第3章 主要地域情勢

   1.アジア及び大洋州
【中国とその周辺】

 中国は近年インフレを抑制しつつ高い経済成長率を維持してきているが、同時に構造的な改革を要する種々の課題に直面している。こうした状況を踏まえ、98年3月に開催された全国人民代表大会(全人代)において選出された新たな指導部は、国有企業改革、金融改革及び政府機構改革を3年以内に終えることを決定し、人民解放軍を3年以内に50万人削減する方針を示した。一方、このような改革に伴い失業問題等が新たに生じることが予想され、今後中国がこうした困難を乗り越えていかに諸改革を実現していくかが焦点となる。また、アジア通貨・金融危機との関連で、人民元レートの動向が注目されたが、中国は切り下げを行わない方針を維持している。
 江沢民国家主席は、全人代に続き、クリントン大統領訪中(6-7月)といった重要行事を順調にこなし、また、夏から秋にかけての大規模な洪水災害も乗り切り、政権の安定性は一層増していると見られる。97年に引き続き首脳往来が実現した米中関係に加え、朱鎔基総理の就任早々の訪欧、江沢民主席の訪露及び訪日等、中国は良好な対外関係を確保すべく活発な外交を行った。また、「中国の国防」(いわゆる国防白書)の発表、国際人権B規約の署名等国際社会の関心にも一定の対応をみせてきた。
 香港においては、政治面では返還後最初の立法会選挙が5月に行われ、総じて「一国二制度」は順調に機能してきていると言えるが、経済面では株価の低迷、不動産価格の下落等の動きが見られた。
 中台関係については、4月に窓口機関同士の交流が再開され、10月に台湾側窓口機関の辜振甫理事長が訪中し、中国側の汪道涵海峡両岸関係協会会長をはじめ江沢民総書記等とも会見するなど進展が見られた。また、台湾においては12月に台北・高雄市長選挙、立法委員選挙等が行われ、立法院では国民党が過半数を維持することとなった。
 モンゴルでは、バガバンディ大統領の訪日・訪中等をはじめとする積極的な外交が展開されたが、一方内政においては、7月から12月まで首相を選出することが出来ないという事態が生じた。

【朝鮮半島】

 韓国においては、厳しい経済状況の中で2月に金大中大統領が就任し、国民会議と自民連の両党による連立政権が発足した。これは韓国憲政史上選挙による初めての与野党政権交代であったが、「与小野大」という国会事情もあり金鍾泌(キム・ジョンピル)自民連名誉総裁の国務総理指名や国会議長の指名等を巡って与野党が対立し、政権発足後約半年の間国会が空転した。その後、野党議員の与党側への相次ぐ移籍に伴い、9月には連立与党が野党ハンナラ党を議席数で上回ることとなったが、与野党間の厳しい対立状況は、依然として継続している。また、経済については、ウォン/ドル・レートが一定水準で安定的に推移し外貨準備も増加するなど、一時期の通貨危機は脱した。現在、韓国政府は金融改革や財閥を含む企業の構造調整に取り組みつつ、失業・倒産の増加や内需低迷等の困難な状況の克服に向けて努力を傾注している。
 北朝鮮はますます不透明性・不可測性を高めている。9月の最高人民会議で、金正日労働党総書記が「国家の最高職責」とされる国防委員会委員長に再任された。また、金永南外交部長が最高人民会議常任委員会委員長に選出され、国家を代表し外交儀礼の前面に立つことになった。金正日総書記は軍を重視しており、軍の影響力や役割が増大しつつあると見られる。一方、労働党では党中央委員総会も開かれず、幹部の新人事も実施されないなど、権力機構内部でのその位置づけが不明確である。また、経済改善の兆しは見られず、外貨、エネルギー、原材料などの不足は依然深刻な状況にある。穀物生産は97年の水準をやや上回ったと見られるが、国際社会の支援を仰がざるを得ない状況に変わりはない。憲法改正により、経済を担当する内閣の権限が強化され、また限定的ではあるが一部経済管理システムの変更が試みられている。金正日総書記は10月以降経済関連の地方視察を増やしており、経済回復に意欲を見せているが、軍事中心の資源配分が転換されない限り画期的な成果を挙げることは困難と見られる。

【東南アジア】

 東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国は、97年に発生したアジア経済危機による政治、経済など様々な面での極めて深刻な影響への対応に迫られており、現在調整期にあると言える。最も重要な懸案である経済危機克服のための対応としては、ASEANの枠組みにおいて、経済危機克服を目的とした、域内経済活動の自由化、金融システムの強化等の具体的措置の導入が決定されている。また、12月にハノイで開催された第6回ASEAN公式首脳会議においても、政治的結束の強化、ASEAN自由貿易地域(AFTA)やASEAN投資地域(AIA)の実現目標年の前倒し等の経済危機克服のための域内協力の推進が合意された。
 ASEANには97年にラオスとミャンマーが加盟したが、特にミャンマーをめぐりASEANと欧米諸国との関係に軋轢が生じ、ASEAN内でもその対応について議論が活発化した。カンボディアのASEAN加盟については、12月のASEAN公式首脳会議において具体的な加盟の段取りにつき合意がみられ、「ASEAN10」が実現する見通しとなった。ASEANは、今後名実共に東南アジア地域全体を包含し、地域の安定と繁栄に貢献する安定勢力として、発展していくことが期待されている。
 また、98年は、東南アジア諸国において、経済危機の社会的影響が顕在化した年でもあった。特に、通貨ルピアが暴落し、生活物資不足や価格の急騰といった経済混乱に直面したインドネシアの国内政局は大きく揺れ動き、5月に30年以上にわたり統治を行ってきたスハルト大統領が辞任し、ハビビ副大統領が大統領に就任した。ハビビ大統領は政治、経済及び司法分野における抜本的な改革を推進する姿勢を明らかにし、11月の臨時国民協議会の決定を受け、次回の総選挙を99年6月7日に実施することを決定した。

