経済局 小野 正昭
リヨンと日本の間には長い交流の歴史がある。幕末から明治にかけてリヨンを訪れた日本人として、福澤諭吉、渋澤栄一、岩倉具視、中江兆民、永井荷風等は知られているが、戦前リヨンに日本の領事館があったこと、また今でもリヨンに日本人の名の付いた通りがあることは余り知られていない。そういう私も、リヨンに「若月通り」があることは知っていたが、最近までその由来は知らなかった。
帰国も間近に迫った昨年6月、私は「若月通り」の由来をたずねてリヨンを訪問した。地図を頼りに探し当てた「若月通り」(Rue WAKATSUKI)は中心街からはずれた8区の庶民的な住宅街にあった。私は、通りに面した小さなクリーニング店に入り、この通りの名前の由来を尋ねてみた。店のマダムは「昔、リヨンに住んでいた日本の外交官の名前です。それ以上詳しいことは知りません」との返事。その足で訪れたリヨン市立図書館で、係の人が探し出してくれた文書には次の様な市の記録があった。「元日本領事若月氏は、生前、リヨン地方の住民から深く敬愛され、度々領事公邸に青少年を招いて、日本文化を紹介し、日本の伝説、おとぎ話の仏語訳を出版する等の業績を残した。この度、リヨン市長は市民からの願いに基づき、リヨン市の無名の通りを同領事の偉業を記念して「Rue WAKATSUKI」と命名するよう参事会に提議する(1930年10月13日)。」この記録を読んだ私は、若月という人物について、更に詳しく知りたいと思った。帰国後、私は、外交史料館から次のような事実を知ることができた。
若月馥次郎は明治14年生まれ、東京外国語学校(仏語科)卒、会計検査院を経て明治40年外務省入省、大正9年より昭和2年まで7年間領事代理としてリヨン在勤、病気の為か帰国直後の昭和3年3月に他界、享年47歳であった。昭和5年10月28日付、在リヨン・宗村領事発、外務大臣・幣原喜重郎宛公信によれば、「若月通り」に関する件として、概略、次の通りの報告がなされている。
「故若月領事が温厚篤実にして君子人の風格ありしは其の生前を知る者の等しく認むる処である。殊にリヨン在勤中は病弱の身に挺して館務に精勤せし一方、リヨン地方の官民と誠に親しみある接触を保ち、或いは「コンフェランス」に、或いは著述に、或いは各種団体の名誉会長に推 せられ、故人が当地方に遺したる親仏的業績は誠に没却す可からざるものあり。故人に面識あるものは官民問わず、故人の徳を賞揚し如何に故人が形式的でなく誠心を深く当地人士の肝裏に印刻したるかは想察するに難からざる次第、当地有志家は予てリヨン市参事会に対し故若月領事の遺徳を永久に記念せむが為、リヨン市の新通りを「若月通り」と命名せんと提議し、同会は満場一致で之を可決したり」
そして、同報告書によれば宗村領事がこのリヨン市の決定に謝意を表する為、エリオ・リヨン市長を往訪したところ、同市長は「自分は本来、日本人が大好きで殊に武士気質は我意を得たるものである。故若月領事の遺徳は誠に頌するに足るものである」と述べている。また、「若月通り」の命名は単に故人に対するのみならず、同様に、リヨン市の領事団もその光栄に均 する所以なりとして、領事団代表もわざわざ宗村領事とともに市長に謝意を表したとのことである。リヨン市民が「若月通り」命名の請願をしたのは、若月領事の他界後3年近くも後のことであるが、同領事がいかにリヨン市民に深く敬愛されていたかを如実に物語っている。
私の手元にリヨンの古本屋で見つけた若月馥次郎著の「桜と絹の国」と「日本の伝統」という二冊の本がある。その中で著者は、日本が急激に近代化していく上で、いかにフランスの協力が不可欠であったかを説明しているが、二冊とも日本の古来の伝統文化を和歌や俳句を随所に引用しつつ、巧みな仏語を駆使して、読む者の心を引きつけて離さない魅力がある。「桜と絹の国」は大正12年の関東大震災の直後にリヨン市とアルプス県ギャップ市の二カ所で、フランス赤十字社主催で開催された「日本の被災者救済大会」における若月の講演録である。大正時代にそれも遠い極東の国・日本で起きた災害に対し、比較的開放的でないとされるリヨン地方の住民が自発的に日本のために救援大会を開催したこと自体私には驚きであった。主催者はその挨拶の中で、若月領事に向かって゛同胞″と呼びかけ、フランス国民は日本国民に、躊躇することなく救援の手をさしのべていると述べている。これに対し若月は、心からの謝意を表した後、会場で広報用フィルムを映しながら日本の社会制度、産業、教育の現状を紹介する一方で、今回の大震災の人的物的被害がいかに甚大なものかを詳細に説明している。更に、震災が日本とフランスの貿易にも悪影響を及ぼしていること、また、フランスの支援がいかに貴重なものであるか具体例をあげて説明している。例えば、日本は数年前に仏軍から伝書鳩による通信方法を学んだが、震災直後、あらゆる通信が途絶えた中で、唯一の手段として、フランスから訓練を受けた伝書鳩が救援を求めるために活躍したこと、また、絹織物の街・リヨンは日本生糸の大口輸出先であるが、震災のため横浜港の機能が停止し、生糸の積み出しが1ヶ月近くも遅れていること、このため生糸の国際価格が35%も値上がりしてリヨン市民を心配させていること、しかし日本政府は目下、神戸港からの積みだしに全力を上げており、出荷の遅れは早晩取り戻せる見込みであるので安心してもらいたい等、若月は日本から入手した最新の情報に基づき、数字をあげつつ、丁寧に説明している。更に、リヨンと日本との特別の関係にも触れて、明治4年、リヨンの製糸技師・ポール・ブリュナは女工数名と共に訪日し、その指導のお陰で殖産興業の第一号ともいえる富岡製糸工場が見事に完成したことを日本人は決して忘れないと述べ、今日ある日本の製糸産業の発展はまさにリヨン市民の協力のたまものとして感謝する旨述べている。
以上、若月馥次郎の人となりの一端に触れることができたが、私はリヨン市民に異例ともいえる追憶を残すに至った若月領事の活動に、外交官としての嚆矢、或いは原点を見る思いがする。又、同時にフランス一地方の一領事代理の活動ではあるが、今日ある日仏友好関係はこれら多くの先人の地道な努力の積み上げに他ならないとの思いを強くするのである。仮に「若月通り」命名の話を若月氏自身が生前に知ったならばおそらく本人は、身に余る光栄なこととして感謝しつつも辞退したのではないだろうか。