-わが国と各国との諸問題- |
第 2 部 |
各 説 |
(イ) 第7回閣僚会議
ASPAC第7回閣僚会議は,1972年6月14日から16日までの3日間大韓民国の首都ソウルにおいて開催され,ASPACに加盟している日本,大韓民国,台湾,ヴィエトナム,タイ,マレイシア,フィリピン,豪州およびニュー・ジーランドの外相またはこれに代わる閣僚ないし大使が出席した。またカンボディアおよびラオスの両国はオブザーヴァーを派遣し,さらにインドネシアの代表が閣僚会議の全ての会合に大韓民国政府の賓客として出席した。
会議の共同声明は,各国の代表が,「ニクソン大統領の訪中,訪ソを含めて,平和のために米国がとった種々の施策に特に留意して,対決の危険を減少させる緊張緩和は,アジア・太平洋諸国にとっても利益のあるものであることを認めた」旨述べている。
共同声明は,また,以下の4点を掲げてASPACの性格規定を行なっている。
(i) ASPACはアジア・太平洋地域における平和と発展を希求する地域協力機構である。
(ii) ASPACは他の国に対して向けられた政治的または軍事的取り決めではない
(iii) ASPACは経済・技術・社会・文化およびその他の分野における地域協力を促進する努力を行なう
(iv) ASPACは排他的機構ではなく,その目的に建設的な貢献をする用意がある域内の非加盟国に開放されている
なお,次回第8回閣僚会議を1973年にバンコックで開催することに決定した。
(ロ) ASPACプロジェクト
閣僚会議において各国代表は,ASPACのプロジェクトである科学技術サーヴィス登録機関,文化社会センター,食糧肥料技術センター,経済協力センターおよびアジア・太平洋海洋協力計画に関する報告を高く評価するとともに,「種々のプロジェクトがいまや,満足にその昨日を課しつつあり,ASPACの目的を達成する上で重要な役割を果しつつあることに留意し,ASPACの共同プロジェクトの事業に積極的支持を与えること」に合意した。
(ハ) ASPACに対する各国の態度
(a) 豪州およびニュー・ジーランドの態度
1973年1月22日,ウェリントンにおける豪州・ニュー・ジーランド両国首脳会談後の共同声明は「アジア・太平洋の近隣諸国とともに既存の取極の調整およびこの地域の現状に即した新しい協力の仕組を探究する意向」を表明した。
右声明は直接ASPACに触れていないが,主としてASPACを念頭においたものと考えられる。但し,両国とも当面ASPACの解体乃至脱退は考えていないもようである。
(b) マレイシアの脱退
マレイシア政府は,1973年3月12日,翌13日バンコックにて開催されるASPAC常任委員会に代表を出席させないことおよび同国は今後ASPACのいかなる活動にも参加しない旨を発表した。
この発表は,マレイシァのASPACからの脱退を意味するものと了解される。
(イ) 第5回閣僚会議
ASEAN第5回閣僚会議は,1972年4月13,14日の両日,シンガポールにおいて開催され,インドネシア,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイの加盟5カ国の代表が参加したほか,カンボディアおよびヴィエトナムの代表がオブザーバーとして出席した。
リー・クヮン・ユー・シンガポール首相が,会議の開会演説において,ASEAN設立後の過去5年間におけるASEANの最大の業績は,「相互理解と友好関係の形成」であった点を強調した後,ラジャラトナム・シンガポール外相を議長に選出し,それに続いて各国代表が一般演説を行なった。その後会議は秘密会に入り,4月14日,第6回閣僚会議をバンコックにおいて開催するとの決定を含む共同コミュニケおよび政治問題を討議するための閣僚会議を少くとも年一回開催する旨の声明を採択して閉幕した。
(ロ) 第1回ASEAN外相政治会議
