第3章 > 4 欧 州
欧 州

【総論】
2001年には、欧州連合(EU)は、その統合のプロセスを更に進展させた。また、9月11日の米国同時多発テロ以降、テロとの闘いを契機とする域内及び域外における協力の進展が見られた。欧州諸国では、英国で総選挙が実施され、ブレア首相率いる労働党が再び勝利し、また、イタリアでは上下両院選挙の結果、第2次ベルルスコーニ内閣が成立した。また、ポルトガルでは、統一地方選挙の結果を受け、グテーレス首相が辞表を提出した。中・東欧では、引き続き多くの国がEU加盟等を最優先の課題として様々な改革が実施されてきた。
宮中晩餐でノルウェー国王ハラルド5世・王妃両陛下をお迎えした天皇皇后両陛下(3月)(提供:宮内庁)

【欧州連合(EU)】
〈EUの拡大〉
2001年6月のヨーテボリ欧州理事会(スウェーデン)において、加盟候補国の中で最初の候補国については、2002年末までに加盟交渉を終え、2004年の欧州議会選挙に参加するとの今後の予定について、条件付きで合意がなされた。
さらに、12月のラーケン欧州理事会(ベルギー)では、現在加盟交渉を行っている国のうち、加盟交渉及び国内の改革について現在の速度が維持されれば、10か国(ポーランド、チェコ、ハンガリー、エストニア、スロべニア、キプロス、スロバキア、ラトビア、リトアニア、マルタ)が2004年の欧州議会選挙に加盟国として参加できるとされた。また、この10か国に含まれなかった加盟交渉中の残り2か国(ブルガリア及びルーマニア)については、努力の継続を奨励するとともに、加盟候補国ではあるが加盟交渉はいまだ開始されていないトルコについては、政治・経済指標及び人権についての進展を求めるとされた。
〈欧州の将来像〉
近年、欧州の将来像をめぐって、欧州連邦、国家連合等の構想を始めとして、様々な考え方が表明され、活発に議論が行われつつある。
このような状況を踏まえ、12月のラーケン欧州理事会では、EUの将来についてのラーケン宣言を採択し、新たな条約の策定のために2004年に予定される政府間会合(IGC)に向けて準備を行うため、2002年3月よりブリュッセルにおいてコンベンションを招集することが決定された。コンベンションは、ジスカール・デスタン元フランス大統領を議長、アマート前イタリア首相とデハーネ前ベルギー首相を副議長とし、加盟国政府の代表15名、加盟国議会の議員30名、欧州議会議員16名と欧州委員会代表2名により構成されるもので、加盟候補国代表も拒否権はないものの、コンベンションの議事に参加できることになっている。コンベンションは、1年後に最終文書を作成し、2004年のIGCでの議論の出発点を提供する任務を担っている。
EUの現状と将来

