-拡大する「南北問題」- |
国連ファミリーの経済・社会問題に関する活動を1972年の財政規模でみると,国連事務局の通常予算の約半分にあたる1億ドル強,国連開発計画(UNDP)のような各国の自発的拠出金によって開発途上国への技術・食糧援助を行なう各種基金の支出約6億ドル強,および専門機関全体の予算額3億ドル弱の合計約10億ドルに達する。これは国連ファミリー全体の9割を占めている,経社局予算が通常予算の半分を占めていること自体が,国連における経済・社会分野での活動の重要性を示しているが,その最大の特徴は,開発援助プログラムを直接扱っているところにある。この点は,国連が世銀グループ―1972年度投融資総額31億ドル―および米国国際開発庁(AID)―1972年度援助総額17億ドル―に次いで世界第3の援助機関と呼ばれるゆえんでもある。(但しフランス政府の開発援助は10億8千万ドルである。)こうした意味で,現在国連活動によってもっとも直接的な利益を得ているのは,被援助国たる開発途上国であるといわれる。
このような大規模な事業を行なうようになったのは,いうまでもなく開発途上国の圧力によるところが大であるが,必要に応じ随時事業を拡大してきたため,事業全体にとかくまとまりが欠けているとの印象は避けられない。そこで国連の援助,ひいては経済・社会分野全体の活動に一本の筋を通そうとの試みがなされている。その一つとして,「第2次国連開発の10年のための国際開発戦略」(その内容については「わが外交の近況」46年版参照)の策定事業が行なわれた。これは加盟国間の連帯意識(「世界共同体」的認識)をモメンタムとし,世界の貧困と災害と無知とに対して加盟国の統一戦線を組むことにより,1970年代を通じて世界の福祉を極大化することを目的にしており,国連の協力理念を相当程度体系化するのに成功したものとみられる。
その多くが南半球に位置する開発途上国,すなわち「南」と,北半球に位置する先進国,すなわち「北」との間の経済格差がますます開き,かつそうした傾向が世界の平和と繁栄を妨げるものであるとの認識から,「東西問題」と対比して「南北問題」が世界の注目を浴びるようになったのは,1960年代に入ってからであった。
新興独立国は,独立の基盤固めともいうべき経済開発を進めるために必要な,貿易および開発援助の面での国際協力を先進国から引き出すものとして,国の大小・強弱・貧富の差を問わず,一国一票主義に立つ国際機関である国連に着目した。一方西側先進国は,60年前後に急激に増加したアジア,アフリカの新興国の国連加盟で東西の均衡が崩れる恐れが生じたため,これらA.A.グループが急進化するのを食い止める必要性を感じた。そこで新独立国のさし迫った重要な課題である経済開発を,国連を通じて推進していく方が賢明であると判断した。加えてその方が西側諸国の経済援助能力を活かすにも効果的であるとの観点から,米国の音頭とりで「国連開発の10年」構想が打出され,ついで開発途上国の要望を受け入れて,国連貿易開発会議(UNCTAD)の開催が決まった。
その後,開発途上諸国は,国連の場で自分たちのバーゲニング・パワーを保つ最大の手段は団結にあるとの信念から,第1回UNCTAD終了時に集まった開発途上国数にちなんで「77カ国グループ」(*)を結成した。事後もUNCTADのつど,「アルジェー憲章」ないし「リマ行動計画」のようなグループ綱領を作成して会議にのぞむとともに,グループ代表制をとることによ*(現在は中国,南ア,イスラエル等を除く96カ国で構成されている。)り,会議の場における行動も統一するとの慣行を生み出した。もちろん「77カ国グルーブ」の内部では,各国の開発段階の格差から,問題により立場の相違もみられるようになったが,最終的には小異を捨てて大同につくのがこれまでの大概の例であった。
西側先進国もこれに対抗する必要上,OECDの場を使って意見調整をはかるのみならず,グループのスポークスマンを指定することにより,できるかぎり共同歩調をとることとなった。ただソ連や東欧諸国は,開発途上諸国から開発援助協力を要請されていることは変らないが,開発途上国の後進性が西欧諸国の植民地主義に起因し,東欧諸国は責任がないとの政治的立場と,経済協力の実績が西側先進国に比べ見劣りしていることから,これら諸国は従来からとかく討議のらち外に置かれがちである。
