columnI-8 ベトナム国市場経済化支援開発調査(石川プロジェクト)体験談~一橋大学名誉教授 石川滋 先生
ベトナム国市場経済化支援開発調査(1995-2001:以下「プロジェクト」)が始まったのは、ベトナムが30年の戦乱に続く南北統一とその復興に20年余を要した復員・経済復興(とくに超インフレと食糧農業危機の克服)の成功を土台として、ようやく長期の経済再建にとりかかろうとした時期だった。ベトナム首脳部はすでに1986年、「ドイモイ(刷新)」という名前の政策の下に国是とする計画経済体制を自由化する大方向を決めていたが、内外にわたる具体的な再建のステップの用意はなかった。首脳部は日本政府に対して、1996年に始まる「第6次5か年計画」の立案実施についての助言を要請した。
一方、日本政府は要請を承諾したものの、このように包括的な政策支援は既存の政府開発援助(ODA)のモダリティの中に存在せず、とりあえず国際協力事業団(当時)(JICA)の社会開発事業の枠組みを通して実施することを決めたが、「プロジェクト」の実質的な活動内容や枠組み(すなわち後に「知的支援(あるいは協力)」と呼ばれるようになった事業の実質的なステップ)は初めには明らかでなかったと思う。そこでまず決められたのは、「助言」にあたる日本側のアカデミックス(のちほぼ20名の規模となる)の人選であり、「プロジェクト」の実質的中身はその活動と併行して徐々に形成された。
知的協力という視点でこの「プロジェクト」の特徴を一言で表現するとすれば、それは日本側アカデミックスとそのカウンターパートとして指名されたベトナム側の高級専門家(実際には政府計画投資省の局長・研究所長など。双方のメンバーはそれぞれマクロ経済、財政・金融、産業貿易、農業、国営企業などの専門部会に分属された)とによる「日越共同研究」という活動様式を日本側の全員が終始、堅持したことだろう。これは現状診断のための調査の題目や方法の決定・実施、政策立案の研究とオプションを含む提案の策定の全てにわたったが、背景となった認識は、日本側アカデミックスは大部分が経済学のディシプリン別の専門家であってベトナムの現実については素人であり、調査から政策提言にいたる各段階で、越側と相互の比較優位を尊重しあっての緊密な協議を不可欠とするということだった。(例外が少しある。越首脳部の直接の緊急要請で日本の経験に照らしての政策助言を我々に求めてきた時など。1997年のアジア金融危機の際にそれだった。)このような共同研究を通じてカウンターパートとの間の深い信頼関係と友情が築かれた。
「プロジェクト」の中での想い出を2つ記したい。1つはベトナムの最高指導者であったド・ムオイ党書記長から受けた好誼である。
実はこのプロジェクトに先立って私はJICAのベトナム国別援助研究会の主査を務め、その最終報告書が1995年3月にできた。ド・ムオイ書記長が国賓として訪日された際、同行された当時駐越大使の要請でそれを献呈し、骨子を説明した。「プロジェクト」が始まってから私は合計9回にわたって訪越したが、その度ごとに表敬し、数時間にわたる対話があったが、その皮切りがそれであった。
いま1つは世銀・IMFとの協調を要した関係である。ベトナムへの知的協力にあたって総括主査としての仕事の大きな部分を占めたのは、知的協力の有力パートナーであった国際機関、特にこの2つの機関との緊密な連絡と対話を続けることであった。世銀とは本部の東アジア・太平洋局チーフエコノミスト及びハノイ駐在代表の2つのレベルにおいて、とくに最初の時期に緊密なやりとりがあった。我々の間には市場経済化支援という共通の大目的があったが、細部では調整と相互理解を必要とする問題があった。1998年3月にはハノイに出先をもつ4つの国際機関と越政府の代表を東京に招いて同じ目的の国際会議を開催した。これは成功だったと思う。

石川滋 先生