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茂木副大臣
バグダッド再訪記


 3月5日以来2ヶ月振りにイラクの首都バグダッドを訪問する。日本政府の高官としては、戦後初のバグダッド入り。前回は空路だったが、今回はまだ空港が使えないため陸路での旅となる。

5月11日(日)

AM6:00 アンマン発

 早朝の出発は朝寝坊の僕には決して得意なことではないが、まだイラク国内は追い剥ぎが出没する危険もあり、日が高いうちにバグダッドに入らなければならない。ヨルダンのアンマンからイラク国境まで400km、国境からバグダッドまで550km。10時間の長旅が始まる。
 鉄の固まりのような防弾車で、6台の車列を組み、一気にヨルダン国境まで走る。途中、草がほとんどない平原で何度か羊飼いの群れに出会う。因に、中東の羊は臭みがなくとても旨い。

AM10:30 イラク入国

 ヨルダンからの出国には少し時間がかかったが、4月末にイラク出張をした相星中東第二課長より1時間半かかると言われていたイラクへの入国手続きは10分で完了。米軍がイラク政府に代わって入国審査のようなものをやっている。後で、パスポートを確かめると、入国のスタンプは押してなかった。
 イラク側の道路はヨルダンより広くて快適だ。中央分離帯付きの片側3車線。さすが、日本企業が造った道路だけある。時速150kmのスピードで一路バグダッドへ。

AM12:00 昼食(イラク時間、ヨルダン時間より1時間早い)

 イラク時間できっかり12時に車中にて昼食。河野臨時代理大使の奥様が作ってくれたおにぎり。旨い。こんな時、やはり日本人だと感じる。湾岸戦争直後、中東の砂漠のまん中で夜空の星を見ながら食べたカップラーメンも本当に旨かった。

PM0:40 検問

 米軍の戦車が道路に出て、通行のチェックを行っている。追い剥ぎが出るようになってから多少始めたらしい。唯一の女性スタッフ大石事務官(アラビスト:外務省でアラビア語の専門家のこと)がここでも仕切る。大石の押しの強さで検問も簡単にクリア。

PM1:00 片道封鎖

 急に先導車が反対車線に移動する。見ると右側3車線が全部土嚢で封鎖されている。反対車線を100m程行くと道路が大きく陥没している。おそらく爆弾の投下の跡だろう。戦争の爪痕を初めて見る。途中、もう一ケ所立体交差の上の道路が半分落ちて我々の道路を塞いでいた。バグダッドまでの道のりで大きな倒壊はこの二ケ所だけ。どうやら幹線道路の補修は必要無さそうだ。

PM2:30 路上にて給油

 給油もトイレも障害物のない広々としたところで行う。略奪を避けるためにはこれも致し方ない。石油缶から燃費の悪い防弾車に給油を行う。あと、バグダッドまで300km。
 外の気温は40度近くまで上がっている。一面砂漠が延々と続く。前方左手に水面が見える・・・蜃気楼である。かつて、駱駝の隊商が同じ光景にどれだけ幻惑されたことだろうか。

PM4:00 ユーフラテス河渡河

 悠久の歴史をきざむユーフラテス河は草色に青々と流れている。ここからはかつての肥沃な三日月地帯。薄茶色の砂漠から、ナツメヤシの緑に風景の主役が代わる。

バグダット市中心部(パレスチナホテル前)4月9日になぎ倒されたフセイン像の残骸
バグダット市中心部(パレスチナホテル前)
4月9日になぎ倒されたフセイン像の残骸
PM4:30 バグダッド市内へ

 市内に入るとガードレールや中央分離帯の至る所に倒壊・分断が見られる。街中では空爆を受けた建物とそのまま残っている建物がくっきりと分かれている。これも精密誘導兵器の効果だろうか。残念なことに人間についてはなかなかそうはいかない。
 露天で酒、タバコ、ガソリン等を売っている。ガソリン・スタンドは給油の車列が延々と続き、真夏のような太陽が炎々と照りつける。ただ、人々の表情は敗戦にうちひしがれているというより、フセイン政権の抑圧から自由になった解放感を感じる。

