5.政府開発援助大綱の運用状況
92年6月に閣議決定された政府開発援助大綱(ODA大綱)の「原則」には、ODAの実施に当たっては、国際連合憲章の諸原則(特に主権平等、内政不干渉)及び以下の4つの事項を踏まえ、相手国の要請、経済社会状況、二国間関係等を総合的に判断の上、実施するべき旨規定されている。
(1) 環境と開発を両立させる。 (2) 軍事的用途及び国際紛争助長への使用を回避する。 (3) 軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造、武器の輸出入等の動向に十分注意を払う。 (4) 民主化の促進、市場志向型経済導入の努力並びに基本的人権及び自由の保障状況に十分注意を払う。 ODA大綱原則の運用に当たっては、上記の諸事項、特に第三及び第四に掲げられている、軍事支出、武器の輸出入、民主化、人権の保障等の諸点について、各国の状況をモニターして適時適切に対応することとしている。相手国に好ましい動きがあった場合には、他の外交的手段と併せ、援助を通じてもそうした動きを積極的に促進することが重要であり、逆に好ましくない動きがあった場合、相手国の経済・社会や安全保障の状況、これらの諸点が過去と比較して改善されているか等様々な観点から検討の上、厳しい措置をとることとしている。
大綱の原則に照らして好ましくない動きが見られた場合については、以下のような対応がとられた。
インドの核政策については従来より懸念があり、我が国は、援助関連の各種協議や核不拡散に関する二国間協議等の各種政策対話の機会をとらえ、核兵器やミサイルの開発・配備等への自制を求め、また、核不拡散条約(NPT)及び包括的核実験禁止条約(CTBT)への加入を促す等の働きかけを行ってきた。98年3月に成立したヴァジパイ政権は、その核政策に関し疑念を強く抱かせるところがあり、政府はハイレベルで自制を求めた。しかしながら、世界的な核実験全面的禁止の流れに逆行し、98年5月、インドは地下核実験を実施した。我が国は直ちにインド側に対し強く抗議し、核実験及び核兵器開発の中止、及びNPTとCTBTの早期締結を改めて強く申し入れた。また政府は、ODA大綱原則を踏まえ、緊急・人道的性格の援助及び草の根無償を除く新規の無償資金協力の停止、新規の円借款の停止、東京開催が予定されていた世銀主催の対インド支援国会合(IDF)の開催招致見合わせ、及び国際開発金融機関による対インド融資に関し慎重に対応することを決定した。
パキスタンは、我が国をはじめとする国際社会の自制を求める強い呼びかけにもかかわらず、98年5月インドに続き地下核実験を行った。同国の核開発問題に関しては、従来より我が国は、援助関連の協議や核不拡散に関する二国間協議等各種政策対話の機会をとらえ、核兵器やミサイルの開発・配備等への自制を求め、またNPT及びCTBTの締結を促す等の働きかけを行っていた。更に、インドの核実験後は、パキスタンがこれに続くことのないよう、総理特使の派遣を含む様々な働きかけにより自制を求めた。それにもかかわらずパキスタン政府は核実験を実施したため、政府はパキスタン政府に強く抗議し、核実験及び核兵器開発の中止及びNPTとCTBTの早期締結を改めて強く申し入れるとともに、ODAに関しては、緊急・人道的性格の援助及び草の根無償を除く新規の無償資金協力の停止、新規の円借款の停止及び国際開発金融機関による対パキスタン融資に関し慎重に対応することを決定した。その後、パキスタンの経済困難が、深刻さを増したことから、我が国は、98年11月の日・パキスタン外相会談の際に、パキスタンの危機的な経済状況に緊急に対応する必要があること、また99年9月までにCTBTへの参加を表明する等核不拡散分野でのパキスタン側の努力に鑑み、同国の債務不履行を回避するためのIMFによる支援パッケージを支持する旨表明した。また、同会談において高村外務大臣より、CTBTへの署名・批准と核・ミサイル関連資機材・技術の輸出管理のための国内法制化が確認されれば二国間ODAの部分的な再開を検討しうるであろう旨併せ伝えた。
