだみたいな議論をする、ある国は環境だけの議論をする。それはなぜかと見れば、やはりドナー側の国内の政治体制がものすごく揺れているからだと思います。
 本来のドナー主導の理念というのは、政府なら政府というものがかなり中立的で、かなり高い見識を持った政府というのがあって、国内のいろいろな世論というものを吸収して、バランスをとって途上国に投げていくはずだったのが、政府がざるの中の豆のように揺れるようになってしまっているときに、ドナー主導型というのは、非常に危ないんじゃないかという感じを持ち出してきているんですけれども。だからインドネシアの国軍はけしからん、もう援助は全部とめろみたいな、こういう短絡的な世論に政府が一緒についていく。ドナーの視点が揺らいでいるときに、このドナー主導型というのものには非常に危惧します。

茂木委員

 まとらないんですけれども、幾つか感想めいたことを申し上げさせていただきたいと思うんですが。まず、今話題に出ています開発援助、あるいは持続的発展を可能にする条件というようなことが、下村委員のお話にもありましたんですが、原委員のお話の中の、この問題は長い目で、歴史的視点で見る必要性が非常に強いように思うんですね。と申しますのは、今の経済発展のモデルを考える際とか、あるいはその理論的な枠組みを考える場合、どうも私は、従来から発達してきて今日に至っている経済学の理論的体系、あるいは分析のツール、あるいは過去においていろいろな発展を遂げてきた国の発展過程のモデル、そういうものが学者、あるいはいろいろな援助などに携わる方の頭の中で、支配的にそういうものが占めていると思うんですよ、これは当然といえば当然なんですが。
 少し大風呂敷的なことを言うようで、ご勘弁願いたいんですけれども、今どうも人類社会というものが曲がり角に来ているのではないかという気がするんですね。もちろん大勢の方が何となくそれを感じていて、あるいは気がついていて、そういう議論が出始めていますけれども、いざ実務的な問題を考えるとき、あるいは政策立案の過程で、その問題が非常に大きく難しいためだと思うんですが、肝心なところではそれがふいっと横へ、まあしばらく置いておこうということで、横に置かれてしまっているのではないか。それは何かというと、一言でいえば地球のキャパシティーの問題だと思うんですね。国連の人口基金の予測が当たるとすれば、多分あと半月か1カ月で世界人口は60億になるわけですね。過去40年で倍増しているわけですよ。エイズの流行その他で予測値が少し下がったようですけれども、2050年の中位推計が、たしかつい何年か前までは98億とか100億とかと言われていたのが、今89億とかに修正されたようですけれども。
 ただいずれにしましても、あと10年たつうちには、恐らく世界人口がもう8億から9億上乗せする、それで70億になると。それで開発援助で、どんどんどんどん生活水準をもし上げていくとするならば、1人当たりの人間が消費するエネルギーの量は、片方で省エネ技術だとかいろいろあるにしても、飛躍的にふえるはずなんです。それから食糧消費も、穀類の消費からやがて鶏肉、豚肉、魚、牛肉と移るにつれて、コンヴァージョン・レシオと言いますが、穀物の必要生産量というのはものすごくふえてくるんです。それから環境はどんどん悪化しますね。ようやくここで途上国の環境ホルモンの分析が始まって、その他いろいろ例を挙げれば切りがないんですが。要は、そういうふうに地球のキャパが決まっているときに、従来型の発展モデルでいいのかどうか。しかも大事なことは、ここに偉大なる経済学者が何人かおられるので、私の考えが間違っていたらご叱正、ご批判をいただきたいんですけれども、経済学の分析の枠組みの中には、地球のキャパだとかそういうことが全く入ってないのではないかという気がするんです。日本経済の再生論議についても全くそのとおりだと思います。それが第1点。
 それから第2点は、下村委員、原委員の両方の話に出てましたから、項目としてだけ申し上げますけれども、人類社会にとっての普遍的価値というのがそもそもあるのかないのかという問題と、それから仮にあるとしても、それとの国家主権とのすり合わせといいますか、最近のティモールの問題もそうですし、先のコソボの問題もそうですし、人類の長い歴史の中で随分そういうものが今まであって、今でもホット・イッシューとして残っている、これをどう考えるのかという問題。
 それからもう1つは、この会が外務大臣ないしは外務省の肝いりの会でありまして大変申し上げにくいんですが、日本のODAというものについて、4原則だとか何とかということが打ち立てられてから何年もたっているわけですが、それが果たして原則がよく守られているのかどうかということについて、門外漢ではありますけれども、若干、私は疑問に感じているところがあるわけです。ダブル・スタンダードという言葉が、アメリカだけじゃなくて我が国も、その都度その都度ポリシーの振れがやや大きすぎるのではないかという気がしますね。
 大した額ではないそうですが、中国からは、西アフリカ諸国かなんかにODAが出ているようですが、その中国に対して日本は、最も多い額をODAとして出している。それでドナー側の都合で言うことを聞かせるようなやり方云々というお話も出ましたが、私は中国に対して、ODAによって影響力があるのかないのかということが非常に疑問です。それにしては江沢民さんはこっちに来て、7回も8回も随分あしざまにいろいろ言いましたし。
 それから、日本のことを侵略国だ侵略国だ、侵略した侵略したとおっしゃっているんですけれども、日本が侵略をしたとしても、どう考えたって昭和20年の8月15日までですよ。だけどそれ以降、武力で併合した国もあるわけですよね。それを考えると、果たしてこれでいいのかなという感じがするわけです。