1972年7月13,14日の両日にわたりマニラにおいて開催された第1回ASEAN外相政治会議は,1972年4月の第5回閣僚会議の声明に基づく非公式な性格の会議であった。会議の全セッションは非公開であり,また特定の議題が事前に決定されていた訳ではないので会議の詳細は明らかでないが,会議終了後発表されたプレス・ステートメントによれば,インドシナ問題,核実験問題,東南アジア中立化構想,群島理論をはじめとして1973年の海洋法会議で討議されることが予定される諸問題について意見の交換が行なわれるとともに,ASEAN首脳会議の準備のための技術委員会の設立を決定した。
(ハ) 第2回ASEAN外相政治会議
第2回ASEAN外相政治会議は1973年2月15日クアラ・ルンプールにおいて開催された。会議は1月27日のヴィエトナム停戦協定の成立を背景とし,会議終了後のプレス・ステートメントに述べられているように「停戦協定を評価し,東南アジアに対するそのインプリケーションを討議する」ため開催されたものである。
会議は第1回外相政治会議と同様に非公式,非公開であるため,会議の詳細は明らかでないが,停戦を契機としての地域における永続的平和と安定確保の観点から,プレス・ステートメントによれば,(i)アジア・フォーラムとしての全東南アジア諸国会議の開催,(ii)ASEANの拡大,(iii)インドシナ再建およびこれに対するASEAN諸国の参加,の3問題を中心としての意見交換が行なわれた模様である。
(イ) 東南アジア開発閣僚会議は,東南アジア諸国の経済開発担当閣僚およびわが国の外務大臣が一堂に会し,経済開発の共通の諸問題につき直な意見を交換することによって,これら諸国間で経済開発のための地域協力を推進することを目的とするフォーラムであり,わが国の提唱により1966年第1回会議が東京で開催された。爾来,同会議は,第2回フィリピン,第3回シンガポール,第4回タイ,第5回インドネシア,第6回マレイシア,第7回ヴィエトナムでそれぞれ開催され,次回第8回会議は1973年東京で開催される予定である。
参加国は,現在,インドネシア,日本,カンボディア(第5回まではオブザーバー),ラオス,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイおよびヴィエトナムの9カ国である。
本会議においては,一般演説において,過去一カ年の東南アジア各国の経済および経済開発のパフォーマンスの評価,問題点の検討およびわが国の対外開発協力の説明が行なわれるほか地域協力プロジェクトおよび各国共通の関心事項である個別問題について検討が行なわれている。
(ロ) 第7回会議は,1972年12月サイゴンで行われたが,その一般演説においては,東南アジア各国より,インドシナ和平への動きをふまえ,東南アジアの経済社会開発のための地域協力の今後の展望に関し率直な意見が述べられた。
一方,大平外務大臣は,アジアにおいては潮流の変化が生まれつつあるが,わが国は,東南アジア諸国との緊密な友好関係をさらに増進し,その共同の開発努力に参加し,これら諸国の期待に沿った役割を最大限に果していきたいと前置きし,わが国は,その拡充された経済力をもって,今後あらゆる困難を乗り越え,援助量の拡大および条件緩和に出来る限り力を尽していきたいこと,アンタイイングの積極的拡大の一環として政府借款につき開発途上国アンタイイングを行なうこととし,このための所要の具体的措置を速やかに講ずる所存であることおよびインドシナ和平の暁には,関係国の意向を見極めつつ出来るだけの協力を行ないたいこと等の諸点を述べた。
(ハ) 本会議を母体として種々の地域協力プロジェクトが生れ,または検討が続けられているが,これらのプロジェクトないしその他加盟国間で共通関心事項となっている個別問題の内容は,おおむね次の通りである。
(a) 東南アジア漁業開発センター
このセンターは,東南アジアにおける漁業開発の促進に寄与することを目的として1967年12月に設立された政府間国際機関で,閣僚会議が生み出した最初の地域協力プロジェクトである。
現在センター加盟国は日本,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイおよびヴィエトナムの6カ国で,事務局はバンコックにある。センターには現在訓練部局(バンコック)および調査部局(シンガポール)があり,加盟各国の研修生に対する訓練あるいは域内の漁業資源の調査等の活動を行なっている。