スーダン国内の著しい人権侵害状況に鑑み、92年10月、当面緊急・人道的性格のものを除き原則として援助を停止する旨スーダン側に伝え、現在に至っている。
ニジェールでは、99年4月、民主的に選出されたバレ大統領が殺害された。その後、大統領警護隊長であったワンケ少佐を議長とする国民和解評議会が設立され、同少佐が国家元首に任命されるとともに、マヤキ首相が民政移管期間中の暫定内閣の首相として留任する旨発表された。同暫定政権は、憲法の国民投票、大統領・議会選挙の実施等今後の政治日程を発表しているが、我が国は、大統領殺害に対し強い遺憾の意を表明し、同国に対するODAについては今後の動きを注視しつつ慎重に検討することとしている。
シエラ・レオーネでは、97年5月、クーデターが発生し、民主的に選出されていたカバ大統領が国外追放された。同月、軍事革命評議会が樹立され、コロマ少佐が同評議会議長兼国家元首に就任した。6月、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)が監視団(ECOMOG)を展開、ECOWASと軍事政権との間で和平交渉が進められ、同年10月和平合意が成立した。しかし、軍事政権側が和平合意の内容を履行しようとせず、98年2月にECOMOGによって軍事政権側が駆逐され、カバ大統領が帰国した。我が国は、軍事政権下における同国へのODAについては、緊急的・人道的性格を有するものを除き、原則として停止していたが、今後同国の政情・治安の推移に十分留意しつつ慎重に検討することとしている。
大綱の原則に照らして途上国において好ましい動きが見られる場合、援助を通じて支援を行うことによりそのような好ましい方向を更に促していく努力を行っている。これらの国に対しては、我が国は二国間援助を積極的に供与するのみならず、国際的な支援国会合を主催するなど、これらの国に対する国際社会による支援の強化のため努力している。
モンゴルに対しては、90年代に入ってからの同国の民主化努力や、同国が推進する市場経済化を核とする経済改革を支援するとの考えに基づき、91年以降6回にわたり世界銀行との共同議長の下、東京において「モンゴル支援国会合」を主催するなど国際社会の支援の動きを主導するとともに、二国間ODAを通じても、経済改革推進に資する資金協力をはじめ、民主化・市場経済化のための人材育成や法整備に関する知的支援策等の技術協力などにより積極的に支援を行っている。
ヴィエトナムは、86年より「ドイモイ(刷新)」路線を打ち出し市場経済化を進めるとともに、西側諸国等との関係改善・拡大を指向した政策をとってきた。こうしたヴィエトナムの改革・開放政策を支援することが重要との認識に立ち、我が国は92年11月より対ヴィエトナム援助を本格化した。これ以降、我が国は、ヴィエトナムの「ドイモイ」を支援する観点から、経済改革推進に資する資金協力をはじめ、95年度からは日本の有識者グループの参加を得て「市場経済化支援開発政策調査」を行い包括的な政策提言を行ったほか、96年度からは「重要政策中枢支援プログラム」として、日本の専門家グループを派遣して民法・商法等の法制度整備支援を行うなど、同国に対し積極的な支援を行っている。
中央アジア5ヵ国及びコーカサス3国、ウクライナ、モルドヴァについては、91年12月のソ連邦解体に伴い実質的に独立し、市場経済体制への移行を図ってきた。我が国としてはこれら諸国における市場経済化や民主化プロセスの進展状況を考慮に入れつつそうした動きを促進させるための支援を行っている。(2.地域別援助の動向(1)アジア(ハ)中央アジア及びコーカサス地域、等を参照)
南アフリカ共和国においては、94年4月の総選挙を経て、マンデラ政権が発足し、民主的、平和的に、人種隔離政策(アパルトヘイト)廃止後の新たな人種共存体制への移行を成功させた。我が国は、こうした民主化のプロセスを支援する立場から、同国の国造りを担う人材の育成や貧困層に対する支援を中心に引き続き積極的に支援することとしており、98年度には、黒人居住区の上下水道整備に関する円借款や小中学校建設の無償資金協力等を実施した。また、99年6月の総選挙後のムベキ新大統領就任に際し、我が国は、マンデラ前大統領の下での国民融和と復興開発計画に基づく経済発展推進及び貧困撲滅、黒人の地位向上を目指した経済社会改革実施が更に推進されることを重視し、今後とも十分な規模の支援が継続されるよう努めていきたいと考える旨を表明した。