小島委員

 今ドナー側のほうがいろいろ出てきたというのは、これは冷戦対応というインセンティブがなくなったことが非常に大きいと思います。だから、その要素がずっと出て来ない限りは、緩んだ状況は続くんじゃないかという感じがしますね。それからもう1つ、お2人の話を聞きながら、要するにグラジュアリズムですか、あるいは相対主義の関連で、例えばアジアにおける、タイを起点とした2年ちょっと前からの危機をめぐる議論をずっと振り返ってみますと、ジャーナリスト的なキャッチフレーズでいきますと、タイからこの危機が起こったときは、みんな米欧はバイラテラルでは援助したんですね。例えばタイの危機だと耐えられるだろうと思ったわけです。その次にすぐインドネシアに波及して、コンテージョンという言葉が流行になりましたね。コンテージョンが、OECDに入って先進国にまでなった韓国までいったわけです。先進国だけど、しかしこれはアジアだと。結局クローニー・キャピタリズムだと。これを直せという話になったわけでしょう。
 しかしコンテージョンが、昨年はロシアまでいって、ヘッジファンドもつぶれて、中南米までいき出すと。今度は議論になって、これはクローニー・キャピタリズムの断面だけでは議論はできない、シークエンシー、要するに発展の段階・状況に応じて、それぞれの国の事情において、手順よくいろんな措置をとるべきだという議論になってきたわけですね。
 と同時に、また世界全体の枠組みも問題だとか、グローバル・キャピタリズムの危機だとか、グローバル・キャピタル・マーケットの危機だとかいって、去年のIMF総会では制度改革の議論になり、最近はキャッチフレーズ的にいうと、アーキテクチャーですね。だから、このわずか2年のアジアの危機をめぐっても、恐らく国際的なそういう専門家の中でも議論が非常に揺れている。フェルドシュタインなんて、IMFはもっと小さくなくてはいけないと。いつの間にか世銀みたいなことをやっているし、それ以上のこともやっていると。また経済に限定すべきであって、政治・社会改革までやったのは大失敗であったといまだに言っているわけですね。
 それからクルーグマンもクローニー・キャピタリズムの話と関連させれば、アジアの危機というのは、これは罪に対する罰ではないというのが、彼の最近の結論なわけですね。要するにクローニー・キャピタリズムがあってという議論をしてはいけないという話でもあるし、非常に振れがあるというような感じがします。
 それから行天座長もおいでになった、ことしの日米欧委員会の初日の会合で、ヨーロッパがアメリカあるいはワシントン・コンセンサスみたいなものに対して、大陸ヨーロッパがみんな一斉に反発しましたね。ちょっとそういうあれで、先進国の中でも揺れてるし、何も受け手のアジアとか、そういうところだけが大騒ぎしている問題でもなくて、今そういう意味で、理念的な1つの危機というか、混乱があるんじゃないかという感じがしますね。以上です。

篠原委員

 小島委員の話を続けますけれども、茂木委員から提起された問題というのは、ちょっとやっぱりでかすぎて。
 石川先生のベトナム・プログラムが大変におもしろい結果と成果を生んで、向こうでも評価が高いというのは、これは我々にとってみれば、それ見たことかというか、安心してもいいというか、ある種のはっきりした成果なんだろうと。頼まれてないかもしれないし、頼んでこないかもしれないけれども、同じようなことを、やっぱりこの地域のいろいろな国に対して考えてあげなければいけないかもしれんと。
 そうすると、地図を広げてみて、ラオスだ、カンボジアだ、ミャンマーだというのが何となくわかりやすい例として出てきて、そういうところにそういうプログラムを考えて一緒に悩むということも必要なのかもしれないし、そう無意味だとは思わないんですけれども、僕は、そう時間がないんじゃないかなと思っているのは、インドネシアと北朝鮮なんですね。ちょっとこれは、国際機関が何を考え、あるいはG7等々の国がどう言うか、あるいはこの2つの国が、それぞれ何を自分たちで模索してやっていこうと思っているのか、実は今のところ見えない部分が非常にたくさんあるんですけれども、それこそいろいろな知恵を日本のほうで集めて、北朝鮮の問題とインドネシアの問題を、あたかも日本の僕たちの問題という格好で、痛みを伴った悩みを分かち合いながら絵をかいていくということ、その努力をするということを急がなければいかんような気がしています。
 インドネシアと北朝鮮、それは話は違うと思いますね。ですから同じような話ではないと思いますけれども、日本にとってのいろいろな意味での重さというのは、例えばベトナムは7,000万の人がいますけれども、日本に持っている重さとは違った重さをこの2つの国は持っているような気がしておりますけれども。

