第1章 概 観 2002年の国際情勢と日本外交
日本を始めとする国際社会にとって、2002年は、様々な課題について大きな挑戦に直面し、その挑戦に適切に対処するために、国際社会の連携の強化に努めた1年であった。
【テロとの闘いと大量破壊兵器等の拡散防止に向けた取組等】
2001年9月11日に発生し、国際社会に大きな衝撃を与えた米国同時多発テロは、テロが国際社会全体の平和と安定に対する深刻な脅威であることを改めて強く認識させた。それ以降、国際テロ対策は、国際社会が最優先で取り組まなければならない課題となった。2002年を通じて、国際社会は、テロとの闘いに対処するため、アフガニスタン内外での米軍等によるテロリスト掃討作戦、テロ防止関連条約の締結を始めとする国際的な法的枠組みの強化、テロ資金対策や出入国管理の強化、開発途上国のテロ対処能力向上(キャパシティ・ビルディング)のための支援等、幅広い分野において国際協調を進め、着実にテロ対策網を構築してきた。しかしながら、2002年後半には、インドネシア・バリ島、フィリピン・ミンダナオ島での爆弾テロ事件、モスクワでの劇場占拠事件、ケニアでの爆弾テロ事件等が相次いで発生するなど、テロの脅威は依然として深刻である。テロの脅威を完全に除去し、国際社会の人々が安心して暮らせるような環境を実現するため、今後とも息の長い取組を継続していくことが必要となっている。
また、大量破壊兵器等の拡散問題は、従来から国際社会が一致団結して取り組んできた課題の一つであったが、米国同時多発テロ以降、特に、テロ組織等による大量破壊兵器等の取得・使用への懸念が強まっている。テロ組織には抑止という概念が働かないと考えられるためである。テロ対策という観点も含め、大量破壊兵器等の拡散防止に向け、国際社会が早急に取組を強化する必要があるとの問題意識から、2002年6月のG8カナナスキス・サミットでは、まずロシアを対象として大量破壊兵器の流出を防止するためのプロジェクトを実施すべく、今後10年間にわたって、G8諸国が200億米ドルを上限に資金を調達することを目標としたG8グローバル・パートナーシップが合意された。現在、その具体的な実施に向けて様々な調整が進められている。また、2002年11月には、「弾道ミサイルの拡散に立ち向かうための国際行動規範(ICOC)」が立ち上げられた。
さらに、国際社会における不安定要因である中東地域においては、中東和平をめぐる情勢が更に悪化し、イラクの大量破壊兵器等の開発・保有問題でも緊張が高まった。
中東和平をめぐる情勢では、2000年9月の衝突発生以降、イスラエルのパレスチナ自治区への軍事侵攻と、パレスチナ過激派によるテロという暴力の悪循環が継続してきた。イスラエル、パレスチナ双方合わせて2,300人を超える死者が発生しており、双方の経済や生活にも深刻な影響を与えている。国際社会においては、サウジアラビアのアブドラ皇太子の主導によるアラブ和平提案の採択、パウエル米国務長官による現地での調停活動、ブッシュ米大統領による新たな中東和平方針に関する演説等、様々な取組がなされたが停戦の実現には至らなかった。
イラクによる大量破壊兵器等の開発・保有問題については、同国が、関連する国連安全保障理事会(安保理)決議を遵守していない状況が継続している。1998年12月に国連イラク特別委員会(UNSCOM)及び国際原子力機関(IAEA)の査察官がイラクを出国して以降、現地の状況が把握できない状態が続いていた。米国同時多発テロの発生以降、特に、テロ組織や、大量破壊兵器等の拡散にかかわっているとされる、いわゆる懸念国による大量破壊兵器等の保有・使用の脅威が改めて強く認識されるようになったことを背景に、2002年1月、ブッシュ米大統領は、イラクを北朝鮮、イランと共に「悪の枢軸」として名指しした上で、フセイン政権による大量破壊兵器等の使用の危険性について言及し、イラクをめぐる情勢は再び緊迫するようになった。