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国際機関で活躍する日本人職員 ●国連イラク査察団報道官


 2002年11月、バグダッド国連イラク査察団の報道官というこれまでに考えられなかった職務を任されることになった。ここ数年、主にPKOを中心とした広報活動に従事してきていただけに、イラクの大量破壊兵器等の問題をバグダッドで、しかも唯一の報道官として扱うことは、同じ広報畑でも大きな転換だった。

 イラクが国連と国際原子力機関(IAEA)による査察活動の再開を受け入れる可能性が出てきた2002年10月中旬に、国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)の報道官からバグダッドに1人報道官を置きたいとの電話が入った。そして早速、ブリクスUNMOVIC委員長のインタビューを受けることになった。アラビア語のできる人が良いのではないかとの声もあったと聞いているが、結局ブリクス委員長の決断で自分がこの大任を任されることになった。

 私は、1994年10月から1999年3月まで4年半にわたり国連事務総長報道官室で勤務した。この時担当していたのが、PKO、安保理そしてイラク問題だった。イラク問題では、人道面での「石油と食料交換計画(オイル・フォー・フード計画)」に関する覚書交渉とその実施、そして大量破壊兵器等廃棄のための国連イラク特別委員会(UNSCOM)の活動を追った。その関係で当時UNSCOMの報道官(前述のUNMOVIC報道官でもある)と知り合いになり、3年以上にわたりイラクの大量破壊兵器問題を共に扱った。私は、その後広報局に戻った後、国連東ティモール派遣団(UNMISET)に参加し、その政務官兼副報道官となった。独立かインドネシアへの合併かをめぐる住民投票のプロセスは極めて困難な政治問題だったが、その国連の副報道官の仕事を何とかまっとうした。結局、私が国連イラク査察団報道官に選任された背景には、こうしたイラク問題を扱った経験や計5年近い国連報道官としての経験が評価されたこととともに、一緒に仕事をしたUNSCOMの報道官や3年半仕事を支えた国連事務総長報道官より強く推薦をいただいたことがあった。

 イラクへの出発前の記者会見でブリクス委員長は私を記者団に紹介した際、既に実績証明済みの報道官経験者として評価してくれた。その信頼にこたえるべく、今バグダッドで仕事をしている。戦争になるか、これを回避できるかの瀬戸際で働くことはそうめったにない。東ティモールでも住民投票後に大規模な暴力を回避できるかどうかで、その対処に苦慮した経験があるが、今回は超大国米国を始めとする国際社会と地域大国イラクの真正面からの対立である。より深刻な事態だ。

 国連の情報源はニューヨークとウィーンとバグダッド。私のバグダッド報道官としての一言一句が各国の主要紙やテレビで引用され、これまでに何度も状況判断の材料になっている。私個人の力というよりは、より大きな政治的な流れの力である。

 国連職員として醍醐味のある仕事だか、同時にバランスのとれた判断力が要求されている。願わくば、査察を通じた武装解除が実現して欲しいものである。

執筆:国連イラク査察団報道官 植木 安弘



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