竹中委員

 下村委員のお話で、コンディショナリティの1つの重点がグッド・ガバナンス、政治改革ということで、そこに絞ってちょっと1つなんですけれども。普通考えるのは、所得水準の高い国は成長率が低くなって当然だと、所得水準の低い国だからこうなって当然だというコンバージエンスの理論、収れんの理論というのがあって、その中で重要なのは、グッド・ガバナンス、政治の状況が経済成長率に影響しているかどうかという議論ですね。
 これについては先生がご指摘のとおり、東西冷戦が終わってから、1つの援助の基準を決めるということもあって、例えばロバート・バローとか、ああいう人たちが非常に集中的な研究をやったわけです。長期の統計を見て、結論からいうと、政治の状況、民主化されていればいるほど一応成長率が高いということは言えると。ただし重要なのは、因果関係がもう1つはっきりしないんですね、原因と結果でどちらが原因か。成長率が高いから民主的になっているのかもしれない、もちろん統計的な一応の答えは出せるんですけれども。
 もう1つ重要なのは、どこかでこれが変わるわけですね。ある程度所得が高くなると、今度は民主的な国ほど成長率が低くなる。これは当然のことながら、みんなポピュリスト的な要求を出していって、政府にも。多分日本の成長率が下がったのは、日本が民主国家になったからだという、そういう説があるんですけれども。まさに今日の問題提起だと思うんですけれども、そういうのをコンディショナリティの本当の基準にできるかどうかという非常に大きな問いかけがあるんだと思うんです。
 そのときのもう1つの考え方は、中国をグッド・ガバナンスと見るかどうかということではないかと。確かに成長率は高いし、そのための政治はやっているけれども、政治的に自由だとはとても言えない。私はやはり、もう少し幅広いコンディショナリティの基準というのを何か考えていくという提起を、日本からできないのかなというふうに思っています。今日、問題提起されたのはまさにそういう問題意識だったと思いますので、下村委員ご自身が、これをどのように発展させていかれるのかというお考えをぜひお伺いしたいのが第1点です。
 原委員のお話は、東洋文化研究所が役に立たないということですけれども、それは経済学が役に立たないというのではないかと。役に立たないもの同士の会話というふうにお考えいただきたいのですが、結論からいうと私は、普遍主義に対してアジアの価値をというような、そういう問題設定というのはちょっとなじめないんですね。もちろんそういう意図ではないと思いますけれども、あえて言えば、みんな豊かになりたいと思うし、平等であってほしいと思うし、政治的に自由が欲しいと思いますから、別にそれを普遍的な価値と呼ぶ必要はないけれども、ある程度共通の政策目標になるわけです。
 ただ、今まで言われたことは、それに対してもう少し何か別な要素を考えようと。何か1つ自由化するに当たっても、同時にこのことを行うという、ポリシー・ミックスの議論というのがあったわけです。しかし重要な点は、同じ2つのことをやるにも、どっちを先にやるかによって全然違ってくるし、そこにやはりそれなりの価値観とか、時間に対する概念、将来に対する割引率とかリスク要因とかが入ってくるから、我々がむしろ手にすべきはポリシー・ダイナミクッスであると。ポリシー・ミックスから、さらにポリシー・ダイナミックス、時間の概念を考えてやろうと。そのやはり具体的なオルタナティブを出すと。
 行天座長が言われた点は非常に重要な点で、つまりこれまでよくアジアから出てくるのは、アンチテーゼは出てくるんですけれども、オルタナティブはないではないかという議論だと思うんですね。恐らくベトナムのプロジェクトというのは、1つのグラジュアリズムという形で、これはダイナミックス、時間の概念が入ってますから、1 つのオルタナティブになり得るようなものを、未完成かもしれないけど出したと。
 ただ1つ、そこでもやっぱり気になるのは、日本はどうだったんということになると、日本はグラジュアリズムの国ではなかったということだと思うんですよ。日本は明らかにショック・セラピーの国ですね。明治維新と戦後の改革というのは世界に類を見ないショック・セラピーであって、そうすると日本が、言っていることとやっていることがちょっと違うのではないだろうかというような直観を皆さんが持っておられて、それで皆さんは混乱されるのではないかと、ちょっとこの点の評価を原委員にお願いしたい。

小島・外務省経済協力局審議官

 援助の話、政治的コンディショナリティの話、実務に若干携わってきた者からお話しさせていただきますが、実は私もODA大綱をつくるときに若干お手伝いした経験がございます。なぜODA大綱ができたかというのは皆さんご承知の通りでございますけれども、下村委員のお話にあったように、世界的に大きな流れがありました。もうちょっと具体的に申し上げますと、東欧の民主化とか、湾岸戦争とか、あるいは天安門事件、そういったものが直接的にはございました。こういった動きに対し、ODAによってどう対応していくかについては、国内で相当な議論があって、最初にいわゆるODA4原則というのが出て来まして、それが骨格になってODA大綱というのができたということでございます。
 そのとき私どもが強く感じておりましたことは、ODAでできることは非常に限られているということであります。それから、そのODAを供与するに当たって考えなければいけないことは、もちろん政治的な民主化、大量破壊兵器の開発等ありますけれども、それと同時にやはり2国間関係といいましょうか、開発途上国の貧困の状況、それからその国その国の安全保障の状況もあるでしょう。安全保障状況が厳しい国は、どうしても軍事費が増えるでしょうと。そういうこともいろいろ考えて、ODAを供与していかなければいけないでしょうと。単に民主的コンディショナリティだけを考えて、決めるのは適当ではない。ですから私どもはご指摘の通り、厳密な意味でのコンディショナリティではないと思っています。
 では、そういうことを考えた上で、どういうふうに適用するかということでございますけれども、やはり何か逆行するようなことがあったから直ちに援助を減らすとか止めるとか、そういうことは適当ではないのではないか。当時言ってましたが、最近そのように言うかどうかわかりませんけれども、ネガティブ・リンケージはできるだけ避けましょう、ポジティブ・リンケージをできるだけやりましょう、民主化が進む国についてはできるだけ援助を増やしていきましょう、そういうことを考えました。それからネガティブな動きがあった場合にも、先ほど申し上げたように、すぐに援助をとめるとか減らすとか、そういうことではなくて、できるだけそういうことは避けて、対話をしましょうと、粘り強く対話をして、それで相手国の変化を待ちましょうと、こういうことだったわけです。
 ただ、こういうものを一旦作ってしまうと、どうしても世の中、一人歩きといいましょうか、できるだけこういうものを厳格に、原則として適用すべきであるという声が強くなってきてしまうということを当時懸念していたんですが、個人的には、そういう声が非常に強くなってきたような気がいたします。これだけ税金等を使っているのですから、こういうことを言うのは当然であるという考え方です。
 その点は、やはり私ども実務家の立場からいうとなかなか難しい点もございまして、ODA予算というものを確保しておかなくてはいけませんし、そのためには国内世論の支持が必要でございますので、その辺のバランスというのは非常に難しいということを痛感しています。
 特に具体的な例で申し上げますと、ミャンマーの援助、それからインド、パキスタンに対する核実験後の新規援助の停止。これについては、特にインド、パキスタンの核実験後の援助の停止でございますけれども、パキスタンなんかを見ますと、経済的には相当厳しい状況になっております。ではその間、核不拡散の分野で進展があったかというと必ずしもそうではないし、そういう中で、どうやって両国の前向きな姿勢を引き出しつつ、日本の援助というものを見直していくかというのは、非常に難しい舵取りが必要ですね、そういう状況でございます。
 それから先ほど、受け手からのアンチテーゼはないのではないかとおっしゃったのですが、私も全くそのとおりだと思います。民主化とかその他については、途上国から、それはおかしいよという議論は、確かに政策協議等の公の場では出てこないです。1つ出てきているとすれば、欧米というのは、民主化の進展とかそういうものを口実にして援助を減らしているのではないかという不満を、ちゃんとした協議の場ではなくて、廊下でそういうことを言われることがあるんです。それは逆に言うと、日本はそういうことをあまり言わずに、強く言わずに援助を与えてくれるからありがたいとか、将来も援助を続けてくださいという期待が込められていると思うんですけれども、そういう形では出てまいりますけれども、アンチテーゼとして、それはおかしいよというような議論は、私自身もあまり聞いたことがございません。