PM5:00 日本大使館着

 出発からちょうど10時間。先乗りしている岩井、三原両館員、ORHA(復興人道支援局)に行っている奥、井ノ上、根井さんらが出迎えてくれた。大使館の庭に国旗の掲揚をしてくれと言う。そう言えば自分で国旗の掲揚をしたのは小学校以来かも知れない。大使館はパソコンやビデオデッキ等一部盗難に遭っているが、建物自体は十分使える。一日も早くこの大使館がフル稼働できる体制にしないと。これは同行した泉在外公館課長の宿題だな。

5月12日(月)

AM8:30小学校視察

 デ・ロイUNICEFイラク常駐代表の案内で、サウラ地区(旧サッダーム・シティ:市内北東部に位置するシーア派が居住する貧困地区)にあるスーダド小学校及びウルーバ小学校を視察。途中、街中にはゴミが散乱し、治安の悪さを感じる。子供達(特に女子)が登校しない最大の理由も治安にあるという。

スーダド小学校

 小学校の校門前は下水が逆流し泥水でぬかるみになっている。教室には机、椅子は足りているが、黒板がないところもあり、停電で室内も薄暗い。校庭裏側に位置する便所は扉がなく、便器も壊れているもの、詰まっているものがあり、機能していない。
 校長先生の話によれば、小学校1年から6年までの児童855人を収容する小学校で、昨日までの出席率は40%程度。本日は日本からの副大臣の訪問を聞いて、約80~90%が出席しているとのこと。デ・ロイ所長が、僕がずっとバグダッドに残れば国連の「Back to Schoolプログラム」も上手くいくとジョークを挟む。教師は30名となっているが、9人しか出勤していない。欠勤の原因は交通手段と給与の未払いにある。教師が出勤するためにはタクシーを利用することになるが、給与が未払いであり困難を来している。話をした女性教師は自己負担となるも使命感により出勤しているというが、生活は苦しい。

ウルーバ小学校

 昨年UNICEFが修復を行い、一見してスーダド校との差が歴然。UNICEFが実施した改修では、各教室の扉を鉄製の扉に取り替え、窓にはガラス破損防止のため金属製の格子を設置。校庭は均等になるようにコンクリートで塗り込み、便所は下水が確実に校外に排出されるように一段高いところに再建されている。トイレの前に手洗い場を兼ねた蛇口も設置されている。但し、水及び電気が復旧していないため、便所の水は出ない。また、教室内も暗い。
 ここでも教師の確保が大きな課題。オイル・フォー・フード(OFF)計画では、施設や機材面での改修はできても、教師の給与等の現金支給に対応することができず本格的な教育環境の改善に対応するには十分ではない。

AM10:00 カージミーヤ教育病院視察

 病院は1982年に日本企業により建設され、円借款によって機材を整備した400床を有する6階建て施設と、その後1990年にイラク資金で増設した300床4階建て施設とで構成されているかなり大きな規模の施設である。病院の中庭は石庭を模した日本庭園となっており、日本の資金が投入されたことを示しているが、静かなはずの石庭も現在は鶏が飼育される場所となっている。
 建設から20年が経過しているため、リノリウムの床は剥離しているところが散見され、一部はパッチ・ワークのように応急処置が施されている。レントゲン等の医療機材、エレベーター、発電機、給食調理機具といった機材はほぼ全てが日本製。設置以来修理が施されない機材で、例えば、現在でも稼動するレントゲン等の機材は全体の20%。
 この病院は教育病院であり、5年制の大学医学部における教育を終了した学生も実習生として研修する。全ての専門科があり、全種類の外科手術が行われているという。医師136名、学生約500名、医療技師、看護士他従業員約1000人が勤務している。医者の数自体は足りている。但し、現在は交通手段の問題から勤務している数は定数を大きく割れている。
 こんな古い機材を使っていても、略奪からは免れたため、バグダッドでは状況が良い病院だ。そのため、毎日350人以上の外来患者を受け入れており、非常に多忙である。戦中のみならず、現在でも爆弾の被害にあった患者が収容されており、現在までに約40名の死者、200人以上の負傷者に対応したという。病室にも案内され戦争で片足を失った子供とクラスター爆弾の被害で右足を手術中の女性を目のあたりにした。言葉もない。心が痛む。言葉が出ない。