エル・サルヴァドルにおいては、79年以来の内戦が92年1月の和平合意により終結した。以降、和平プロセスは順調に推移し、民主化、経済自由化、政府機構改革等に向けて努力を重ねてきている。我が国は、同国の民主化定着、市場指向型経済導入努力、和平プロセスの順調な履行を評価し、積極的に支援を行っている。
94年3~4月の大統領選挙・総選挙に際しては、我が国は無償資金協力を実施するとともに、選挙監視要員を派遣した。99年1月には、同国の国家財政運営をテーマにした第2回「民主化セミナー」を東京で開催している。ニカラグァにおいては、79年以来の内戦が90年の民主的選挙により成立したチャモロ政権の下で終結した。同政権は、政治面では国内和解、民主化等を推進した。97年1月にはアレマン政権が発足し、民主化推進、経済再建等に取り組んでいる。我が国は、こうした民主主義確立や経済再建に対する同国の努力を積極的に支援している。96年10月の大統領選挙に際しては、我が国は無償資金協力を実施するとともに選挙監視要員を派遣した。
中国においては、改革・開放路線を積極的に進め、92年には「社会主義市場経済」を確立するとの方針が憲法に明記され、99年3月には多様な所有制・分配方式を容認する方針を明記する憲法改正が行われる等、大綱原則中の市場指向型経済移行努力の観点から好ましい動きが継続している。
しかし、95年5月及び8月には、我が国の再三の申し入れにも拘わらず中国が核実験を実施したことを受け、95年8月以降、無償資金協力については、緊急かつ人道的性格の援助及び草の根援助を除き凍結してきた。その結果、95年度の無償資金協力実績は、94年度の77.99億円から4.81億円へと減少したが、その後、96年7月の核実験を最後に中国が核実験のモラトリアムを実施し、また同年9月に包括的核実験禁止条約(CTBT)に署名したことを踏まえ、97年3月、無償資金協力を再開した。
また、我が国は軍事支出等に関してODA大綱に関する考え方を種々の機会を通じて伝え理解を促すとともに、軍事面での透明性の向上等を求めてきており、中国側も98年7月の国防白書の発表などの措置をとってきている。民主化、人権の観点からは、98年末頃から民主運動家への取締り強化の動きがあるが、近年の全般的な傾向としては、国際人権規約への署名、言論出版活動の活発化等の動きが見られてきており、我が国は種々の対話の機会に人権や民主化の面についても働きかけを行うとともに、法制度整備等の分野において中国の民主化の促進に役立つ援助を行っている。ハイティにおいては、91年9月に軍事クーデターが発生し、アリスティッド大統領(当時)が国外追放されるとの事態が発生した。我が国は直ちに、同国に対する援助を凍結したが、94年10月、米国をはじめとする国際社会の努力によりアリスティッド大統領(当時)の帰国が実現し、ハイティが民主的体制の回復と経済復興に本格的に取り組み始めたことを受け、援助の凍結解除を決定した。その後は、選挙関連の支援、保健医療・食糧等の基礎生活分野への支援、外貨不足を補うためのノン・プロジェクト無償資金協力等の援助を行っている。
ガンビアに対しては、94年7月のクーデター以降、緊急的かつ人道的性格を有するものを除き、原則として援助を停止してきたが、同国における民主化の進展を踏まえ、同国の民主化プロセスを更に推進していくとの観点から、97年3月に援助の再開を決定し、それ以降は食糧増産援助等を実施している。
ナイジェリアに対しては、93年のアバチャ元首(当時)による軍事政権樹立、国民議会・政党の解散等民主化に逆行する動きを受け、94年3月、緊急的かつ人道的性格を有するものを除き、原則として新規の援助を停止するとの決定を行った。しかし、98年6月の同元首の急死後99年2月、民政移管のための大統領選挙が行われ、オバサンジョ大統領が選出された。我が国としては、こうした同国の民主化努力の進展を歓迎し、同年5月の民政移管プロセスの完了を受け、適切な援助の実施を検討していくこととしている。