堀村・外務省中南米局長

 3点ばかりです。第一は一般論ですけれども、特に戦後の流れを見てますと、ブレトン・ウッズ体制を通じて、民主化もしくは市場経済というものをできるだけ戦略的に世界に広げようという意図は、特にアメリカを中心にして大きな流れだったことはほぼ間違いないと思います。冷戦の時代は、それをあまり強く打ち出すことを、少なくとも1990年以前は自制していたという面があると思うんです。冷戦構造が終わってその必要性が薄れてきたということで、1990年以降、民主化及び市場経済に対する考え方は、欧米、端的にいいますとアングロサクソン的な考え方が、かなり出てきているんだろうと思います。今後、この流れは大きな流れとして、我々も考えていく必要があると考えます。
 第二は、たまたま私はラテン・アメリカを担当しておりますけれども、ラテン・アメリカでも、デモクラシーとオープン・マーケット・メカニズムが、1990年、冷戦の終了以降、急激に浸透してきていることはご案内のとおりであります。これが中南米の地域の安定性に多かれ少なかれ貢献していることは、否定できないところではあろうと思いますけれども、ひとつひとつの中を見てみますと、よく言われますように、社会的な格差、地域の問題とか、あるいは犯罪の問題とか治安の問題とか、いろいろ問題あり得るわけであって、これが本当にいわゆる安定と申しますか、さらにその他の地域の平和、繁栄ということに、総合的なもう少し幅広い概念を取って見ると、その辺のかかわり合いがどうなっているのかなという点は、1つ感じるところであります。
 先ほど原委員からバランスというお話がありまして、非常に興味深く拝聴致しました。民主化なりオープン・マーケット・メカニズムという概念が、地域の安定にどういう形で、どういうプロセスで貢献していくのかというのは、肌理の細かい分析が必要なのではないかと思います。これは一つは時間的なタームの問題、即ち短期的、中期的、長期的、それの問題にもかかわるでしょうし、さらには、民主化とかオープン・マーケット・メカニズムという価値観に加えて、何らかの、場合によっては社会的な問題も含めた価値観がさらに必要はないのかということですね。この辺は将来考えていく必要があると思います。長期的に見て、デモクラシーなりオープン・マーケット・メカニズムなりが域内の安定に本当に資していくのかどうか、これはもう少し注意深く見ていく必要があるかなというの印象を有しております。
 第三は、これはご参考までですけれども、中南米とアジアとの違いは、中南米とは基本的には西欧の文明・文化だろうと思います。それに対してアジアの場合には、各国の個性が相対的に強く出る傾向がありますから、人権なりデモクラシーというものを、援助なり何なりに絡めて普遍的に広げようとしても、西欧文明が基本となっている中南米と、味わいが違うのではないかと思われます。中南米の場合には西欧文明を基本としてますから、今までのところ、デモクラシーなりオープン・マーケット・メカニズムが相対的に円滑に進んだ経緯があると思います。

野上・外務省外務審議官

 ちょっと追加なんですけれども、先ほどの経済的コンディショナリティと政策的コンディショナリティ、政治的コンディショナリティで、非常に皮相な言い方をすると、政策的コンディショナリティのほうが易しいんですね。経済的コンディショナリティというのは、かなりきちんとした積み上げ作業を必要とするし、統計を見る必要もあるんですが、政治的コンディショナリティというのは、ある意味ではワン・サイズ・フィット・オールで、行政的には非常にコスト安なんです。逆にいうと、援助政策というものの位置づけが、先進国の中で比重が下がってくると、手間暇かけて高いコストを、それこそ石川・原プロジェクトをやるよりは、政治的な世論調査をぱっとして、ぱっとコンディショナリティを持ってくるという形で、非常にコストの安い政策ができる。
 そういう側面が、実はあるんだろうと僕は思うんです。OECDの中での議論を見てましても、やはりDACの議論というのは、当初の開発戦略というのは非常に手間暇がかかる。例えば開発途上国における妊産婦の病気の率であるとか、子供の就学率であるとか、非常に細かくやっていかなければいけない、ケーススタディを非常に積み上げていかないといけない。これをやっていくと、小さい国と国、小さい民主主義国家というのは、なかなかそれだけの能力もないし、行政コストもかかりますし、人員も限られている。他方、イデオロギー的なコンディショナリティをする分には、自分たちが考えないでも、考えてくれる連中がたくさんいるわけで、それをぽんと持ってくればいい。
 そういう意味で、もちろん政治的コンディショナリティの重要性を否定するものではないんですけれども、残念ながら今のやり方は、非常に先進国の行政機関、政治が若干疲弊している中で、一番コスト安の方向に流れているのではないかという危惧を持っております。