左から ドゥエ世界食糧機構(WFB)常駐代表、ダ・しるば国連イラク人道調査官、茂木副大臣、高橋イラク復興支援等調整推進担当大使
左から
ドゥエ世界食糧機構(WFB)常駐代表、ダ・シルバ国連イラク人道調査官、茂木副大臣、高橋イラク復興支援等調整推進担当大使
AM11:30 ダ・シルバ国連イラク人道調整官と会談

 ダ・シルバ調整官はポルトガル人らしく、明るくて良く喋る。先方よりは、ドュボアUNDP常駐代表、デ・ロイUNICEF常駐代表、ポパルWHO常駐代表、ドゥエWFP常駐代表も同席。イラク復興に向けて日本への強い期待を感じた。国連の要員は約3週間前から出張ベースでイラクに戻りはじめ、UNOHCI、UNDP、UNICEF、WFP代表は、10日前に常駐の形でバグダッドに戻った。今週半ばには更なる要員が到着する予定である。
 国連が把握する支援ニーズとして、何よりも必要なのは、治安とガソリン等燃料問題の解決とのこと。人道支援の分野では、電力、衛生、保健、食料配給制度、教育等であり、当面はこれらの分野に集中して取り組んでいきたいとも述べていた。
 私よりは、我が国は過去に日本政府がODAにより支援した病院や発電所の復旧に関心を有しており、これらについてUNDPやWHOと協力していきたい。UNDPが準備を進めているIREP(イラク復興・雇用計画)についてもできれば取り組みたい、また、UNICEFのBack to Schoolプロジェクトへの協力や水分野での案件への協力についても良い案件があれば検討したいと応じた。イラク支援に向けて日本が貢献できる機会は至る所にあると感じた。帰国したら、同行の高橋イラク復興支援等調整担当大使、河野国別開発協力課長、それにイラク復旧・復興支援タスク・フォースのメンバーも加えて、早速具体策を検討しよう。

PM2:30 国内電力システムに関するブリーフ(イラク側電力担当者)

 イラクの発電所の総設備容量は計画容量として約9600MW、バグダッド、キルクーク、バスラの3つの制御センターがあり、それぞれの地域で電力供給の管理をしている。400kVの送電網に一部切断箇所があることから緊急に復旧が必要である。また、発電所自体には緊急の問題はないが、配電所等で需給バランスを制御するための通信網が機能していない。現在のシステムは20年前のものであり、湾岸戦争以降の技術的遅れが目立つ。直近の課題は、センター間、発電所、変電所等との間の通信網が壊れていることであり、通信網とコンピュータ・システムの問題は、電力のみならず、灌漑、石油、その他全ての分野で大きな問題である。

PM3:30 バグダッド南発電所・中央配電所視察

 ここはORHAの案内と言うことで、米軍の装甲車が先導する。ありがたいのだろうが、ちょっと目立ち過ぎる。2台の装甲車に先導され発電所、配電所と回るはずが、先に配電所の方に着いてしまった。仕方ない、発電所の方には大村秘書官から連絡を入れてもらうことにして、配電所から見よう。

バグダッド中央配電所視察

 1979年に設置された配電制御システムやデータ処理システムが経済制裁のため維持補修できず、かつ戦後は略奪に遭い(と説明者は強調していた)動いていない。現在は、イラク人自身が経済制裁中に開発した数台のパソコンを使った監視システムと手動の電話連絡により右機能を代替している状況。但し、通信システムにも問題があるため、発電所、変電所の稼働状況など監視の正確さも保証されない。配電制御のためのコンピュータや自動発電制御装置(Automatic Generation Control)の整備が喫緊の課題であると見られる。
 この配電所の職員も、20ドルの緊急支援を受け取っただけで、給料はもらっていない。思うように動かない機械と苦情の山、それに給与の未払いで相当フラストレーションもたまっているようだ。でも、日本からの「来客」には気持ち良くに対応してくれた。

