(1) 94年5月のガザ・ジェリコ合意に基づき、同地区でパレスチナ暫定自治が開始された。同年8月には、西岸地域においても5分野(直接課税、教育・文化、社会福祉、観光、保健)の自治が開始され、95年9月には、自治の第二段階として、西岸地域に暫定自治を拡大し、立法府にあたるパレスチナ評議会の選挙を実施するとの暫定自治拡大合意が成立し、96年1月には同評議会選挙が実施され、パレスチナ暫定自治政府が成立した。
96年5月に発足したイスラエルのネタニヤフ政権下では、和平プロセスは停滞し、97年1月には漸くイスラエル軍のヘブロンからの撤退と今後の交渉スケジュールについての合意が達成されたものの、同年3月の東エルサレムにおけるイスラエルの住宅地建設問題や同年7月のエルサレムでの自爆テロの発生等により和平プロセスは中断した。しかし、98年10月のイスラエル軍の更なる撤退、治安措置の強化、パレスチナ憲章の改正等を内容とするワイ・リバー合意を契機に和平交渉が新たな局面に移行し、99年5月の労働党のバラク党首への政権交代を経て、99年9月のシャルム・エル・シェルク合意で、最終的地位交渉の終了期限が2000年9月に定められ、2000年7月のキャンプ・デイビッド首脳会談では核心に迫る交渉が行われたものの、成果なく終わった。その後9月末にイスラエル・パレスチナ間の衝突が発生し、2001年3月には右派リクードを中心とするシャロン政権が発足。暴力の悪循環を断ち切るために、2002年3月のアラブ和平提案、国連安保理決議1397等の採択、4月のパウエル米国務長官の現地訪問等国際社会による取り組みが行われたが、停戦は実現しなかった。そのような状況下で、6月にブッシュ米大統領はイスラエル、パレスチナの2国家の平和共存に基づく中東和平構想を表明、同構想を具体化した中東和平「ロードマップ」の策定が米国、EU、ロシア、国連により進められている。
また、パレスチナ内部から改革の動きが強まり、国際社会としてこの動きを支援するため7月にパレスチナ改革タスクフォース(日本、米国、ロシア、EU、ノルウェー、国連、世銀・IMFにより構成)が形成され、改革の進捗状況と支援のあり方が協議されている。
(2) 西岸・ガザ地域の経済は、イスラエルの経済に大きく依存している。94年5月に自治が開始され、インフラ整備、人造り、社会・人的資源開発及び生産セクターの開発を重点分野としたパレスチナ開発計画(98~2000)を定めた。しかし、93年以降断続的に続いたイスラエル政府のパレスチナ自治区封鎖政策のため、イスラエル国内でのパレスチナ労働者の雇用機会、輸出入、民間投資の減少が著しく、92年から96年までの間に実質GNPは18.4%減少、また、一人当たりGNPは域内人口の3割増加のため36.1%もの急激な減少となった。2001年の実質GNPは約58億ドル、1人当たりGNPは約1,450ドルである(UNSCO資料等より作成)。更に、2000年9月末以降のイスラエル・パレスチナ間の衝突を受け、パレスチナ経済は困窮を極めている。失業率は約42%まで上昇し、所得機会の喪失、インフラ等の毀損のために約83億ドルに及ぶ損失が発生している(2002年4月現在のパレスチナ中央統計局等報告)。