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過去の記録

橋本総理の中南米訪問

フジモリ大統領の横顔

(家族)

・熊本県河内出身の父親直一(死別、1920年にペルーに集団移住)と母親ムツエ(健在、77歳、結婚後1935年にペルーへ)を両親に持つ日系二世。
・5人兄弟の長男で姉、妹、弟2人がいる。  長女ファナ、次男ペドロ(ニューヨーク在住)、次女ロサ(アリトミ駐日ペルー大使夫人)、三男サンチャゴ(フジモリ大統領補佐官)
・スサナ・ヒグチ夫人(1974年結婚)との間に2男2女あり。  長女ケイコ(15歳)、長男ヒロ(14歳)、次女サチ(12歳)、次男ケンジ(10歳)

(趣味等)

・釣りが好きで子供たちとよく出かける。

・料理を作るのが好きで、魚もおろすし、すき焼き等日本料理も得意。  但し、納豆と塩からは嫌いとある記者会見で述べたことがある。
・タバコは吸わず、酒もあまり飲まない。

(少年時代)

・2歳半の時ジフテリアにかかり、医者には手遅れと言われたが、心臓と肺、それに運が強かったため助かった。
・小学校では図書館で読書に熱中し、優等生として名を残す。中学時代は、特に数学が得意で、真面目でおとなしく勉強一筋なため、ガリ勉(Chancon)とあだ名されることもあった。読書を好み、新聞を熱読しながら、家業の花屋の店先で妹ロサ(現在京大使夫人)とよく店番をしていた。

(学生時代)

・大学にはトップ入学。内向的で勉強好きと見られていた。
・妹ロサを通じて、日系学生の活動を良く知っていたので、ヘネラシオン(西語で「世代」の意)64や二世学生協会主催のイベントにはよく顔を出した。

(教授時代)

・農科大学の研究者交換や公演のため、米、中南米、キューバ、イスラエル、エジプト等を訪問。
・1987年から88年にかけて一年半程国営テレビ7チャンネルの討論番組「オンセルタンド」(西語で「協調する」の意)に司会者として出演した。視聴率は余り高くなかったが、政治、経済等様々なテーマを扱い、内容の高さでは評判となったこの番組は、フジモリが毎週テーマを決めて各専門家を集めて討論させるもので、フジモリは議論の取り纏めに優れた能力を見せた。そして、この機会に様々な専門家に人脈を広げることが出来た。また、テレビの効果を良く理解することにもなり、大統領選挙時のテレビ討論の時に役に立ったと言われる。
・1988年、当時のビジャヌエバ首相から農業大臣のポストを勧められたが、拒否した。大統領当選後のインタビューで、「当時は司会者の方を選んだが、だからこそ今私は大統領であるわけでだ。」と述べている。

(政治家への道程)

・1989年6月政治家になることを公言する。農科大学の教員、職員、学生を中心に支援を呼び掛け、カンビオ90(「変革90」)が若者を中心メンバーにして誕生。
・カンビオ90を政治団体として中央選挙管理委員会に登録するのに必要な10万人の署名を集めることに苦労する。12月正式に承認された後、フジモリは上院議員及び大統領候補として登録する(法律で二重候補可)。知名度の低い候補としては名前を売るために両方へ立候補したと言われる。
・フジモービルと呼ばれたトラクターに乗り、「正直、勤勉、テクノロジー」というインカと日本の価値をミックスした選挙スローガンを掲げ、わかりやすい演説と既存の勢力(司法、国会、カトリック教会等)への批判により、地方のインディオ、農民、都市の底辺層の圧倒的支持を得て大統領に当選する。

(フジモリ政権)

・選挙時に公約していた段階的経済調整政策を修正、「フジショック」と言われた現実的なショック政策を採用し、既存の政治家ならば人気低下を恐れてやらないことを実行した。
・国際金融社会への復帰を成し遂げ、経済再建への重要な一歩を踏み出した。
・ゲリラ対策では、テロリストの巣窟と言われる国立サン・マルコス大学とカントゥータ大学を1991年5月に訪問し、投石と爆弾の破裂するなかで軍隊に守られながら演説し、大学正常化を実行する決意を示すという大胆で危険なことも行った。これにより、テロに対して断固として戦っていくことを身をもって明らかにした。

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