バグダッド南発電所視察(バシール・ハラフ所長の説明)
 7つの発電機のうち、ガス発電機1基は作動しておらず、残る6基のうち、1~4号基は1983年、5~6号基は65年にGE社から調達、後者は制御も何と手動式。現時点では、治安の回復が最も重要であるとのことだが、5基を稼動できる状況(現在は3基のみ稼動)にすることが発電所としての当面の課題。主要な工場が稼働していないので、需要は落ちているが、昨年の電力ピーク需要は、6000MWであり、現在稼働できる国内発電能力は4500MW。将来的には発電機のアップグレードも必要である。発電所のカフラ所長の説明を聞く限り、改善策は発電所の自助努力といった側面が強く、所管の電力委員会(中央省庁の一機関)からの明確な指示や緊密な連携の元で対応策が取られているという印象は薄い。
 病院、電力、通信… 日本から専門家による調査団や官民合同の調査団をできるだけ早く出す必要がある。国際協力事業団(JICA)の加藤中近東・欧州課長、経済産業省の守本中東アフリカ室長にもこの点宜しくと言っておいた。
 一日目の視察を終え強く感じたのは、イラクの復興が決して「戦後復興」だけではないということ。確かに戦争による破壊や戦後の略奪もあるが(これは多く報道されている通り)、むしろより大きく深刻な問題は1980年のイラン・イラク戦争以来の「失われた20年」。病院にしても、電力、通信や下水も全てが古いシステム、更新されていない機材のまま。フセイン政権の圧制が取り払われることによって、これらの問題が表面化したのが日本では報道されていない現実の姿である。

PM6:00 邦人NGO関係者と懇談

 JEN、JPF、PWJ、JVCの4つのNGOから7名が参加してくれた。いつもながら海外で活動している日本の若者に会うと、使命感、やりがいを感じながら働いていて、日本の若者も捨てたもんじゃないと感じる。昨年夏、アフガニスタンのカブールで会った山本氏も来ていた。また、こんなところに来ているのかと思ったが、相手も僕に対してそう思っているのかも知れない。
 「南部で日本企業が関与した病院を視察した。全く同じ造りの病院が全国13ケ所にあるらしいので、それへの支援に日本が絡んでも良いのでは」との発言があったので、「私も今日そのうちの一つの病院を視察した。政府としても日本の過去のプロジェクトの復旧は前向きに検討している」と答えた。

PM7:15 夕食

 今宵はチグリス河名物、鯉のフライを食する。味は僕の味覚(?)では鯉と鱒の間くらい。量が多すぎるが、なかなかいける。レストランにたまたまおいてあったSoy Sauce(勿論、いつも日本で使っている特選丸大豆醤油ではないが)をかけると更に旨い。大使館の職員、ORHAに行っているスタッフが明るく苦労話を話している。自分はこういう仲間を誇りに思う。店を出ると満月だった。

5月13日(火)

AM9:30 ORHA視察

 ORHAの本部が置かれている旧大統領宮殿に初めて入った。前回の訪問時は外から(しかも車中から)覗くだけだった。宮殿内は思った以上に広いし、緑が多い。薔薇園もある。敷地内なのに信号まである。大小様々の建造物が木立の中に立っている。かつて咸陽の秦の宮殿には殿舎が270棟あったという。阿房宮、ベルサイユ宮殿…豪華過ぎる宮殿の主は同じ運命をたどる。

AM10:00 ORHAクロス次長との会談

 クロス次長は「ブレマー大使の着任によりORHAは緊急救済活動から復興の新しい段階に入った。現下の課題は、治安の維持、公務員への給与支払い、国際社会との協力の3点。」と語っていた。英国人だからというわけではないが、話はとても噛み合った。私から、過去の日本のプロジェクトの復旧や国連機関を通じたプロジェクトの検討を紹介し、先方からも前向きな評価を得た。

AM10:30 国際会議場視察

 既にイラク人の会合やガーナーORHA局長による記者会見に使用した巨大な会議施設で、ORHAが本部として使用している大統領宮殿の敷地の端に位置する。4階建てで、大小様々な会議室や打ち合わせスペース、劇場、簡易放送局等がある。戦中の爆風のため外壁に使用している多くのガラスが破損しているが、内部の会議用デスク等備品は整っている。ここは、近い将来、イラク・フォーラムの会場となり、1階に国連やNGOが、2階は会議室機能、3階にイラクの省庁の連絡事務所を位置させる予定。インターネット・カフェも用意し、情報の共有と交換の場として、来週中にもとりあえず開館することを検討しているという。