その後、国際社会が、即時・無条件・無制限の査察に全面的に協力し、大量破壊兵器等の廃棄を始めとするすべての関連安保理決議を履行するようイラクに対して強く働きかけた結果、9月、イラクは国連による査察の受け入れを表明した。11月8日の安保理決議1441の採択を受け、国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)及びIAEAの先遣隊がバグダッドに入り、11月27日、約4年振りの査察が再開された。しかしながら、イラクの協力が不十分なことから、米国、英国及びスペインは、2003年2月24日に新たな安保理決議案を提示し、3月7日には同決議案の修正案を提出した。安保理では、同修正決議案をめぐり議論が行われてきたが、16日の米国、英国、スペイン、ポルトガルによる首脳会談を経て、17日には、パウエル米国務長官は、同修正決議案について安保理での投票を求めないことを決めたと述べた。また、同日、ブッシュ米大統領は演説を行い、フセイン・イラク大統領は48時間以内に同国を立ち去るよう、さもなければ武力紛争の結果を招く旨述べた(3月18日現在)。
【国際的な戦略環境の主な変化】
2002年には、主要国間関係にも大きな変化が見られ、特に、米国同時多発テロ以降は、イスラム過激派等によるテロの脅威への対処を契機に、国際社会の連携が緊密になってきた。なかでも、ロシアと米国、欧州諸国との協力関係は一層緊密化しており、2001年12月の米国による対弾道ミサイル・システム制限(ABM)条約からの脱退の決定に対してロシアが冷静な反応を示したこと、2002年5月のブッシュ米大統領のロシア訪問の際に、米露両国が、戦略核兵器削減に関する条約(モスクワ条約)に署名し、「新たな戦略関係に関する共同宣言」を発表したこと、また同月、NATO・ロシア理事会(NRC)が設立されたことなどは、ロシアと欧米諸国との関係の緊密化を端的に示すものである。また、米中関係も、米国同時多発テロ以降、関係改善が進んだ。さらに、アフガニスタンでの軍事作戦の遂行に重要な役割を果たした南アジアや中央アジア諸国と米国との関係も緊密になっている。ただし、2003年に入り、イラク問題への対応をめぐり、主要国間で立場の違いが顕在化する場面も見られている。
欧州においては、欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)の拡大が決定され、欧州の統合に大きな進展が見られた。EUについては、2002年初から単一通貨であるユーロが実際に流通を開始し、12月のコペンハーゲン欧州理事会では、中東欧諸国を中心とする10か国が2004年にEUに加盟するとの方針が正式に決定された。NATOについては、5月のNRC設立に続き、11月には中東欧7か国の加盟招請が決定されるなど、国際情勢の変化に適切に対応するため、NATO自身が進化しつつある。
【世界経済の動向と持続可能な開発に向けた取組】
世界経済については、2002年には持続的な成長の実現に向けた挑戦が続けられた。米国同時多発テロの影響を受けていた米国経済が、2001年末には回復傾向を示したことを受け、世界経済全体も2002年初は景気回復の兆しを見せていた。しかし、その後、米国経済の回復の勢いに翳〔かげ〕りが見られたこともあり、2002年を通じて世界経済の回復は緩やかなものとなった。一方で、国際社会は、2001年11月のカタールにおける第4回世界貿易機関(WTO)閣僚会議での合意を経て、2002年1月に立ち上げられたWTOの新ラウンドにおいて、2005年1月1日までの交渉妥結を目指し、一層の貿易自由化、貿易ルールの改善・策定を通じ、世界貿易を拡大していくための交渉を行うなど、将来における世界経済の持続的な成長の実現に向けた取組を着実に行ってきた。また、近年、WTOを中心とする多角的自由貿易体制を補完・強化するため、自由貿易協定(FTA)の締結に向けた動きが、欧州や北米、中南米等を中心に活発になっている。
