コラム 2 マラリアを撲滅するために ~住友化学株式会社の伊藤高明さんが開発したオリセット®ネット~
マラリアは、マラリア原虫を持つ蚊に吸血されることによって感染する病気で、高い発熱や嘔吐、頭痛などを伴い、重症の場合死に至ることもあります。現在100か国以上で感染が確認されており、年間3億人以上の患者と、100万人以上の死者が出ていると報告されています(注)。特に抵抗力のない子どもが死に至る場合が多く、感染の予防が世界中で急務となっています。
しかし、マラリアは、感染を防ぐためのワクチンがないため、一番の予防方法は蚊に咬まれることを防ぐことです。マラリアを媒介する蚊は、夜間に活動するため、寝ている間に咬まれないようにすることが大切です。そこで、最も有効な予防方法の一つとして、日本では昔から夏の間に利用されてきた蚊帳の有効性が確認されています。現在WHO、UNICEF、世界銀行等が中心となって、殺虫効果のある特殊な蚊帳の使用を広める運動が世界中で展開されています。
実は、この蚊帳の開発には、住友化学株式会社に勤めている伊藤高明さんという日本人の技術者が大きな貢献をしました。伊藤さんは入社当初は農薬関係の部署に勤務していました。入社から10年後、家庭用殺虫剤を開発する部署に移動したときに、マラリアをはじめとする感染症の研究も行うようにとの社命を受けました。これがマラリアとの出会いで、それから22年、伊藤さんの感染症との長い付き合いが始まります。住友化学では、感染症対策に関する研究開発が行われていたものの、規模はあまり大きくはありませんでした。そこで仕事の片手間に細々と地道な研究を進めた結果、ついに1995年に画期的なマラリア対策の蚊帳(オリセット®ネット)の開発に成功しました。
オリセット®ネットは、従来のマラリア対策の蚊帳とは異なり、繊維に薬剤を浸すのではなく、繊維にペルメトリン製剤を練り込むことで、薬剤が内側から徐々に染み出すので、繰り返し洗濯しても5年間防虫効果が持続します。この画期的な発明により、蚊帳を繰り返し薬剤に浸す手間が省けます。そしてポリエチレンという繊維を使用することで、丈夫で破れにくい蚊帳を作ることができました。また、マラリアが多く発生している熱帯地方では、日本のように目の細かい蚊帳では通気性が悪く、寝苦しく感じてしまい、かえって蚊帳を使用しなくなる可能性もあります。そこで、蚊が入ってくることができず、通気性にも適した大きさを検討した結果、4mm×4mmの目の大きさを採用するなど、使用する人の立場に立って作られています。
当初は会社の定款に蚊帳を販売するという項目がなく、また日常的に生産するわけではなかったので、オリセット®ネット専用の製造ラインを確保することもできませんでした。そのため単価が高くなり、製品に対する評価が高かったにもかかわらず、なかなか製品として販売することができませんでした。しかし2000年にWHOの推薦を取り付けることができ、ようやくオリセット®ネットが日の目を見るようになったのです。
何がそこまで伊藤さんを突き動かしたのですか、という問いに、伊藤さんは、「実は私は船乗りになってインド洋の夕日を見たいと考えていました。マラリアを研究せよ、といわれた当時は、サウジアラビアでマラリアが流行していました。そうしたら急に頭の中にサウジアラビアの砂漠の夕日のイメージが浮かんだんですよ。そして是非マラリアの研究の一環としてサウジアラビアに行きたいと考えるようになりました。それがなかったらマラリアや蚊帳の研究をここまで続けなかったかもしれません」と少し照れながら答えてくださいました。
住友化学ではこれまでに、世界で約2,000万張りのオリセット®ネットを出荷しています。伊藤さんは、感染が予防できれば、その分の治療費を他のことに回せると指摘します。「そうすれば、元気に仕事ができます。そして収入が増えたり、子どもを学校に通わせることができるかもしれない。このように生活が好循環になってくれればいいですね」。マラリアが世界中からなくなるまで、1枚でも多くの蚊帳が使われることを伊藤さんは願っています。
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現地で蚊帳を使用している家庭を訪れる伊藤さん(写真右、ベトナム)(写真提供 : 伊藤さん)
オリセット®ネットを実際に使ってみる子どもたち
(写真提供 : 住友化学株式会社)
タンザニアにあるオリセット®ネットの工場。アフリカにおける雇用創出にもつながっている (写真提供 : 住友化学株式会社)
注 : 2005年WHO/UNICEF推計。