第1章 総括-97年の国際社会と日本外交
   1.概観
【97年の国際社会の動き】

 波乱と激動の20世紀も残すところわずか3年となった。今世紀後半40年近くにわたり国際社会を規定してきた冷戦構造が終焉を迎えて以後、新しい世紀を前に国際社会が90年代に取り組んできた最大の課題は、冷戦構造に代わる新たな安定的な国際秩序の構築であったと言えよう。
 冷戦の終焉を祝福し、バラ色の世界が訪れると期待した国際社会は、間もなく、冷戦後の世界が、冷戦構造の下で抑えられていた民族的、宗教的理由等に基づく地域紛争の頻発や、東西軍備拡張競争の副産物とも言える大量破壊兵器の拡散など、いわばポスト冷戦の課題を伴っていることを知ることとなった。ベルリンの壁の崩壊から既に8年、旧ソ連邦の崩壊から6年を経て、我々には、これらの課題を含め、国際社会が直面する様々な課題を克服しつつ、冷戦「後」、ポスト冷戦といった冷戦時代を基準とする考え方を超えて、国際秩序の構築という課題をより積極的にとらえることが求められている。それは新たな国際秩序を、21世紀において我々が更なる発展を遂げるための、人類の活動の基盤として位置づけ、着実にその実現を図っていくことである。
 平和で繁栄した21世紀を我々に約束する国際秩序の全貌は未だ明らかになったとは言い難い。しかし、国際社会を構成する各国は現在、二国間、地域内、地域間、さらには全地球規模での協力関係を重層的に進めていくことにより、安定した国際秩序の構築に向け前進を続けている。

<新たな秩序の構築に向けて>
 このような流れを念頭に置き、97年の国際社会の動きを概観すると、いくつかの顕著な動きが見られる。以下に述べる動きを全体的に見ると、世界は、この新たな秩序づくりの新たな段階に入りつつあると言えよう。
 まず、アジア太平洋地域に目を向けると、この地域の安定と繁栄を確保する上で、米国の存在は引き続き最も重要な要素のひとつであり、この点にはいささかの変わりもない。一方、97年においてはこれと同時に、日本、米国、中国、ロシアという地域の主要な4カ国相互の間でこれまでになく活発な外交活動が見られたことが特筆される。相次ぐ首脳往来を始めとして、多様な分野で様々なレベルの対話や交流が進み、それぞれの二国間関係は一層緊密さを増している。これら4カ国は地域の安定と繁栄のためにそれぞれ重要な役割を有しており、4カ国相互の安定的な関係は地域全体の安定と繁栄のための不可欠の基盤となっている。97年は、日米中露4カ国がそれぞれの外交目標を追求する中で、アジア太平洋地域における新たな秩序構築に果たす各々の役割を認識し、相互の安定した関係確保に向けて動いたと言えよう。無論、この地域における新たな秩序構築はこの4カ国のみが担っているわけではなく、域内の各国が単独あるいは共同で模索を続けている。その中で、朝鮮半島に関する四者会合本会談が初めて開催されたこと、APECへのロシアを始めとした新規加盟国の参加決定、ASEAN拡大などは、前述の新たな段階を裏付けるいずれも特筆すべき動きと言えよう。
 目を欧州に転ずれば、北大西洋条約機構(NATO)は、中・東欧3カ国の加盟に関する議定書が署名され、拡大に向け大きく前進した。旧共産圏諸国のNATO加盟は、かつて共産圏に対抗する軍事同盟として機能していたNATOの性格の転換を象徴するものであり、新たな時代の安全保障の枠組みづくりの着実な一歩である。また、欧州連合(EU)についても中・東欧諸国を含む新規加盟交渉対象国の決定や、EUの共通政策の射程を広げるアムステルダム条約締結など、今後の拡大と深化の道筋を定める重要な動きがあった。このように、欧州においても冷戦を前提としていた枠組みに根本的な変化の動きが見られた一年であった。

<新たな機会の活用と挑戦への対応>
 新たな国際秩序の模索が続く一方で、現代国際社会においては、相互依存関係の一層の深まりやグローバリゼーションの急速な進展が大きな流れとなっている。97年はこのような流れの中で、国際社会が新たな挑戦に直面し、いかにしてこれに対応していくのかが問われた年でもあった。
 6月のデンヴァー・サミットにおけるコミュニケでも述べられたように、世界経済の統合の進展は、競争の促進や技術革新の伝播などを通じて、国際社会に一層の繁栄の機会を提供するものと位置づけられる。また、貿易や投資を通じた経済的な相互依存関係の深まりは、安定的な国際秩序に対する各国の指向を強めることとなって、安全保障面でも肯定的に作用するものである。一方で、近年のグローバリゼーションの急速な進展は、一国で生じた問題が他国に、地域全体に、さらには全世界に、より容易に、かつ、より迅速に波及する状況をもたらしている。国境を越えた波及効果を持ちうる個々の具体的な問題に国際社会が地域的あるいはグローバルにいかに対処するか、また、グローバリゼーションの流れをうまくとらえて、国際社会全体としていかにして発展の機会を最大限に活用していくかが、21世紀の繁栄を確保していく上で、問われているのである。
 新たな挑戦の最も顕著な例はアジアにおける経済危機であった。アジアにおいては、7月のタイにおける通貨下落が、韓国、インドネシアなどの通貨、金融市場に影響を与え、各国は困難な経済運営を迫られることとなった。さらにこの経済危機の影響はアジア地域に止まらず、世界全体に不安感を波及させ、ニュー・ヨークやロンドンなど主要な株式市場での一時的な株価下落をも招いた。東アジア各国は「アジアの奇跡」とも呼ばれた経済成長を遂げてきたが、この経済成長は、各国の努力の賜物であると同時に、その背景には、自由で活発な貿易や投資を可能とした世界の市場の一体化の流れがあった。まさに各国とも、グローバリゼーションの流れの中でその恩恵を最大限に享受してきたのである。一方で、今回の危機において、グローバリゼーションのもたらした情報の瞬時伝播や金融市場の一体化が、危機の影響を大きくしたことは否めない。欧米の株式市場等での敏感な反応は、世界各国が経済的に相互依存関係にあることを強く認識した上で、ある国ないしある地域における経済の混乱を、自らが直面を余儀なくされる問題としてとらえる見方が広く共有されつつあることを示していると言える。今回の危機に当たって、アジア最大の経済主体たる日本を始めとして、アジアと密接な経済的つながりを有する欧米諸国も共にその打開に努力している。このようにグローバリゼーションの下での新たな挑戦へ対処するには、国際社会が共同して対処することが重要であり、この経験が教訓として活かされていくことが必要である。また、我々はグローバリゼーションのもたらす機会を最大限に活用していく一方で、こうした危機の波及を未然に防ぐ国際的な協力体制の構築等について積極的に努力していくことが重要である。「アジア地域の金融・通貨の安定に向けた地域協力強化のための新フレームワーク(マニラ・フレームワーク)」は、先に述べた安定的な国際秩序の構築の文脈にも位置づけられる新たな枠組みと言える。

<ますます多岐にわたる地球規模問題>
 同時に、国境を越えた拡がりを持ち、国際社会全体の取組が要求される課題は増加の一途を辿っている。これらは、冷戦の終結やグローバリゼーションの流れとも密接に関連している。
 いまや地球規模問題の代表的存在として位置づけられる地球環境問題に関連して、97年には重要な進展があった。6月の国連環境開発特別総会と、12月の気候変動枠組条約第3回締約国会議(地球温暖化防止京都会議)の成果は、この問題への今後の国際社会の取組を規定するものとなった。世界各地で頻発するテロ事件は、冷戦終結後の課題という側面もあり、国際社会の一致した取組が要求されている。97年には、ペルー、イスラエル、スリランカ、エジプトなどで大規模なテロ事件が発生する一方、サミットにおける首脳レベルの議論、爆弾テロ防止条約の採択など国際社会の取組にも進展があった。また、国境を越えた犯罪の防止・取締りへの関心も高まった。この問題は近年、犯罪行為のハイテク化の進展、組織的な犯罪の増加などにより複雑多岐にわたっているが、解決のためには各国の協調した取組が不可欠である。G8の間では、97年を通じて専門家が議論を重ねており、その成果を踏まえて各国首脳がリーダーシップを発揮すべく、98年のサミットの主要議題の一つとなることが決まっている。さらに軍備管理・軍縮の分野においては、対人地雷問題について、97年には全面禁止を求める国際世論がかつてない高まりを見せた。これを背景に、いわゆる対人地雷全面禁止条約が採択され、日本を含む120カ国以上の署名を得るに至った。これらの他にも、人口・食糧問題、難民問題等につき一定の進展が見られた。

