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横田めぐみさん
- 元夫とされるキム・チョルジュン氏からめぐみさんの「遺骨」として日本側に渡された骨の一部からは、鑑定により全く別人のDNAが検出されたが、北朝鮮側がなぜ別人の骨を渡してきたのか極めて不可解である。
- キム・チョルジュン氏が「遺骸」を移送したという経緯の説明は曖昧であり、特に同氏が自らの所属組織にも知らせることなく、単独で友人3名と「遺骸」を掘り返し、移送し、火葬したとする説明は余りに不自然である。
- 北朝鮮側から提供された「カルテ」とされる文書には、93年9月24日以降の診療記録が無く、また、「カルテ」が本人のものであることは確認できていない。
- 北朝鮮側は、横田めぐみさんが94年3月に平壌49号予防院に入院したと説明しているが、我が方は、94年3月に横田めぐみさんが平壌ではなく義州(ウィジュ)の49号予防院に入院したとの情報を有している。この点についての我が方からの指摘に対して、北朝鮮側は、当初は義州の病院に送る予定であり、移送当日、義州に行く予定で出発をしたものの、直前になって方針を変更して、平壌49号予防院に移送することとしたと説明した。この説明内容はいかにも不自然であり、我が方が有している種々の情報とも矛盾している。
- 予防院を散歩中、付き添いの医師が所用で目を離している間に、本人が予め衣類等を裂いて作っておいた紐を用いて、近くの松の木で首つり自殺したとする北朝鮮側の説明は、(a)極く短時間、目を離した間に自殺を図ったとされていること、(b)紐を予め用意しており、またそれが発覚しなかったこと、などから不自然である。
- 北朝鮮側が言う「死亡日」については、当時の担当医師の曖昧な記憶だけが根拠となっており、説得力のある説明がない。また、今回の面談で、担当であった医師は、4月13日という「死亡日」を覚えている理由として、これが金日成主席生誕記念日(4月15日)の前であったからと説明しているにも拘わらず、前回の日本政府代表団の訪朝時(2002年9月末)には、同じ医師が93年3月13日と説明した経緯があり、今回、その日付を訂正した際のやりとりは余りに不自然であった。
なお、キム・チョルジュン氏の本人確認については、科学的な手法による本人確認は出来なかった。また、我が方が今回の同人との面談を踏まえて作成した同人の似顔絵と我が方が別途入手していた同人の外見に関する情報との間には類似点もあるが、同氏の本人確認について断定し得るものではない。
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◎ |
田口八重子さん
- 我が方捜査により、田口八重子さんは大韓航空機爆破事件の実行犯であった金賢姫(キム・ヒョンヒ)の日本語教育を担当した「李恩恵」であったことが判明しているが、北朝鮮側は、依然としてこれを全面的に否定し、特に、「李恩恵」が金賢姫と共に生活したほぼ同時期(81~83年)について、田口八重子さんと横田めぐみさんが共同生活を送ったとするなど、その説明は我が方が有している情報と矛盾している。
- 北朝鮮側は、田口八重子さんと原敕晁さんが84年10月19日に結婚したとしているが、我が方は、83年秋から85年秋まで田口八重子さんは横田めぐみさんと共同生活していたとの情報を有しており、北朝鮮側説明はこれと矛盾している。
- 北朝鮮側からは、馬息(マシク)嶺における事故で「死亡」した者が田口八重子さんであることを示す客観的な情報の提示がない。
- 田口八重子さんが「死亡」したとされる交通事故についての説明として、前回調査時には「トラックと衝突」と説明されていたのが、今回の説明では、軍部隊の移動訓練中に車列の先頭を走っていた「軍の砲車」とされており、矛盾している。
- 北朝鮮側は田口八重子さんの「死亡」期日を86年7月30日としているが、我が方としてはその数ヶ月後に平壌市内の楽園商店で田口八重子さんと会ったとする目撃者から話を聞いたとの情報に接している。
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原敕晁さん
- 拉致実行犯である辛光洙(シン・グァンス)について、韓国における公判判決では、犯罪事実として「80年6月中旬に南浦港に到着」、「日本人原敕晁を引渡」と記載されている。北朝鮮側による「原敕晁さんは海州から入境した」、「拉致されたのではなく辛光洙との利益の一致により自ら来た」という説明は、この点で矛盾している。
- 北朝鮮側が原敕晁さんは田口八重子さんと結婚したとしている点については、田口八重子さんに関する上記指摘のとおり矛盾している。また、北朝鮮側は原敕晁さんが、「84年11月頃、肝硬変と診断された」と説明しているが、田口八重子さんがそのような重病を患った原敕晁さんと同年10月19日に「結婚」することも不自然であり、この点について説得力のある説明がない。
- 病気治療のための入院に際しての診療記録の提示が無く、また、「病死」したことを示す客観的な情報の提示がない。
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市川修一さん
- 日本では泳げなかった市川修一さんが、「緊急出張」の用務中に、複数回にわたって海水浴に行き、しかも9月初頭という季節に海水浴をしたという北朝鮮側の説明は不自然である。
- 北朝鮮側は、市川修一さんが増元るみ子さんと1979年7月20日に結婚したとしているが、我が方は、増元るみ子さんが78年秋から79年10月下旬まで他の日本人女性と同じ招待所で生活し、その間は結婚していなかったとの情報を有しており、北朝鮮側の説明はこれと明らかに矛盾する。
- 北朝鮮側は、79年9月4日に「心臓麻痺」となった市川修一さんは江原道人民病院に収容されたとしており、また、蘇生措置にあたったと「証言」した同病院の医師は、「車輌の後部座席で人工呼吸を行った」と述べたが、なぜ、病院施設内で蘇生措置をとらなかったのか、説得力のある説明がなされていない。
- 江原道人民病院の医師は、「病理解剖科が死因を判断し、調書を作成した。その記録は病院に保管されている。」と「証言」したが、我が方の求めにもかかわらず、北朝鮮側からこの記録の提示はなく、「死亡」を客観的に確認することが出来ない。
