1.生年月日 |
1938年12月8日生 |
2.出身地 |
アシャンティ州ダマン(Damang) |
3.使用言語 |
英語、チュイ語(チュイ語はガーナで最も使用されている現地語) |
4.宗 教 |
キリスト教(カトリック) |
5.学 歴 |
1961年 |
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リンカンズイン卒業(法廷弁護士資格取得) |
1964年 |
オックスフォード大学卒業(修士号、経済・政治・哲学専攻) |
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6.職 歴 |
1965 - 67年 |
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アシャンテ州クマシ市にて弁護士開業 |
1967 - 69年 |
クマシ市法律問題主任担当官 |
1969年 9月 |
アシャンテ州選出国会議員当選(進歩党、PP)
外務副大臣(第2共和制:ブシア政権) |
1972年 1月 |
軍事クーデターにてブジア政権失脚(議員辞任) |
1973 - 78年 |
実業家活動(煉瓦・タイル工場経営に従事、現在もタイル工場は稼働中) |
1979年 9月
-81年12月 |
国会議員当選(2度目)(人民戦線党、PFP) |
1982年 |
地方自治大臣(ローリングス議長率いる暫定国家防衛評議会:PNDC政権)〈6ヶ月後に辞任〉 |
1992年 |
新愛国党(NPP)創設に参加
大統領選挙立候補(党予備選挙で敗退) |
1996年 |
大統領選挙に野党新愛国党(NPP)より立候補、与党国家民主会議
(NDC)のローリングス大統領に敗れる。 |
2000年12月 |
大統領当選 |
2001年 1月 |
大統領就任 |
2004年12月 |
大統領再選、翌年1月再就任。 |
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7.家 族 |
テレサ夫人との間に5人の子供(3男2女)。 |
8.趣 味 |
サッカー、読書、運動(エアロビクス)、クロスワード・パズル。特に、サッカーについては、過去2度アフリカ・チャンピオンとなったガーナの強豪チーム「クマシ・アサンテ・コトコ」の会長であった。熱心なスポーツファンで、ホッケーやバレーボールをたしなんだことがあり、現在も卓球をする。
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9.訪日歴 |
大統領就任以前(97年、99年)に、プライベートで過去2度訪日。大統領就任後、公式実務訪問(02年10月)及びTICAD III出席(03年9月)
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10.横 顔 |
(1)生い立ち |
クフォー大統領は、ガーナ国内有力部族であるアシャンテ族首長に連なる家系の、10人兄弟姉妹の第七子として1938年12月8日に生まれる。
クフォー大統領は幼少時代から聡明で、常にリーダー的存在であったといわれている。
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(2)英国留学・弁護士資格取得、オックスフォード大学へ |
1959年から1960年までの2年間、ロンドンのリンカンズイン(Lincoln's Inn)に留学し、法律の勉強を行い、61年に卒業する際に法廷弁護士資格を取得した。
その後直ちにオックスフォード大学に進学し、経済、政治及び哲学を学んだ。オックスフォード大学卒業後の65年にガーナに戻り、クマシ市で弁護士活動をすると共に、同市のシティー・マネージャー(同市との契約により市行政事務の総括的な業務に従事)に就いた。
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(3)政治活動 |
(イ) |
1969年に国会議員に初当選し、31歳の若さでブジア政権下で外務副大臣に任命された。その間、ガーナ代表団長として1970年国連総会に出席したのを始め、活発化するガーナ外交の一翼を担った。しかし1972年、軍事クーデターで同政権崩壊後、18ヶ月間投獄された。 |
(ロ) |
1979年にはリマン政権下で国会議員に再度当選。しかし、81年12月のローリングス空軍大尉によるクーデターが起き、この時に短期間であったが2度目の投獄生活を送った。 |
(ハ) |
82年には、ローリングス議長率いる暫定国家防衛評議会(PNDC)政権の野党取り込みで自治大臣として入閣したが、政治的意見の対立から6ヶ月で辞任した。1996年には、大統領選挙に野党新愛国党(NPP)より立候補し、約40%の得票率を得たが、与党国家民主会議(NDC)のローリングス大統領に次点で敗れた。 |
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(4)大統領就任 |
(イ) |
クフォー大統領は2000年12月の大統領選挙によって選出され、翌2001年1月に就任するとともに、与野党の交代による新しい政権が発足した。選挙は自由・公正に行われ、クフォー政権の誕生はガーナの独立以来(1957年)、43年間の歴史上、初めて選挙による与野党間の政権交代が実現したものとして、ガーナの民主化の成熟度を国内外に印象付けることとなり、国際的にも高い評価を受けた。 |
(ロ) |
クフォー政権は「積極的変革」をそのスローガンとし、政治面での汚職・不正の根絶、また、民主主義と法を尊重したいわゆるグット・ガバナンスの確立を主たる政策目標として、積極的に政治・経済改革に取り組んでいる。 |
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