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文化外交(海外広報・文化交流)
「日本の多様性としての沖縄--歴史・文化の視点から」
 (高良倉吉・琉球大学教授)

1.沖縄という地域の概観

自己紹介

(1)モスクワ/ベルリン/ボンの知的な聴衆の皆様の前で、講演できる機会を与えられたことに深く感謝します。来月(7月)、主要国首脳会議(サミット)が日本で開催されますが、その会場となるのは日本の中の、最も南にある沖縄と呼ばれる島々です。

(2)その会議にはプーチン大統領/シュレーダー首相が出席されます。先進国の首脳が沖縄に一堂に会して、世界人類のために創造的な協議を行うことを、私は心から期待しています。私は、その会議の会場となる沖縄に生まれ、その島で生活し、またその島の歴史や文化について研究している歴史家の一人です。

自然・戦争

(3)ところで、沖縄は、日本という国の中で最もユニークな地域の一つとして知られています。日本は東京や京都を始め47の県によって構成される国ですが、その中で沖縄県だけは雪が全く降らない亜熱帯の島なのです。アメリカのハワイのように珊瑚礁の海が発達しており、世界的に見ても珍しい動物が数多く生息しています。つまり、自然の面から見ても、沖縄は日本の中でユニークな地域なのです。

(補足)

  1. 小さな島だけで県をつくること(島嶼地域であること)。
  2. 人の住む島(有人島)が約47島あること。
  3. 東端-北大東島、西端-与那国(よなぐに)島、南端-波照間(はてるま)島、北端-硫黄(いおう)鳥島。東西1千キロメートル、南北4百キロメートルの広大な海域に分布すること。
  4. 海を含めると日本最大の県であること。
  5. その自然条件が独特の神観念を生み出した。例えば、ある島の人々にとって、神々は海のずっと向こう、ニライカナイという世界に住んでいる。祭の時には女性たちが浜で祈り、そして神様を迎える。訪れた神様のお供をして、島の中の集落に案内する。そして祭が行われている間、神様は島に滞在する。つまり、神様とともに祭を楽しむ。そして祭が終わると、女性たちが再び浜まで神様を送る。神様はニライカナイという自分の世界に帰る。こうした神観念は、海よって囲まれた小さな島であることと深い関係があると思う。

(4)戦争で甚大な被害を受けたという歴史を見ても、沖縄は日本の中で特別な経験を持つ地域です。半世紀以上も前に、日本はアメリカを始めとする連合国と太平洋戦争を始めましたが、戦争が長期化するにつれて、しだいに敗色濃厚となりました。そして1945年の春から夏にかけて、日本軍は日本本土を防衛するために、アメリカ軍のほうは日本本土に対する攻撃拠点を確保するために、両者は沖縄を戦場として激しい地上戦を闘ったのです。

(5)住民の生活の場が戦場となったために、その戦火に巻き込まれて人口の25パーセントに相当する人々が命を失いました。長い歴史によって作られた文化遺産の殆どが破壊され、美しい伝統的な景観も焼失したのです。日本の戦争被害としては、原子爆弾による広島、長崎の被害が国際的によく知られていますが、沖縄もまた日本の戦争を語る時に忘れてはならない地域の一つなのです。

アメリカ統治・日本復帰

(6)日本が戦争に敗れたために、47の県の中から沖縄のみが切り離され、アメリカの統治下に置かれるようになりました。そして冷戦が激化するにつれて、沖縄にはまたたく間に広大なアメリカ軍基地が建設され、アメリカの世界戦略にとって無くてはならない軍事拠点となったのです。あるジャーナリストが、「沖縄にアメリカ軍の基地があるのではない、基地の中に沖縄があるのだ」、と形容したような状況が出現しました。

(7)アメリカ統治時代は27年間続きましたが、その時代に2つの問題がしだいに明らかとなりました。1つは、基地優先主義をとるアメリカのやり方と、生活者としての基本的権利の保証を求める住民との対立です。もう1つは、沖縄の人々の間で「我々は何者なのか、どこに属すべき存在なのか」、というナショナル・アイデンティティの問題です。その2つの問題を解決するための政治的要求として出現したのが、アメリカ統治から脱却し、日本に復帰するという運動だったのです。