【97年の日本外交】

 さて、このような国際情勢を踏まえて、日本は97年にはどのような外交を展開してきたのか以下概観するが、まず日本外交の方針について簡潔に述べることとしたい。
 国際社会を構成する国家どうしの距離が様々な意味で近くなり、相互依存関係が深まる中、各国の安全と繁栄は世界全体の安定と繁栄に密接に結びつくようになった。従来より、地政学的、経済的な観点から、日本にとっては安定した国際環境が極めて重要な意義を有していたが、国際政治、国際経済の舞台で飛躍的発展を遂げた今日でも、国際社会が平和で安定したものであることの日本にとっての重要性は増大こそすれ、減少することは全くない。そして、日本が国際社会における主要な一員として、大きな影響力と責任を持つに至っている今日、日本としては、国際社会を規律する秩序を、与えられたものとしてのみ捉え、その枠内で繁栄を享受するにとどまるのではなく、国際社会全体にとって、そして日本にとって望ましい国際秩序を能動的に構築していくために様々な形で努力することが必要であり、また、求められている。
 日本にとって望ましい国際秩序と、国際社会全体にとって望ましい国際秩序とは、日本の安全と繁栄が国際社会の安定と繁栄に密接に結びついている以上、基本的に同じ方向を目指したものであり、また、我々の責務は両者が一致するように努力することである。日本としてはこの点を視野に入れ、多角的、重層的な外交を進めていくことが必要となる。それを簡潔に整理して述べれば以下のようになろう。(A)アジア太平洋地域に安定的な国際秩序を構築する前提となる、日米関係を始めとした二国間関係の一層の緊密化、強化、(B)それを補完する意味で、様々な形の地域協力の推進への貢献、(C)国際社会共通の課題に対処するためのグローバルな取組への積極的な参加。
 そこで、先に述べた97年の国際情勢の動きに重ね合わせて日本外交を振り返ると、まず、21世紀に向けた新たな国際秩序の構築という側面においては、日本の安全保障において最も重要である北太平洋を取り囲む各国との安定的な関係の維持、強化に向け、着実な進展が見られた。前述した日米中露4カ国の間の、活発な外交活動を日本に即して見れば、首脳会談だけで、米国とは3回、中国と2回、ロシアと2回を数えたのを始め、外相会談、安全保障対話がこれまでにもまして顕著な成果を挙げた。まず日本の外交の基軸である米国との関係については、9月の新たな「日米防衛協力のための指針」策定などを通じ、日米協力関係の一層の強化が図られた。国交正常化25周年を迎えた中国との間では、両国総理の相互訪問や、新たな漁業協定の署名などの実務関係の進展を通じ、友好関係の増進に成功した。さらにロシアとの間では、11月のクラスノヤルスクでの首脳会談において、東京宣言に基づき2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くすことで一致するなど、両国間の関係の完全な正常化への重要な道筋がつけられた。
 また、7月には、橋本総理により「ユーラシア外交」という、日本外交における新たな視点が提唱された。これは、欧州におけるEU、NATOを巡る経済及び安全保障面での新秩序模索の動きには「大西洋から見たユーラシア外交」という特徴がある中で、同じユーラシア大陸の東の端に位置する日本としても、「太平洋から見たユーラシア外交」という視点を導入して、外交の地平を大きく前進させるべきだとの問題意識に基づくものである。この視点は、中国、韓国、ロシアなどとのより緊密な関係を構築し、また北朝鮮との関係を改善していく上で、新たな原動力ともなるものである。加えて、冷戦終結後、地政学的重要性からもエネルギー供給地としての可能性からも注目を集めている、いわゆるシルクロード地域の諸国との関係強化に取り組む基礎としても、重要な視点と言える。
 次に、新たな挑戦については、アジアの経済問題が日本外交の最重要課題の一つとなった。日本は、問題発生当初より、この地域の経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)は依然として良好であり、各国経済の構造改革や透明性の向上などにより潜在的成長力を引き出すことは可能であるとの明確なメッセージを、直接の当事者であるアジア各国を始め国際社会へ送り続けた。そして、アジア各国への日本からの支援策を打ち出し、さらに国際的支援の枠組みづくりに積極的に参画してきた。
 このように、アジア最大の経済主体である日本に対し迅速かつ誤りなき対応を厳しく要求するこの新たな挑戦を前に、日本として全力を挙げて責任ある対応を行ってきた。その一方で、今回の問題の端緒、その波及のしかた、混乱の深刻さは、今回の危機を一過性のものとして捉えるのではなく、その原因を的確に分析して今後に活かしていく必要性を強く認識させるものであった。この観点からは、世界経済が更なる発展を遂げるためにグローバリゼーションの下で新たな機会を活用し、挑戦へ対応していく中で、アジア最大、そして世界第二の経済大国たる日本が今後果たしていくべき責任は重いと言えよう。
 地球規模問題に国際社会が取り組むに当たっても、日本は責任ある一員として様々な貢献をした。地球環境問題に関し、気候変動枠組条約第3回締約国会議を京都で開催し、議長国として成功に導いたことは97年の日本外交の大きな成果である。96年12月に発生し、97年4月に解決するまで長きに亘った在ペルー日本国大使公邸占拠事件では、極めて厳しい対応を迫られたが、その経験をテロ防止のための国際的な取組の中で活かしている。軍備管理・軍縮の分野では、12月に対人地雷全面禁止条約に署名するとともに、地雷除去や犠牲者支援のため5年間で100億円程度の支援を行うことを決定した。さらに人道的な対人地雷除去活動に必要な機材等の輸出について武器輸出三原則等の例外とし、その輸出を可能とする決定を行うなど、積極的な取組を行った。
 以上、97年の国際情勢と日本外交を、特に特徴的な動きに絞って概観してきた。本書では以下、97年の主な動きにつき第一章でさらに述べるとともに、第二章以下、各項目ごとに国際情勢と日本外交について、詳述することとする。

   2.アジア太平洋の安定と繁栄のための取組

日米首脳会談後、クリントン米大統領とともに共同記者会見に臨む橋本総理大臣(4月)>
	<a name=     (1)日米関係

[全般]

 日米両国政府は、96年4月のクリントン大統領訪日の際に発出された「橋本総理大臣とクリントン大統領から日米両国民へのメッセージ」及び「日米安全保障共同宣言」に沿って、政治・安全保障、経済、地球規模問題の各分野で協力関係強化に努めてきた。このような両国政府の基本方針は、97年4月の橋本総理大臣訪米の際にも確認され、97年も日米間の協力関係が一層進展した一年となった。
 日米関係の基盤は、日米安全保障条約に基づく同盟関係にあるが、9月には、「日米安全保障共同宣言」に基づき、ニュー・ヨークで開かれた日米安全保障協議委員会において新たな「日米防衛協力のための指針」が策定された。また、沖縄における米軍施設・区域の整理・統合・縮小を進めるために設置された沖縄に関する特別行動委員会(SACO)の最終報告が96年12月に取りまとめられたが、この最終報告の着実な実施のための努力が引き続き払われている(日米安全保障体制の詳細については、第2章第1節1(2)参照)。
 日米経済関係は、近年、貿易収支不均衡の改善や個別問題が順次解決されてきたこと、また米国経済の好調も反映して、基本的には良好に推移している。  しかし、日本の対米貿易黒字は96年10月以降増加傾向にあり、米国は日本に内需主導型経済成長の実現を求めている。特に、東南アジア諸国に端を発した通貨、株式市場の変動が世界市場に影響を及ぼす中、アジアの経済を安定させるためにも、日本経済の力強い回復、金融システム改革、規制緩和の推進が必要であると主張している。
 橋本総理大臣とクリントン大統領との間には強固な信頼関係が構築されており、首脳レベルで日米二国間関係のみならず、広く国際情勢全般につき極めて頻繁に意見交換が行われている。9月に就任した小渕外務大臣もオルブライト国務長官と就任後わずかの間に二度の外相会談を行っただけでなく、12月に訪米し、米側主要閣僚との間に信頼関係を構築してきている。
 また、97年は、2月のオルブライト国務長官の訪日を始め、3月及び12月のゴア副大統領の二度にわたる訪日、4月のルービン財務長官及びコーエン国防長官の訪日など米側要人の訪日も活発に行われ、更には11月にフォーリー新駐日大使が着任し、日米間においてハイレベルで緊密に意思疎通が図られている。

