第3章 主要地域情勢
   1.アジア及び大洋州
    (1)中国とその周辺国・地域

 中国は、近年目覚ましい経済発展を遂げてきているが、一方で、イデオロギー面での求心力低下が指摘される中、国有企業改革、失業対策、大規模不良債権処理等の深刻な課題にも直面している。こうした中国にとって97年は、香港返還(7月)と第15回共産党大会(9月)という重要な行事を迎えた年となった。
 2月に改革・開放政策の提唱者である鄧小平氏が死去したこともあり、その影響が注目されたが、江沢民国家主席を中心とする指導部はこれら重要行事を無事乗り切り、更に安定度を高めている。一方、党大会で打ち出された株式制導入を含む国有企業改革等は容易な問題ではなく、今後いかにこれを実施していくかが鍵となろう。
 外交面では、中国は、経済建設に必要な安定的な国際環境を求める全方位外交を展開している。また、WTO協定への加盟に意欲を示すとともに、APEC等地域協力の枠組みでも積極的に活動している。
 97年は、日中国交正常化25周年に当たり、両国総理の相互訪問を始め、一層密接な交流が進展した。中国は、「日米防衛協力のための指針」の見直しに懸念を示してきたが、我が国は見直し当初から様々なレベルで詳細な説明を行い、一定の理解を得た(日中関係については第1章2.(2)参照)。
 米中関係では、江沢民主席が10月末から米国を訪問し、人権等の分野で意見の相違を残しつつも、高いレベルの定期的対話の制度化といった面で成果を得た。また、中露関係では、4月には江沢民主席の訪露、11月にはエリツィン大統領の訪中があり、中露東部国境画定作業終了が宣言され、経済面等での協力を更に推進していくことで合意をみた。
 香港は7月1日に中国に返還され特別行政区として再出発した。一時、アジアの通貨不安の影響による株価下落もあったが、「一国二制度」は基本的に順調に機能しているものと見られる。95年以降冷却化した中国と台湾の関係にも、改善を模索する動きが見られる。
 日本との外交関係樹立25周年を迎えたモンゴルでは民主化と市場経済化が着実に進展し、5月の大統領選挙では、野党候補が当選した。

    (2)朝鮮半島

 97年の韓国の国内政局は12月の次期大統領選挙を巡って展開した。1月に発覚した「韓宝(ハンボ)事件」は、政界を巻き込む巨大不正疑惑事件に発展し、政経癒着の構造が明るみに出される中で、現職大統領の次男の不正蓄財や国政への介入も明らかとなった。与党新韓国党は李会昌(イ・フェチャン)氏を大統領候補としたが、同党の候補者選考で第2位であった李仁済(イ・インジェ)氏も新党を結成し、独自に立候補した。一方、野党側では、金大中(キム・デジュン)、金鍾泌(キム・ジョンピル)両候補の連合により、金大中氏への候補者一本化が行われた。12月18日の投票の結果、国民会議総裁の金大中候補が大統領に選出され、与野党間の政権交代、全羅道出身の大統領が初めて実現することとなった。
 韓国においては、経済面では、97年に入り、中堅財閥の倒産が相次ぎ、金融機関の不良債権累積問題が深刻化したことを背景として、11月に入りウォン安、株安が急速に進んだ。韓国政府はIMFに支援を要請し、12月3日には両者間で経済調整プログラムが合意され、総額580億ドルを超える支援パッケージが取りまとめられた。
 北朝鮮では、7月に故金日成主席の喪明けが宣言され、10月には金正日氏が労働党総書記に選出された。経済面では、97年夏の高温・干ばつによる穀物被害が伝えられる等、食糧・エネルギー不足が依然深刻と見られている。また、2月に黄長火華(ファン・ジャンヨプ)書記、8月に張承吉(チャン・スンギル)駐エジプト大使といった高官の亡命も発生した。

