[18]旧ユーゴースラヴィア地域

1.概  説

(1) 旧ユーゴースラヴィアの前身は、第一次大戦を契機に成立した「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」であったが、第二次大戦後、チトー大統領の下、各民族に配慮した6共和国と2自治州からなる連邦制を採用し、自主管理に基づく社会主義の建設を目指す一方、対外的には非同盟主義のリーダーとして独自の道を歩んだ。しかし、もともと言語・宗教が複雑に混在する中で、1980年にチトー大統領が死去した後は、石油危機以降の経済不振もあり、民族対立が次第に表面化し拡大した。89年の東欧における民主化の波の影響により、各共和国で民族主義が高揚し、対立は一層深刻化した。
 91年夏からは分離独立派の共和国・民族と連邦維持派の共和国・民族との間で武力衝突に発展し、クロアチアには国連平和維持部隊が投入され、92年春にはボスニア・ヘルツェゴヴィナで大規模な武力紛争に入り、同共和国にも国連平和維持部隊が派遣された。
(2) これら構成共和国間の対立・紛争を経て、スロヴェニア、クロアチア及びマケドニア旧ユーゴースラヴィア共和国が91年に独立を宣言、ボスニア・ヘルツェゴヴィナも92年に住民投票で独立に賛成する等、旧ユーゴースラヴィアが事実上解体し、残るセルビア及びモンテネグロも92年4月ユーゴースラヴィア連邦共和国(新ユーゴー)を樹立し、旧ユーゴースラヴィアは5カ国に分裂した。
 92年5月、国連安保理は新ユーゴーに対し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける内戦を理由に包括的な制裁を決議した。そのため、新ユーゴーは内戦の惨禍を受けないまでも、経済活動は壊滅的な打撃を受けるに至った。新ユーゴーに対する経済制裁は、95年12月14日にボスニア・ヘルツェゴヴィナ包括和平合意(デイトン合意)が成立したことにより全面的に停止され、96年9月14日に実施されたボスニアにおける選挙の後、全面的に解除された。しかしその後も、国内の民主化、少数民族の扱い(特にコソヴォ地方のアルバニア系住民)、デイトン合意の履行状況等が問題とされていた。
 また、新ユーゴーは、旧ユーゴーとの継続性を有する国家であるとの主張を撤回していないため、国連等国際機関への新たな正式加盟を求めておらず、さらにIMF、世銀等の国際金融機関へのアクセスが認められていなかった。
 しかし、2000年9月に実施されたユーゴスラヴィア大統領選挙において、ミロシェヴィッチが敗れ、コシュトゥーニツァ政権が誕生したことを受け、国際社会は同国の民主化、国際社会への復帰に向けた努力に対する支援を表明した。
(3) 98年2月から3月にかけ、コソヴォ自治州でアルバニア系住民の武装組織コソヴォ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊の衝突が発生したことに端を発し、コソヴォ問題が拡大、アルバニア系住民対ユーゴー当局のコソヴォでの戦闘が激化した。こうした事態に対し国際社会は政治的解決のために努力し、99年2~3月、3年間を暫定期間とするコソヴォ自治のための和平合意案を両者に提示したところ、アルバニア系住民側は合意案に署名したが、ユーゴー側は合意案受入れを拒否した。和平調停決裂後の3月24日、NATOはユーゴーに対する空爆を開始、和平案への合意を迫った。また、国際社会の政治解決に向けての動きが重ねられ、5月6日ボンにおけるG8外相会議を経て、米ロ間の調整が続けられ、アハティサーリ・フィンランド大統領が調整に加わった上、6月3日に和平案が提示され、ユーゴーのミロシェヴィッチ大統領は受諾を表明した。その後、空爆の一時停止、国連安全保障理事会決議の採択、国際安全保障部隊(KFOR)のコソヴォ展開といった段階を踏んで、6月20日、ユーゴー部隊のコソヴォからの撤退が実現し、NATOの空爆が終了した。
(4) 国際安全保障部隊(現在の総員約5万人)が展開して以来、全般的に治安状況は改善されているが、一部の地域では緊張が継続している。また、一時は80万人以上に上ったコソヴォ・アルバニア系難民はほぼコソヴォに帰還したが、その一方で、約24万人と言われる非アルバニア系避難民(セルビア系住民等)が流出している。アルバニア系武装組織「コソヴォ解放軍(KLA)」は、2000年1月に文民組織である「コソヴォ防護隊(KPC)」に改組された。
(5) コソヴォにおいては、あらゆる民族が平和に安心して生活できる民主的な社会を構築するため、文民部門を担当する国連コソヴォ・ミッション(UNMIK)と、軍事部門を担当するKFORの下で和平履行が進められている。現地住民とUNMIKの代表とで構成される「共同暫定行政機構」(Joint Interim Administrative Structure)も、2000年2月に正式に発足した。セルビア系住民は当初安全確保等の条件が整っていないとして同機構への参加を拒否したが、3月、3カ月間のオブザーバー参加を決定した。その後、一旦参加を凍結したものの、6月末には復帰している。
(6) 我が国は、92年3月にスロヴェニア及びクロアチアを、93年12月にマケドニア旧ユーゴースラヴィア共和国を、また、96年1月にはボスニア・ヘルツェゴヴィナを国家として承認し、新ユーゴーについては97年5月に外交関係を開設した。(新ユーゴーを除く4カ国についての概要及び我が国政府開発援助の実績とあり方の詳細については当該国の記述参照。)