[日米経済関係(個別問題)]

(規制緩和)
 97年4月の日米首脳会談において、日米包括経済協議の下での規制緩和等に関する日米間の対話を強化することで両首脳が一致した。これを受け、6月、次官級の上級会合並びに4つの個別分野(電気通信、住宅、医療機器・医薬品、金融サービス)及び分野横断的問題に関する合計5つの専門家会合からなる対話の枠組みを設置するため、規制緩和及び競争政策に関する強化されたイニシアティブに関する共同声明を発出した。さらに11月の日米首脳会談では、98年のバーミンガム・サミットまでに具体的に確認できる成果を上げることで両首脳が一致した。

(航空)
 97年8月から7回にわたり開催されてきた日米航空次官級公式協議は、98年1月30日、両代表団の間で大筋合意に達し、日米間の重要な個別経済問題がまた一つ解決に至ることとなった。
 この大筋合意を受けて構築される枠組みにより、参入企業数の格差是正、以遠運航可能地点の平等化等が実現し、長年の懸案であった日米航空企業間の不均衡性が大きく改善されるとともに、日米航空関係の一層の自由化のための措置がとられることとなる。

(港運)
 米国連邦海事委員会(FMC)は、日本の港湾慣行である事前協議制度が米海運会社に好ましからざる状況をもたらしているとして、米国に寄港する日本船社3社に対して、米国の港に寄港する毎に10万ドルの課徴金を賦課するとの制裁措置を9月4日に発動した。日本政府は、国内関係者による事前協議制度の改善に関する協議会を開催する一方で、米国政府との間で協議に入り、10月17日、実質的に決着した。その後の国内関係者間の合意を受けて、政府間の書簡が往復され、11月13日、FMCは制裁の無期限停止を発表した。しかしながらこの過程で、FMCは日本船社3社より9月分の課徴金として150万ドルを徴収した。日本政府としては、このFMCの制裁措置は日米友好通商航海条約上の問題があると考えており、今後この問題について、日米政府間で協議していく予定である。

[コモン・アジェンダ]

 発足以来ほぼ4年を経て、協力分野の大幅な拡大を見てきたコモン・アジェンダであるが、97年5月の次官級全体会合において、それまで多岐にわたっていた協力分野が、「保健と人間の開発」、「人類社会の安定に対する挑戦への対応」、「地球環境の保護」及び「科学技術の進歩」という4つの柱の下、18分野へと整理・統合された。整理・統合された枠組みの中には、「環境教育」といった協力分野も追加されている。
 日米コモン・アジェンダへ参加する第三国、NGO等も増え、国際的広がりも見せてきている。96年2月には、わが国において民間有識者によるコモン・アジェンダ円卓会議(会長:平岩外四経団連名誉会長)が発足した。円卓会議は、97年4月に「環境教育と日米協力」ワークショップを開催し、日米コモン・アジェンダの活動にとり有益な提言を発表している。
 また、11月には、沖縄県において沖縄ハワイ会合が開催され、知的・技術協力、観光開発、環境と開発といった分野における両者間の協力について意見交換が行われた。会合の結果、沖縄県及びハワイ州は、両者の協力を通じ、コモン・アジェンダにおける日米両国の取組とも連携を図りながら地球的規模の問題に貢献していくことを希望する旨表明し、日米の地方間協力の独特な試みが開始された。

[国民交流]

 日米両国の若者が、交流を深め、相互理解を促進することは、21世紀の世界にとって、重要な意味を持つ。そこで、日本政府は、より多くの米国の若者に対し、日本を学び、日本を知る機会を提供するという目的の下、米国の高校生、大学生、学部卒業生、教職員、若手研究者、若手芸術家等を対象とした対日理解促進のための包括的取組を推進している。また、橋本総理大臣は、98年夏より沖縄県の高校生を毎年40名米国に一年間のホームステイに派遣することを決定した。そして、これに呼応する形で、米国政府も5万ドルを拠出し、10名の米国人高校生を97年夏に沖縄に派遣して6週間のホームステイを経験させた。

[21世紀に向けて]

 日米両国は、自由、民主主義、市場経済原理という共通の価値観を有する同盟国そしてパートナーとして、これまで長年にわたり、試練を乗り越え、経験を共有し、協力関係を発展させてきた。このような日米関係は、日米両国だけでなく、アジア太平洋地域、さらには国際社会全体の平和と繁栄にとって、重要な役割を担っており、日本外交の基軸である。
 日米両国は、二国間の安全保障問題、経済問題のほか、アジア太平洋地域の安定と繁栄に係る問題、国連の機能強化の問題、環境保護のような地球的規模の問題などのさまざまな課題に取り組んでいる。今後、21世紀に向けて、日米両国は困難を乗り越えつつ一層強固な関係を築き上げ、両国のみならず世界全体の平和と繁栄を実現していかなければならない。日米関係を支えているのは日米両国民一人一人であり、それぞれの国民どうしが理解を深め合い、強い結びつきをつくっていくことが、この重要な二国間関係を発展させるために不可欠である。

    (2)日中関係

【全般】

 97年は日中国交正常化25周年に当たり、9月に橋本総理訪中、また11月には李鵬総理来日と、首脳の相互訪問が実現し、記念すべき年にふさわしい二国間関係の発展が図られた。ここ数年の日中関係は、中国の核実験、日米安保、尖閣諸島、歴史認識等を巡って困難な局面もあったが、アジア太平洋地域、ひいては世界全体の安定と繁栄に果たす両国の役割に鑑み、双方が不断の努力を重ねてきた結果、97年の両国関係をめぐる雰囲気は大幅に改善した。

江沢民中国国家主席と会談する橋本総理(9月) 【日中間の諸問題】

 中国は96年7月に核実験停止宣言(モラトリアム)を表明し、これを実施している。これを踏まえ、原則凍結されていた中国への無償資金協力は、97年3月の池田外務大臣訪中の際に再開された。
 尖閣諸島を巡っては、96年に引き続き香港、台湾の抗議船が同諸島近辺に来航するなどした。日本は、尖閣諸島が日本固有の領土であり、現にこれを有効に支配しているとの基本的立場を踏まえ、領海侵入等には適切な方法で対応しつつも、これにより日中関係全体が損なわれるべきではないという日中間の共通認識に基づいて冷静な対応を講じた。
 「日米防衛協力のための指針」の見直しについては、中国は当初から強い関心を示し、特に台湾の扱いについては厳しい反応を見せた。これに対し、日本は種々の機会を捉えて中国側に説明を行ってきた。訪中した橋本総理大臣自らも基本的な考え方について詳細に説明した結果、日本の立場に対する中国側の理解を深める上で一定の成果を得た。また、安全保障や防衛面での対話・交流については、「指針」の見直しを巡る中国側の反応などもあったが、橋本総理大臣訪中時の首脳間の意見の一致を受け、対話の拡充に向け現在前向きに進展しつつある。
 さらに、橋本総理大臣訪中の際、戦後の総理大臣として初めて中国東北地方を訪問し、過去の歴史を踏まえつつ将来の協力関係を築いていくとの姿勢を示した。この他に、懸案であった漁業協定の締結の問題についても、李鵬総理来日時に、原則として沿岸国が自国の排他的経済水域における海洋生物資源の管理を行うことを基本とする、新たな漁業協定への署名が行われた。
 旧日本軍が中国に遺棄した化学兵器の処理に関しては、97年4月に化学兵器禁止条約が発効したことも踏まえ、日本政府としては引き続き政府全体として誠実に対応していくという方針を表明している。