また、グローバル化は、経済活動の一層の効率化等を通じ、本質的にはすべての国や人々に利益をもたらすものであるが、貧富の差の拡大等、負の側面も有している。テロの温床をつくらないという観点からも、グローバル化の恩恵を開発途上国を含む国際社会全体が適切な形で享受し、持続可能な開発を実現していくことができるよう、国際社会において積極的な取組が行われてきた。
開発問題については、国際社会は、2000年に国連が定めた「ミレニアム開発目標」(注)の達成を目標として取り組んでおり、2002年には、3月のメキシコ・モンテレーでの開発資金国際会議、6月のカナダ・カナナスキスでのG8サミット、8月末から9月初頭の南アフリカ・ヨハネスブルグでの持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルグ・サミット)といった一連の国際会議が開催された。ヨハネスブルグ・サミットでは、今後、持続可能な開発を進めるための包括的な指針となる「実施計画」と首脳の政治的意思を示す「持続可能な開発に関するヨハネスブルグ宣言」の二つの文書が採択され、持続可能な開発の実現に向けた今後の方向性が示された。
【アジア情勢】
上述してきた国際社会が直面している様々な課題は、日本が位置するアジア地域においても例外ではない。アジア地域においては、冷戦終了後も依然として厳しい軍事的対立の状態にある朝鮮半島情勢や、貿易・投資など経済面での進展はあるものの、いまだ対話が再開されていない中国と台湾との関係、さらには、2001年末のインド国会襲撃事件以降、緊張が高まったインド・パキスタン情勢等の不安定要因が引き続き存在している。また、米国同時多発テロ以降、特にパキスタン、東南アジア諸国を中心に、イスラム過激派の活動の活発化が懸念されるようになった。特に、10月にはインドネシア・バリ島での爆弾テロ事件を契機に、東南アジア地域における国際テロ対策の強化の必要性も、以前にも増して強く認識されるようになった。また、大量破壊兵器等の拡散防止との関連でも、経済発展に伴い、貿易中継地のみならず汎用品の生産能力を備えた供給国にもなりつつあるアジア諸国において、拡散防止のための枠組みの強化が重要な課題となっている。
北朝鮮をめぐっては、2000年の歴史的な南北首脳会談の後、2001年以降、日朝、米朝、南北のいずれについても大きな進展はなかったが、2002年には、9月に小泉総理大臣が訪朝し、史上初の日朝首脳会談が開催され、日朝平壌〔ピョンヤン〕宣言が署名されるなど、日朝間で関係改善へ向けた大きな動きが見られた。しかし、日本人拉致被害者の多くが死亡していると伝えられたことなどに対する日本国内の世論の反発は大きく、また、10月にケリー米国務次官補が訪朝した際に、北朝鮮が核兵器用のウラン濃縮計画の存在を認めたことが判明し、さらに年末には北朝鮮が核関連施設の凍結を解除し、IAEAの査察官を追放するに至り、2003年1月には北朝鮮が核兵器不拡散条約(NPT)からの脱退を表明するなど、北朝鮮と国際社会との緊張が高まる事態となった。北朝鮮については、生物・化学兵器等、核兵器以外の大量破壊兵器の開発や、弾道ミサイルの開発、実験、輸出、配備を含む活動も重大な安全保障上の懸念となっている。