【南西アジア】

 5月にインドとパキスタンが相次いで核実験を行ったことから、両国の緊張関係が一気に高まったが、7月の第10回南アジア地域協力連合(SAARC)首脳会合及び9月の国連総会の機会に印パ首脳会談が行われ、10月には印パ外務次官級協議が再開されるなど緊張緩和に向けて一定の進展が見られた。一方、経済面では、1月にインド、パキスタン、バングラデシュ三ヶ国の首脳の参加を得てビジネスサミットが開催されたことをはじめ、核実験後の7月の第10回SAARC首脳会合においては、南アジア自由貿易地域(SAFTA)実現への取組が再確認される等経済自由化と域内協力への動きが引き続き見られる。

【大洋州】  

 豪州では、アジア経済危機にもかかわらず好調な経済が維持され、現保守連合政権が10月の連邦議会選挙に議席を減らしながらも勝利した。この選挙において近年急速に躍進してきている極右のワン・ネーション党は、上院では新たに1議席獲得しつつも下院ではハンソン党首が唯一の議席を失うなどその弱体化が見られる。一方、アジア経済危機の影響を受けて今年マイナス成長に陥ったニュー・ジーランド(NZ)では、8月に連立政権が解消され、国民党は少数単独政権をかろうじて維持している。豪州とNZは、アジア太平洋経済協力(APEC)やASEAN地域フォーラム(ARF)等の枠組みに積極的に参加するなどアジア太平洋重視の外交政策を継続しており、日本と両国は、みなみまぐろ資源など立場を異にする問題はあるものの、3月のシップリーNZ首相の訪日、11月の高村外務大臣の両国の訪問や同月のAPEC首脳会議の際の小渕総理大臣とハワード豪首相の第一回定期首脳会談などを通じて良好で幅広い協力関係を発展させている。
 太平洋島嶼国では、国内政治は概ね安定的に推移しているが、脆弱な経済構造の改革が引き続き共通の課題となっている。また、島嶼国における環境問題や核軍縮への関心は高く、国際世論の形成に大きく関与している。

【アジア・欧州協力】

 96年3月に発足したアジア欧州会合(ASEM)は、4月にロンドンにおいて第2回首脳会合を開催し、両地域間の対話のフォーラムとしての礎を固めつつある。同会合では、アジア経済情勢が主要テーマの一つとなり、各国首脳はアジア諸国が市場の信認を回復するとともに、このような状況下においても保護主義を排除し、貿易・投資の自由化を一層促進するとの共通の認識を確認した。特に、日本はアジア経済回復の観点から、内需拡大に向け努力すること、アジア諸国の金融セクター改革支援の為設立されたASEM信託基金に関連し、世界銀行、アジア開発銀行の日本特別基金を通じた従来からの支援の増額を発表した。また、政治対話として、アジアと欧州が共通の関心を有する国際・地域情勢について首脳間で忌憚のない意見交換が行われた。さらに、中長期的な視野に基づいたASEMのあり方も検討され、ASEMの活動の枠組みを定めた「アジア欧州協力フレームワーク」が採択されたほか、21世紀に向けた中長期的ヴィジョンを策定するための「ヴィジョン・グループ」が発足した。
 日本は、第2回首脳会合までタイと共にアジア側の調整国を務めるなど従来よりASEMに貢献してきており、2000年の第3回首脳会合(於ソウル)の成功をはじめ、アジア欧州間の更なる協力関係の進展に向けて関係国と協力しつつ努力していく考えである。

   2.北米

【米国】

  • 米国内政
     米国においては、経済が基本的に好調な中で、教育、医療、社会保障(公的年金)制度が依然として内政上の中心課題であり、11月の中間選挙においても取り上げられたが、これらの分野で大きな進展は見られなかった。
     クリントン大統領は、1月の一般教書で、これまでの政権の実績として好調な米国経済や前年の財政均衡合意等を誇示し、今後取り組むべき政策課題として社会保障制度改革、医療保険改革、教育、選挙資金改革等を掲げつつ、今後見込まれる財政黒字については、社会保障改革実現までその全額留保を呼びかけた。これに対して、議会多数党の共和党は、大統領の掲げる政策は、財政均衡合意を逸脱し大きな政府を目指すものであるとして批判し、議会における法案審議は中間選挙を控えて次第に党派的な様相を深めていった。さらに、共和党内の政策を巡る意見の対立もあり、政策課題の多くは先送りされた。1月下旬に発覚したクリントン大統領と元ホワイトハウス実習生との関係を巡る問題は、前年来の選挙献金問題や衛星関連技術の中国移転疑惑と共に、連日のようにマスコミで報じられた。新たな疑惑の捜査のために任命されたスター独立検察官は、9月、議会に捜査報告を提出した。11月の中間選挙では、直前まで劣勢と見られていた民主党がクリントン政権とともに、前述の内政上の中心課題についての政策論議を通じて支持票の掘り起こしに努めたのに対して、共和党は、大統領の身辺問題に焦点を当てた選挙戦を展開した。民主党は予想外に善戦し、上院は現状維持、下院では中間選挙での政権党としては64年振りに議席増を果たした。共和党は両院で多数党には留まったものの、同党指導部の引責問題に発展し、94年の中間選挙での共和党大躍進の功労者であるギングリッチ下院議長が議長辞任及び議員辞職を表明した。一方、中間選挙の結果が共和党にとり厳しいものであったため、議会による大統領身辺問題への追及は軟化するとの見方が強まったが、その後民主・共和両党間の対立が激化し、12月、共和党が多数を占める下院本会議は大統領が偽証及び司法妨害を行ったとする大統領弾劾訴追条項を可決した。