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◎ |
増元るみ子さん
- 市川修一さんとの「結婚」については、市川修一さんに関する上記指摘のとおり。
- 心臓麻痺による「急死」の客観的な裏付けがない。増元るみ子さんについては、当時、若く、既往症もなく、695病院の医師自らが「死亡」事故の前の半年間に「接待員と一緒にいるところを1、2回見たことがある。印象としては健康状態も良かった。」と「証言」しており、かつ、招待所関係者は、「死亡」したとされる日の前日夜にも普段どおり食事をしたと「証言」していた。このような増元るみ子さんが、何の前触れもなく心臓麻痺に陥ったというのはいかにも不自然である。
- 「死亡」後、3~4時間してから検視したとされる「695病院」の医師は、「検視」の際、「死斑が出ていたが、アザ様のもので、押さえても戻らない」、「背中について死斑は確認していない」と述べたが、一般には死亡して3~4時間後に指圧を加えると死斑の色は褪せること、また全身を検視しないことは想定出来ないことから、これらの供述の信憑性には疑問がある。
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◎ |
石岡亨さん
- 我が方捜査により、「よど号」犯の拉致への関与は明らかであるにもかかわらず、北朝鮮側は依然としてこれを全面的に否定している。
- 北朝鮮側は、石岡亨さんは「平壌商店でショッピング中、偶然出会ったポーランド人に自分を紹介し、故郷に安否を伝える書簡を託した」と説明したが、当該ポーランド人自身は、北朝鮮人の仲介者経由でこの書簡を受け取ったと述べているとの情報もあり、北朝鮮側説明はこれと矛盾している。
- 上記書簡(88年8月13日付ポーランド消印)を託した約2ヶ月半後に、2歳程度の幼い子供を連れて「静かなところへ行きたい」と述べ、しかも既に寒くなっている11月上旬という時期に、平壌からも離れていて極めて不便な煕川の招待所に移動することを本人が希望したとの説明は不自然である。上記書簡の事案が発覚した後、担当指導員は処罰されたと北朝鮮側は説明しており、その直後に煕川の招待所への移動が行われていることも極めて不可解である。
- 不慮の事故による「ガス中毒死」の客観的な裏付けがない。
- 有本恵子さんの旅券が返却されたにも拘わらず、石岡亨さんの旅券については見あたらないとしているのも不自然である。
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◎ |
有本恵子さん
- 我が方捜査により、「よど号」犯の拉致への関与は明らかであるにもかかわらず、北朝鮮側は依然としてこれを全面的に否定している。
- 石岡亨さんについての指摘と同様、2歳程度の幼い子供を連れて「静かなところへ行きたい」と述べ、しかも既に寒くなっている11月上旬という時期に、極めて不便な煕川の招待所に移動することを希望したとの説明はいかにも不自然である。
- 不慮の事故による「ガス中毒死」の客観的な裏付けがない。
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松木薫さん
- 我が方捜査により、「よど号」犯の拉致への関与は明らかであるにもかかわらず、北朝鮮側は依然としてこれを全面的に否定している。
- 松木薫さんの「遺骨」である可能性があるとされた骨の一部については、我が方としては当初よりこれが御本人の「遺骨」である可能性は低いと考えていたが、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された。また、身体的特徴の観点からの鑑定においても、鑑定に供した骨片は松木薫さんの身体的特徴とは合致しないとの結果を得ている。
- 石岡亨さんの担当指導員(88年11月当時)は、「松木薫さんの名前は聞いていたが会ったことはない」と「証言」していたが、石岡亨さんの88年8月13日付ポーランド消印書簡には「有本恵子さん、松木薫さんと三人で平壌に暮らしている」と書かれているにもかかわらず、松木薫さんが石岡亨さん及び有本恵子さんと共にいたとの説明が北朝鮮側から全く無いのは不可解である。
- 革命史蹟へ夜半に到着すべく、夜8時に咸鏡南道を出発して危険な山道に向かったというのは極めて不自然である。
- トジル嶺における事故で「死亡」した者が松木薫さんであることを示す客観的な情報の提示がない。
- 旅券が見あたらないとしているのは不自然である。
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久米裕さん
- 北朝鮮側は、北朝鮮への入境を否定しているが、我が方捜査により、久米裕さんは、補助工作員である在日朝鮮人が、北朝鮮からの指示を受けて海岸まで連れ出し、北朝鮮工作員に引き渡したことが判明している他、本件拉致の主犯格として、北朝鮮工作員・金世鎬(キム・セホ)の関与が明らかになっているところであり、北朝鮮側の説明は受け入れられない。
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曽我ミヨシさん
- 北朝鮮側は、「特殊機関の資料を調査し、当該機関関係者から聴取した結果」として、北朝鮮への入境を否定しているが、拉致当時の状況等から、曽我ひとみさんとともに北朝鮮に拉致されたことは明らかである。
- 北朝鮮側は、前回調査時、曽我ひとみさんの拉致につき、「現地請負業者」が存在していたとしつつも、今回、拉致実行犯は「現地請負業者とは金銭の授受を行うだけで、同人の詳細については承知していない」と述べた旨説明しているが、拉致実行に際しての両者の緊密な協力関係を考えると、説得力のある説明ではない。
- 我が方が有している情報によれば、曽我ひとみさんが本邦より拉致された当初より、女性指導員が同行し、この女性指導員は曽我ミヨシさんについても言及していることが判明しているが、北朝鮮側はそうした女性指導員の同行を否定している。
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