カンボジアでは、70年のクーデタ発生以降、約20年にも及んだ内戦が91年のパリ和平協定署名により終結し、93年の制憲議会選挙が実施され、新生カンボジア王国が誕生した。フンシンペック党(ラナリット第1首相)と人民党(フン・セン第2首相)との第1次連立政権は、国の再建に向け当初は順調な滑り出しを見せたが、98年の総選挙を控え、97年7月、両党間の確執がプノンペンでの武力衝突事件へと発展した。
その後カンボジア政府自身の努力に加え、我が国をはじめとする国際社会の事態打開に向けた外交努力が実を結び、98年7月には無事総選挙が実施され、その結果を受け、同年11月にフン・セン単独首相を首班とする新政府(第2次人民党-フンシンペック党連立政権)が成立した。これにより、同年12月に97年の武力衝突以降、空席化されていた国連における代表権が回復されると共に、99年4月にはASEANに正式加盟するなど国際社会との関係が正常化した。さらに国内では、クメール・ルージュの崩壊により内政の安定度が高まっており、国の復興と開発を進めるための良好な環境が生まれている。
カンボジアは、1人当たりの国民所得が270ドル(2001年、世銀資料)、UNDP人間開発指標で第130位(175カ国中、2002年)に位置する後発開発途上国(LDC)の一つである。主要産業は、農林水産業であり、GDPの約36.9%(2001年)を占めている。内戦前の60年代には食糧自給を達成し、米やゴムの輸出を行っていたが、70年代以降約20年にも及ぶ内戦と混乱、特にポル・ポト政権下における恐怖政治により国土は大きく荒廃した。91年のパリ和平協定締結により和平が達成された後、国際社会の支援を得て国の再建が本格化し、94年から96年にかけて平均6.1%のGDP成長率を達成するが、97年7月の武力衝突事件及びアジア経済危機により外国からの援助や投資、観光収入の減少などにより経済が悪化した。97年及び98年のGDP成長率は、各々4.3%及び2.1%に落ち込んだ。
かかる中、98年11月に発足した新政府は、自らを「経済政権」と銘打ち、税制、森林管理、兵員削減、行政、司法、社会セクター等の分野で抜本的改革を開始し、99年2月に東京において開催された支援国会合では、フン・セン首相自らこれら諸改革実施に向けた強い決意を示すと共に、改革の進捗状況をモニターするため、定期的にドナー国とのモニタリング会合を開催する旨表明した。その後、付加価値税の導入等による財政収入の増加(対GDP比8.6%(98年)から11.5%(2000年)に上昇)や森林の不法伐採の減少など改革の成果が現れる中、99年以降経済は回復し、インフレ率が極めて低く抑えられ、為替レートも安定している。特に、観光業及び縫製産業が好調で実質GDP成長率は、99年には、6.9%に上昇し、2000年も大規模な洪水災害が発生したにも拘わらず、7.7%に上昇した。2001年の成長率も6.9%を達成した。
我が国とカンボジアの交流は古く、17世紀初めには日本人がカンボジアのアンコールワットに参拝したとの記録が残っている。内戦中は両国の交流は途絶えたものの、和平達成以降、両国関係は、政府・民間双方において拡大している。2001年には、約2万人の邦人観光客がカンボジアを訪れている。
(参考1)主要経済指標等