  • 米国外交
     クリントン大統領が精力的に外交を展開し、訪中(6-7月)、訪露(9月)、日本及び韓国訪問(11月)などの外遊のほか、懸案であったNATO拡大の批准実現(4月)、大統領の仲介による北アイルランド和平合意(4月)及びワイ・リバー合意(10月)の成立、さらに、IMF向け180億ドル拠出の議会承認(10月)などの実績をあげた。
     また、8月には在ケニア、タンザニア米国大使館に対する爆弾テロの後アフガニスタン及びスーダンのテロ関連施設を攻撃し、12月には国連の査察への協力を拒否したイラクに対して軍事攻撃を行った。

  • 米国経済
     個人消費を中心に米国経済は基本的に好調を維持した。失業率は4.5%と歴史的な低水準で推移し、物価も安定した。株価も高水準で推移したが、アジア経済の低迷に加え、ロシア経済の混乱や中南米などの新興市場への信認低下から、8月末に急落した。9月以降、連邦準備制度の3回の金融緩和によって株価は回復し、11月下旬には最高値を記録した。好景気による税収増と歳出の削減を背景に、98会計年度(97年10月-98年9月)には連邦財政は29年ぶりに黒字化し、黒字額は過去最高の700億ドルとなった。しかし、財政黒字の使途をめぐり、社会保障制度のための留保を主張する政府・民主党と減税による納税者への還元を主張する共和党が対立したが、結局、99会計年度の歳出法には既存の税制優遇措置の延長のみが盛り込まれた。一方、米国の貿易赤字は97年に史上最高額を記録した後も拡大傾向にあり、対日貿易赤字も96年10月以降再び拡大している。今後の景気動向次第では、米国内で保護主義圧力が増大する可能性がある。

【カナダ】

 カナダでは、クレティエン首相の率いる自由党が高い支持率を維持して安定した政局運営を行った。単年度としては27年振りに財政赤字解消に成功し、また、国内需要の伸びは鈍化したものの、対米ドル・レートの下落、好調な米国経済に支えられ輸出が伸び、実質GDP3.0%の成長を記録し、全体として経済は順調に推移した。失業率は依然8%台にあるものの漸減傾向にある。外交面では、従来より積極的に取り組んできている国連平和維持活動や対人地雷問題に加え、最近では平和構築や人間の安全保障の構想に焦点を当てている。これらの問題への取組をも含め、カナダは安全保障理事会非常任理事国(99年任期開始)として国連を通じた外交政策を強化することが予想される。また、カナダは北米自由貿易協定(NAFTA)を通じての北米市場統合の推進、米州自由貿易地域(FTAA)構想や大西洋経済パートナーシップ(TEP)構想への積極的な参画、WTO等多国間の枠組みでの自由化推進等を経済外交の主な柱としている。日加関係については、2月にアックスワージー外相が訪日して日加外相会談が行われたほか、11月のAPEC会合の際に日加首脳会談及び外相会談が行われた。また、9月に日加両国の官民が参加して「平和と安全保障に関するシンポジウム」が開催され、10月に賢人会議「日加フォーラム」の第2回会合が開かれるなど、日加間の協力分野も拡大している。経済関係も基本的に良好であるが、日本の対カナダ輸出が順調な伸びを示す一方、日本の輸入の減少が目立った。

   3.中南米

 98年は、中南米地域の安定と繁栄に向けた動きとグローバリゼーションの負の側面が同時に現れた年であった。また、民主化をめぐる動き、ハリケーン被害、エル・ニーニョ現象や修好・移住記念周年を契機とした日本と中南米諸国との関係強化など98年を通じて多くの動きが見られた。

【地域の安定と繁栄に向けた動き】

 1月のローマ法王のキューバ訪問や3月の米のキューバ制裁緩和措置の発表等にみられる一連の動きもあり、キューバを取り巻く国際環境やキューバ側の動向に一定の好ましい変化があった。日本も10月にキューバと初の二国間政策対話を実施した。麻薬取締を強化しているペルーは97年までにコカ栽培を最盛期に比べて4割削減することに成功しているが、11月にブラッセルにおいてペルー麻薬対策支援国会合が開催され、日本の14億4000万円の無償資金協力を含め国際社会による支援が表明された。19世紀から懸案となっていたペルー・エクアドル国境紛争については、95年以来交渉が継続していたが、国境画定・和平を目指してフジモリ・ペルー大統領とマワ・エクアドル大統領が直接交渉に乗り出し、アルゼンティン、ブラジル、チリ、米の4保証国が首脳レベルで調停を行った結果、10月に最終和平合意に達した。11月には町村外務政務次官がエクアドルを訪問し、歴史的な和平成立の支持と和平合意の実施に向けた支援の姿勢を表明した。また、日本のイニシアティヴにより7月及び10月に開催されたインドとパキスタンによる核実験への中長期的対応を検討するためのタスクフォースに、中南米からブラジルとアルゼンティンが参加したほか、11月にアルゼンティンにおいて第4回気候変動枠組条約締約国会議が開催される等、中南米諸国による国際問題への積極的な関与が見られた。

【経済的交流の推進】

 経済面では、4月にチリのサンチアゴで開催された第2回米州サミットにおいて、2005年までに米州自由貿易地域(FTAA)を創設するための具体的交渉の開始が決定され、中南米を含む米州全体の経済統合プロセスは新たな段階に入った。このような動きの中で6月に東京において日本と中南米との経済関係の強化を目的とするシンポジウム(日本輸出入銀行・米州開発銀行共催)が開催され、日本からの多数の参加はもとより、中南米諸国からフジモリ・ペルー大統領、サンギネッティ・ウルグアイ大統領をはじめとする政界・経済界からの参加を得て、大いに経済関係強化の気運が高まった。また、10月、ブラジルにおいて日本とメルコスール(構成国:ブラジル、アルゼンティン、ウルグアイ、パラグアイ)との間で政府間会合が開催されたほか、11月のAPEC会合の前後に日本とメキシコ及びペルーとの二国間首脳会談が行われるなど、アジア太平洋協力の枠組みを通じた日本と中南米諸国との関係強化も進んでいる。