【香港、台湾との関係】

 香港は97年7月1日に中国に返還されたが、日本からは中国に対して、「一国二制度」の下で、これまでの開かれた自由な制度を維持していくことが、香港の繁栄を維持していく上で重要であることを指摘してきた。また、航空協定及び投資保護協定の締結、香港パスポートの取扱い等を通じて、日本は返還後の香港をできる限り支援してきた。10月には董建華香港特別行政区行政長官が来日し、「一国二制度」が順調に機能している旨説明し、双方で率直な意見交換を行った。
 台湾との関係については、日本は、日中共同声明に沿って、これを非政府間の実務交流として処理してきている。台湾問題については、台湾海峡両岸の当事者による平和的な話し合いによる解決を強く希望する旨繰り返し表明してきており、両岸の対話再開に向けた動きに注目している。

【国際社会における日中関係の役割】

 日中両国は、二国間の困難な課題に取り組むとともに、地域や国際社会全体に関わる問題にも積極的に対応してきている。李鵬総理来日に際しての首脳会談では、アジア経済の安定化など国際社会の問題についての協力やロシア、米国等の国際情勢を中心に議論が行われた。
 環境問題については、橋本総理から「環境情報ネットワーク」の整備と「環境モデル都市構想」の二つの柱からなる「21世紀に向けた日中環境協力」を提案し、中国側の原則的な同意を得た。また、日本は多角的貿易体制の強化のためにも中国のWTO早期加盟を支持している。さらに、日中間の対話の分野は拡大しており、安全保障や人権といった分野でも対話が進んでいる。

【98年に向けて】

 72年の国交正常化から四半世紀を経た日中関係は、各方面での交流が進展してきているが、同時に両国は本来政治体制や国情の異なる国どうしであり、その交流が深化していく過程で、種々の摩擦が生じることも避けがたい面がある。そうした問題を解決していく上でも、将来に向けて若い世代を含む種々のレベルでの日中間の相互理解の重要性がますます高まっている。
 こうした意味からも、日中平和友好条約締結20周年を迎える98年は、一層幅広い分野での交流が期待される。政府間では、橋本総理大臣訪中の際に、今後少なくとも年1回いずれかの側の首脳レベルが相手国を訪問することで一致したことを受け、98年中に江沢民国家主席の来日が予定されている。日本としては、こうした機会を捉えつつ、更なる対話と協力の発展に努めていく考えである。

クラスノヤルスクでの日露首脳会談(11月)     (3)日露関係

 日露関係では、93年10月のエリツィン大統領訪日の際に署名された東京宣言が、両国関係進展のための基盤となっている。日本としては、東京宣言に基づいて北方領土問題を解決して平和条約を締結し、日露関係の完全な正常化を達成するために最善の努力を払うとともに、ロシアの改革努力を支持し、同時に、様々な分野における協力と関係強化を図ることを対露外交の基本的考え方としている。そして最も重要な領土問題については、帰属の問題と、問題解決のための環境整備の両分野を車の両輪とみなして、同時に努力を傾けることとしている。
 また、橋本総理大臣は、97年7月、経済同友会会員懇談会において、日本の対露外交につき、三つの原則(「信頼」、「相互利益」、「長期的視点」)を挙げ、二国間の最大の懸案である北方領土問題において、また、日露間の経済分野においても、この三原則に基づいて具体的な進展を図ることが必要である旨述べた。この三原則に対しては、ロシア側の政府、マスコミ等からも好意的な反応が示されている。
 97年は前年に引き続いて政治レベルでの対話が更に緊密化した。まず5月には、ロジオノフ国防相がロシア国防相として初めて日本を訪問し、久間防衛庁長官と会談し、池田外務大臣を表敬した。久間長官との会談においては、防衛当局間協議の定期化、年次交流計画の確認や信頼醸成に関する共同作業グループの設置等について一致し、両国の防衛当局間の信頼醸成の基盤が整った。また、5月後半には池田外務大臣が訪露し、第8回外相間定期協議、エリツィン大統領及びネムツォフ第一副首相との会談を行い、日露間の政治対話を一層緊密化することで一致し、その後の日露関係の基調を設定することができた。6月にはネムツォフ第一副首相が訪日し、日露貿易経済政府間委員会第2回会合が開催された。そこでは、両国経済関係の発展のために幅広い意見交換が行われ、ロシアにおける内外からの投資の拡大が重要との認識、及び経済交流の活性化のために両国政府が協力することで一致した。また、デンヴァー・サミットの機会に日露首脳会談が行われ、首脳が年一回相互に訪問することや東京宣言を着実に進めていく必要があること等につき基本的に一致した。
 その後6月末の香港返還記念式典、7月のASEAN地域フォーラム及び9月の国連総会のそれぞれの場での日露外相会談を経て、11月1~2日にロシアのクラスノヤルスクにおいて「ネクタイ無し」の日露首脳会談が行われた。この会談においては、橋本総理大臣とエリツィン大統領の個人的信頼関係と友情が一層深められるとともに、特に平和条約交渉について、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことが合意され、東京宣言からの実質的前進を図ることができた。また経済分野については、両国経済関係を着実に発展させることの重要性につき一致するとともに、今後の両国間の経済協力促進の拠り所として、均衡のとれた開放経済化、市場経済化及びエネルギー分野での協力を進めるという基本的考え方の下に、六つの措置((A)投資協力イニシアティヴ、(B)ロシアの国際経済体制への統合の促進、(C)改革支援の拡充、(D)企業経営者養成計画、(E)エネルギー対話の強化、(F)原子力の平和利用のための協力)を内容とする「橋本・エリツィン・プラン」を作成した。また、アジア・太平洋協力については、ロシアが日本とともにこの地域の重要なプレーヤーとして建設的役割を果たしていくことを呼びかけ、ロシアのAPEC加盟の支持を表明し、その後の正式な加盟承認につながった。また安全保障分野については、具体的な日露協力の措置について検討していくとともに、人道的分野等における自衛隊とロシア軍の共同訓練の可能性を探求することで一致した。さらに、北方四島周辺12海里水域において、日本漁船による安全操業を確保すること等を目的とする枠組み交渉について、できる限り年内に妥結するよう双方の代表団に指示することで一致した。
 これらの事項は、11月13日の第9回外相間定期協議において確認された。平和条約交渉については、両外相は、クラスノヤルスクでの両首脳間の合意を受け、平和条約の締結に関する作業を質的に新たなレベルに引き上げること、そしてその前進のために、両大臣を長とし、次官レベルで交渉を行うグループを設置すること、そして98年1月に次官級協議をモスクワで行うことで一致した。経済関係については、「橋本・エリツィン・プラン」につき、10に及ぶ具体的措置を政府間委員会等を通じて積極的に進めていくことで一致した。さらに、今後の政治対話につき、小渕外務大臣の訪露による外相間定期協議を98年4月までに行う方向で検討するとともに、4月中旬に予定されるエリツィン大統領の訪日の詳細についても今後調整していくことで一致し、首脳会談のフォローアップの有意義な第一歩となった。
 クラスノヤルスクにおける日露首脳会談でできる限り年末までに妥結すべく努力することで一致した四島周辺水域操業枠組み交渉は、3年余に及ぶ交渉を経て、12月30日に実質妥結した。

小淵外務大臣訪韓(金大中次期大統領と会談)(12月)     (4)朝鮮半島

[日韓関係]