吉冨委員

 アジア1つをとっても、30年前までは、この間下村委員はケニアに行ったんですか、30年前はタイのほうがパー・キャピタルが低かったけれども、今やはるかに高いと。30年前はアジア停滞論というのが非常に強くあったわけですが、停滞論者は、その後の高成長を説明できなかった。高成長を説明したワールドバンクの、奇跡、ミラクル・リポートは、クライシスを説明できない。クライシスを説明しているクローニー学派は、今の回復を説明できない。つまりあらゆる学派が、非常に大事なことがこの半世紀の間に起こっているんだけれども、コンシステントに説明するフレームワークを持っていない。持っているのをつくろうとすると、それぞれの方々がこれまで以上に、いいにつけ悪いにつけ専門化しすぎていて、ランゲージが非常に違う、日本語・英語というランゲージじゃなくて、専門のランゲージが違う。
 アジアの危機は、古いアジア関係の研究者を非常に難しい研究環境に陥れまして、自分たちの口からは説明し切れないわけですね。ところがアジアにあまり興味のなかったポール・クルーグマンとか、いわゆる主流派が説明するフレームワークみたいなものを持っているらしくて、どんどん発言する。何かその間に齟齬を感じるというのが、恐らく我々の実感だと思います。
 先ほどのオープン・マーケットにしても、トレードのオープン・マーケットは、これはかなりいいのではないのというのは多くの人が言っている。その中でインファント・インダストリーをどうするかというのがサブの問題として出てくるわけですが、キャピタル・アカウント・コンバーティビリティについては、まだ証明もないのではないか、証明もないのを進めてきてしまったのではないのかというのが、学界でも主流であります。
 ガバナンスをコンディショナリティに入れるについては、もっと検証がないと。だから、検証がないものを進めていくようなものが、コンディショナリティとか、あるいは非常に重要なIMFの情報の中に入ってくるというのをどう理解していけばいいかというのは、ぜひ学者の方々にやっていただきたい。
 私は役に立たないものが役に立つものですから、なぜそういうものが出てきたかということを考えるよりも、出てきた中で、それをプラクティカルにインプルーブメントするかで、先ほどのシークエンシング・イシューなんていうのは、今に始まった話では実はないんで、マッキノンなんかが昔から言っているんですけれども、それをきちんとやっていったらどうかということです。
 それからグラジュアリズムとショック・セラピーも、これはもう古くて使ってはいけないと。というのは、グラジュアリズムそのものが長引くというのはなぜかというメカニズムを分析すると、その国の市場経済を発達させるに必要な最低限の法律の整備だとか、法律を施行する制度だとか、それからそれにまつわるアカウンタントとか、ロイヤーとか、これのアクティブ・インディペンデントとか、一言でいうと制度なんですね、インスティテューションズといっているわけです。我々はこれをマーケットといったけれども、マーケットを支えている、あまりよく見えないインスティテューションズについては、ネオクラシカル・エコノミストが最も弱かったところなわけです。それでノース・ダグラスとかいっぱい出てきて、ノーベル賞を取っている人も言いますけれども、そういうネオクラシカル・エコノミストとインスティテューションズの間の結節点を、きちんと発展段階の中で解きあかした人は実はいないような気がします、この半年を見ていて。
 そういう議論を幾らふっかけても、専門化しすぎてしまっているのか、専門ばかになっているのか知りませんけれども、ランゲージが通用しないわけであります。これが役に立つようにするということは、時間の制約があるということですから、タイムフレームの中に間に合わないんですね。というわけで、今の経済学でも相当使えば、かなり整理できていくのではないかなという気がしています。今のオープン・マーケットもそうですし、グラジュアリズム、ショック・セラピーもそうであります。
 インスティテューションズの話になりますと、細かくおりていくと、企業のシステムのあり方とかになってきて、今はやりのコーポレート・ガバナンスが出てくるんですね。これになると、製造なんかはやってきたかもしれませんけれども、普通の人はこの4、5 年一生懸命勉強した程度であって、非常に底が浅いんです。
 今度はアジアのコーポレート・ガバナンスというのが問題になってきているわけです。アジアのコーポレート・ガバナンスというのは、もっと底が浅いわけです。といいますのは、議論をしている人はアメリカの東部で、それは先進国のコーポレート・ガバナンスを頭に置いて、危機の後のアジアは、日本型のバンク・ベースなのか、アメリカ型のエクイティ・マーケット・ベースなのかという議論をしている程度で、そのときの大きなエマージング・マーケットの産業構造とか組織、一言でいうとファミリー・ビジネスが依然としてドミナントなのに、そういう中で、銀行がファミリー・ビジネスをモニターできるのかとか、エクイティ・マーケットは本当に発達するのかとか、そういう根本的といっては大げさですけれども、経済学ではある程度常識的にそこまで調べたらいいなと思っているところも、実はちゃんと調べられないままに、コーポレート・ガバナンス、そしてベスト・プラクティスという言葉が出てきている。これが非常にくせ者です。
 ベスト・プラクティスというのは、途上国論の私は最大の問題で、エコノミストが怠けてるのが結果として出てきていると思いますけれども、通常生産関数というのが経済学でありますですね、生産関数というのは、大体ザ・生産関数というのがあるんです。ザ・生産関数というのは、先ほどコンバージェンス論というのが出てきましたけれども、コンバージェンス論というのは、アメリカならアメリカが、最先端の生産技術、経営技術を持っているために、全要素生産性が一番水準として高いという前提があるわけです。それを前提にして、資本と労働の組み合わせをやっていくという格好になっているわけですけれども、そこに追いついていく段階が途上国なんですけれども、これがそこのベスト・プラクティスなんですね。だから、いきなりベスト・プラクティスをやれといってもできないで、途上国論というのは、その生産関数のいわば内側のほうにあるところから徐々に発展してくる様子をどうとらえるかというわけで、いきなりベスト・プラクティスがないから、ディベロップメント・エコノミックスがあるんですね。だから、ベター・プラクティスズを絶えずその段階ごとに発見していくというのが仕事なんですけれども、いつの間にやらベスト・プラクティスというふうになっているというようなことで、それを極限に進めていくと、ポリティカル・ガバナンスみたいな話になるわけです、コーポレート・ガバナンスから、通常の広い意味の、非常に近いところの、つかみどころのないガバナンスを持ってきて、民主主義とかなんとかになると、もっと制度を政治のほうに極めていった難しい話になってきますから。
 というわけで大きな流れは、皆さんがおっしゃっているように、非常に単純化されたガバナンス。ワン・サイズ・フィット・オールというやつは、ネオクラシカル・エコノミストに対して、我々がしょっちゅう言ってた言葉で、中身は何かというと、インスティテューションズが違うよということなんです。だから明治維新とか日本の戦後の場合も、そういうインスティテューションズのベースがあれば、その場合に、何かの悪いイナーシャで改革できないでいたら、それを改革するのはちっとも構わないわけで、そういう論議をしていかない限り、ゆっくりやればいいとか、速く走ればいいとかというのは、ファンクショナルな説明が全くないんですよね。そのような反省を含めて、役に立たないものを役に立つようにするにはどうしたらいいか、それからオルタナティブをつくるにはどうしたらいいかというのを考えていけば、そんなに難しい話ではないのではないかと。

