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ようこそ リヨンへ!

見晴らし台から見たリヨン現代美術館
(Musee de l'art contemporain)

<目次>

I. リヨン概観
 ●2つの川が合流する町
 ●ヨーロッパの十字路、リヨン
 ●リヨンの歴史
  18世紀、改革者の時代

II. リヨン・今日の顔
●1. 国際都市リヨン
●2. リヨン市の行政
●3. リヨンの産業と日本企業
   リヨンと日本との関係
   リヨンの日本語教育
   リヨンを中心としたローヌ・
      アルプ地方について

(本件資料はリヨン観光局の協力を得て編集された「リヨン―リヨン案内I―1996年6月 先進国首脳会議開催に際して」からの抜粋です。)

I. リヨン概観


2つの川が合流する町

 2つの川が洗う町リヨンは、豊かな水の恵みを受け、ローマ時代から栄えた2000年以上の歴史を誇るフランス第2の都市である。人口は近郊を含め126万人。
 ソーヌ西側には古代ガリア・ローマ時代の遺跡のあるフルビエールの丘や、中世からルネッサンス時代の面影が残る旧市街(ヴューリヨン Vieux Lyon)がある。ローヌ川とソーヌ川にはさまれた半島地区(プレスキル Presqu'ile)はローマ帝国以来、物資集散所となり、やがて町の中心となった。ローヌ川の東側には、ビジネス街が広がっている。

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ヨーロッパの十字路、リヨン

 リヨンそして、リヨンを中心とするローヌ・アルプ地方は、北ヨーロッパと地中海地域の接点に位置し、昔から交通と交易の要衝として栄えてきた。スイス、イタリアにまたがるアルプス山岳地帯と地中海というヨーロッパの二大中心行楽地にも近い。
 古くから「絹の町」として知られ、ヨーロッパでも有数の商業都市として面目を保っている。豊かな自然に恵まれ、川の幸、山の幸を素材にした料理は広く世界の食通に知られるところである。

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リヨンの歴史

 紀元前43年、ローマ皇帝シーザーの臣下はゴール人攻略のためフルビエールの丘に前哨基地をおいた。当時はルグドゥヌム(Lugdunum)と呼ばれていた。フルビエールの丘の中腹には、円形劇場など当時の貴重な史跡が残っている。歴代のローマ皇帝たちがこの植民地都市の発展に貢献し、リヨンはガリア(ゴール)の首都として、交通の要衝として栄えた。
 リヨンには、ガリアとしては最も早い2世紀から、キリスト教が入った。250年頃、ローマの伝導師たちによって再びリヨンにもたらされたキリストの教えは、コンスタンティヌス帝のもとに広まった。
 人々が高台を離れ、今日の旧市街に住み始めるのはこの頃からである。  5世紀以降、修道院、教会の建造が相次いだ。中でもサン・ジャン大司教教会(Primatiale St-Jean)は12世紀に着工され、後陣はロマネスク(11~12世紀)であるが、ゴシック様式(12~15世紀)の傑作だ。
 15世紀以降、ソーヌ川の右岸に町ができ、定期市が開かれた。16世紀初頭にはフランス最初の取引所が誕生し、商取引のシステムができ、全ヨーロッパから商人が集まった。フランソワI世の肝入りで絹がイタリアから導入され、リヨンを世界に名だたる絹織物産業の町とした。またイタリアへの道にあたるため、アルプスを越え芸術がイタリアよりこの地に伝わり、フランス・ルネサンスのさきがけとなった。
 フランス革命期、リヨンは革命公安委員会により、"自由"に挑戦する反動的な町というレッテルをはられ、多くの市民が恐怖政治の犠牲になった。
 19世紀に入り、ジャカード織機の発明をはじめ、機械化された紡績機が手織りに代わった。クロワルース(Croix Rousse)の丘は機織り職人(カニュ Canuts)が住み、1世紀にわたるリヨンの絹織物産業の黄金時代を築いた。
 さらに、今世紀に入り目覚ましい産業技術の発展が見られ、絹織物産業の伝統的技術は、ハイテク技術の利用により、カーボンファイバー、グラスファイバーなどを素材とする技術繊維に受け継がれ、軍需、航空機、自動車、薬品等の産業で駆使されている。


18世紀、改革者の時代
ジャカード(Marie-Joseph JACQUARD): ジャカード機織り機の完成
チモニエ (Barthelemy THIMONNIER): ミシンを創案
ギメ (Emile GUIMET): 東洋博物館開設
クロード ベルナール (Claude BERNARD): 東洋博物館開設肝臓のグリコーゲン機能を明らかにした生理学者