 1月、金泳三(キム・ヨンサム)大統領が別府を訪問し、前年6月の韓国済州島での首脳会談に続き、打ち解けた雰囲気の中で両国首脳の幅広い意見交換が行われた。首脳会談においては、日韓両国間には解決すべき問題はあるが、双方の立場を主張しつつも、それらを乗り越えて未来に向けた協力関係を強化すべき点で認識が一致し、青少年交流拡充策等につき具体的な意見の一致があった。また、朝鮮半島情勢については、日韓米3国の緊密な連携が再確認され、さらに、国際社会の中での両国の協力を一層強化していくことで両国首脳の認識が一致した。その後、6月にはニュー・ヨークにおいて、11月にはヴァンクーヴァーにおいて首脳会談が行われた。
 11月頃より、韓国は急速なウォン安・株安による通貨・金融危機に直面した。日本は、友好協力関係にある隣国としてできる限りの支援を行うとの立場から、12月に取りまとめられたIMFを中心とする総額580億ドル超の金融支援パッケージの中で、第二線準備支援として各国中最大の100億ドルの金融支援を表明した。
 96年以来、国連海洋法条約の趣旨を踏まえた新たな漁業協定を早期に締結するため、日韓間で協議が重ねられてきた。97年12月の小渕大臣の訪韓の際にも協議が行われたが、妥結に至らなかった。(日本政府は、30年以上前に締結された現行の日韓漁業協定の下の古い漁業秩序と訣別し、国連海洋法条約の趣旨を踏まえた新たな漁業秩序を早急に確立するとの決意の下で、98年1月23日、日韓漁業協定第十条2の規定に従って同協定を終了させる意思を韓国政府に通告した。なお、日韓漁業協定は、終了通告後1年間は有効である。)

[日朝関係]

(イ)日朝間の懸案事項と国交正常化交渉再開に関する動き
 日朝間では、国交正常化交渉再開の段取りなどについて話し合うため、従来より、双方の実務者レベルでの接触を行ってきた。8月には、北京で日朝国交正常化交渉再開のための審議官級予備会談が開催され、国交正常化交渉の早期再開、北朝鮮在住の日本人配偶者の故郷訪問の早期実現などで意見の一致をみた。
 これを受けて9月に開催された第1回日朝赤十字連絡協議会において、日本人配偶者の故郷訪問について具体的に合意され、11月8日から14日まで第1回の日本人配偶者(15名)の故郷訪問が実現した。
 2月以降、北朝鮮による日本人拉致疑惑が、国会や報道で取り上げられ、国内の関心が高まった。日本政府が協議の場で提起したのに対し、北朝鮮側は「そのような事実はない」との立場を主張してきた。11月、北朝鮮を訪問した与党3党訪朝団は、北朝鮮側との話し合いの中でこの問題を提起し、北朝鮮側は、北朝鮮とは関係ないこととしつつも、一般の行方不明者として調査を行う旨述べた。日本政府は、日朝赤十字連絡協議会などの場において、北朝鮮側に対し、調査を真剣に行い問題解決のために具体的な行動をとるよう求めている。

(ロ)対北朝鮮人道(食糧)支援
 95年以来2年続きの洪水被害などによる食糧不足に直面する北朝鮮に関し、97年4月、国連は総額約1億8400万ドルの人道支援統一アピールを発表した。これに対し、米国は5200万ドル、韓国はアピール以外の国連諸機関への拠出を含め2600万ドルの貢献を行った。EUは世界食糧計画(WFP)への拠出と北朝鮮に対する直接の食糧支援を含め4600万ECU(約5380万ドル)の貢献を行った。
 日本は、拉致疑惑などにより北朝鮮に対する国内の世論が厳しい中、緊急・人道支援という立場に立ち、国際社会の一員として応分の役割を果たすとの観点から、97年10月、(A)国連統一アピールの中でWFPが行う幼児及び医療機関に対する緊急食糧支援に対し、2700万ドルの貢献を行うこと、(B)国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)アピールの中で医療資機材の調達等に対し110万スイスフラン相当の円貨(9400万円)を日本赤十字社を通じて拠出すること、を決定した。(WFPは政府米6.7万トンを調達することとなる。)

(ハ)朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)
 KEDOは、94年の米朝間の「合意された枠組み」を受けて、95年3月に日韓米により設立された国際機関であり、北朝鮮における軽水炉プロジェクトの資金手当て及び北朝鮮への供与、暫定的な代替エネルギーの供与などを目的としている。
 97年8月には、北朝鮮咸鏡南道(ハムギョンナムド)琴湖(クムホ)地域において軽水炉初期建設の着工式が行われ、11月には軽水炉プロジェクト全体に要する経費の見積もりが固まるなど、軽水炉プロジェクトが本格的に動き始めた。また、9月に欧州原子力共同体が日韓米と同様の理事会メンバーとしてKEDOに加盟した。
 日本の安全保障や国際的な核不拡散体制にとり、北朝鮮の核兵器開発問題が解決に向かうことは極めて重要であり、日本はそのような観点から他の理事会メンバーとともにKEDOの政策決定に積極的に参加している。また、日本は、人的貢献としてKEDO事務局に政策スタッフや原子力の専門家を派遣しており、資金面でも97年12月までに3173万ドルの拠出を行ったほか、韓国が中心的役割を果たす軽水炉プロジェクトの全体像の下で意味のある財政的役割を果たす意図を有していることを表明してきている。

(ニ)四者会合・南北関係
 韓米両国の大統領が96年4月に提案した四者会合については、韓米両国による北朝鮮への共同説明会(97年3月)及び3度の予備会談(8月、9月、11月)を経て、12月に第1回本会談がジュネーブで開催された。日本は、四者会合の提案当初からこのプロセスを支持してきている。
 南北間では赤十字を通じる対北朝鮮食糧支援が行われたが、南北対話そのものの再開には至らなかった。

    (5)アジアの経済情勢

 97年後半、タイにおける通貨下落を発端として、アジアの通貨・株式が大幅に下落し、各国の経済は大きな打撃を受けた。まずタイにおいて、米ドルに事実上固定されていたタイ・バーツが、7月2日に実質上の変動相場制に移行したことに伴い、大きく下落した。
 その後、この影響は、広く地域全体に及び、インドネシア、マレイシア、フィリピン等の通貨及び株式は軒並み下落した。さらに、ASEANの通貨、金融市場の混乱は域内にとどまらず、香港、韓国に波及し、世界経済全体にも深刻な不安を与えた。
 この様な事態に対処するため、まず8月に、国際通貨基金(IMF)等の国際金融機関や日本を始めとする関係諸国がタイに対する金融支援策を決定し、同国の経済、金融、為替の安定化のためにとるべきマクロ経済運営上の条件を課すこととなった。10月にはインドネシア、12月には韓国に対してIMFを中心とした金融支援が行われるとともに、11月には、マニラでのアジア蔵相・中央銀行総裁代理会合において、「アジア地域の金融・通貨の安定に向けた地域協力強化のための新フレームワーク」が採択され、IMFによる支援を補完し強化する地域支援枠組みが設けられた。
 このアジアの通貨、株式市場の動揺の要因として、各国通貨が割高な水準にあったという直接的な要因に加え、各国ごとの貿易構造、財政運営上の問題点、金融資本市場の脆弱性等の中長期的問題や構造的問題が挙げられる。日本は、アジア経済の基礎的条件(ファンダメンタルズ)は基本的に良好で、引き続き高い潜在成長力を有していると認識しており、11月のAPEC非公式首脳会議及び閣僚会議、12月の日・ASEAN首脳会議においてもこの旨が確認された。経済的相互依存関係がかつてないほど進展している状況下で、アジア地域の経済が世界経済に占める割合にかんがみれば、その安定は世界経済全体の安定にとって重要であり、健全なマクロ経済政策や経済構造改革、更には金融部門の透明性確保等の諸課題に適切に取り組むことが必要である。日本としても、通貨・金融の安定のための協力に加え、12月の橋本総理大臣のASEAN訪問の際に、長期的視点に立った人材育成、技術支援、インフラ整備等の協力を強化していくことを表明した。