2.我が国の政府開発援助の実績とあり方

(1) 我が国は、旧ユーゴースラヴィアに対して当初は商品借款等を行っていたが、同国が鉱山資源を豊富に産出し、また工業化も進んでおり、所得が比較的高かったことから、文化無償等若干の資金協力以外はプロジェクト方式技術協力、行政、運輸・交通、工業部門を中心とした研修員受入れや専門家派遣等の技術協力を行っていた。
(2) 90年7月、G24は旧ユーゴースラヴィアを支援対象国と決定したが、その後のユーゴー情勢に鑑み、91年11月、G24は経済協力の停止を決定した。我が国もユーゴーに対し、人道的観点からの国際機関を通じた支援や草の根無償資金協力を除き、援助を停止している。一方、2000年9月の選挙でコシュニトゥーニツァ政権が誕生したことを踏まえ、我が国は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に対して拠出する旨表明した難民支援570万ドルと合わせ、越冬対策等支援のため、とりあえず1,000万ドルを上限として対ユーゴースラヴィア緊急支援を実施することとした。
(3) 我が国は、コソヴォに対する人道及び復興支援として、現在までに、総額約1億7,700万ドルの支援を表明しており(全額拠出済み)、EU(EU加盟各国の二国間支援を除く)、米、英、独に続き第5位のドナー国となっている。具体的には、第1に、UNHCR、WFP等の国際機関に対する7,700万ドルのコソヴォ難民等への緊急人道支援、第2に、UNDP、UNMIK、UNICEF等の国際機関に対する約1億ドルの復興支援(住宅修復、電力供給、独立メディア支援等)の拠出を実施した。
 また、コソヴォ周辺国支援として、コソヴォ難民の受入れ等により経済的影響を受けたマケドニア旧ユーゴースラヴィア及びアルバニアに対して2年間で約6,000万ドルの支援(詳細については当該国の記述参照)の実施を表明している。

3.政府開発援助実績

(1) 我が国のODA実績
(2) DAC諸国・国際機関のODA実績

DAC諸国、ODA NET
国際機関、ODA NET
(3) 年度別・形態別実績
(参考1)99年度までに実施済及び実施中のプロジェクト方式技術協力案件
(参考2)99年度実施草の根無償賞金協力案件

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