【グローバリゼーションがもたらす負の側面】

 第2回米州サミットにおいてはFTAA交渉の開始が一つの大きな焦点となったが、他方で所得格差の拡大や貧困の問題などグローバリゼーションのもたらす負の側面も取り上げられ、これらの問題解決に当たって初等・中等教育が果たす役割が重要であることが強調された。このように、米州においては、グローバリゼーションの負の側面を克服しつつそのダイナミズムを最大限活用して経済自由化を進めていくとのバランスのとれた対応を目指している。一方、8月以降、中南米諸国において株価が急落し、大量の資金が流出した。これはアジアやロシアの経済危機が、新興市場諸国全体に対する信認低下を招き、中南米諸国の経済基盤の脆弱性(財政赤字、経常赤字、石油・銅等の一次産品価格の下落、メキシコにおける金融機関の不良債権問題等)への危機感を高めたことによると考えられる。最も深刻な影響を受けたブラジルは、政策金利の大幅な引き上げ、均衡財政を目指す財政調整プログラム等の対策を相次いで対策を発表し、これを受けてG7、IMF等が総額410億ドルを上回るブラジル支援策を発表した。しかし、依然として不安定な状況は続いており、ブラジル経済の信頼性を回復するためには、財政調整プログラムの早期実施や経常収支赤字の削減が必要不可欠とされている。世界経済全体の不安定化につながる危険性をはらむブラジル経済の今後の動向に注視していく必要がある。

【中南米諸国の民主化をめぐる動き】

 10月、英国滞在中のピノチェット・チリ終身上院議員(元大統領)は、大統領時代の軍事政権下における殺害・失踪事件の責任を問われスペイン予審判事の要請を受けた英当局に逮捕された。これに対し、チリ政府は、ピノチェット議員の外交特権及び刑事裁判の属地主義の観点から一貫して同議員の早期帰国を求めてきている。この事件はまた、チリ国内における左右両派の対立を先鋭化させている。アルゼンティンにおいても、6月に、軍事政権下で殺害され、あるいは行方不明になった左翼活動家等の子供が密かに養子に出されていた事件にビデラ元大統領が関与していたとして逮捕されたが、これも過去の軍政下における人権抑圧を糾弾する動きの一つに数えられる。96年のクーデター未遂事件の首謀者であるオビエド将軍の処遇が懸案となっているパラグアイ、92年のクーデター未遂事件の首謀者であったチャベス氏が12月の大統領選挙で当選したヴェネズエラ、依然として政情が不安定なハイティ等これらの諸国の民主化動向に今後とも注目していく必要がある。

【エル・ニーニョ現象及びハリケーン被害】

 98年中、中南米諸国は多くの災害に直面した。今世紀最大と言われるエル・ニーニョ現象により、南米大陸は豪雨に見舞われ、ペルー、エクアドル、チリ、アルゼンティン、パラグアイでは洪水等大きな被害を受けた。9月にはハリケーン「ジョージ」がカリブ諸国を襲い、日本は被害が甚大であったハイティ、セント・クリストファー・ネービス、アンティグア・バーブーダ、ドミニカ共和国、キューバの5カ国に対し、日本は合計約6700万円の緊急援助物資の供与及び25万ドルの緊急無償資金の供与を行い、また、ドミニカ共和国に対しては国際緊急援助隊医療チームを派遣した。さらに、11月に中米諸国(ホンデュラス、ニカラグア、グアテマラ、エル・サルヴァドル等)を襲ったハリケーン「ミッチ」は、総計1万8000人を超える死者・行方不明者、670万人以上の被災者を出す等、甚大な被害をもたらした。日本は、これら4カ国に対して、合計約6000万円の緊急援助物資供与及び合計150万ドルの緊急無償資金供与を行った。さらに、ニカラグアに国際緊急援助隊医療チームを派遣し、ホンデュラスに対しては、国際緊急援助隊派遣法に基づき、自衛隊の部隊を国際緊急援助隊(医療・防疫チーム)として初めて派遣した。同部隊は、14日間の活動期間中4000人を超える患者の診療を行うとともに、首都テグシガルパ市の旧市街地中心部のほぼ全地域を消毒する等の成果を収め、ホンデュラス政府、国民より高く評価された。今回の派遣により、海外で大規模な災害が発生した場合の国際協力の新たな形態として、自衛隊部隊の活動の実効性が裏付けられたことは意義深い。

【修好・移住周年を契機とした日本と中南米諸国との関係強化】

 日本は、従来より移住・修好記念周年記念行事を通じて中南米諸国との関係強化を図っている。98年は、ブラジルへの移住90周年、アルゼンティンとの修好100周年、メキシコとの修好110周年、キューバへの移住100周年に当たり、6月に小渕外務大臣がブラジルのサンパウロ等において開催された日本人ブラジル移住90周年記念式典にカルドーゾ・ブラジル大統領、ランプレイア同外相らとともに出席し、9月に秋篠宮同妃両殿下がアルゼンティン(日・アルゼンティン修好100周年記念式典への御臨席)を御訪問され、12月にメネム・アルゼンティン大統領が国賓として訪日した。