楠川委員

 私は今日は聞き役に回ってまして、大変に身につまされてるんです。さっきフィナンシャル・アーキテクチャーという言葉が出ましたけれども、今APECの民間サイドでも、実はフィナンシャル・アーキテクチャーをテーマとしまして、これからどう取り組むのかという議論をやらなきゃいけないんです。私はその副議長をやることになりまして、まず悩んでいるのが今までの皆さんのお話のような点です。
 その中でこれから出てくる問題の1つは、地域のマーケット・センターみたいなものをつくれるのかどうかということ。もう1つは、この危機が来る前には、アジアの中で中産階級が随分勃興してきてましたが、その人たちの世界観というのはどうだったんだろうかということです。今お2人のお話があったところとの関連において、私は非常に興味があるところなんですが、今後、経済の回復とともに、そういう中産階級はリーダーシップを取ってくるでしょうから、そこはよく注意しながら、彼等の考え方に合った形でのテラピーを考えなければいけないのではないかと思います。

近藤委員

 今日は両委員から大変いいお話を伺いました。いろいろ考える材料をいただきありがとうございました。下村委員が最後に言われた、ドナーは何をしてもいいわけじゃない、相手国の立場にも立ったそれなりの配慮も必要だということ、それから原委員が冒頭でおっしゃいました、改革には外部の力が必要だということ、この2つともそのとおりなのではないかと思います。要はバランスの問題なのでしょう。
 一方、ODAは外交の一手段であるということ、これもまた紛れもない事実であって、そこでは、日本にとって望ましい2国間関係の構築とか、望ましい世界の環境条件を作り上げていく上での、日本としてのメッセージをはっきり示していくべきだということは当然なんだろうと思います。
 そこで、如何にそれらのバランスを取っていくのか、取るべきバランスの基軸を何処に置くべきなのかが問題になります。皆さん方のお話を伺いながらいろいろ考えていたのですが、やはり打ち出すメッセージの実効性が、1つの基軸になり得るのかなという感じが致します。相手国にとって実効性のない政治的コンディショナリティは排していくべきなのでしょう。あえてキーワードということで言いますと、コンストラクティブ・コンディショナリティというようなことなのかなと思います。
 それからODAのこれからのあり方として、内容的にはやはり、知的支援の分野をふやしていく必要があるのではないかという感じが致します。どうもありがとうございました。

行天座長

 それでは最後に、下村委員と原委員からお話を伺いたいんですが、その前に、私が皆さんのお話を伺っていて1つ欠けているなという感じがしたのは、途上国への経済的な援助で、冷戦以降の世界の体制変化が、援助についての物の考え方なり、オリジナリティなりに、非常に大きな変化をもたらしたというのはそのとおりだと思うんですけれども、やっぱりそれ以上に忘れてはいけないのは、民間資本の役割というのが圧倒的に多くなったわけですよね。これは、70年代以降の、いわゆるグローバリゼーションと呼ばれてますけれども、要するに国際的な民間資本の流れというのは、スピードにおいても量においても、ものすごく大きくなったということと、これも一般的に言われている情報革命というのは、世界のマーケットというものをすっかり変えてしまったわけで。ですから、最近の物の考え方というのは、少なくともマーケット・オリエンテッドな金の流れというのは民間がやればいいんだと、現にやっておるんだということでありまして、したがってODAというものの役割は、その意味では確かに、非常に経済的な分野から、政治的あるいは環境なり何なりの倫理的というのかな、そういうものに動いていっているわけです。ですから、これからの途上国の開発援助ということを考える場合には、やはりその問題というのは、絶えず念頭に置いておかなければいけないのかなというのが、私の印象ではありますけどね。