(8)1972年5月15日、日本とアメリカ両政府の合意に基づいて沖縄は日本に復帰し、再び47の県の一つとなりました。敗戦の結果として失った領土を、平和的に回復した数少ない例の一つと国際政治学者たちは評価していますが、そのことが実現するまでには様々な悩みや努力があったのです。いずれにしても、政治的に日本の枠外に27年間も放置され、住民の強い要求によって再び日本に復帰したという点で、沖縄は日本の他の県には見られない特徴を持つ地域なのです。

現代の問題

(9)アメリカ統治時代が終わり、沖縄が日本に復帰してすでに28年の時間が経っています。その間、日本政府によるインフラストラクチャーに対する投資や、産業・経済に対する支援によって、沖縄は確実に発展を遂げています。しかし、沖縄に存続し続けるアメリカ軍の基地は、日本に駐留するアメリカ軍基地全体に占める面積の75パーセントに相当し、基地負担の面で沖縄は必ずしも公平に扱われている訳ではありません。

(10)基地に関する事故、アメリカ兵による各種の犯罪など、いわゆる「基地被害」の面で沖縄の住民は日本国民の中で最も高いリスクを背負っているのです。しかも、日本とアメリカの強い同盟関係において、沖縄の基地は最も重要なものと評価されており、そのために、基地問題をめぐってさまざまな意見やイデオロギーが主張される地域が沖縄なのです。基地問題で揺れる地域、そのことも沖縄が日本の中でユニークである理由の一つだと言えます。

(11)自然の問題、戦争の体験、アメリカ統治時代と日本への復帰、そして基地問題、以上の4つの点を指摘しただけでも、日本という国の中で沖縄がいかにユニークなのか、お判りいただけると思います。そういう特徴を持つ沖縄で、来月(7月)に主要国首脳会議(サミット)が開かれるのです。

 しかし、沖縄が帯びるユニークさは、以上の問題に限られている訳ではありません。もっと深い、奥行きのある歴史の問題を考えなければなりません。

2.歴史の問題から

琉球王国という存在

(12)考古学者の研究によると、今から数千年前の時代から沖縄と日本本土の文化は強い共通性を持っていました。それについては言語学者の見解も同じであり、古い日本語を話す人々が、沖縄の歴史を形成する主体だったことが判っています。つまり、文化や言語の面で、沖縄と日本本土は始発駅が同じだったのです。

(補足)

  1. 日本語は大きく「日本本土方言」と「琉球方言」に分けられること。
  2. 日本本土方言はその下位分類として、東北方言・関東方言・関西方言・九州方言などに分けられること。
  3. 琉球方言はその下位分類として、奄美(あまみ)方言、国頭(くにがみ)方言、首里(しゅり)・那覇(なは)方言、八重山方言などに分けられること。
  4. 日本全体の人口は約1億3千万人、沖縄県の人口は130万人、その1パーセント。しかし、言語としては99パーセントの人々が話す日本本土方言と僅か1パーセントの人々が話す琉球方言は対等であること。
  5. この問題を時間を遡らせると、古い日本語、つまり「日本祖語」が始めにあって、そこから長い時間をかけながら二つの方言、つまり「日本本土方言」と「琉球方言」に分離した、と多くの言語学者は推察していること。言い換えると、古い時代に二つの方言は共通の祖先を持っていた、と理解されていること。

(13)しかし、同じ駅を出発していながら、走行距離が増えるごとに歴史という電車はしだいに違うレールを走ったのです。14世紀末から15世紀初期にかけて、沖縄の島々には琉球王国という独自の国家が出現し、日本本土の国家とは異なる動きを始めたのです。琉球王国は沖縄の島々をテリトリーに置き、首里城を統治拠点とする支配体制を整備していったのです。

(14)琉球王国は、それから500年ほどの歴史において、中国を始め日本・朝鮮・東南アジアの国々と外交や貿易を展開し、東アジアを代表する海洋王国としての発展を遂げることになります。その間に、アジア諸国の文化を吸収し、みずからの文化的なアイデンティティを発揮しながら、沖縄文化あるいは琉球文化と呼ばれる独自の文化を形成したのです。このような歴史および文化の蓄積を持つ地域は、日本の他の県にはありません。つまり、近代以前において、沖縄は日本本土とは異なる独自の歴史を形成し、文化を発展させたユニークな地域なのです。