   4.欧州

【躍動する欧州】

 欧州では、98年を通じ、単一通貨ユーロの導入(99年1月からのEUの経済通貨統合の第3段階への移行)に向けて、欧州中央銀行(ECB)の設立などの準備が集中的に進められた。また、3月にEUの拡大交渉が開始され、年末に欧州の防衛協力の強化について英仏両国がイニシアティヴを取るなど、政治・経済・安全保障面で新たな秩序造りを目指した動きが顕著であった。9月末に行われたドイツ総選挙の結果、社会民主党と緑の党の連立によるシュレーダー政権が誕生し、EU15ヶ国中13ヶ国が中道左派政権で占められることとなった。その結果、EUにおいて雇用問題が最重要課題として位置付けられ、「雇用協定」の締結に向けEUレベルで協議が行われることとなった。

【欧州統合の進展】

  • ユーロ導入に向けた動き
     5月にブラッセルで開催された特別欧州理事会において、EU15ヵ国のうち、アイルランド、イタリア、オーストリア、オランダ、スペイン、ドイツ、フィンランド、フランス、ベルギー、ポルトガル、ルクセンブルグの11ヵ国が収斂基準を満たしてユーロに当初より参加することが決定された。99年1月からのユーロの導入により、ECBによる統一金融政策が実施されることになる。(ただし、ユーロ紙幣・硬貨の実際の流通は2002年1月からとなる。)これにより、域内市場の統合が加速化するとともに、米国に次ぐ世界第2位の経済規模を有するユーロ圏が誕生し、世界経済にも大きな影響を及ぼすものと予想される。しかし、ユーロ参加国は財政赤字を抑制する義務を負うことになるため欧州経済がデフレ傾向を示す懸念も排除されず、また、硬直的な労働市場の改善、各国税制や社会保障制度の調和等の構造問題への取組が今後の重要な課題となる。

  • EUの拡大
     EUは、エストニア、サイプラス、スロヴェニア、チェッコ、ハンガリー、ポーランドの6ヶ国と閣僚レベルの加盟交渉を開始した。加盟交渉は31章37分野においてEUの法令・制度(アキ・コミュノテール)との相違点を洗い出す作業(スクリーニング)を行った上で、交渉に移ることになっており、98年末までに、上記6ヶ国は3分野(科学・研究、中小企業、教育・職業訓練)の交渉を完了している。また、スロヴァキア、ブルガリア、ラトヴィア、リトアニア、ルーマニアの5ヶ国については、各国内での準備状況の進展を踏まえ、加盟交渉を開始するか否かを毎年決定することとなっている。なお、EU拡大に備えて、EU自身による財政改革が必要となっており、欧州委員会より提案された改革案である「アジェンダ2000」に基づき、99年3月の特別欧州理事会(ベルリン)で政治的合意を目指すこととなっている。

  • アムステルダム条約
     EU拡大に備え、EUの基本条約であるマーストリヒト条約の各分野での協力を一層強化する観点から、同条約を改訂するアムステルダム条約が署名され(97年10月)、99年中に全加盟国の同条約批准が終了するものと見られている。また、同条約が発効すれば、EUの共通外交・安全保障政策(CFSP)に建設的棄権(賛成はしないが、コンセンサスの成立を妨げず、結果には拘束されない)制度が導入され、またCFSPを担当する事務局長が任命されることとなり、共通の外交政策をより柔軟かつ効果的に実施することが可能になると見られる。

  • 防衛協力進展の兆し
     コソヴォ問題に関するEUの対応への反省などを踏まえて、10月、オーストリアのペルチャッハの非公式欧州理事会においては、欧州防衛協力を強化する重要性が改めて認識され、その後初のEU国防大臣会合が開かれた。また、12月のサン・マロでの英仏首脳会談において、欧州の防衛能力を高めていくことに関する共同声明が発出され、NATOや西欧同盟(WEU)といった枠組みとの関係を視野に入れつつ今後EU内で議論していくこととなった。

【NATOの動向】

  • NATO拡大
     98年中に、NATO加盟16ヶ国がチェッコ、ポーランド、ハンガリー3ヶ国の加盟議定書を批准した。今後NATOからの正式加盟招請を受けて、加入書への署名及び米国への寄託を行うことにより、これら3ヶ国のNATOへの正式加盟が実現することになる。

  • 新戦略概念の検討
     欧州の安全保障環境の変化に対応するため、NATOでは91年に採択された戦略概念の見直しが行われている。12月のNATO外相理事会において、集団防衛がNATOの根本であること、同時に危機管理・平和維持活動等の集団防衛以外の任務への取組をはじめとする新たな安全保障環境への適応も必要であることなど、新しい戦略概念に関する加盟国間の基本的な理解が形成された。一方、危機管理・平和維持活動への優先度の置き方、域外活動の範囲や武力行使の法的根拠等に関し、より積極的な立場を取る米国と、より慎重な立場を取る欧州との間の考え方の相違が明確化している。99年4月に開催される予定のNATO50周年記念の首脳会議において新戦略概念を採択すべく、今後さらに議論されることになる。

【欧州経済情勢】

 世界のGDPの約3割を占めるEU経済は世界経済の動向に大きな影響力を持つ。98年のEU域内のGDP成長率は2.8%と比較的堅調であったが、99年は世界的な経済情勢の悪化の影響を受けてやや減速するものと見られる。しかし、ユーロ導入に向け、域内各国で進められている財政健全化のための諸策が効を奏し、EUのファンダメンタルズは引き続き良好である。一方、失業率は依然として10%程度の高水準にあり、失業問題が引き続き欧州における最大の課題の一つである。こうした状況下、各国では失業対策・景気刺激重視型の経済政策を優先させる傾向にあり、「安定成長協定」に基づき財政健全化を進めるEUの政策と各国の雇用政策との間にジレンマが生じている。12月のウィーン欧州理事会においては「欧州雇用協定」の締結を目指していくこととなっている。なお、中・東欧諸国経済は全体的には堅調に推移している反面、民営化等経済改革に成功している国とそうでない国との間に格差が生じている。