また、日本経済が長期にわたって低迷を続けている一方で、東アジア経済は、1997年のアジア通貨・金融危機により深刻な打撃を受けた後、1999年以降、急速な回復を遂げるようになった。その後、米国経済の減速や米国同時多発テロの影響を受け、アジア経済も減速傾向にあったが、2002年には、東南アジア諸国で景気回復が見られるようになった。2001年12月にWTOに加盟した中国は、積極的な財政政策や好調な貿易及び外資の参入等に支えられ、近年、高い経済成長を続けている。また、アジア地域では、これまでFTA締結の動きはあまり活発ではなかったが、東アジア経済の再活性化に向け、1月に日本がシンガポールとの新時代経済連携協定に署名したほか、11月には中国が東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国との間で「包括的経済協力のための中国・ASEAN枠組み協定」に署名するなど、日本、米国、中国、韓国、インド、オーストラリア、ニュージーランド等によるASEAN諸国とのFTA締結に向けた動きが進展している。
【総論】
上述のような国際情勢の下で、2002年、日本は、国益、すなわち、何よりも日本及び日本国民の安全と繁栄を確保することを目的として、積極的な外交に取り組んできた。まず、日本及び日本国民の安全に直接かかわる北朝鮮をめぐる諸問題については、最重要の外交課題として政府を挙げて取り組んできている。また、日本の国益を確保するために不可欠である国際社会全体の平和・安定と繁栄を実現するため、日本は、米国を始めとする国際社会と協調しつつ、国際テロ対策や大量破壊兵器等の拡散問題、持続可能な開発を始めとする諸課題の解決に向け、積極的な役割を果たしてきた。日本外交の基軸である米国との関係では、2002年2月のブッシュ大統領の訪日や9月の小泉総理大臣の訪米の機会を含め、首脳・外相間等で頻繁に意見交換を行い、強固な信頼関係を構築し、イラクや北朝鮮情勢を含む国際社会の様々な課題の解決に向けて緊密に連携してきた。また、韓国、中国、ロシア等の近隣諸国との関係の強化に取り組むとともに、ASEANとの間では、「共に歩み共に進む」との基本理念の下、日・ASEAN間の未来のための協力に関する「五つの構想」(注)の具体化に向け、積極的に取り組んできた。さらに、統合の深化と拡大を進めている欧州との間でも、7月に東京で日・EU定期首脳協議を開催し、日・EU行動計画に基づく協力関係を前進させてきた。また、日本のエネルギーの長期安定的な供給の確保にとって死活的に重要な地域である中東地域の平和と安定は、国際社会全体の平和と安定の確保にとっても極めて重要であり、日本は中東和平の実現に向けて、イスラエル、パレスチナ両当事者への働きかけなどを通じ、積極的な役割を果たしてきた。
【北朝鮮をめぐる情勢への対応】
日朝関係は、2000年10月の日朝国交正常化交渉を最後に、特段目立った進展はなかったが、2002年9月17日、歴代総理大臣として初めて訪朝した小泉総理大臣は、金正日〔キムジョンイル〕国防委員長と首脳会談を行い、会談後、両首脳は日朝平壌宣言に署名した。拉致問題については、首脳会談において、金正日国防委員長は13名の拉致を認めるとともに、過去の北朝鮮関係者の関与に対するおわびを述べた。その後、拉致問題に関する事実調査チームの北朝鮮派遣を経て、10月15日には、北朝鮮が生存を確認した拉致被害者5名の日本への帰国が実現した。安全保障問題については、10月3日から5日にかけて、米大統領特使であるケリー国務次官補が訪朝した際に、北朝鮮はウラン濃縮計画を有していることを認めたとされ、その後、北朝鮮による核兵器開発計画は、国際社会が緊急に対応しなければならない課題となった。
こうした状況の下、10月29日及び30日、約2年振りとなる日朝国交正常化交渉がマレーシアのクアラルンプールで再開された。日本は、拉致問題及び核問題、ミサイル問題を始めとする安全保障問題を最優先課題として臨み、これらの問題に時間をかけて協議を行ったが、拉致被害者の家族の具体的な帰国日程の確定には至らず、安全保障問題についても、北朝鮮は日朝平壌宣言を遵守しているとの説明に終始した。その後、北朝鮮との間で、安全保障協議、次回国交正常化交渉の日程は確定できていない。拉致問題に関しては、北朝鮮に残っている拉致被害者5名の家族の帰国問題や、今回帰国が実現した5名以外の被害者に関する更なる情報提供等、いまだ山積している大きな問題の解決に向け、今後とも引き続き北朝鮮に対して粘り強く働きかけを行い、北朝鮮の前向きな対応を求めていく必要がある。