ブレマー大使と
ブレマー大使と
AM11:30 ブレマー大使との会談

 さすが外交官出身というか、物腰の柔らかな紳士(因に私がバグダッドで会ったネクタイをしている唯一の外国人)だが、内にはとても強いものを感じた。この会談はブレマー大使が着任以来初めて行った主要国政府関係要人との会談となったが、着任の抱負について、ブレマー大使は、「正統政府樹立の選挙をあわてて行うべきではない。その前に民間経済活動の促進、法と秩序の回復、憲法制定、自由な報道活動等、経済的にも政治的にも多くのことを行うことが必要である。イラク暫定行政機構自体は何週間か後には設立されるだろうが、これらの課題には時間をかけてじっくり対応する必要がある」と語っていた。
 ブレマー大使は、更に、「既に人道支援の必要は減っており、「ORHA」の「HA(人道支援)」は不要かも知れない。自分は「Reconstruction(再建)」というよりは「Recovery(回復)」だと認識している。最終的にイラク人の手に全ての権限をゆだねるまでには相当時間がかかるかもしれないが、自分は最後までやり通すつもりである」と明言していた。私にとってもイラクの復興がより重要で、かつ困難、しかし粘り強くやり通さなければならない新たなフェーズに入ったと感じた瞬間である。

PM2:00 リンバート大使との昼食

 ハンバーガーの昼食を取りながらORHA文化省担当のリンバート大使より、イラクにおける博物館、遺跡の略奪に関する説明を受けた(大使を警護している米兵は毎日軍支給のレトルトの非常食で、このハンバーガーは本当に最高だと言っていた。僕のおごりだと応じた。)
 博物館のイラク人学芸員はその一生を考古学に捧げてきており、略奪事件後1~2週間はひどい心理的打撃を被って、「We are safe, but we lost our heart(我々の命は助かったが、心を失ってしまった)」と言って、何も手につかない状況にいたらしい。大使はこの悲しみを行動に移すように仕向けたいと考えていると語っていた。
その博物館へ向かう。移動中、外の気温は49度まで上がっている。

PM3:00 イラク国立博物館視察

 館内には、至る所に展示ケースを破壊したガラス片や遺物を破壊した際に生じた破片等が散乱している。展示ケース内の比較的小さくて運搬しやすいものについては、戦乱がひどくなる前に倉庫に移転させていた。そのため、被害に遭ったのは、比較的大きな遺物であり、紀元前3000年代のメソポタミア文明、シュメール都市国家のものからバビロニア王国時代の立像、土器、更にヘレニズム文化の影響がうかがえる紀元前1~2世紀の女神像、紀元後8~9世紀のアッバース朝に至るまで様々な展示物が被害に遭っている。中には300kgもの重さの青銅製の遺物も略奪されている。重すぎたのか、台座から剥がす途中で放棄した跡が残っているものや、立像等は破壊して頭部部分のみを略奪しているものもあった。
 今日は預言者モハメッドの生誕の日で休日だというのに、私達のために出勤して案内してくれた館長やイラク人考古学者は、各展示室毎にまるでわが子を失ったように肩を落としている。古代史や遺跡が好きな自分も何と言葉をかけて良いか判らない。彼等の心の痛みをどれだけ和らげられるかわからないが、まずは、我が国としてUNESCOを通じた支援を進めていくことにしている。

ウルーバ小学校にて
	1年生の児童たちにUNICEFの学用品を配布
ウルーバ小学校にて
1年生の児童たちにUNICEFの学用品を配布
5月14日(水)

AM8:00 小学校再訪

 UNICEFの現地事務所に日本の支援で購入したスクール・キット(ノート、鉛筆、クレヨン、定規等学習用品の詰め合わせ)が届いたというので、バグダッドを発つ前にデ・ロイ所長らと一昨日の小学校2校を訪れ、子供達にプレゼントしてくることになった。
 学校で一人一人の子供にノートを手配りすると、子供達が「シュクラン・ジャジーラン(本当にありがとう)」と言ってくれた。しっかり頑張ってほしい。本当にイラクを復興するのは日本でもORHAでも国連でもなく、次世代を担う君たちなのだから。

 小学校をあとに一路アンマンへと向かう。同じ砂漠の光景が何時間も続く。スコールが降ったあとがある。このわずかな雨が砂漠の自然を眠りから揺り起こし、明日には砂漠一面に驚く程の生命力で小さな草花が咲き乱れるかも知れない。あくまで主役は砂漠の自然と生命力。日本の支援も新しいイラクへの雨になれば・・・


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