〈安保面での域内協力の進展〉
1999年12月のヘルシンキ欧州理事会(フィンランド)で決められたとおり、5~6万人規模の危機管理部隊を60日間の準備期間で編成し、最低1年間駐留できるようにするという目標に向け、準備が進められている。2001年12月のラーケン欧州理事会では、「欧州安保防衛政策(ESDP)の運用可能性についての宣言」が採択され、今後、EUとしていくつかの危機管理作戦を遂行可能であると表明し、NATOとの関係を構築し、協定を締結する決意であることを宣言した。この危機管理部隊が実際にどのような作戦に活用されるのか、また、その際のNATOとの関係がどのようなものになるのかについては今後の推移が注目される。
【経済分野における進展】
2001年は、特に証券市場の効率化、持続可能な開発、欧州会社法について進展が見られた。
〈証券市場の効率化〉
3月のストックホルム特別欧州理事会において、「効果的な証券市場規則に関する欧州理事会決議」が採択された。同決議は、証券市場の柔軟性を高め、投機的資本の供給を拡大することを念頭においたものである。また、同決議においては2005年までに「金融サービス行動計画」(欧州委員会作成)が完全実施されることが求められた。その前提として、法的措置を講じ、2003年末までに証券市場統合を完成させるよう関係者の努力が求められた。
〈持続可能な開発〉
6月のヨーテボリ欧州理事会においては、持続可能な開発が一つの焦点となり、2002年の京都議定書発効に向けて努力することになった。また、加盟国に対し各国独自の持続可能な開発戦略の策定が求められ、気候変動、運輸、厚生及び天然資源の4分野について一定の方向性が定められた。また、2002年8~9月の持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルグ・サミット(WSSD))を控え、政府開発援助(ODA)の国内総生産(GDP)比に関する国連の目標値である0.7%の達成に向け具体的成果を上げることを確認した。
〈欧州会社法〉
10月8日、前年のニース欧州理事会(フランス)の動きを受け、雇用相理事会において欧州会社法が採択されるに至った。これは、1970年の欧州委員会提案から30年の検討期間を経てようやく到達したものである。同法は、各加盟国の国内法に基づかず、EU法に基づいた株式会社の設立を可能にする欧州会社規則と従業員の経営参加のあり方を規定する「欧州会社への労働者の関与に関する指令」からなり、2004年10月8日より施行されることになっている。
〈欧州雇用政策〉
12月のラーケン欧州理事会においては、リスボン戦略(注1)にみられる雇用拡大を中心とした欧州雇用政策の達成に向けた努力を確認した。
欧州経済通貨統合(EMU)

【ユーロ及び欧州中央銀行(ECB)】
ユーロ相場は2001年も6月末までは対ドルで一貫した減価傾向が続いたが、7月から8月にかけて、米景気悲観論の強まりを受け、上昇基調に転じた。9月11日の米国同時多発テロ直後は一時高騰したが、その後早期の景気回復の兆しを見せた米国との期待成長率の違いから、緩やかに下落している。
2001年、欧州中央銀行(ECB)は、度重なる利下げを行い、ユーロ圏経済を下支えした。
特に、米国同時多発テロ後の9月17日には、米連邦準備制度理事会(FRB)に協調して、緊急利下げを実施し、機動的な金融政策運営が可能であることを示した。
12月のラーケン欧州理事会で、中・東欧10か国の2004年のEU加盟が視野に入ってきたものの、既存加盟国との経済格差が大きいことから、これら諸国のユーロ導入の時期は不透明である。
2002年1月1日には、ユーロ貨幣の流通が始まったが大きな混乱もなく、順調なスタートを切った。今後は、ユーロ不参加の英国、デンマーク、スウェーデンの動向にも注目が集まるであろう。
ユーロ紙幣及び硬貨

【欧州の地域機関】
欧州には、EU以外にも安全保障分野で北大西洋条約機構(NATO)や欧州安全保障協力機構(OSCE)、また人権や法などの分野で欧州評議会(CE)といった地域機構があり、活発な活動を展開している。日本もOSCEの協力のためのパートナーとして、また、CEのオブザーバーとしてそれぞれの活動に協力している。特に、CEにおいては、サイバー犯罪条約が起草され、2001年11月、日本は、他の主要な先進諸国と共に同条約に署名した。なお、米国における同時多発テロ後の対応において、NATOが集団的自衛権を規定した北大西洋条約第5条を史上初めて発動して注目された。
欧州の主要国際機構