こうして国連における「南北問題」は定着してきている。と同時にそうした国際協力を探究する過程が「南」と「北」の,それぞれの利益を調整するといった性格が次第に顕著になっている。その結果できる国際協力のコンセンサスは,結局南北の最大公約数でしかあり得ないため,「南北問題」の解決にはそれらの積み重ねによる息の長い努力が要請される。こうした姿は,1972年4月から5月にかけてサンチャゴで開催された第3回UNCTADで集約的に現われた。
開発途上国側が,サンチャゴにおいて最大の拠りどころとしたのは,予想されたとおり「リマ行動計画の宣言と原則」だった。(その内容については「わが外交の近況」47年版参照)その目指すところは,第3回UNCTADの機会に,(i)第2次開発の10年を成功させるために必要な,先進国の開発協力ベの確実なコミットを取り付けること,および(ii)国際通貨,貿易制度変動の時期をとらえ,世界経済体制の中枢部に開発途上国の発言権を確保すること,の2点にあつた。
しかしこれに対して先進国側は,概して新しいコミットを避けようとの雰囲気が強かった。先進国にとってみれば,第3回UNCTADの時期は必ずしも好都合ではなかった。伝統的な意味での南北問題にかぎってみても,70年代を通じて先進国の協力すべき分野を詳細に規定した開発戦略は,わずか1年半前に成立したばかりであり,UNCTAD最大の成果と評価される一般特恵制度も実施されてから1年を経ていたかった。さらに最大の援助国アメリカは,国際収支の悪化などの理由で,特恵の実施はおろか,対外援助費の削減を行なうにいたっていた。
開発途上国が最大の目標としていたSDRと開発融資のリンクについていえば,世界経済の基盤となる国際通貨制度自体が再建の方向を模索中であるだけに,先進国としてはなおさら慎重たらざるを得なかった。1973年からの開始を予定されている新国際ラウンドも,保護貿易主義のまん延を阻止し,世界経済の拡大をはかるエースとして先進国が多大の期待をかけているものだったが,いまだその実施手続きの検討に入ったばかりだった。結局,援助問題のように,自国の努力の範囲内で可能な事柄に関しては,0DAの0.7%目標を受諾したわが国を含め,各国ともそれぞれその政治的意思の表明を行なうことができたが,「リマ行動計画」の目標の中前記(ii)に相当する通貨貿易体制のように,先進国間の利害関係の調整を要する問題については,先進国が具体的コミットをするには,世界経済情勢があまりにも流動的であった。
ともあれ,132カ国が参加し,約40日間にわたる討議の結果,47にのぼる実質的決議が採択された(主要決議の内容については各論参照)。その中約2/3は満場一致で採択されており,これらが実際の行動に結びつくかどうかは別として,いずれも南北間題の諸項目に関する現在の世界の合意を文章に表わしたものとして評価されよう。しかし,それらがあくまでも交渉による妥協の産物であるとの作成の経緯からわかるように,「リマ行動計画」の主張とは大きな隔たりがあることは明瞭であり,開発途上国は当然,今度あらゆるフォーラムにおいてその主張を繰り返して行くものと予想される。とくにその決議で国際通貨制度改革についてIMF20カ国委員会の設立,新国際ラウンドについて開発途上国の利益を保証するための具体的措置の必要性に関して合意し,開発途上国の発言権を保証する足掛りが認められたことは,今後大きな問題をはらんでいる。先進国としてみれば,ある意味では,これまでUNCTADの場で南北の団体交渉として処理できていたものが,先進国間の利害調整さえままならない重要問題討議の場に異質な開発途上国なるエンティティが参加してくることになり,利害関係が輻輳し,調整がより困難になると懸念されよう。つまり国連にとどまらず,開発途上国を包含した国際経済関係を討議するGATT・IMFなどの場においても,多くの問題解決の過程で開発途上国全体の利害をつねに考慮していかざるを得ない傾向がますます強まることとなる。その意味で第3回UNCTADは,「南北問題」が単なる開発協力の問題にとどまらず,南北間の利害調整プロセスとしての側面を有することを明らかにした。