その他、大綱原則の運用に関連する事例としては、以下のものがある。
ミャンマーに対しては、88年の民主化要求運動による政情混乱、その後の国軍によるクーデター以降、我が国の援助は原則停止していたが、95年のアウン・サン・スー・チー女史の自宅軟禁解除等に見られる同国における事態の進捗に鑑み、従来の方針を一部見直し、同国の民主化及び人権状況の改善を見守りつつ、当面は既往継続案件や民衆に直接裨益する基礎生活分野の案件を中心にケース・バイ・ケースで検討の上、実施することとしている。この方針に従い、95年看護大学拡充計画への協力を行ったが、その後ミャンマー政府と国民民主連盟(NLD)との間で緊張が高まり、対ミャンマー援助は本格的には進展していない。なお、既往円借款案件である「ヤンゴン国際空港拡張計画」について、安全面からの修復に限り緊急に工事が必要であるとの判断の下に、98年3月、25億円規模の貸付実行を行うことを決定した。また、98年7月には薬物対策に資する代替作物栽培支援のため食糧増産援助を行うと共に、99年5月には「子供の健康無償」により、ユニセフ経由で母子保健サービスの改善のためワクチン、基礎医薬品等を供与した。
カンボディアにおいては、91年のパリ和平協定により内戦が終結し、その後、93年には制憲議会選挙及び新憲法の採択が行われた。97年7月には政府を構成する勢力間で武力対立が生じたが、実質的な勝利を収めたフン・セン第二首相(当時)は、現憲法の遵守、勢力間の和解による連立政権の維持、総選挙の予定通りの実施を表明し、我が国はカンボディア政府が(1)パリ和平協定を尊重し、(2)現在の憲法及び政治体制を維持し、(3)基本的人権や自由を保障し、(4)98年の自由公平な選挙の実施に向け努力するとの前提の下、現地の治安状況を注視しつつ援助を実施することとした。98年7月には総選挙が実施され、11月には人民党・フンシンペック党連立による新政権が成立、12月には国連代表権が回復され、99年4月ASEANへの加盟が実現した。またクメール・ルージュ幹部の投降により同派は事実上消滅した。
我が国は、カンボディアの復興と民主化に対して積極的に支援を行うとの方針の下、99年2月に東京で行われた第3回カンボディア支援国会合においても、これをカンボディアの発展と繁栄のプロセスの開始への重要な節目と位置づけ、総額約1億ドルに及ぶ新たな支援を表明した。97年8月に発足したハタミ大統領が率いる新政権は、「法の支配」や「文明間の対話」などそれ以前のイランでは見られなかった政治理念を掲げ、諸改革に取り組んでいる。同政権は特に対外関係の緊張緩和を目指す対話路線を積極的に打ち出し、近隣諸国や欧州諸国を始め諸外国との関係改善を進めている。一方、中東和平プロセスへの妨害、テロ支援、大量破壊兵器の獲得努力、人権等を巡りイランに対する国際社会の懸念も依然として存在する。こうした状況に対し、我が国は、98年4月の高村外務政務次官(当時)によるイラン訪問、同年12月のハラズィ外相の訪日等を通じ、ハタミ政権との政治対話を強化し、イランを国際社会にとって好ましい方向に向けるため積極的な働きかけを行ってきており、今後とも現政権の現実穏健路線に対し適切な支援を行う方針である。
ケニアに関しては、92年に複数政党制が導入され、大統領選挙が実施されたが、その後の民主化の進展は十分とは言えないものがあった。そのため、我が国は、他のドナー諸国とともに、ケニアに対し民主化努力の継続や公正な統治の確保を働きかけてきた。97年11月に超党派議員グループの合意に基づき政治的自由化と民主化に資する法律が施行され、同年12月には二度目の大統領選挙と議会選挙が行われる等民主化の進展が見られた。我が国としては、その後の援助政策対話においても政治改革の促進について働きかけを行っており、今後も同国の民主化等の動向を注視しつつ、汚職問題への取組みと治安の確保に対するケニア側の一層の努力を促しつつ援助を行っていく方針である。
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