第4章 外交の広がり |
国際機関で活躍する日本人職員
~国連世界食糧計画(WFP)イラク事務所職員~
Column
私がもともと国連の活動に関心をもったのは、1991年の湾岸戦争である。当時高校生であった私は、戦争が簡単に起きてしまうことへの驚きを感じ、また、国籍を超えて一つの目的のために働ける仕事に関心をもち、自然に国連の仕事に興味を持った。 JPO制度(*)を通して、3年間、国連世界食糧計画(World Food Programme,WFP)タンザニア事務所に赴任後、2002年10月より同イラク事務所に勤務。2003年3月の米英軍によるイラクに対する開始直前まで、北部イラクのクルド人地域で様々な農村開発プロジェクトに携わっていた。 最後の最後まで平和的解決を望んでいたが、とうとう米英軍の爆撃開始5日前に国連スタッフへ退去命令が出た。その後、私自身はシリア、ヨルダン、クウェートをまわり、越境支援に関わった。 5月上旬、南部イラクでの米英軍占拠が確保されたことに伴って、国連スタッフの南部イラクへの再入国が許された。私もイラク入りの最初の国連スタッフチームの一人として、南部イラクの中心地バスラで活動を開始した。WFPにとっての最優先事項は、イラク国内で既に12年間継続している食糧配給システムを復活させることであった。1991年の湾岸戦争以来、一切の自由な貿易が禁じられたために、普通の市場経済に任せていては人々に食料が行きわたらない。そこで政府が導入したのが、イラク全国民を対象にした食料配給システムである。国民の60%以上が、日々の糧をこの配給システムに頼っていた。このシステムの崩壊は、国民の栄養状態に危機的な影響をもたらすことになる。 政府の機能停止、治安の悪化、過酷な自然環境、戦後の略奪行為による、インフラやオフィスの破壊など様々な困難を乗り越えて、6月1日より、無事に食糧供給システムを再開することができた。その後、WFPはこの食糧配給システムへの支援を続ける一方で、特に社会的経済的弱者、例えば、女性だけの家族、子供、栄養不良児、お年寄り、病院等を対象にした給食プログラムを発足させる準備を進めていた。 このように、国連としては、イラクの復興に全力を尽くしていたが、戦後の混乱や治安の悪化、生活が一向に改善されないことに対するイラク国民の不満は高まっていった。とうとう8月19日、バグダットの国連事務所が爆破される。国連スタッフはイラク国内より退避させられ、この原稿を書いている現在、私はカイロのWFP臨時事務所でイラクの復興援助に関わっている。イラクという現場より遠く離れていることは残念だが、その分、イラク近隣諸国でイラク人スタッフに研修を行ったり、また、イラク人スタッフと緊密に連絡を取りつつ、いつか治安状況が緩み次第、すみやかに様々な復興支援プロジェクトを立ち上げられるように準備を進めている。 戦争直前、そして、戦争中、国連という組織の国際平和における限界を感じた。また、国連事務所の爆破事件は、国連が人道支援を行っているにもかかわらず、様々な攻撃の対象となり得ることを示した。国連は様々な現実、限界、そして複雑な困難に直面していると痛感した。しかしながら、戦前は独裁・経済制裁に苦しみ、また、戦後は新体制に戸惑い、日々の生活に苦しんでいるイラクの人々とともに過ごした経験を通して、国連として、今後も長期的に復興支援を続け、同じような悲劇が繰り返されるのを防いでいくことが重要なのではという思いを強くしている。
執筆:世界食糧計画イラク事務所職員 高田 美穂(みお)
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