【日欧関係】

 1月にブレア英国首相が英国祭UK98の開幕に合わせて訪日し、橋本総理大臣との日英首脳会談の後、「21世紀に向けての日英共通ヴィジョン」が発出された。橋本総理大臣は2度訪英し、4月の第2回ASEM首脳会合の際に日英、日西首脳会談、5月のバーミンガム・サミットの際に日英、日独首脳会談、9月の国連総会の際に、小渕総理大臣とブレア首相の間で日英首脳会談が行われた。このように、98年は、日英間でハイレベルでの交流が数多く行われるとともに、2月のイラク危機に際して日英が共同で安保理決議を提案し成立させるなど、政策面でも緊密な協調が図られた。特に5月には、27年ぶりに天皇皇后両陛下が英国を公式訪問され、日英関係にとって特別の年となった。
 また、98年は「日本におけるフランス年」と位置付けられ、4月にシラク大統領が訪日してパリのセーヌ河畔からお台場に移設された「自由の女神像」の点灯式を行うなど、各種文化行事が活発に行われた。
 日・EU間では、1月の日・EU定期首脳協議に加え、10月に日本側高村外務大臣他6閣僚、EU側ブリタン欧州委副委員長他2欧州委員(閣僚級)が参加した日・EU閣僚会議が東京で開催され、日欧経済関係、日EU協力等広範な問題について意見交換を行った。
 欧州地域諸機関との間でも、ハイレベルの交流が行われた。1月にアラゴナ欧州安全保障・協力機構(OSCE)事務総長、7月にタルシュス欧州評議会(CE)事務総長が来日した。また、日本は、12月にオスロで開催されたOSCE外相理事会に「協力のためのパートナー」としてオブザーバー参加した。

   5.ロシア・NIS諸国

【ロシア】

 98年、ロシアは政治面では2度の内閣改造とエリツィン大統領の健康不安、経済面では深刻な金融不安を中心に緊張した情勢を迎えた。その中で「ポスト・エリツィン」を睨んでの動きが活発化しつつある。

  • 内政状況
     3月、エリツィン大統領はチェルノムイルジン内閣を総辞職させ、キリエンコ燃料エネルギー大臣を首相候補に指名したが、共産党等の野党勢力の多い国家院はこれを2度拒否した。エリツィン大統領は国家院解散をもちらつかせつつ、キリエンコの首相承認を迫り、国家院は3度目にこれを承認し、国家院解散は回避されたが、その後の金融危機の深刻化を背景に、エリツィン大統領は8月にキリエンコ内閣を総辞職させた。大統領はチェルノムイルジン前首相の再起用を図ったが国家院の反発は激しく、結局、プリマコフ外相を首相にするとの政治的妥協を余儀なくされた。就任後プリマコフ政権は比較的安定した政権運営を見せている。一方、98年末にかけて、エリツィン大統領は体調不良や肺炎により執務の中断を繰り返しており、ロシアの内政に大きな影響を持つ同大統領の健康問題は引き続き注目を要する。このような状況の中で99年の国家院選挙、2000年の大統領選挙を睨んでの政治勢力の糾合や連携の動きが活発化しつつある。同大統領選挙については、エリツィン大統領の不出馬は確実であり、ルシコフ・モスクワ市長、レベジ・クラスノヤルスク州知事、ジュガーノフ共産党議長、ヤヴリンスキー「ヤブロコ」代表らに加え、有力候補者として名前が取り沙汰されているプリマコフ首相の今後の動向が注目される。

  • 経済状況
     インフレのさらなる沈静化、国内総生産の上昇への転化、為替レートの安定が実現した97年から一転して98年はロシア経済にとって厳しい状況となった。新興市場諸国を中心とする世界的な経済不安の中、原油の国際価格の下落による経常収支の黒字収縮や、財政赤字の増大等、ファンダメンタルズが悪化した。その結果、ロシア経済への信認は低下し続け、外国からの資金流入の停滞、さらには資本の引揚げを招き、5月末には金融不安が発生した。ロシア政府は1995年より財政赤字に短期国債の発行及び外国からの融資で対応してきたが、この短期国債の累積がその後の経済困難の主因となった。7月に発表されたIMF、世界銀行、日本による総額226億ドルの対露追加金融支援パッケージにより、情勢はひとまず鎮静化の方向に向かったものの、8月に入りロシア経済への信認はさらに低下し、国内銀行システムが混乱に陥る等深刻な状況となった。8月17日、ルーブルの実質的切下げ及び一部対外債務支払い凍結を含む一連の措置が発表されたが、経済混乱を収拾することはできなかった。プリマコフ首相は11月に経済困難克服のための一連の措置を発表したが、その実施の見通し及び効果については予断を許さない。また、経済再建のために必要不可欠とされるIMFとの交渉は継続されている。今後、プリマコフ内閣がこれら一連の措置を着実に実施し、市場の信頼を回復できるか否かが注目される。

  • 対外関係
     98年、ロシアは引き続き国益重視と多極世界の構築を目指す全方位外交の推進を外交の基本に据え、独立国家共同体(CIS)諸国との関係推進のほか、に欧州、アジア太平洋諸国との関係強化にも努めた。5月、エリツィン大統領は、外務省での演説の中で、領土保全、安全保障、ロシア社会の民主化、改革の実施、ロシア経済の世界市場経済への統合などを確保するためにダイナミックな全方位外交の展開が必要であると指摘した。一方、インドとパキスタンによる核実験、コソヴォ問題、イラクの大量破壊兵器査察問題などでは、米国による一極支配への反発も見られた。また、NATOの東方拡大反対の姿勢も引き続き堅持された。CIS諸国、G8諸国、アジア諸国等との二国間関係のほか、EU、アジア太平洋経済協力(APEC)との関係強化にも努力が傾けられたが、とりわけ中国、インドとの関係発展がめざましかった。