下村委員

 いろいろ貴重なご指摘をいただきまして、ありがとうございました。3点に絞って、もう一度お話をしたいと思います。
 まずODA大綱のお話が出ましたけれども、特に4原則ですね。実は私、東京大学の中川先生たちと一緒に、ODA大綱の運用を研究してきまして、その結果を小さな本にして、『ODA大綱の政治経済学』というタイトルなんですけれども、10月の末には出版されるということになっております。そこで細かいデータはお示ししてありますが、ODAの設計思想は、小島審議官がさっき言われたようなことで、それはODA大綱に日本独自の味わいをつけていると思います。ただ、これも小島審議官が言われたように、徐々にODA大綱の運用のあり方が、スタンダードな政治的コンディショナリティのほうに向かって動いているということは事実だと思いますね。
 その理由としていろいろあると思いますけれども、野上審議官が言われた点が示唆に富んでいると思います。ポピュリスト的な要素が出てくると短期志向になって、どうしても通常の政治的な発想に向かってくると。今、正に日本で起きていることはそういうことだと思うのですけれど。政治家は商売柄、どうしてもネガティブ・コンディショナリティ、ネガティブ・リンケージで打ち上げないと話題にならないというところもありますし、その方がポピュリスト的に国民にアピールしやすいということがあって、これからは、特に中国については、かなり激しい議論というのも出てくるのではないかと思います。
 ただその点について、援助をしている側が何ができるか、どこまで途上国に物が言えるかというのは、本当にきちんと考えなければいけないということを、もう一回繰り返すにとどめたいと思います。
 それから、竹中委員からグッド・ガバナンスのお話があって、中国のガバナンスをどう考えるかという重要な問題提起がありましたが、そこは非常にポイントだと思うんです。若干の文献レビューをすると、政治体制と経済発展の相関関係というのは、やはり有意な相関関係は見出されないということだと思います。また、ガバナンスと経済発展ということになると、ガバナンスの方がかなり漠然としているので、相関はなかなか難しいと思います。
 ご指摘のあった問題点は結局、今の先進国がガバナンスの要件を著しく欠きながら、なぜ発展できたのか、日本もアメリカもイギリスも。それから東アジアは、ガバナンスの要件を著しく欠きながら、なぜあんなに長期に発展できたのか。そう考えると、吉冨委員が言われた、ベスト・プラクティスを提示して「おまえ、これが欠けているじゃないか、だからだめなんだ」というだけではまずいわけであって、何かコアになるガバナンス要件が満たされていれば、やはり発展するということではないかと思います。
 それが私のささやかなオルタナティブの提示でして、最近書いたペーパーで、戦略的ガバナンス要因というものを特定しようと試みたんですが、戦略的なものがある程度満たされていれば、ベスト・プラクティスがなくても発展できるという考え方です。しかしそれが有効なのはあるところまでであって、例えば短期資本の自由化というレベルになると、戦略的な要因だけ満たしているのでは問題が起きて、アジア危機になるのではないかと。そうかといって、ベスト・プラクティスを全部フルセットのメニューにして出して、「おまえ、これを全部満たせ」とか、「満たさないと、援助を止める」とかというのは、自分たちの過去の歴史を振り返れば、そんなことは言えるはずがないと思うんです。過去だけではなくて、日本の今の現在(政治経済の腐敗)、アメリカの今の現在(大統領のスキャンダルや武器輸出)を考えたら、途上国に対してガバナンスなんて言える資格はないのではないかと。
 それから3点目ですけれども、今の私の戦略的要因というのは、近藤委員が言われた実効性ということと同じです。それから、最後に行天座長が言われた、ドナー優位のもとでレシピエント側は何をしているかということなんですが、おっしゃるように、昔のUNCTADのような動きは全くないわけですけれども、それはやはり、ドナー側とレシピエント側の力関係が著しく変わってしまったということだと思うんですね、レシピエント側は黙っているしかないと。
 昔のUNCTAD的な発言としては、スイスにサウス・コミッションというのがあって、昔タンザニアの大統領だったニエレレという人がヘッドで、最近「南の挑戦」という報告書を出したそうですけれども、私は読んでないんですが、そこにわずかUNCTAD的な志向が残っている程度だと思います。
 ただ、国際機関からコンディショナリティつきの援助をもらっていない国の指導者は、かなり文化的相対主義というのをずっと言い続けてきて、リー・クアンユーとかマハティールとか、ある意味では中国もそうだと思います。文化的相対主義、原委員が言われたことと同じだと思うんですが、それを言えるというのは、コンディショナリティつきの援助をもらっていないから言えるのであって、ということは、マクロのインバランスを深刻化させないという条件が確保されていないと、南側からは何も言えないというふうに思いますけど。