現存のこれら部局のほかに新たに養殖部局をフィリピンに設置することが既に決定しており,現在そのための具体的措置が進められている。わが国は,同センターに対し船舶,器材の調達資金を拠出しているほか専門家の派遣,奨学金の拠出等の協力を行なっている。
(b) 東南アジア貿易投資観光促進センター
本センターは地域協力により,東南アジア諸国からわが国への輸出,わが国からこれら諸国への投資および観光客の増大を図り,東南アジア諸国の国際収支の改善とこれら諸国への投資の拡充を目的として各種の促進事業を行なう政府間国際機関であり,1972年1月に発足し,事務局は東京に置かれている。
加盟国はインドネシア,日本,カンボディア,ラオス,マレイシア,フィリピン,シンガポール,タイ,ヴィエトナムの9カ国である。わが国は,センター経費の主要部分を負担する等,積極的に協力を行なっている。
(c) 東南アジア医療保健機構(略称SEAMH0)
第4回閣僚会議においてわが国よりアジア地域の医学の進歩および医療水準の向上が経済社会開発の基礎的条件の一つであり,このためには,これらの分野で,共通の問題に悩むアジア諸国相互の協力がきわめて重要であるとの観点からかかる地域協力の推進を提唱した。
その後,閣僚会議,作業部会等の場でこの構想に医学,医療面のみならず,保健向上のための活動も含めることにつき合意に達し,以上を内容とする東南アジア医療保健機構(SEAMH0)を設置することが,今次第7回閣僚会議で原則的に合意されるとともに,SEAMH0を設立するための条約案の審議およびSEAMH0がとり上げることとなる事業の内容等について関係国間で話し合いをすすめていくことについても併せ合意をみた。わが国はこの合意に基づき関係国との間で設立準備を促進するために,先ず条約案審議のための政府間グループの第1回会合を1973年3月末東京において開催した。
なお,SEAMH0発足後はその事業の一つとなる予定の医療情報センターについては,SEAMHO発足前にもその事業の一部をわが国の責任で開始することにつき既に合意をみており,わが国としては,SEAMH0設立推進のためのわが国における民間レベルの母体たる日本国際医療団をして,昭和48年度より,医学図書館要員訓練,文献情報提供といった基礎的準備事業を行なわしめることとしている。
(d)「70年代東南アジア経済分析」
この分析は,第4回閣僚会議におけるタイ代表の提案に基づき,アジア開銀がとりまとめたもので,ミント・ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス教授ほか著名な学識者の執筆になるものである。この分析は,東南アジア諸国がその経済開発のため自らなにをしなければならないかとの観点から種々の提言をその内容としている。
この分析の内容は,本閣僚会議において高く評価され,これを会議参加国間の共同的努力に結びつけていくための検討が進められており,このような検討は,1972年タイで行なわれたほか,1973年東京でも行なわれる予定である。
(e) アジア租税行政および調査
第5回閣僚会議において,フィリピンより,域内各国の税制,税務行政の改善,強化を図るとともに,投資にインセンティブを与えるために税制上の環境を整備することが重要であり,このため各国間の情報交換のためのスタディグループを開催することが提案され,その旨合意された。
その第1回会合は,1971年2月マニラで,第2回は1972年2月ジャカルタで開催され,投資促進のための財政措置,売上税の役割,所得税の脱税防止,先進国・開発途上国間の租税条約等の問題点について各国の経験をもとにして種々の意見交換が行なわれた。今次第7回閣僚会議では,このような意見交換を継続していくことが合意され,第3回スタディ・グループの会合が1973年5月東京で開催された。
(f) 運輸通信地域協力