【NIS諸国】

 98年中、幾つかのNIS諸国においては政情の不安定化が見られた。2月、グルジアでシェヴァルナッゼ大統領の暗殺未遂事件が発生し、また、同月、アルメニアで、ナゴルノ・カラバフ問題の処理をめぐり、テルペトロシャン大統領が辞任して、強硬派のコチャリャン大統領が就任した。タジキスタンでは、97年に達成された和平プロセスの進行がはかばかしくなかったことに加え、和平プロセスに参加していない武装勢力や同プロセスに従わない武装勢力が、政府要人等を誘拐・暗殺し、7月に秋野国連タジキスタン監視団政務官等国連職員の殺害事件も起きた。11月に、北部においてウズベク系武装勢力により政府機関が一時占拠される事件も起きた。一方、アゼルバイジャンでは、10月に大統領選挙が行われ、現職のアリーエフ大統領が再選されるなど、その他のNIS諸国での政情はおおむね安定していた。
 経済面では、各国とも98年前半は前年に引き続いて回復の兆しが見られたが、後半になると、ロシアの金融不安、自然災害、農産物の不作等の影響により、程度の差はあるものの経済回復にかげりが見られた。なお、キルギスでは、10月に中央アジア諸国で初めて土地私有制を柱とする憲法修正案が国民投票によって承認された。
 CIS統合の動きについては、4月にモスクワにおいてCIS首脳会議が開催された際、ロシア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス間の関税同盟にタジキスタンが加入することが原則合意されたが、統合強化の動きは大きな流れにはならなかった。
 日本との関係については、2月にアゼルバイジャンのアリーエフ大統領、10月にキルギスのアカーエフ大統領が訪日した。一方、日本からは、4月に豊田経団連会長がカザフスタン、ウズベキスタンを訪問するなど民間レベルでも交流が進んだ。8月に武見外務政務次官がタジキスタンを訪問し、秋野国連タジキスタン監視団政務官殺害事件の早期解決を求めた。

   6.中近東

 中東地域は、日本の原油輸入の8割以上を供給しており、エネルギーの安定供給の上で死活的な重要性を有しているのみならず、国際社会全体の平和と安定にとっても極めて重要な地域である。このような認識から、日本は、この地域との関係を一層強化すると同時に、この地域の平和と安定の確保のために積極的に関与している。

【中東和平を巡る動き】

 91年に開始された中東和平プロセスは、パレスチナ暫定自治原則宣言、イスラエルとジョルダンの平和条約締結などの重要な成果をあげてきたが、イスラエルのネタニヤフ政権による97年3月の東エルサレムのハル・ホマ入植地建設を契機に、イスラエル・パレスチナ間交渉は中断した。97年9月には和平交渉が再開されたが、西岸におけるイスラエル軍の更なる再展開(撤退)、治安問題、入植地建設問題等の懸案を巡り交渉は停滞を続けた。
 98年10月に、クリントン米大統領の仲介により、ワシントン近郊のワイ・リバーにおいてイスラエル・パレスチナ間の懸案事項に関する合意(ワイ・リバー合意)が成立した。その後、11月にイスラエル軍の西岸における再展開(撤退)が一部実施され、ガザ国際空港が開港し、また、パレスチナ人の憲法に相当するパレスチナ憲章中のイスラエルを敵視する条項が削除される等、ワイ・リバー合意に沿った一定の進展も見られ、パレスチナ支援閣僚会合の開催など国際社会の支援努力も行われた。しかし、ワイ・リバー合意の実施をめぐりイスラエル政府内で対立が生じ、合意の実施は事実上凍結されることなった。また、ネタニヤフ政権は左派の野党労働党のみならず与党内の極右派からも批判され、12月にイスラエル議会が解散法案を可決する事態となった。2000年に行われる予定であった総選挙は99年5月に行われることとなったため、それまでの間、和平プロセスの大きな進展は難しいと見られる。一方、96年3月以降交渉が中断しているイスラエル・シリア間交渉については4月にイスラエル軍の南レバノンからの撤退を求める安保理決議425をイスラエルが条件付きで受け入れるという動きはあったが、その後も交渉再開の目途は立っていない。
 日本としては、中東和平進展の一翼を担う観点から、様々な機会を捉え当事者に和平努力を働きかけるとともに、イランなどの周辺国に対しても和平プロセスに対する前向きな姿勢を慫慂している。また、日本は、和平に向けた環境作りのために当事者に対する経済協力を実施してきており、パレスチナ支援としてこれまで3億8千万ドル以上の協力を行っているほか、98年11月のパレスチナ支援閣僚会合で、さらに今後2年間に2億ドルを目途とした支援を行う方針を発表した。和平の先駆者でありイスラエル・パレスチナ両者と良好な関係を保つジョルダンに対しても、引き続き支援していく方針である。さらに、96年のパレスチナ評議会選挙への選挙監視要員の派遣やゴラン高原の国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)要員等を派遣するなどの人的貢献を進めているほか、日本が作業部会の議長を務める環境分野を含め、観光、水資源分野などの多国間協議にも積極的に参加している。