また、北朝鮮がウラン濃縮計画を有していることが発覚した事態を受け、11月、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)理事会は、北朝鮮に対する12月以降の重油の供給を停止することを決定した。この決定に対して、北朝鮮は、米朝間の「合意された枠組み」に従って行われていた核関連施設の凍結を解除(黒鉛実験炉や使用済核燃料貯蔵施設における封印撤去等)し、IAEAの査察官の退去等の措置をとり、反発を強めた。2003年に入り、北朝鮮は、NPT脱退を宣言するなど、国際社会に対する揺さぶりを更に強めている。2月には、IAEA理事会が北朝鮮の核兵器開発問題を安保理に報告すると決定し、安保理は非公式協議において本件を取り上げた。日本は、米国及び韓国と緊密に連携をとりつつ、また、中国やロシア等の関係国やIAEA、安保理とも協調し、北朝鮮に対して、NPTの遵守、核関連施設の再凍結、核兵器開発計画の即時撤廃等、具体的な行動をとるよう働きかけを行っている。
【テロとの闘いと大量破壊兵器等の拡散防止に向けた日本の取組】
2001年の米国同時多発テロ以降、テロの脅威が改めて強く認識されているが、日本は、テロを自らの安全保障に対する脅威ととらえ、2002年を通じてテロの防止・根絶を目指し積極的に取り組んできた。まず、2001年11月に施行されたテロ対策特別措置法に基づき、米英軍に対する艦船用燃料の補給等を引き続き行ってきたほか、同法に基づく自衛隊の派遣期間を2003年5月19日まで延長するなどの措置をとった。また、国際的な法的枠組みの強化という観点から、日本は、2002年6月、テロ資金供与防止条約を締結し、12本すべてのテロ防止関連条約の締結を完了するとともに、国際社会に対しあらゆる機会をとらえて、すべてのテロ防止関連条約の締結を強く働きかけている。また、テロリストに安住の地を与えないためにも、日本は、特に、アジア地域を中心とした開発途上国のテロ対処能力向上(キャパシティ・ビルディング)のための支援を積極的に行っている。
アフガニスタンの和平・復興は、アフガニスタンを再びテロの温床としないためにも極めて重要であり、日本は、2002年1月に東京で、米国、EU、サウジアラビアと共に、アフガニスタン復興支援国際会議を共催し、向こう2年6か月の間に最大5億米ドルまでの支援を行うことを表明した。その後、2003年2月末までに3億5,800万米ドルの復旧・復興支援を実施・決定するなど、アフガニスタンの和平の実現と復興の促進に向けて、積極的な役割を果たしてきた。
イラクの大量破壊兵器等の保有・開発疑惑については、日本は、イラクが即時・無条件・無制限の査察を受け入れ、大量破壊兵器等の廃棄を始めとした関連安保理決議上の義務を履行するよう、国際社会全体が一致団結して外交努力を行っていくことが極めて重要であると考えており、米国を始めとする国際社会と緊密に連携をとってきた。そのような外交努力の一環として、日本は、2002年9月の国連総会の機会に、湾岸危機以来初の閣僚級の接触として川口外務大臣がサブリ・イラク外相と会談を行ったほか2003年3月には茂木外務副大臣を総理大臣特使としてイラクに派遣し、直接働きかけを行った。また、日本は、イラクの周辺諸国に対しても、11月下旬から12月、さらには2003年3月にも総理大臣特使を派遣し、日本の考え方を伝え、中東地域の平和と安定に向けた取組につき意見交換を行うなど、問題の解決に向けて積極的に取り組んでいる。