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II. リヨン・今日の顔

1. 国際都市リヨン

市庁舎(HOTEL DE VILLE)
 19世紀以降ローヌ川東側(もとは軍用地)の開発が進み、パールデュー(Part Dieu)地区を中心に市が拡大した。さらに今世紀、ヴィユルバンヌ(Villeurbanne)など市街地が開発され、現在55の市でなるリヨン都市共同体クルリー(COURLY)にまで発展している。一方、陸、空の交通網の充実はますますリヨンの地理的重要性を高めている。1981年に開通したTGV(超高速列車)は、リヨン―パリを2時間で結んでいる。リヨン・サトラス国際空港は1994年11月以降、TGV乗り入れにより、フランス及びヨーロッパの中継地点としての国際性を更に高めている。
 リヨンは欧州機構の一員として、また国際都市としての自覚のもとに、国連機関・国際的規模の研究機関の招致にも熱心である。国際ガン研究センター(WHOのガン研究機関)、国際刑事警察機構(インターポール)、パスツール研究所などがその例として挙げられる。国際都市センター建設は、この傾向を助長するものである。こうした機関で働き、研究を行っている日本人も数多い。

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2. リヨン市の行政

 フランスの地方行政組織は、市町村(commune)、県(departement)、地方(reginon)から成り立ち、これらは中央機関から権限委譲された独立の自治体として機能している。
リヨン市は、パリ市、マルセイユ市とともに、例外的市政が敷かれ、市は9区(arrondisse-ments)に分かれている。つまりリヨン市の住民は、ローヌ・アルプ地方に属するローヌ県リヨン市の第何区かに住んでいることになる。
リヨン市の
人口:
上述のリヨン都市共同体=クルリーで126万人
リヨン市長: レーモン・バール氏(ジスカール・デスタン大統領時の首相、UDF支持)
市会議員の
構成:
前市長ミシェル・ノワール氏(元RPR)の流れを継ぐアンリ・シャベール氏と、レーモン・バール氏の政策協定により、9区のうち5区(2・4・5・6・7区)が市長与党(市議会多数派=UDFとReussir Lyon)によって占められ、他の1区は緑の党が、3・8・9区は社会党系が多数派を占める。これに対し、リヨン市を囲む周辺新市街地ヴィユルバンヌ、ヴェニシューなどは、伝統的に社会党・共産党が強い。なお、市長は市議会、区長は区議会で選出される。リヨン市議会議員の党派別構成は定数73名中、社会党系19、UDF系17、ReussirLyon15、RPR系12、エコロジスト系5、共産党3、フロン・ナショナル2である。
ローヌ県: 県庁所在地はリヨン市、県知事はメルシエ氏。
ローヌ・アルプ地方については下段参照
注) UDF : 仏民主連合
RPR : 共和国連合(保守)

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3. リヨンの産業と日本企業

 リヨン市周辺は多数の産業が発達している。特に前述した繊維産業の他、化学・準化学工業、医薬品、食品加工が盛んである。
 リヨン市以南ジェルラン地区は、新しく開発された産業拠点であり、パスツール研究所、ワクチンのメリュー研究所、コンタクト・レンズの眼球内移植に成功しているドミランス社など、近代的な設備を誇る研究所が立ち並んでいる。  一方、リヨン近郊は他の地方に比べ、外国企業の進出は比較的遅かった。日本企業についても同様である。最も古くからリヨンに進出したのは、丸紅系のテクマテクスで、津田駒の織機の販売を目的とする。ここ数年、リヨン商工会議所の外国企業誘致(ADERLY=リヨン地方経済開発協会)が功を奏し、91年より、光洋精工がルノーの下請けSMI社を買収、93年より、住友化学がローヌ・プラン化学と合併会社設立など、日本企業の着実なリヨン進出が続いている。他に、古河機械、ユニチカなどが挙げられる。

フランス在留邦人数比較
リヨン市200名
ローヌ県415名
ローヌ・アルプ地域圏全体1,005名
パリ市7,971名
フランス全体18,543名
※1995年10月1日現在の在留届実績ベースによる
(在仏日本国大使館)

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リヨンと日本との関係

 リヨンと日本との間には、100年以上もの長い交流の歴史がある。明治初期の啓蒙思想家である福沢諭吉は、1861年から62年の幕府の遣欧使節の一員として訪欧した際リヨンに立ち寄っている。またルソーの『民約論』をはじめ啓蒙思想を日本に紹介した中江兆民は、明治初頭リヨンで弁護士について勉学に励んだ。明治の初期、初めてフランスに日本領事館が置かれたのも、横浜正金銀行(現東京三菱銀行)が事務所を開いたのもリヨンである。明治40年(1907年)正金銀行行員としてリヨンに赴いた永井荷風は、11 ヵ月半のフランス滞在(そのうちリヨンは8ヵ月)を『ふらんす物語』にまとめ、四季折々のローン(ローヌ)河岸の景色に思いを馳せながら、今日と変わらぬリヨンの町の情景を80頁にわたって述べている。