原委員

 時間がありませんので、ものすごくセレクティブに2点だけちょっとリプライ的にさせていただきます。1つは、私がかかわっております石川プロジェクトのことなんですが、先ほど行天座長か、どなたかも何人かおっしゃいましたけれども、大変評判がいいと。これは評判がいいんですが、当事者としては非常に困ったなというか、欠陥もいっぱい知ってるということなんですけれども。なぜ評判がいいかということだけ、ちょっとだけ、1つのケースだと思いますので、ここの席でご紹介をさせていただきますけれども。たしかあのときは下村委員も一緒だったと思うんですが、迎賓館に行きましたよね、書記長がお見えになりまして、小倉大使とグモーイ書記長が日本の迎賓館のところに、私と石川先生と下村委員と同席したんですけれども、私はあの、最初の書記長と石川先生の話がスタートラインになったというのは間違いないと思うんです。
 それはどういう話であったかというと、石川先生はこう言われたんです。「私は中国の経済の専門家だ。中国の改革をいっぱい勉強してきた、間違いがいっぱいあります。その中国の間違いを踏まえて、ベトナムの勉強をしたいです」ということを言われたんです。書記長は、多分非常に反応されたように思います。予定時間をかなりオーバーしてやりとりをすると。多分、石川先生とグモーイ書記長の年齢も1歳しか違わないというので、部分的に2人の老人の共鳴現象が起こったと思っております。ただこれは、乱暴なことを言いましたけど、削除してください。
 その後ずっと3年間ぐらいやってきまして気がつきましたけれども、これも削除していただきたいんですが、石川先生は徹底的にまじめな学者なんですね、やっぱり書記長は政治家です。ですから、この共鳴がどういう意味を非常に広いところで持っていたかというのは、もうちょっと後になって検証してみる必要はあるだろうというふうには思っています。
 ただその中で、やっぱり工業化というのは、どなたかがおっしゃいましたが、ここは石川先生のプロジェクトが一番問題をはらんだ部分なんですけれども、我々も何を言ってたかといいますと、無理な工業化はやめなさいということを言ってたんです、実は我々のプロジェクトでは。いろいろな大きなプロジェクトをやっても、アフターもあるし、よほどセレクティブにきちんとやらないとだめですよという報告書なんですが、こんな分厚いからだれも読まないですけどね、製造業のところだけなんですが。
 その辺が常に問題で、一方で、8割の人口がいる農業・農村問題というのは重要ですという、石川先生の前からのあれがございまして、中国の農業改革の失敗ということを随分言われたものですから、その部分はかなり効いたと。ただしもちろん、口の悪いある日本人に言わせると、日本は石川プロジェクトを通じて、農村地方に対するインフラのODAをいっぱい出してくれると向こうは期待を持っているよと、全部そういう文脈で動いていただろうと思うんです。ただ1点だけ言いますと、こういう知的支援というようなときに、政治的リーダーと日本側の何か個人的共鳴みたいなことは、やっぱりスタートラインに間違いなくあるなというのを痛感をしたということです。
 2つ目がもうちょっと一般的な話なんですが、吉冨委員が非常にうまいことを言われましたんですが、要するに経済学から考えますと、どうも私はこう思うんですね。経済学というか社会科学そのものが、政治、つまり国家、ガバメントとマーケットという、このダイコトミーなんです。どうもそれではあかんのではないかというので、インスティテューションズ、先ほど吉冨委員が言われたことが出てきて、インスティテューションズももちろん政治がつくる公的なルール、ダグラス・モースが言ったようなルールと、最近青木さんとかが言ってますけれども、民間自体が生み出してくるさまざまなインスティテューション・ルールもあると。そういった単なるガバメント、マーケットのディコトミーを超えた何かエレメントというのが、やっぱり経済では重要なんだという意識が出始めてきておりまして、そういう意味で、先ほど吉冨委員が言われたことが、僕はそのとおりだと思うんですけれども、そういうインスティテューションの興味で、何かもうちょっと進めていけばいいんだろうというように思っています。
 実はそのときにやはり問題は、これは竹中委員が言われたことにちょっと、政策としてのショック・セラピーかグラジュアリズムかというのが、1つ大きな問題です。これがどっちが成功するかしないかというのは、中国はグラジュアルで成功して、ソ連はショック・セラピーで失敗したという単純なディコトミーは成り立たないと僕は思っていまして、もうちょっといろいろなことを研究しなければいけないだろうと思っています。
 私が今日言ったのは、我々がアジアの経済を見るときも、物の考え方の中のショック・セラピーとグラジュアリズムという、ちょっと妙なことなんですけれども、つまりどうも余裕のないベスト・プラクティスを求める、理念を追い求めるタイプの志向と、やっぱり先ほど言われた、ゆっくりインスティテューションなんかを見て、とにかくゆっくり、それが僕の役に立たないということにいくんですけれども、あせらずに相手を見るという視点のようなものがどこかで必要なのではないかと、そういうことを私が言いたかったんです。
 最後ですけれども、私が大好きなあれが、自分で30年ぐらいアジアに行き始めてからいつも気にしていることは、開発経済学の創設者の1人のハーシュマンという人物がいますね。昔、今の世銀、IMFのエコノミストは、ビジティング・エコノミスト・シンドロームに陥っていると見事な表現をしまして、何のことをやっているかというと、飛行機の中で統計を読んで、向こうに行くと患者である相手の途上国を一切調査せずに、向こうの統計局や大蔵省へ行って話をして、ホテルへ帰って新古典派のテキストに沿ったペーパーを書くのに時間だけをマキシマイズしている人種という、非常にそういうおもしろいことをハーシュマンが言ってたことを記憶しているんですけれども、石川先生と一緒にベトナムをやったのも、やっぱり現場に行ってみようという、そういうこと、そういうのの思考とか研究とか、ODAの相手の国の発展を考えるときの我々の作業のグラジュアリズム、思考のグラジュアリズムみたいなものをもうちょっと考えないと、常に理想を求めると、過大な期待と過剰な失望を繰り返していくことになるのではないか。ちょっとそんな気がしているということなんです。

行天座長

 どうもありがとうございました。本日も、下村委員、原委員から大変刺激的なお話を伺って、また活発に議論していただきましてありがとうございました。毎度申すことですけれども、この研究会のテーマというのは、まさにアジアを中心にして、今後の経済システムはどうあるべきか、特にまたその中で日本が何ができるか、何をすべきかということだと思います。その意味で、今日の議論は大変役に立ったと思います。
 次回は、10月18日月曜日を予定しております。テーマは「韓国、インドネシアにおける改革の現状と展望」、「アジア型経済発展モデルの問題点と将来性」という、これもまた大変大きなテーマでございますが、小松さんと深川さんのお2人にレポーターをお願いしてございます。
 どうもありがとうございました。これで終わります。



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