大量破壊兵器等の拡散問題については、日本は、2002年6月のG8カナナスキス・サミットにおいて、G8グローバル・パートナーシップに関する合意を受けて、当面2億米ドル余りの財政的貢献を行う用意があることを表明した。また、日本は、従来より、NPT体制の強化に向けて様々な取組を行っているほか、2002年には、包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期批准、生物兵器禁止条約(BWC)の強化等につき、関係諸国に対して、働きかけや調整を積極的に行った。さらに、2002年11月に立ち上げられたICOCに関し、日本は同行動規範の起草の段階から貢献するとともに、多くの国の参加を得て普遍的な規範となるよう、関係国・機関に対する積極的な働きかけを行った。
G8 カナナスキス・サミットに臨む小泉総理大臣(6月 提供:内閣広報室)
【アジアにおける安定的な秩序の構築に向けた取組】
韓国との関係では、2001年には、歴史教科書問題や小泉総理大臣の靖国神社参拝問題等が懸案となり、両国関係はぎくしゃくした状態に陥ったが、その後、10月の2度の首脳会談を経て両国関係は改善の方向へ向かった。2002年3月には、小泉総理大臣が韓国を訪問し、両首脳は、2002年を両国にとって真に歴史的なものとすることを表明した。両首脳の言葉どおり、2002年には、ワールドカップ・サッカー大会の日韓共催及び日韓国民交流年の成功により、草の根レベルを含めた交流が飛躍的に進展した。ワールドカップ・サッカー大会閉幕の翌日には、「日韓首脳の未来に向けた共同メッセージ」が発出され、相互の信頼と尊重を基調とする日韓の協力関係をより高い次元に発展させていく決意が表明された。12月には大統領選挙が行われ、盧武鉉〔ノムヒョン〕氏が当選し、2003年2月25日に同氏は第16代韓国大統領に就任した。盧武鉉新大統領率いる新政権との間でも、特に若い世代を中心とした交流、相互理解の更なる進展を通じ、地域の安定と繁栄のためにも、未来志向の友好・協力関係を更に発展させていくことが重要である。
中国との関係では、2002年は日中国交正常化30周年にあたり、日中両国において「日本年」「中国年」を記念する一連の行事や交流活動が開催されたことなどにより、両国国民間の相互理解と相互信頼は大きく深まった。また、日中間の経済関係は、2001年末の中国のWTO加盟を経て拡大と深化を続け、2002年の貿易総額は1,000億米ドルの大台を突破し、史上最高額を更新した。一方、両国間では、2001年12月以降、懸案となった北朝鮮工作船の引揚げ問題や、5月に発生した北朝鮮人5名による在瀋陽日本総領事館への駆け込み事件のほか、日中間の貿易・投資の増加に伴い、個別の分野においていくつかの通商問題が発生した。これら諸懸案の解決に向けて、首脳・外相を始め様々なレベルで積極的な意見交換が行われた。中国では、2002年11月に中国共産党第16回全国代表大会(党大会)が開かれ、それに続く第16期中央委員会第1回全体会議(一中全会)において、胡錦濤〔こきんとう〕氏が江沢民〔こうたくみん〕氏に替わり共産党の総書記に選出された。2003年3月の第10期全国人民代表大会第1回会議では、胡錦濤総書記が国家主席に就任し、新体制が始動することになった。今後とも、中国との二国間関係の増進に加え、地域情勢や地球規模の諸課題の解決に向け、引き続き中国と協力していくことが必要である。
ロシアとの関係では、2002年も首脳や外相等ハイレベルでの政治対話が頻繁に行われ、二国間関係のみならず、北朝鮮をめぐる問題や国際テロ対策等の両国共通の課題について緊密な意見交換が行われた。2002年6月のG8カナナスキス・サミットの際に行われた日露首脳会談において、2002年12月又は2003年1月に小泉総理大臣がロシアを公式訪問し、日露行動計画を発表することで一致した。その後、10月の川口外務大臣の訪露、12月のイワノフ外相の訪日等での準備を経て、2003年1月に小泉総理大臣がロシアを公式訪問し、これまでの両国間の協力の成果と今後の方向性を示す日露行動計画を発表した。今後は、同計画の内容を着実に実施し、具体的な成果へつなげていくことが重要であり、日露間の協力を幅広い分野で進めていく中で、平和条約締結問題についても、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を可能な限り早期に締結するため、粘り強く交渉に取り組んでいく必要がある。