(補足)

  1. アジア諸国との交流の中で、中国との関係は特別なものだったこと。琉球の国王は外交的に中国皇帝の臣下であり、その主従関係に基づく信頼関係を前提に、琉球は対中国貿易で常に優位に立つことができたこと。
  2. そうした中国との関係は500年も続き、この期間に公式ルートを通じて中国に渡航した琉球人の数は5万~6万人に達すると推定されること。
  3. アジア諸国との交流は、日本文化を基礎とする沖縄の文化に周辺アジアの影響が強く加わり、独特の文化形成を促したこと。
  4. 特に、エリート層の間で発展した文化は、音楽や芸能を中心に独特の美意識を含みながら展開したこと。
  5. それらの王国の時代の文化が、現在の沖縄において「伝統文化」として継承されていること。

伝統が否定された

(15)1879年春、日本本土に誕生したばかりの近代国家は、強引な形で琉球王国を廃止し沖縄県を設置するという行動に出ました。沖縄側には若干の抵抗はありましたが、やがて日本支配を受入れ、沖縄県としての歴史がスタートしたのです。沖縄県誕生から数えて今年で121年目を迎えます。

(16)121年前の沖縄県設置は、琉球王国の伝統を持つ地域に決定的な影響をもたらしました。500年にわたって、中国を始めアジア諸国との交流した蓄積を持つ地域が、たちまち日本の辺境となってしまったからです。近代日本の国家は、アジアに背を向け、ヨーロッパをモデルとする国家建設を急ぎました。アジアは遅れたものであり、それから脱却して進んだヨーロッパを目指すこと、この国家目標を「脱亜入欧」と言います。

(17)そうなると、当時の日本の中で最もアジア通であった沖縄は、遅れた存在ということになり、その地域が蓄積した長い伝統が否定されることになったのです。当時の沖縄には中国語、中央語である北京語だけではなく、地方語の福建語を話す語学人材も沢山いました。北京にある中国の最高学府に留学した経験を持つ人材もいました。そのような人材が、何の役にも立たない時代が登場したのです。

(18)王国を統治した政府は首里城に置かれていましたが、エリート官僚を採用する試験問題が残っています。1次の専門試験をクリアーした後、難しい2次試験、すなわち論文試験が待っています。ある年の論文試験の問題は次のようなものでした。王国のある小さな島の者たちの乗った船が中国の沿岸に漂着した。中国政府が彼らを保護し、中国の船で琉球まで送還すると言ってきている。それに対して琉球は、自分の船を来年派遣し、彼らを引き取ることにしたい。そこで、中国政府の親切に配慮しつつ、琉球が独自に船を出して引き取る際の、中国政府を説得する外交文書を作成しろ、というのがその問題でした。

(19)この時の採用試験は、競争率が300倍でした。中国政府を説得できるだけの人材を持つこと、それに応えるために勉強を重ねる人材が実際にいたこと、そういう緊張感を持つ伝統が、沖縄県となることによって、何の役にも立たなくなったのです。1879年の沖縄県設置は、そうした人材にとってラディカルな変化でした。彼らは挫折感を味わい、完全に自信を失ったと思います。その証拠に、その中の誰一人として、優秀な人材としての自分の過去や思い出を、書き残した人がいないのです。

(20)つまり、近代の沖縄は、例えば、優秀な人材の挫折から始まったのです。沖縄の優位性は失われ、目ぼしい産業もない日本の中の貧しい、辺境の地域という過程をたどったのです。その象徴的な現象は、日本本土の工業地帯に出稼ぎに出るか、あるいはハワイや南米などの外国に移民に出るか、そういう労働力の供給地となったことです。そして、彼らや彼女たちが苦しい労働で得たお金が、貧しい故郷の家族に送金されることによって沖縄県の経済がかろうじて救われる、そういう時代が登場したのです。