    (6)アジア太平洋を巡る地域協力

(イ)APEC
 アジア太平洋経済協力(APEC)は、歴史、言語、文化、社会・経済体制や発展段階において多様な国・地域を包含する地域協力の枠組みである。その目的は、貿易・投資の自由化・円滑化及び経済・技術協力を進めることであり、これらを車の両輪として推進することを通じてアジア太平洋地域の安定と繁栄に貢献してきている。
 これまでにAPECでは、93年のシアトル会合において、アジア太平洋コミュニティーの構築という理念が提示され、94年ボゴール会合において「自由で開かれた貿易と投資の実現」という目標が設定された。これを受けて、95年の大阪会合ではこの目標達成の具体的方法が「大阪行動指針」として策定され、96年のフィリピン会合ではこの指針に基づき全メンバーより自由化の「行動計画」が提出された。97年11月、カナダのヴァンクーヴァーにて開催された第9回閣僚会議(21~22日)及び第5回非公式首脳会議(24~25日)は、この自由化行動計画を実際の行動に移す「行動元年」のAPEC会合として位置づけられた。貿易・投資の自由化・円滑化及び経済・技術協力に加え、懸案であった新規参加問題についても議論が行われた。また、アジアの通貨・株式市場における混乱を受け、アジア経済情勢について特に焦点が当てられた。

アジア太平洋における地域協力の枠組み

APECの歩み | APEC機構図

[ヴァンクーヴァー会合の具体的成果]

【アジア経済について】

 非公式首脳会議では、アジア経済の問題に最大の関心が払われ、APEC地域の基礎的条件は依然として良好であり、なお高い潜在的成長力を有していることが確認され、健全なマクロ経済政策・構造調整を行うことが、潜在的成長を顕在化させる鍵であるとの点で認識が一致した。また、11月18、19日にマニラで採択された「金融・通貨の安定に向けたアジア域内協力強化のための新フレームワーク」が強く支持されるとともに、APECとしてもアジア通貨・金融問題について引き続き取り組んでいくことで一致した。

【貿易・投資の自由化・円滑化】

 アジア経済の不安定化を受け、ともすれば各メンバーが内向き指向を強め、自由化の勢いが失われかねない中、一層の経済成長を実現するには「自由で開かれた貿易と投資」という目標の達成が重要であるとの認識のもと、ヴァンクーヴァー会合においても貿易・投資の自由化・円滑化を更に進展させることで一致した。その具体的成果として、まず、96年のフィリピン会合で各メンバーが提出した、貿易・投資の自由化・円滑化の対象分野における各メンバーの具体的な行動を示した個別行動計画(IAP)の改訂版が、ほぼすべてのメンバーから提出された。これにより、ボゴール目標の達成に向け、各メンバーの達成度の比較可能性、APEC地域の自由化行動の透明性・予測可能性が更に向上した。また、それを補完する形で、早期に自主的自由化を進める分野として9分野(環境関連機器・サービス、エネルギー、水産物、玩具、林産物、貴金属及び宝石、医療機器、化学品、電気通信端末機器認証手続相互承認)が閣僚会議で特定された。これら分野の自由化は、APECメンバーの多様性にかんがみ、あくまで自主性の原則の下に行われることも併せて確認された。

APEC閣僚会議記者会見に臨む小淵外務大臣(11月) 【経済・技術協力の重視】

 APECの車の両輪のもう一方である経済・技術協力については、96年のマニラ閣僚会議で採択された「経済協力・開発の強化に向けた枠組みに関する宣言」にて指定された経済・技術協力活動の優先6分野(人材養成、資本市場の発展、インフラストラクチャー(経済基盤)、環境、未来技術の活用、中小企業)についての活動の進捗を歓迎した。これら優先6分野中、97年の会合ではインフラと環境の2分野が特に重視され前者については首脳会議にて「インフラ整備官民協力増進のためのヴァンクーヴァー・フレームワーク」が採択された。環境については、日本より気候変動枠組条約第三回締約国会議の成功に向けて協力を求めた結果、同会議の成功に向けたAPECとしての強い政治的メッセージが発出された。さらに、現在APEC各種フォーラムにて個別に行われている経済・技術協力活動を効率よく調整するために、経済・技術協力に関する小委員会を高級実務者会合の下に設置することにつき閣僚レベルで決定された。

【新規参加問題】

 閣僚レベルで新規参加基準が決定され、首脳レベルでは、98年から、ロシア、ヴィエトナム、ペルーの参加を認めることで一致した。また、今後10年間の新規参加の凍結期間設定についても一致した。従来よりメンバー間のコンセンサスのあったヴィエトナム、ペルーの参加に加え、日本は、閣僚会議、首脳会議を通じて、ロシアの参加を積極的に支持し、他のメンバーの賛同を得るところとなった。この3か国の参加により、APECがより完全にアジア太平洋地域経済を代表するフォーラムとなることが期待される。 

ASEAN地域フォーラムに出席する池田外務大臣(7月) (ロ)ASEAN地域フォーラム(ARF)
 ASEAN地域フォーラム(ARF)は、米国、中国、ロシアを含むアジア太平洋地域諸国の外務大臣が一堂に会し、この地域の政治・安全保障に関する意見交換を行う「対話の場」として94年に発足した。以来、毎年夏に閣僚会合が開催されており、ARFプロセスは、活動の裾野を広げつつ着実に進展してきている。
 95年に開催された第2回閣僚会合では、ARFの活動の方向性として、(A)信頼醸成の促進、(B)予防外交の進展、(C)紛争へのアプローチの充実という3段階が漸進的に進められるべきことにつき一致した。また、実施すべき具体的な措置を検討するために、信頼醸成、PKO、捜索・救難の3つの分野で実務レベルでの会合を開催することで一致し、これらの諸会合は96年1月から順次開催された。96年7月に開催された第3回閣僚会合では、地域の安全保障問題につき率直かつ活発な意見交換がなされるとともに、実務レベル会合で作成された具体的措置に関する提言が閣僚レベルで承認された。
 97年も実務レベルの活動が活発に行われ、上記の3つの分野に災害救助を加え、計4分野の会合が開催された。これらの会合は、ARFの活動について専門的見地から具体的な議論を行うことを目的とするものであるが、同時に、各国専門家の間で相互理解を促進し信頼関係を醸成する役割も果たしており、このような意味からも重要な活動となっている。
 7月に開催された第4回閣僚会合では、地域の情勢について極めて率直な意見交換が行われるとともに、信頼醸成措置に続く第2段階として位置づけられている予防外交について、政府レベルでの議論を開始することで一致した。また、各種の実務レベル会合の継続についても一致した。
 アジア太平洋地域の安全保障環境を向上させていくために、今後ともARFにおいて、率直な対話と実施につき一致をみた信頼醸成措置の着実な実施を通じて、その活動の基盤を固めていくこと、さらに予防外交についての取組を強化していくことが必要である。アジア太平洋地域は多様性に富んでおり、この地域の安全保障分野における協力関係は漸進的に進展していくと考えられるが、各国が長期的に安定したアジア太平洋地域を実現していくための努力を継続することが期待される。
 アジア太平洋地域の諸国間で信頼醸成を図り、この地域の安全保障環境を向上させていくことは、日本の安全と繁栄を確保していくために極めて重要である。日本としても、これまで同様ARFの進展のための努力を行っていく必要がある。