第2回閣僚会議においてマレイシアは,東南アジア諸国の運輸通信部門拡充のため地域協力を進める目的で,東南アジア運輸通信高級官吏調整委員会(C00RDCOM)の開催を提唱し,会議の支持を得た。
同委員会は,1967年9月クアラ・ルンプールで開催され(日本はオブザーバー),以来,各種開発プロジェクトのフィージビリティ調査の実施とりまとめ,東南アジアの綜合的運輸調査である「地域運輸調査」(RTS,アジア開銀により1971年9月に完成した)の実施等を行なってきている。C00RDCOMは,RTSの諸プロジェクトの実施推進を中心として今後さらにその活動を継続強化していくため,その常設事務局(SEATAC)を1972年マレイシアに設置した。
毎回の閣僚会議においては,C00RDCOMの活動状況の報告を受け,これに対する支持が表明されている。
(g) 人口・家族計画
第5回閣僚会議におけるマレイシアの提案に基づき,人口問題につき域内閣僚レヴェル意見交換を行なうため,1970年10月クアラ・ルンプールにおいて東南アジア家族・人口計画閣僚会議が開催された。この会議においては,家族・人口計画に関する意見および情報交換が行なわれ,今後も閣僚レヴェルで随時会合すること,またこの問題に関する委員会をマレイシアに設置すること等が合意された。この合意に基づき第1回政府間調整委員会(日本はオブザーヴァー)が1971年4月ジャカルタで,第2回委員会が1972年2月シンガポールで開催された。また,セミナー,研修旅行等各種の活動も進められ,これらに関する報告が毎回の東南アジア開発閣僚会議において行なわれている。
(h) 経営教育
第5回閣僚会議におけるタイ代表の提案に基づき,経営技術の向上改善のため,東南アジア各国の既存の訓練機関等の実情調査が行なわれ,第7回閣僚会議ではこの結果をふまえ,今後各国が経営教育の重要性に妥当なプライオリティーをつけ,その向上を図っていくべきことが合意された。
(i) 東南アジア工科大学
第5回閣僚会議において,ヴィエトナムより,大学レベルの技術専門家養成のための地域的教育機関の設立が提案され,現在この構想について検討が進められている。
(j) アジア開発銀行特別基金
第2回閣僚会議の要請に基づき,アジア開銀に農業特別基金が設置され,これを契機に,毎回の閣僚会議では,アジア開銀総裁の出席を得て,特別基金の運用その他につき各国の意見や希望が述べられてきた。
(k) 公衆衛生および殺虫剤規制
公衆衛生の向上と殺虫剤の人体等への被害防止のための地域協力の推進がインドネシアより提案されており,今次会議では,本件プロジェクトの進捗につき意見交換が行なわれ,保健衛生向上のための活動の企画および実施についてのセミナーを1973年中にインドネシアにおいて開催することが申し合わされた。
(l) 東南アジア開発援助計画
この地域への開発援助の流入につき検討するとの趣旨で作業部会の設置が第5回閣僚会議でインドネシアより提案された。現在本件計画の内容をインドネシア側で検討中である。
アジア開発銀行は,1966年12月アジアと極東地域の経済成長を助長し,地域の開発途上国の経済開発を促進することを目的として設立された。72年12月,業務開始後満6年を経過したが,72年4月にトンガ王国をメンバーに加えた(メンバーについては付表参照)。また73年3月バングラデシュも加盟した。創立以来総裁をつとめていた渡辺武氏は健康の理上由で,72年11月辞任し,後任には前日銀理事の井上四郎氏が加盟国の全会一致で選ばれた。
アジア開銀の業務は順調に推移し,72年末現在,18カ国に対し120件9億7,000万ドル(内特別基金による融資44件2億200万ドル)の融資案件,また15カ国および地域調査等に対し約1,400万ドルの技術援助案件を承認している。
68年末から開始された地域運輸調査は,71年7月にその報告書が完成をみた。この報告書は長期的見通しにたって東南アジア7カ国の経済成長との関連で運輸問題の分析を試みるとともに具体的プロジェクトについても示唆を行なったものである。