3.これからの課題

沖縄という地域の特徴

(21)琉球王国伝統のアジア通の時代から、沖縄県となり日本で最も遅れた地域となった近代70年間、その間に起こったのが沖縄戦であり、また、その後のアメリカ統治時代だったのです。言い換えると、アジア的で遅れた地域であった沖縄は、戦争の時に日本本土の攻略をめぐる日本とアメリカの戦いの舞台となり、日本の敗戦後は、アメリカの軍事拠点となることによって、その役割を与えられた、と言うことができます。

(22)以上に述べたような特徴を持つがために、沖縄は日本の中で際立ってユニークな地域なのです。沖縄の住民にマイクを向けて、「あなたは何者ですか?」と尋ねたとしたら、多くの人々が「日本人です、そして同時に沖縄人です」と答えることでしょう。あるいは、「沖縄人です、同時に日本国民です」と答えるはずです。沖縄の人々は、みずからのことをウチナーンチュ、日本本土に住む多数派をヤマトゥンチュと称して区別する伝統を今でも持っています。つまり、二つのアイデンティティを使い分けているのです。

(23)沖縄は、日本社会の中で強烈なアイデンティティ問題を抱える地域です。同時にまた、日本とアメリカの深い関係を支える軍事上の拠点であることによって、そのことをどのように評価するかという、日本の対米関係を問う問題を抱えている地域でもあるのです。その意味では、日本の中で、最もスリリングな問題を内包する地域である、と言うことができます。

主体的に考えること

(24)先月死去した小渕前首相は、主催国の責任者として、なぜ主要国首脳会議(サミット)の会場にわざわざ沖縄を選んだのでしょうか?会議を平穏な形で開きたいのであれば、福岡や宮崎、あるいは大阪、東京を選択したはずです。にもかかわらず、日本の中で最もスリリングな問題を抱える沖縄にしたのか、そこが問題です。私は、小渕前首相に招かれて意見を言う機会が何度かありましたが、次のような見解を述べました。

(25)サミットそのものは、世界の主要国の首脳によって世界人類の将来的な課題を話し合う場であるが、主催国の日本が開催地を沖縄に決めたことによって、独自の課題が登場すると。その課題は二つあり、一つは、日本の中で最もアジアの匂いのする沖縄を意識することによって、日本という国家がアジアの一員であり、アジアの発展や安定に責任を負うべき国家なのだ、ということを深く決意する機会とすべきだ、という点。

(26)二つ目は、沖縄のような問題点や可能性を秘めた地域を、21世紀の新しい日本の国家構築の過程でどう活かすか、そのことを真剣に考える機会とすること。言い換えると、日本の国内的な豊かさを活かすことによって、アジアの一員としての日本の責任ある展望を真剣に検討する方向が見えてくるはずだ、と。

(27)そのためには、沖縄側の意識改革も必要です。個性的な地域である沖縄は主体的に、将来の日本のあり方、日本が国際的に果たすべき責任についてどう考えるべきか、また、そのために必要な理論や行動計画をどう構築すべきか。私自身も、目下その課題に真剣に取り組んでいるところです。その課題を考える時の私の確認は、歴史としっかり向かい合うこと、同時にまた、歴史としての現在をしっかり観察すること、そのうえで未来に対して責任ある態度をとることです。

(補足)

  1. 先進国の中にあって、日本もまた今さまざまな問題を抱えている。日本の発展を支えてきた伝統や価値観、あるいは制度が一種の「疲労」を起こしている。それらの問題をどのように克服するか、日本にとって大きな課題であること。
  2. 大事な点は、日本が抱える問題を常に世界を視野に入れながら解決すること。独りよがりでは、真の解決にはならないこと。
  3. 日本にとっての、その大きな事業を推進するうえで、沖縄という独自な地域が果たす役割は何だろうか、と私は考えます。その問題を、多くの優れた知識人と共に真剣に検討していること。
  4. つまり、沖縄が自らの歴史的経験を踏まえながら、現在に対して、あるいは日本の未来に対して何をなすべきか、そのことが問題であること。
  5. 沖縄で行われるサミットは、会場となる沖縄にとっても自らの役割を真剣に検討する、重要な機会であること。

 今日の私の話が、日本という社会を深く理解するキッカケとなり、また、沖縄という地域でサミットが開催されるという深い意味を認識するヒントとなれば、幸いです。ご静聴ありがとうございました。





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