第2章 地域別に見た外交


(3)モンゴル国

 チンギス・ハーンの即位(1206年)から800年目の節目に当たる2006年は、1月の人民革命党と祖国・民主連合による大連立内閣の総辞職で幕を開けた。人民革命党は首相の座を民主党から奪還し、エンフボルド人民革命党党首を首班とする新たな枠組みの連立政権が発足した。外交面では、本年を「大モンゴル建国800周年」と銘打った大々的な周年事業を展開したこともあり、夏場を中心に極めて多くの外国要人がモンゴル国を訪問した。

 経済面では、カシミアや銅の世界市況の好調を背景に、本年も1994年以降続いているプラス成長の維持が見込まれている。南ゴビ地方の豊富な鉱物資源(コークス炭・金・銅)の開発を巡る各国の駆け引きがますます熱を帯びる一方、国民の中では外国資本の経済支配に対する反発の声も高まりつつあり、採掘権及び採掘権料の取扱いや環境保護のための方策、内外資本の調整方法などを盛り込んだ鉱物資源法改正案が約1年の議論を経て可決された。なお、夏を前に、年利数十%という高金利を売り物に巨額の預金を集めていた貯蓄貸付協同組合のほとんどが連鎖的に破綻する事態が発生、「建国800周年」の祝賀ムードの陰で、政府の監督責任者の暗殺や連日の抗議デモなどが社会不安を呼び起こした。

 日本との関係においては、3月にエンフボルド首相が就任後初の外遊先として日本を訪問し、小泉総理大臣との首脳会談を行うとともに共同新聞発表を発出した。日本からは、小泉総理大臣の単独訪問(8月)をはじめ、現職閣僚2名及び総理大臣経験者3名を含む国会議員約80名がモンゴルを訪れたほか、文化・スポーツなど民間関係者のモンゴル訪問も空前の規模に達した。さらに、秋以降は、モンゴル側から閣僚4名が相次いで訪日したほか、政府・民間の各界関係者の来訪も続き、こうした人的往来を中心として両国の交流がより一層深まった。



▲エンフバヤル・モンゴル国大統領との会談に臨む小泉総理大臣(8月11日、モンゴル・ウランバートル)

 

 COLUMN

日本とモンゴルの友好の懸け橋として

 初めて日本に来たのは、1997年9月6日。モンゴルで開かれた明徳義塾高校の相撲留学セレクションを勝ち抜き、日本への留学の夢を叶えたため。日本の第一印象は、「暑い」。モンゴルは、9月といえばもう秋で、気温も低い。私は、牛の革ジャンを着て日本に来てしまった。

 日本にも、モンゴルの草原と似たような場所があった。それは、海。モンゴルには海がない。初めて見た日本の海は、モンゴルの大草原と錯覚する位に青く、広いものだった。

 右も左も分からなかった私が、日本の国技である相撲の「横綱」という地位に立てたのは、私一人の力ではなく、日本で知り合った温かい心を持った人たちのおかげだと思う。

 モンゴルには、日本で学びたい若者がたくさんいる。今後も、「朝青龍奨学生制度」を継続させ、この制度が若者の励みとなってくれたらうれしい。そして、自分の後に続くモンゴルの若者が1人でも2人でも出てきて、日本とモンゴルの懸け橋になってほしいと思う。また、日本の医療技術を提供できる病院をモンゴルに設立するなど、モンゴルの医療界の発展につながる具体的な活動を考えていきたい。

 私は今後も、伝統と格式のある相撲を愛し、日本とモンゴルの友好の懸け橋となって両国の発展に一層尽力したい。

第68代横綱 朝青龍 明徳



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