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青木大使記者会見 |
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本日午後12:30分から総理官邸で橋本総理及び同席した梶山官房長官に今回の事件の報告を行った。私から申し上げたことは解放直後に現地で行った記者会見と同一のものであるので、ここでは繰り返すことを避けるが、橋本総理と会って日本政府及び国民が人質の安全のために心を砕いていただいたことをひしひしと身にしみて感じ、本当に有り難く、また嬉しく思った。本日、総理には、御礼と同時に、事件に巻き込まれた責任について政府の処分を待つということを申し上げて、また、改めてお詫びを申し上げた。
2.質疑応答
(問)日本政府は平和的解決を求めたが、結果的には武力解決になった。この結果についての見解如何。
(答)平和的解決とは人質の生命の安全だけでなく、テロが助長されないという条件が必要となる。救出作戦により、私とともに126日を耐えられたジュスティ最高裁判事と特殊部隊の2人が亡くなられたことは残念だが、大部分の人質が救出されたこと、テロリストが全員死亡したことは、今後、この種の事件を起こしにくくするという点では大きな成果と思う。私たちの人質生活は無駄ではなかったというのが正直な感想。
(問)解放された人質の一部から、大使は「日本企業は身代金を払うべきだ」と発言したとか、大使として責務を果たさなかったという批判があるが見解如何。
(答)そのようなことを言った事実はない。私の言動に関して不満を持つのは当然のことと思う。私も人間であり、いくつもの間違いを起こすこともある。意識的あるいは無意識のうちに仲間の気持ちを傷つけたことはあったかと想像する。私が申し上げたいのは、にもかかわらず、最後まで全員、私についてきて頂いたことであり、改めて人質の仲間に心から謝意を表するとともに至らなかった点についてお詫びを申し上げたい。
(問)今回の事件の原因について、警備が不十分だったと言われているが見解如何。
(答)現時点で発言することは早すぎると思う。調査委員会が発足するのでそこで私だけでなく、様々な人質あるいはペルー政府当局者から十分に情報収集して、一定の結論を出すべきである。
(問)国家警察の内部文書によると、事件発生当日、厳重な警備をした方がよいという要請があり、警備のために武装警官を公邸内に入れた方がよいのではとの進言に対し、大使がその必要はないと発言されたようであるが事実如何。
(答)一つだけはっきり申し上げられることは、MRTAは先進国の特殊部隊並の装備をして入ってきた。それに対して拳銃1丁を持った警察官が何人いても、どのような効果があったか。押し返すことはできたか。むしろ撃ち合いによって、ごく初期の段階で犠牲者が出たことは確実と思われる。これは常識の範囲の問題である。
(問)武装グループ(MRTA)が殺されたことについて、個人的にどう思うか。
(答)126日間一緒に生活してきたのだから、彼らがあのような形で生命を終えなければならなかったことについては一定の感慨は持っている。しかし、それは彼らが自分で選んだ道ではなかったかということが私の偽らざる気持ちである。
(問)今回事件の教訓をが、今後どのように日本外交に活かしていくと考えるか。
(答)調査委員会で事実関係をしっかりと解明し、何ができたのか、何をすべきだったのかを分析してから初めて答が出る問題と思う。今回事件は、日本が平和外交を展開していく上で、大きな教訓をもたらしたことは間違いない。一過性の事件にしないよう、今後の日本外交をさらに効果的、効率的にするためにしっかりと勉強していくことが重要。私も及ばずながら、全面的に協力したい。
(問)武装グループが演習と称して人質の何人かに銃口を突きつけたという事実はあるか。
(答)そういう事実はない。ただ、彼らは時々「演習」をやり、「攻撃」と言って、2人が飛び込んできて本来私が寝ているベッドの方向に銃を向けたことはあった。
(問)大使の今後の進退如何。
(答)橋本総理からは「ご苦労であった。とにかくしばらく休みなさい」という指示があった。