「河霧立ちこめし河岸通の景色よし」
「毎日の濃霧天地は永遠の黄昏なり。然れどもロオン河上の暗澹たる景色却て歩を停めて打眺むるに好し」
「薄き霧に掩われし河の景色は病める美女の微笑めるに似たり」
「余はロオンの流れを見るも今宵限りぞと思へばおのづから歩みも遅く欄干に凭れて涙を流しぬ」
1908 永井荷風

 後年、国費留学生としてリヨンに滞在した遠藤周作は、中世に逆戻りしたような錯覚に陥る15~17世紀の古色蒼然たる家並みの続く旧市街をテーマにしている。3年前(1993年)には彼の最新作「深い河」で再び川の流れる町リヨンを舞台に物語を展開している。熊井啓監督により映画化され、リヨンで大規模な撮影が行われた。
 日本からフランスへの文化移入の面でも、1876年、リヨンの経済人・文化擁護者であるエミール・ギメが文化使節として訪日し、1879年には、ギメの収集した日本美術品を紹介する美術館をリヨンに開設した。
 一方、多くのリヨンの人々が明治維新以後、すぐれた産業技術を日本にもたらした。例えば、海軍技師レオンス・ヴェルニーは横須賀軍港を建設。あい前後して、サンテチェンヌの技師が日本の天皇家に宮仕え、生野銀山の開発に寄与したことも見逃せない。
 またリヨンは、19世紀初頭から約1世紀半、絹製品を世界中に輸出していた『絹の町』であり、日本は明治初頭にイナバタ・カツタロウによる絹染め技術の導入、佐倉常士、井上伊兵衛による近代機械絹織物技術の習得、ジャカード機の購入等その分野で多くの技術を学んだ。現在でも国際絹業協会(ISA)の本部がリヨンに置かれている。
 1994年は、リヨンと横浜が友好都市となって30周年にあたり、数多くの公式記念行事、市民レヴェルの文化交流が行われた。
 それに先立ち、1993年10月にはジャパン・フェスティヴァルがリヨンで開催され、3日間にわたり日本の伝統的芸術が披露され、会場は3日間満員のリヨン市民で賑わった。また、昨年1995年10月には、リヨン日本人センター(ドバール神父主催)において日本週間が開催された。

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リヨンの日本語教育

 リヨンは日本語教育に熱心である。公立校は、二つの高校で第二外国語として日本語の選択が可能。大学は、日本語科のあるリヨン第三大学以外にも、理工系のグランゼコール(Ecole Centrale, INSA, Ponts et Chaussees)、商学系(ESC)で日本語を第二外国語として選択する学生が毎年1クラスずつ生まれている。
 私立校は2校(オンブロザ、リヨン国際学校)で日本語教育を行っている。前者は、フランス人一般に小学校からの日本語学習の道を開いている。後者には、1994年9月より、リヨン市・市商工会議所などの支援の下で日本語科が設置され、日本人家庭、日仏家庭の子弟が、日本の文部省の指導要領に添った日本語教育を受けている。この他、文部省の認定を受けた日本語補習校がある。
 なお、日本からの留学生は、アリアンヌ・フランセーズやカトリック大学への語学留学、大学各学部、グランゼコール、様々な研究所への留学・研究生等と多様である。

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リヨンを中心としたローヌ・アルプ地方について

 リヨンは8つの県で構成されたローヌ・アルプ地方(※)の中心都市である。当地方は、パリを中心としたイル・ドゥ・フランス地方に次ぐフランス第2の地方で、面積はほぼスイスの国土面積に匹敵する。そのためローヌ・アルプ地方は非常に多彩な地形と気候が混在し、恵まれた自然環境と充実したレジャー施設により、フランス第1の観光地としての地位を築いている。  雄大なアルプスを望む山岳地帯は、冬は最大のスキー場として、夏は避暑、登山、ハイキングを楽しめる地域として世界中から多くの人々が訪れている。カヌー、カヤックなどのウォータースポーツは、主にアルデッシュ渓谷やアルプスの渓谷で盛んである。
 ローヌ・アルプ地方は、密度の高い多様な経済組織を有し、特に先端産業(エレクトロニクス、バイオロジー、医薬、エネルギー産業・・・)の分野でかなりの実績がある。
 欧州機構の一員として、国境を越えた欧州の各地方レヴェルとの協力体制が築かれている。
(※)他にグルノーブル、サンテチエンヌ、ヴァランス、アヌシーなどの諸都市を含む。

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