第2章 地域別に見た外交 

【主な西欧諸国情勢と日本外交】
 英国では、二期目半ばを迎えたブレア政権が、対イラク政策における米国支持の方針や、イラクの大量破壊兵器に関する政府文書をめぐる問題等で、厳しい国内世論に直面した。国民の生活に直結する公共サービスの改善で目立った成果が見られないことについても世論の不満が強く、医療、鉄道、教育、犯罪対策等の改革が課題となっている。ユーロ参加問題については、6月にブラウン蔵相が国民投票を当面見送る旨の議会報告を行った。
 フランスでは、2002年6月の国民議会選挙での保守中道派の勝利により盤石な政権基盤を固めたラファラン政権が、治安対策、地方分権及び年金制度改革といった改革政策を推進した。年金資金財政の改善を目的に、制度上優遇されていた公務員・労働組合と民間との待遇格差の改善・解消を中心とする年金制度改革については、反対する各種業界が連日デモやストライキで反発したものの、政府は改革を断行した。
 ドイツでは、2002年9月の総選挙に僅差で勝利して二期目に入ったシュレーダー首相が率いる与党(SPD)が、2003年2月のヘッセン州、ニーダーザクセン州議会選挙に大敗する等、支持率低迷の中、選挙公約として発表していた一連の改革構想(「アジェンダ2010」:労働、年金、保健、経済、財政、教育の各分野に及ぶ)を実行に移している。
 スペインでは、2004年3月、首都マドリードで死者190名、負傷者1,700名以上の大規模な列車爆破事件が発生した。事件後に行われたスペイン総選挙においては、イラク問題について、武力行使に反対し、国連が中心的役割を引き受けなければ、アスナール民衆党(PP)政権がイラクに派遣したスペイン軍を撤退させることを選挙公約の一つに掲げていた最大野党の社会労働党(PSOE)が勝利した。
 この他の国では、シュッセル・オーストリア首相、バルケネンデ・オランダ首相、オッドソン・アイスランド首相、ヴェルホフスタット・ベルギー首相が、総選挙の結果、政権を維持した。また、ラトビアでは、ビチェ=フレイベルガ大統領が再選された。
 一方、リトアニアでは、パクサス大統領が新たに選出されたほか、フィンランド、エストニアでは総選挙の結果、政権交代が行われた。スイスでは、総選挙の結果、保守政党の国民党が国民議会(下院)において第二党から第一党に躍進し、1959年以来継続されてきた4党連立内閣の構成比が崩れることとなった。スウェーデンでは、ユーロ参加国民投票のキャンペーン期間中に、リンド外務大臣が刺殺されるという事件が起こった(国民投票ではユーロ参加を否決)。
 これら西欧諸国は、政治・経済いずれの面においても国際社会の重要なプレーヤーであり、日本は、これら諸国を外交上のパートナーと位置付け、関係を強化している。このような認識の下、西欧諸国と日本との間で、全般的に良好な関係が維持・促進され、頻繁な要人往来が行われた。主な往来としては、小泉総理大臣の2回の欧州歴訪(4月に英国、スペイン、フランス、ドイツ、ギリシャの5か国、8月にドイツ、ポーランド、チェコの3か国を訪問)、4月の川口外務大臣の英国、ドイツ、フランス訪問、また、1月のオッドソン・アイスランド首相、2月のヴェルホフスタット・ベルギー首相、5月のボンネヴィーク・ノルウェー首相、7月のブレア英国首相の訪日が挙げられる。これらの往来や様々な国際会議への出席の機会を活用して、イラクや北朝鮮など国際社会が直面している諸課題をめぐり、積極的に意見交換が行われた。さらに、小泉総理大臣が7月に訪日したブレア首相と箱根に一泊したり、8月にドイツを訪問した際には、シュレーダー首相の招待を受けてバイロイト音楽祭を2人で鑑賞する等、首脳間の個人的親交も深められた。
 また、2月にロラン・ベルギー王子、3月にウィレム・アレキサンダー・オランダ皇太子、9月にアンリ・ルクセンブルク大公が訪日され、4月にともひと親王殿下及び彬子女王殿下がノルウェー、6月~7月に高円宮妃殿下がアイルランド及び英国、7月にともひと親王妃信子殿下が英国、常陸宮同妃両殿下がイタリアを御訪問された。

 
▼ロラン・ベルギー皇太子と御会見される皇太子同妃両殿下(2月 提供:宮内庁)

▼ロラン・ベルギー皇太子と御会見される皇太子同妃両殿下(2月 提供:宮内庁)

 

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