日本は、また、紛争の恒久的な解決を目指し、「平和の定着」という考え方を提唱し、紛争後の和平プロセスの促進、国内の安定・治安の確保、人道・復旧支援を迅速かつ切れ目のない形で進めていくことを通じて、紛争地域における「平和の定着」を実現するために積極的な貢献を行ってきた。2002年1月に、米国、EU及びサウジアラビアと共にアフガニスタン復興支援国際会議を開催したことに続き、5月、川口外務大臣は、アフガニスタン訪問に際し、「平和の定着」を具体化するための「平和のための登録(Register for Peace)」プログラム(注)を打ち出した。また、日本は、インドネシアのアチェにおける紛争について、12月に東京で「アチェにおける和平・復興に関する準備会合」を開催し、また、フィリピンのミンダナオにおける紛争については、同じく12月に「平和と安定のためのミンダナオ支援パッケージ」を発表した。また、和平プロセスが進展しているスリランカについては、10月に明石康元国連事務次長を日本政府代表に任命し、2003年1月には、川口外務大臣が現地を訪問し、日本がスリランカ和平に向けて積極的な役割を果たしていく意図を表明した。2003年3月には第6回和平交渉を箱根で、また6月には復興開発会議を東京で開催する予定である。また、東ティモールの安定を確保し、独立を支援するため、国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)に対し、日本は、2002年2月より過去最大規模(690名)の自衛隊施設部隊等を派遣し、同年5月の東ティモール独立後は、UNTAETを引き継いだ国連東ティモール支援団(UNMISET)に派遣を継続している。
アジア地域におけるその他の不安定要因として、インド・パキスタン間の緊張が挙げられる。特に2002年5月のカシミールにおけるインド軍駐屯地に対するテロ攻撃以降6月にかけて、両国間の緊張が極度に高まり、軍事衝突にまで事態が悪化するかもしれないとの危険に国際社会の懸念が高まった。両国関係の緊迫化に対し、日本は、国際社会と協調しつつ、両国要人に対する電話会談等を通じて対話による問題解決の必要性を働きかけ、また、5月末のG8外相による緊急声明の発出にあたり積極的に貢献した。6月に入り、アーミテージ米国務副長官がパキスタンを訪問し、ムシャラフ大統領より管理ライン越えのテロリストの侵入活動を恒久的に停止するとの保証を得たことにより、事態は打開の方向へ向かった。その後、インド側カシミール地方議会選挙、パキスタンの総選挙といった両国にとって重要な政治日程が予定どおり終了した10月には、国境に配備されていた軍隊が撤退し、両国の軍事的な緊張は緩和しつつあるが、日本を始め国際社会は、両国間の更なる緊張の緩和と対話の早期再開に向け、働きかけを継続する必要がある。
アジア地域における安定的な環境を構築するにあたり、安定的な経済成長を実現することは重要な要素である。日本は、WTO新ラウンドを通じ多角的自由貿易体制の実現を図る一方、アジア地域に安定的で開放的な経済・貿易体制を構築するために、経済連携にも積極的に取り組んでいく考えである。2002年1月の小泉総理大臣の東南アジア諸国歴訪の際に、シンガポールとの間で新時代経済連携協定に署名し、同協定は11月に発効した。また、日本は、将来における東アジア地域全体の経済連携の強化を目指し、韓国や、フィリピン、タイ等のASEAN諸国等との協議を積極的に進めてきており、今後ともこうした努力を継続していく考えである。