【イラン】

 イラン国内では、春頃より「市民社会の形成」、「法の支配」等を掲げるハタミ大統領の改革路線に対する保守強硬派の巻き返しが強まり、権力抗争が激化した。ハタミ大統領は、今後も改革の推進に努めると見られるが、石油価格の低迷の影響を受けた経済状況の悪化もあって、困難な政局運営を余儀なくされている。
 外交面では、ハタミ政権は、「文明間の対話」、「緊張緩和」の方針を打ち出し、特に近隣諸国との善隣外交で前向きな成果を挙げた。EUとの間でも、次官級の対話が軌道に乗り、また、フランス、イタリア等を中心としたEU加盟各国との間で経済、政治面において積極的な二国間交流に乗り出している。断交状態が続いている米国との関係では、ハタミ大統領が1月に米国国民との対話を呼びかけて以降、両国間の民間交流は活発化しているが、米政府による対イラン経済制裁が依然として継続されていることを理由に、イラン側は政府間の対話を拒否しており、その実現の目途は立っていない。
 日本は、地域の大国であるイランとの関係を重視しており、友好協力関係の維持に努めるとともに、同国が国際社会への一層の建設的関与を進め、地域の安定に貢献するよう、対話を通じた働きかけを行っている。98年、高村外務政務次官、経団連ミッション、衆議院外務委員会のイラン訪問、ハラズィ外相の訪日等の活発な人的交流を通じて日・イラン関係は幅広い分野で進展した。

【湾岸協力理事会(GCC)諸国】

 日本は、サウディ・アラビア、アラブ首長国連邦、カタル、クウェイト、オマーン、バハレーンからなるGCC(事務所本部はリヤドに所在)6ヶ国に原油輸入の約7割を依存している。日本は、97年11月の橋本総理大臣によるサウディ・アラビア訪問及び同総理の特使によるその他GCC諸国の訪問を踏まえ、これらの諸国と政治、経済及び新分野(教育・人造り、環境、医療・科学技術、文化・スポーツ)における多角的・包括的な友好協力関係の構築を積極的に推進している。98年には、アブドッラー皇太子、サルマン王子(リヤド州知事)をはじめとするサウディ・アラビアの政府要人が多数日本を訪問したほか、クウェイトからサバーハ第一副首相兼外相が訪日するなど、人的交流を中心に日・GCC諸国間関係に着実な進展が見られた。

   7.アフリカ

 民主化の一層の進展や着実な経済成長などの「新しい風」が定着し、主体的な国造りの努力が成果を上げた諸国がある一方で、エティオピア・エリトリア間の国境紛争、ギニア・ビサオにおける内戦、コンゴー民主共和国(旧ザイール)をめぐる紛争などが新たに勃発し、解決すべき課題が依然として多く残されていることが明らかになるなど、98年はアフリカ諸国間の格差が顕著に現れた一年であった。

【98年の動き】

 政治面では、シエラ・レオーネにおいて97年5月に軍事クーデターにより首都を制圧した政権が、2月に西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の監視団(ECOMOG)により駆逐され、3月に民主的に選出された大統領が帰還したことや、6月に内戦が勃発したギニア・ビサオにおいて周辺諸国及びECOWASの仲介努力により和平に向けて進展がみられたこと等、アフリカ諸国自身の紛争解決努力が一定の成果を挙げた。また、アフリカ最大の人口を有する大国ナイジェリアにおいて、急逝した元首の後を継いだ新元首の下で、政治犯の釈放、複数政党制下での地方選挙の実施等、99年5月の民政移管に向けての具体的な進展がみられたことは明るい動きであった。
 一方、5月にエティオピアとエリトリアとの間で国境画定をめぐる武力衝突が発生し、またコンゴー民主共和国(旧ザイール)においては、97年5月に成立したカビラ政権と東部の反政府勢力との間で8月に武力紛争が発生し、周辺諸国をも巻き込んだ形で戦闘が拡大した。このように、依然としてアフリカにおいては開発の前提でもある政治的安定の実現・維持が大きな課題となっている。
 こうした事態を受け、アフリカの紛争問題への取組についての国際的議論が国連安保理等で活発に行われた。またアフリカ統一機構(OAU)、西アフリカ諸国経済共同体、南部アフリカ開発共同体(SADC)等の地域的機関及び周辺国による主体的な紛争解決努力が行われたが、具体的成果を生むには至っていない。
 経済面では、約20ヶ国が97年一年間に5%以上の成長率を達成し、また多くの国が世界銀行・IMFと協議しつつ、市場経済原理の導入、政府機構の簡素化等を中心とする構造調整政策を進めるなど、好ましい動きが見られる。
 しかし、サブ・サハラの人口の約4割が絶対的貧困(一日の所得が1ドル以下)にあるという深刻な状況に大きな改善はみられず、貧困の解消、持続的成長を実現するためのインフラ整備、教育制度の充実などの人造り強化等が依然として重要な課題となっている。

【日本との関係】

 日本は、従来より、アフリカの安定と発展は国際社会全体が取り組むべき重要な課題と認識し、アフリカ諸国自身の主体的な努力を積極的に支援してきている。
 このような立場から、安定と平和の分野では、1月に東京で「紛争予防戦略に関する東京国際会議」を開催し、国連と地域機関がアフリカ諸国の紛争予防能力、特に早期警戒能力を向上することなどを勧告する報告書をまとめた。また、OAU平和基金等への拠出を通じて、紛争解決に向けてのアフリカ諸国自身の努力を支援したほか、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を通じた難民救援活動の支援など国際機関を通じた積極的な支援を引き続き行った。
 また、日本は、アフリカにおける発展を実現していくためには、政治的安定と経済的発展の双方を含む包括的なアプローチが必要との立場から、国際社会が対等なパートナーシップの中でアフリカ諸国の主体的努力を支援していく方途を模索すべく、10月に第2回アフリカ開発会議(TICADⅡ)を東京で開催した(第1章2.(5)参照)。同会議において、小渕総理大臣は、日本独自の具体的支援策を提示し、アフリカの安定と発展に向けた国際的取組における日本の主導力を改めて強く打ち出した。