【西欧】
英国では、1997年5月の総選挙の結果、18年振りに労働党政権(ブレア首相)が誕生していたが、2001年6月、労働党が高い支持率を維持した状態でブレア首相は総選挙を実施した。ブレア首相率いる労働党は、これまでの財政運営方針を維持することを基礎として、公共サービス面で更なる改革を行うことを訴え、全659議席中、413議席を獲得し再び勝利した。ブレア首相は選挙後に内閣改造と行政組織の再編を行い、ストロー前内相が外相に任命された。
フランスでは、現在シラク大統領が保守派、ジョスパン首相が革新派という保革共存体制(コアビタシオン)となっているが、2001年3月に地方選挙が行われ、革新市長が誕生した首都パリ、リヨン市等を除き、地方都市ではおおむね保守が優勢であった。9月には上院議員選挙が実施され、上院321議席中、102議席が改選されたが、保革の勢力比は変わらなかった。2002年には国政選挙(大統領選挙(4月~5月)及び国民議会(下院)議員選挙(6月))が予定されており、保革共存体制が解消されるかどうかが注目されている(注2)。
ドイツでは、1998年に成立した社民党及び緑の党の連立政権が、シュレーダー首相(社民党)、フィッシャー外相(緑の党)に対する高い支持を背景に基本的に安定した政権基盤を維持してきた。ただし、9月の米国同時多発テロを受けた連邦軍兵士派遣にかかわる議会の決議に際しては、政府部内で必ずしも意思が統一されず、シュレーダー首相が、自らの信任動議とあわせて議会の採決を求め、僅差で可決するという一幕があった。一方で、与党内における緑の党の位置づけにつき党内外で議論があり、2002年9月に予定される連邦議会(下院)選挙での連立のあり方に変化があるかについて注目されている。
イタリアでは、2001年7月のジェノバ・サミットの日程等を考慮し、チャンピ大統領が3月に上下両院を解散し、5月に上下両院の同日選挙が行われた。与党中道左派、野党中道右派両連合は、それぞれルテッリ前ローマ市長、ベルルスコーニ元首相を次期首相候補に立てて対峙したが、同日選挙の結果、ベルルスコーニ元首相率いる野党中道右派「自由の家」連合が勝利を収めた。これを受けて6月、チャンピ大統領はベルルスコーニ氏を次期首相に指名し、第2次ベルルスコーニ内閣が発足した。その後、2002年1月に、ルジェロ外相が対EU政策をめぐる意見の相違等を理由に辞任し、ベルルスコーニ首相が外相を当面兼任することになった。
ポルトガルでは、12月に行われた統一地方選挙の結果、与党社会党が大方の予想に反して敗北し、グテーレス首相が辞表を提出した。これを受けて2002年3月に総選挙が前倒しで実施されることになった。
【中・東欧】
中・東欧では、多くの国が2001年もEU(及び一部の国はNATO)加盟の実現を最優先の課題とし、広範囲な分野にわたる様々な改革を重ねた。
2001年は、6月にはブルガリアで、また10月にはポーランドで政権交代が見られたが、いずれの新政権もEU(及びブルガリアについてはNATO)加盟を最優先とする基本路線には変化が見られなかった。中・東欧諸国のEU加盟交渉は、交渉の難航が見込まれる農業、財政・予算、地域政策等が先送りされたこともあり、比較的順調に進展した。1998年に加盟交渉を開始した6か国(ポーランド、チェコ、ハンガリー、エストニア、スロべニア及びキプロス)及び2000年に加盟交渉を開始した6か国のうち、ブルガリア、ルーマニアを除く4か国(ラトビア、リトアニア、スロバキア及びマルタ)については、12月のラーケン欧州理事会において2004年のEU加盟実現に向け交渉を進めることとされ、10か国同時のEU加盟が有力となった。一方で、農業分野を始め、難しい交渉が残されており、また、キプロス問題の影響もありうることから、2004年のEU拡大実現にはまだ克服すべき課題も多い。また、これまでEU拡大の動きから取り残されてきたバルカン諸国でも、4月にマケドニアが、また、10月にクロアチアがEUと安定化・連合協定に署名した。
日本は、EU加盟を最優先課題としつつも日本との関係強化にも力を注いできている中・東欧諸国との間で、新たなパートナーシップの構築に努めている。日本とこれら諸国との関係は、各国の改革の進展に伴い、様々な分野において拡大しつつあり、特に近年、日本からEU加盟を目前とした中・東欧諸国への直接投資が増加している。
このような状況の下、2001年1月には森総理大臣が日本の総理大臣として初めてギリシャを訪問したことに続き、7月には田中外務大臣がチェコ及びユーゴスラビアを訪問して、日本と中・東欧諸国の関係強化が図られた。
日本の南東欧への支援実績(1991~2000年度の累計)