ARFプロセスの歩み

(ハ)アジア欧州会合(ASEM)
 アジア、欧州、北米という国際社会の三極間の関係の中で、従来相対的に希薄であったアジアと欧州の絆を強化することを目的として開始されたアジア欧州会合は、96年3月のバンコクでの第1回首脳会合を受け、97年も精力的な活動が展開された。特に、外相(2月)、蔵相(9月)、経済閣僚(9月)による閣僚級の会合が相次いで開催され、今後のASEMの体制が整った。また、民間人によるビジネス会議(7月)、第2回ビジネス・フォーラム(11月)が開催され、民間レベルでも充実した対話がなされた。
 ASEMは政治、経済、文化等その他の分野を3本柱として、アジア欧州間に包括的な関係を築こうとする活動であるが、日本は、第1回首脳会合の際にそれぞれの分野で、様々なフォローアップ措置を提案した。まず、政治面では、政府間の対話に加え、民間レベルでの知的交流が重要との観点から、両地域の主要研究機関により設立されたアジア欧州協力協議会の活動を支援してきている。経済面では、千葉県幕張で経済閣僚会合を開催し、橋本総理大臣が冒頭挨拶を行った。その他、税関当局者間協力の提案に基づき、6月に第2回関税局長・長官会合が開催された。文化等その他の分野では、アジア欧州間の青年交流を促進する観点からミニ「ダボス」型青年交流を提案し、3月に宮崎県で100名を超える青年指導者を集めシンポジウムを開催した。
 今後の活動としては、98年4月にロンドンで第2回首脳会合、99年に外相、蔵相、経済閣僚による第2回の閣僚級会合、2000年に韓国で第3回首脳会合が開催されることが決定している。特に98年4月の第2回首脳会合は、ASEMの将来を方向付ける上で極めて重要である。日本は、タイと共にアジア側調整国としてアジア側メンバー内の意見調整にあたるなど、第2回首脳会合の成功に向け積極的に努力している。

   3.グローバルな取組と日本の役割

    (1)国際連合

 冷戦時代には、東西対立が国連の場にも反映され、国連はその第一の目的である国際の平和と安全の維持に必ずしも十分な役割を果たすことができなかった。しかし、冷戦の終結にともない、国連は、開発途上国における開発の推進、環境、人口、難民など様々な問題への対応に当たって一層大きな役割を果たすことが期待されるようになっている。
 日本は、1956年に国連に加盟して以来、常に国連の目的と原則を遵守し、国連重視を一貫して外交方針の柱の一つとして国連の活動全般に積極的に寄与してきた。

第52回国連総会において演説する小淵外務大臣(9月) (国連改革)
 国連が、その目的を十分に果たすとともに、21世紀の課題に十分に応え得るようになるためには、その機能を強化する必要があり、安保理、財政面、開発分野、国連事務局等様々な分野で改革が必要となっている。
 国連改革の問題については、国連総会の下に設置された各種作業部会などで議論が行われてきている。97年は、3月及び7月にアナン事務総長が発表した改革案が概ね加盟国により承認されたこと、ラザリ第51回総会議長が安保理改革に関する総会決議の試案を発表したこと、「開発のための課題」が採択されたことなど、国連改革に進展が見られた一年となった。
 日本は、国連がいたずらに議論を繰り返すばかりで時代に適合した自己改革のための能力すら持ち合わせていないということになれば、国連に対する国際社会の信頼が低下しかねないとの問題意識に立ち、また、国連改革の3つの柱として相互に関連のある安保理改革、財政改革及び開発分野の改革が全体として均衡のとれた形で進められることが必要であるとの立場に立って、国連改革に向けての議論に積極的に参加してきている。

国連加盟国と安保理常任・非常任理事国の地域別構成

(安保理改革)
 冷戦終焉後の国際社会において、安保理は、伝統的な安全保障の分野のみならず、人道、人権等の分野でも重要な役割を担うに至っている。他方、軍事面のみならず、経済・社会分野で貢献できる国の役割が増大している。このような新しい状況に適応するため、安保理にグローバルな貢献を行い得る新たなメンバーを加え、さらに安保理の作業方法などを改善して、その機能強化を図ることが必要となっている。
 この安保理改革の問題は、94年1月以来、「安保理改革に関する作業部会」などの場において検討されてきている。97年は、3月に前述のラザリ議長の試案が提出された他、7月には、米国が途上国の常任理事国入りを認めること等を内容とする新たな立場を表明して、改革の早期実現に向けての決意を示したこと等、重要な進展が見られた。
 これまでの議論を通じて、安保理の実効性と正統性を向上させるために、常任・非常任双方の議席を拡大する必要があることについては概ね各国の意見が一致しており、また、日独の常任理事国入りについては、幅広い支持が得られるに至っている。しかし、日独のみの常任理事国入りには途上国を中心に抵抗が強く、途上国の常任理事国入りを前提に、途上国からの新常任理事国をいかに選ぶかという問題について調整が続けられている。また、現在は15である安保理の総議席数をどこまで拡大するか、さらに、いわゆる拒否権の扱いについても議論が続いている。
 日本は、(A)グローバルな責任を担う能力と意思を有する限定された数の国を新たに常任理事国に加え安保理の代表性を向上させること、(B)非常任理事国の議席数の適当な増加により安保理の機能を強化すること、(C)議席の地理的配分の不平等を改善する必要があること等を主張して、積極的に議論に参加してきている。また、日本の常任理事国入りについては、小渕外務大臣が9月に国連総会で行った演説で、憲法の禁ずる武力の行使は行わないという基本的な考え方の下で、多くの国々の賛同を得て、安保理常任理事国として責任を果たす用意があるとの日本の従来よりの立場を改めて表明した。

(財政改革)
 国連は近年、米国を始めとするいくつかの加盟国による分担金の滞納を主な原因として、深刻な財政危機にみまわれている。このため、「財政状況に関する作業部会」等の場において、滞納金の支払問題、支払促進措置、分担率問題等につき検討されてきた。特に97年は98年から2000年の3年間の国連分担率を決定する年に当たり、分担率問題を中心に議論が進められた。日本は現行の「支払能力に応じた支払」の原則のみならず、安保理常任理事国の特別の責任に鑑みた「責任に応じた支払」の考え方も考慮すべきと主張した。国連分担率については、12月22日の国連総会本会議において決議され、我が国の分担率は、過去のGNPシェアの上昇を反映して、98年は17.981%、99年は19.984%、2000年は20.573%となった。

国連通常分担率の推移 | 国連の活動の規模の拡大

(開発分野の改革)
 日本は、「新たな開発戦略」の考えの下、冷戦後の国際情勢に応じて先進国と途上国との間でお互いに責任を分担しつつ協調して開発に取り組むため、国連の諸機関が開発分野で有効に機能するよう改革されることが重要であると訴えており、97年7月には、沖縄県宜野湾市において「開発に関する沖縄会議」を開催した。また、日本の考え方は、アナン国連事務総長による改革案にも多く取り入れられた。

(アナン事務総長による改革案)
 97年1月に国連事務総長に就任して以来、アナン事務総長は国連改革に積極的に取り組み、3月及び7月に包括的な国連改革案を提案した。
 9月に開幕した第52回国連総会においては、このアナン事務総長改革案が主要テーマの一つとなり、これに関連する2本の決議が採択され、とりあえず年内の審議を終えた。
 その結果、国連事務局の合理化や副事務総長の設置、また、サミット等の場において日本が主張してきた、国連の事務経費などを節約しその結果生じた資金を開発の分野に再投資するための開発勘定の設置など、アナン事務総長提案の多くの部分の実施が決定された。しかしながら国連の財政基盤の安定化を目的とした回転基金の設置など、一部の提案については今後更に検討が続けられることとなった。

    (2)地球環境問題

[国際社会による地球環境問題への取組]