【持続可能な開発の実現に向けた取組】
日本は、厳しい財政状況下にあることなどから、政府開発援助(ODA)予算は削減傾向にあるが、その下で効果的な支援を行うため、平和の定着に加え、人間の安全保障、対アジア支援に重点を置いた支援を実施していく方針を打ち出し、持続可能な開発の実現に向けた取組を着実に実施している。また、2001年の日本のODA総額は10年振りに世界第2位となったものの、国際社会の主要な一員として、引き続き国際社会全体の持続可能な開発の実現に向けて大きな役割を果たしている。ヨハネスブルグ・サミットでは、小泉総理大臣が持続可能な開発における教育及び人づくりの重要性を強調する演説を行い、開発と環境分野の人材育成を始めとする日本の具体的な貢献策である「小泉構想」を表明した。また、日本は、「実施計画」案の交渉において、議長国である南アフリカを始めとする各国と緊密に協議を重ね、合意達成に積極的に貢献した。日本は、環境保全と経済成長を両立させ、持続可能な開発を実現していくため、今後とも、開発途上国自身の自助努力(オーナーシップ)と、国際社会による対等なパートナーとしての支援を重視し、非政府組織(NGO)等との連携を推進しながら、国際的なルール作りに一層積極的に関与していく考えである。
さらに、日本は、1993年に第1回アフリカ開発会議(TICADI)を東京で開催して以来、「アフリカ問題の解決なくして、国際社会全体の安定と繁栄はない」との考えの下、紛争、難民、貧困、HIV/AIDS等の感染症といった国際社会が直面する課題が集中しているアフリカ問題の解決に積極的に貢献してきた。開発資金国際会議、G8カナナスキス・サミット、ヨハネスブルグ・サミットという一連の国際会議においてアフリカの開発問題が大きな焦点となった2002年においても、小泉総理大臣及び川口外務大臣がアフリカ諸国を訪問するなど、日本はこの問題に積極的に関与してきた。2003年9月末には、東京で第3回アフリカ開発会議(TICADIII)を開催する予定であり、日本は、今後とも国際社会と協調しつつ、アフリカ問題に積極的に取り組んでいく考えである。
また、日本は、人類にとって重大な脅威となっている気候変動の問題に積極的に取り組んでおり、同問題に対処する上で極めて重要な第一歩である京都議定書を2002年6月に締結した。
【外務省改革】
2002年は、日本外交を担う外務省にとって、固い決意をもって再出発を期した年でもあった。2001年初頭に発覚した公金詐取事件以降、アフガニスタン復興支援国際会議へのNGOの参加をめぐる混乱、いわゆるプール金の問題、北方四島の住民支援に関する特定議員の関与をめぐる問題等、外務省をめぐる一連の不祥事や、日本外交への信頼を失わせるような事態が相次いで起こり、外務省に対する国民の信頼は著しく低下した。外務省は、国際社会が様々な挑戦に直面している中、失われた国民の信頼を一日も早く回復し、力強く日本外交を推進できるようにするため、2002年を通じて、省員が一丸となって外務省改革に積極的に取り組んできた。外部の有識者からなる「変える会」や、外務省内の有志による自発的な改革グループである「変えよう!変わろう!外務省」での有意義かつ活発な議論、さらには、自民党等の国会議員による様々な提言を踏まえ、2002年8月に外務省改革「行動計画」を、12月には外務省の組織・機構改革に関する「中間報告」を発表した。今後は、国益を守り、国民の期待にこたえる外交を行っていく体制を早急に構築していくため、行動計画を引き続き着実に実施するとともに、中間報告に盛り込まれた内容につき鋭意検討を行い、2003年3月末に最終報告を発表する予定である。
「変える会」第1回会合で挨拶する川口外務大臣(6月)