(問)ペルー政府が様々な物に盗聴器を仕掛けていたことや、突然行われた武力突入について、どこまで知っていたか。
(答)恥ずかしながら全然知らなかった。それで良かったと思う。なぜかというと私は軍事的問題には素人であり、仮に何かを知って、うっかり誰かに漏らしたら何にもならない。実は警備担当官が説明したいと言ってきても私は全部断った。
(問)今後の進退について大使ご自身の意志は如何。また、調査委員会にはどういう立場で関わっていくのか。
(答)私には、辞める、辞めないを言う資格はない。これはあくまで上司の判断を待たなければならない。また調査委員会には事情聴取をされるという立場でのぞむと思う。
(問)突入があった場合、逃げる練習をしたのか。
(答)逃げる練習をすれば相手に露見するのは明らか。それはやっていない。しかし、公邸のどの格子が破りやすいのか、警備担当官、公邸を管理している担当官と調べて歩いて、いくつかここからなら出られるという可能性をそれぞれの部屋主に耳打ちしておいたことはある。
(問)降伏したMRTAメンバーを処刑したという報道があるが、事実は如何。
(答)私は戦闘の現場を一切見ていないため、お答えする資格はない。
(問)時間の経過とともに公邸内の空気はどう変わっていったか。
(答)最初の数日間は電気が通っており、CNNをはじめテレビを頼りにして情報を得ていた。その後はラジオで情報を得ていた。シプリアーニ大司教、ヴィンセント加大使、ICRCミニグ代表が公邸に入ってくるようになってから一般的な形であるが、平和的解決に向けたペルー政府の姿勢が分かるようになった。午後10時からのNHKの国際報道も入ったり、入らなかったりであるが、かなりの情報は得られていた。
(問)何故、武装グループは日本大使公邸を狙ったと思うか。
(答)彼らは「日本大使公邸であれば要人が大勢来ており、獲物は大きいだろうと思った」と言っていた。私は「あなた方は日本に対してテロを行ったのではなく、ペルー政府との間に問題があったのであれば、日本は関係ない。少なくとも日本の民間人は解放してくれ」と言ったが、彼らはどうしても承伏しなかった。これは一番残念なことであるし、最も大きな責任を感じている点である。
(問)人質だった方から大使は「官民一体」という考えであったとの話が出ているが、民間人を優先して解放させるような働き掛けはしたのか。
(答)それは当然の話である。日本人を何とかして解放したかった。最初の大量解放時、武装グループは「日本人を大勢解放した」と言っていたが、よく見ると全員が日系人だった。その後も交渉を続けたが、13人の民間人(日本企業代表12名と日系人1名)の解放には最後まで応じなかった。
(問)今回の事件の発生を許したことは危機意識の欠如と言われても仕方がないと思うが見解如何。
(答)その質問もそれは調査委員会でしっかりと聴取すべき問題である。
(問)大使は4月に入って精神状態が危機的な状態であるとの書簡を送ったという報道があったが、もし救出が遅れたら、そういった危機的状況はあり得たのか。また、大使の現在の体調はどうか。
(答)4月3日の時点で私はただ1回、最初にして最後の秘密のメッセージを寺田大使宛に送った。日本人についても、ペルー人についても忍耐力が限界に近づいている。これ以上拘禁が長引いた場合、不測の事態が発生する危険が日を追うにしたがって、加速度的に大きくなるということ、トゥデラ外相、私、その他主要な人質の間で、密かに話し合って、そのメッセージを発出した。また、私の健康状態は、解放された後にホテルに全世界から沢山の激励のメッセージを拝見しているうちに、すっかり良くなった。
(問)解決に至るまでのシプリアーニ大司教の役割の位置づけ如何。
(答)たった一度だけパレルモ教育相が公邸に入ったことがある。そのあとたった一度だけ直接交渉が行われた。そのときは「交渉」ではなく「接触」とか「対話」という表現を使ったが、ほとんど対話にならず、怒鳴り合いであった。その意味で保証人委員会のシプリアーニ大司教、ヴィンセント加大使、オブザーバーの寺田大使を介しての間接対話は私たちは大きな希望を与えた。とにかくそこでは実質的に交渉が行われているということが感じられた。
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