 人類全体の生存に影響を与える地球環境問題の解決のためには、各国ごとの努力に加え、グローバル及び地域的な取組が不可欠である。地球環境の破壊は、現時点では目に見えない場合でも、数十年あるいは数百年後に現実の脅威となり得る性質を有しており、長期的な観点からの取組が必要である。他方、環境問題は、経済や社会の開発や発展と表裏一体の関係にあり、異なる発展段階と経済情勢にある各国が協調行動をとることは容易ではない。したがって、外交努力により国と国の認識の相違や利害の対立を調整し、もって全地球的、長期的な観点から適切な取組を行っていくことが必要である。
 こうした中、国際社会は、92年6月にリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議(UNCED、いわゆる「地球サミット」)の成果である「環境と開発に関するリオ宣言」及び「アジェンダ21」を出発点として様々な取組や議論を行ってきている。「アジェンダ21」については、地球サミット以来、国連経済社会理事会の下部に設置されている「持続可能な開発委員会(CSD)」において、定期的にレビューや意見交換が行われている。特に、地球サミットから5年後に当たる97年6月には、約60カ国の国家元首を含む約180カ国の代表及び約20の国際機関の代表等がニュー・ヨークに参集し、国連環境開発特別総会(UNGASS)が開催され、地球サミット後の様々な取組を包括的にレビューするとともに、今後の行動計画として「アジェンダ21の一層の実施のための計画」を採択した。
 国際社会の具体的な取組として、地球温暖化問題に関しては2000年以降の地球温暖化防止に向けた取組に関する法的枠組みを定める「京都議定書」が難交渉の末採択された。砂漠化の防止については、砂漠化防止条約が96年12月に発効したことを受け、9月末から第1回締約国会議が開催されるなど本格的な取組が開始された。生物多様性条約に関しては、バイオテクノロジーにより改変された生物の安全な移送、取扱い、利用のための手続きを定めるバイオセイフテイに関する議定書の検討とともに国別報告書の作成が行われている。さらに、オゾン層の保護問題に関しても、9月に開催されたモントリオール議定書締約国会議において臭化メチル(オゾン層破壊物質の一つ)の規制強化が決定された。南極の環境保護は、その地域的特性のため特に世界の関心を集めているが、日本は12月に環境保護に関する南極条約議定書を締結した。

京都議定書の骨子 | 京都イニデイアティブの3つの柱

[日本の協力]

 このように様々な分野で国際社会の努力が進展する中で、日本としても地球環境問題を外交の主要課題として位置づけ、次のように最大限の努力を行ってきている。
 第一に、日本における気候変動枠組条約第三回締約国会議(COPⅢ、地球温暖化防止京都会議)の開催が挙げられる。同会議は、既存の条約では決まっていなかった2000年以降の地球温暖化防止に向けた取組について国際的枠組みを定めることを目的に12月1日から11日まで京都市で開催され、大木環境庁長官を本会議の議長とし、約160カ国から、各国政府代表、国際機関、報道関係者、NGO等、約1万人が参加した。
 日本は、デンヴァー・サミットやUNGASSなどでの議論を通じ、「意味があり、実現可能で衡平な」数値目標を含む議定書の採択を目指し努力を行ってきた。地球温暖化防止対策は各国の経済的な利害も複雑に絡み合うため交渉は非常に難しいものであったが、8回にわたる準備会合及び11日間の厳しい交渉の末「京都議定書」が全会一致で採択された。これは、地球温暖化に対する国際的取組における歴史的な成果であり、21世紀の地球環境保全に向けての重要な第一歩となった。
気候変動枠組条約第3回締約国会議(COPIII)(12月)(写真は橋本総理大臣による閣僚級会合開会宣言)  第二に、日本は環境分野での途上国支援に積極的に取り組んできている。92年6月の地球サミットにおいて、日本は92年度より5年間で環境分野の援助を9000億円から1兆円を目途として大幅に拡充・強化することを発表した。その後92年度から96年度までの5年間の合計は約1兆4400億円となり、地球サミットの際に表明された目標額を大幅に上回る額が達成された。
 また、97年6月のUNGASSにおいて、日本の環境ODAによる包括的取組として「21世紀に向けた開発環境支援構想(ISD)」を発表したほか、9月の橋本総理大臣訪中の際には、李鵬総理との間で環境情報ネットワークや環境モデル都市構想を二国間で進める「21世紀に向けた日中環境協力」につき一致をみた。さらに、12月のCOPⅢにおいて、ISD構想の温暖化対策途上国支援として「京都イニシアティブ」が橋本総理大臣より発表されている。
 第三に、日本は、国際機関との協力関係も重視している。 例えば、国連環境計画(UNEP)との関連では「UNEP国際環境技術センター」を日本(大阪及び滋賀)に誘致し、プロジェクトなどへの経費支援も行っている。また、UNEPが推進している日本海及び黄海の海洋及び沿岸域の環境保全を目的とした北西太平洋地域海計画(NOWPAP)に関しては、7月に富山でフォーラム会合を開催し、油による汚染の際の対応のための沿岸国間の情報交換を行った。

   4.在ペルー日本国大使公邸占拠事件

[在ペルー日本国大使公邸占拠事件]

 96年12月18日(日本時間、以下同様)にペルーの反政府武装グループ、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)によって在ペルー日本国大使公邸が占拠されたことで始まった本事件は、複数国の多数の人質を巻き込み、127日間の長きにわたり継続した未曾有の事件であった。事件は、97年4月23日、ペルー政府が電撃的な救出作戦を敢行し、3名の尊い生命の犠牲の上にようやく解決を見た。

在ペルー日本国大使公邸占拠事件の経過(日時は現地時間)

[日本政府の対応]

 日本政府としては、「テロに屈せず、人命尊重を最優先として、平和的解決を目指す」との基本方針の下、主に次のような対応を行った。
 第一に、初動の体制として、事件発生直後に外務省に事務次官を長とする緊急対策本部、総理官邸に対策室を設置し、事件発生翌日には、内閣総理大臣を長とする政府対策本部を設置した。また、事件発生翌日には、現地対策本部の立ち上げ及びペルー側への日本政府の基本的考え方の伝達等を目的として、池田外務大臣が現地に急行した。
 その後、外務省緊急対策本部においては、24時間体制で、現地との連絡、情勢把握、関連情報の収集・分析にあたるとともに、官邸をはじめ関係省庁と緊密に連絡・連携を取り、政府全体で事件への対応にあたった。
 第二に、人質及びその家族の方々の不安や苦痛を少しでも減らすことができるよう、政府として人質の方々の身体面、精神面での健康管理、その家族、企業に対する情報提供に最大限の意を用いるとともに、公邸内への物資の差し入れ、人質の方々の家族、企業への説明会を行った。
 第三に、日本政府としては、本事件がペルー国内で発生したペルーの法秩序維持の問題であること、また、犯人側から日本に対する要求は一切無く、全てペルー政府に対するものであったこともあり、ペルーの主権を尊重し、一義的にはペルー政府が対応するものと考え、ペルー政府と緊密な連絡を取りつつ、これを支援するとの立場をとった。こうした観点から、事件直後より橋本総理大臣がフジモリ大統領と電話で緊密に連絡を取り合ったほか、97年2月1日にはトロントにおいて日・ペルー首脳会談を行った。また、96年12月19日の国連安保理の議長声明発出、12月27日のG7・P8議長声明発出、97年1月の橋本総理大臣のASEAN訪問の際のASEAN各国よりの支持取付け及び2月のASEM外相会合議長声明発出等、国際社会の支持の取付けに努めた。
 さらに、日本は、保証人委員会オブザーバーとしての寺田駐メキシコ大使を通じて、ペルー政府とMRTA側の間で行われた10回の予備的対話を中心とする両者の間の対話を注意深く見守るとともに種々の協力を行い、平和的解決に向けたペルー政府及び保証人委員会の努力を支援した。この平和的解決に向けた粘り強い交渉努力が犯人側の油断を生み、救出作戦を成功させるチャンスを生んだと考えられる。

[教訓と課題]

 外務省は、本事件を教訓として、反省すべき点、改善すべき点を調査し分析するために、事件解決直後に在ペルー日本国大使公邸占拠事件調査委員会を発足させた。同委員会において、警備の問題を始め事件発生に至るまでの経緯、発生後の対応等につき、検証と分析を行い、97年6月、その結果を報告書としてとりまとめた。その後フォローアップとして、人的・物的両面にわたる在外公館の警備体制の強化、テロ対策のための国際協力の推進(第2章第3節1.参照)、情報収集・分析体制の改善(具体的には、外務省内にテロ情報分析委員会、テロ情報分析室を設置)に取り組んできた。
 今後も在外公館がテロの対象となるおそれは排除されず、また、海外在留邦人数や海外渡航者数が増大する状況下では、日本国民が海外で誘拐や人質事件などのテロ犯罪に巻き込まれる危険性も存在している。外務省としては、この事件の教訓を活かし、引き続き、在外公館の警備強化に努めるとともに、海外における邦人の安全確保、テロの防止のための国際協力に全力を尽くす考えである。