アジア開銀に対する旺盛な資金需要に応えるべく,71年11月に前資本規模の1.5倍である16億5,000万ドルの増資が決議され,昨年11月発効し授権資本は27億5,000万ドルとなった。なお,この増資のほか,特別基金の拡充についても鋭意検討が行なわれている。
わが国は域内先進国として従来からアジア開銀に対し積極的な協力を行なっており,これまでも米国と並び最大の2億ドルの出資を行なって来たが,今回の増資に際し,さらに3億ドルの応募を行ない,開銀活動の拡充に協力している。また,特別基金に対しても,68年農業特別基金に対し2,000万ドル,69年,70年および71年に多目的特別基金に対しそれぞれ2,000万ドル・3,000万ドル,3,000万ドルの拠出を行ない,わが国が当初公約した1億ドル拠出を銀行発足後5年にして達成した。さらに,72年度拠出分として約3,900万ドル(120億円)の拠出を行なった。1972年末現在のアジア開銀の特別基金の資金規模は,多目的特別基金(農業特別基金を含む)2億2,200万ドル(内日本拠出分1億1,700万ドル)である。
わが国は,また銀行が主として贈与べースにより行なっている技術援助に対しても,協力を続けており,68年以降72年末までに574万ドルの拠出を行ない,この分野でも大きな寄与をなしている。
また,70年12月の60億円のアジア開銀の円建債の本邦発行に引き続き71年11月および72年5月には第1回目を大幅に上回る100億円ずつの円建債の本邦発行がなされた。かかる円建債の発行はアジア開銀の資金充実に資するところ大であるとともに,わが国にとっては国内金融市場の国際的開放へのステップともなり,二重の意義があったといえよう。(発行条件は,第1回目および第2回目については利率は年7.4%,発行価格は額面100円につき99円75銭,応募者利回り7.45%で償還期限は7年となっており,第3回目については利率7.3%,額面価額で発行,応募者利回り7.3%,期限は10年となっている。)
(イ) アジア生産牲機構は,1961年5月,アジア諸国における生産性の向上を目的として設立された国際機関で,わが国をはじめとする14のメンバーからなっており,事務局は東京におかれている。
この機構は,訓練コース,シンポジウム等を開催するほか,専門家の派遣,視察団受入等により,中小企業の経営改善,生産技術の向上などにつき,加盟政府への助言,協力を行なっている。
(ロ) アジア生産性機構は,設立10周年にあたる1970年を「アジア生産性年」としてアジア地域における生産性運動を強力に展開し,生産性意識の高揚につとめた。さらに1971年からは,分担金を25%引上げ,財源の強化を図るとともに,引続き積極的に事業を推進している。わが国は,同機構に対して1972年,25万2,000ドルの分担金および27万4,000ドルの特別拠出金を拠出し,またわが国で実施される同機構の事業費の一部等として32万7,000ドルを支出した。
なお,現在,事務局長は,関守三郎氏。
国際稲研究所は,急激な人口増加を示しているアジア地域における米の生産増大を目的として,1960年にフィリピンに設立され,1962年より正式に活動を開始した。同研究所では,稲の品種改良全般について広範な研究計画を展開しており,現在までに,IR8,IR20,IR22など高収量品種の育種に成功しており,また世界の稲に関する技術文献の蒐集,保存,研究成果の出版,関係各国,諸機関等との共同研究の実施,アドヴァイザーの派遣,研修員の受け入れなどを行なっている。
わが国の国際稲研究所に対する資金援助は,1970年度より開始され,同年度には,305万2,000円,1971年度には2,045万2,000円を拠出し,1972年度には,1,752万円を拠出した。
近年,世銀,国連機関の提唱により,農業研究分野に対する各国の国際協力体制の強化,発展が強く要望されており,わが国としても,かかる国際協力体制を積極的に支持するため,1973年度の予算においては,従来の協力部門に加え,新たに同研究所の植物生理学都門の運営経費5,192万円を加え前年度の4倍に当る総額7,046万4,000円の拠出が認められた。