ASEAN歴訪に際しシンガポールにて政策演説を行う橋本総理大臣(1月)     (3)東南アジア

 東南アジア諸国連合(ASEAN)は、97年、創設30周年を迎え、引き続き政治、経済、社会といった幅広い分野で域内協力を推進している。政治や安全保障面では、東南アジア平和・中立・自由構想(ZOPFAN構想)の実現に努めるとともに、経済面では、ASEAN自由貿易地域(AFTA)、ASEAN投資地域(AIA)、ASEAN産業協力スキーム(AICO)等、域内の貿易や投資を一層促進するための取組を進めている。12月、マレイシアで開催されたASEAN首脳会議では、以上のようなASEANのイニシアティブを内容とした「ASEAN・ヴィジョン2020」が発表された。
 97年には、ASEANは7ヶ国から9ヶ国に拡大した。当初は、ASEAN設立当初からの目標であった東南アジア全10ヶ国に拡大する機運があり、5月31日のマレイシアにおけるASEAN外相会議において、カンボディア、ラオス及びミャンマーの3ヶ国同時加盟がいったん決定された。しかしその後、7月にカンボディア国内で武力衝突が発生し、結局同7月末にマレイシアで開催されたASEAN外相会議においてラオス及びミャンマーのみ加盟が認められ、カンボディアのASEAN加盟は先送りされることになった。
 日本は、東南アジア諸国と歴史的にも様々な分野で深い関係を有しており、毎年行われるASEAN拡大外相会議へ外務大臣が出席している。また、最近ではASEANが積極的な役割を果たしているASEAN地域フォーラム(ARF)やアジア欧州会合(ASEM)、またAPECの場を通じて積極的にASEANとの対話や協力を進めている。特にASEAN創設30周年にあたる97年は、1月に橋本総理大臣がブルネイ、インドネシア、マレイシア、ヴィエトナム及びシンガポールの5ヶ国を順次訪問し、その際日本として、ASEANとの関係緊密化を図ること、この地域の伝統・文化の維持・保存に努めること、地球規模問題に対し共同で取り組むことを内容とする「橋本ドクトリン」を打ち出した。12月にマレイシアで開催された日・ASEAN首脳会議では、アジア経済の動揺を踏まえ、アジアの通貨や金融の安定化のために日・ASEAN間で協力することや、ASEANが経済構造改革等を通じて安定的かつ持続的に発展できるよう日本としてASEANを支援することが表明された。
 カンボディア情勢については、既に96年からラナリット第一首相率いるフンシンペック党とフン・セン第二首相率いる人民党の二大政党間で98年の選挙を睨んだ確執が顕在化していたが、97年に入り、3月には首都プノンペンでテロ事件が発生する等の動きが見られた。これに対し、4月に高村外務政務次官がカンボディアを訪問し、両首相に対し、国内政治の安定化と98年の予定通りの選挙の実施に向けた努力と国内での協力を促した。その後6月にプノンペンで更に両政党間で小規模な衝突が発生した。このような動きの中で、デンヴァー・サミットにおいて、橋本総理大臣は、カンボディア情勢に対する憂慮を表明し、事態安定化のために総理特使の派遣を提案した。この提案は、シラク仏大統領やクリントン米大統領の支持を得たため、サミット8ヶ国を代表し日本及びフランスの特使がカンボディアに派遣された(日本の特使は今川元駐カンボディア大使)。両特使は、カンボディア両首相に対し、国際社会がこれまで多大な努力と犠牲を払って獲得したカンボディア和平を無に帰してはならないこと、国内安定化と98年選挙を予定どおり行うことが極めて重要であることといった国際社会のメッセージを伝達した。
 しかしながら、こうした働きかけにもかかわらず、二大政党間の軋轢は深まり、7月5日にはついに首都プノンペンで大規模な武力衝突が発生した。日本は、更に戦闘が激化した場合の在留邦人避難に備え、タイのウタパオ基地に自衛隊輸送機C-130を派遣した。プノンペンでの武力衝突は数日で終息し、8月にはラナリット殿下に代わりウン・フォット外務大臣が新たな第一首相として選出された。
 日本は、カンボディア問題については、何よりも国内の民生安定が重要であり、これまで内戦に苦しんできたカンボディア国民が再び過去の苦しみに後戻りしてはならないとの立場であり、事態の当初より、パリ和平協定の尊重、現行憲法・政治体制の維持、基本的人権の尊重、98年の自由公正な選挙の実施(この選挙により、1人の首相が選出されることとなる。)が必要である旨、カンボディア指導者に働きかけてきている。
 また、経済面では、7月にタイ・バーツの下落に端を発するアジアの通貨、株式市場、ひいては経済全体の動揺が発生し、その影響は世界全体にも及ぶこととなった(東アジアの経済情勢については第1章2.(5)参照)。
 12月にマレイシアで開催されたASEAN首脳会議でも、地域経済問題が議論の中心となり、会議終了の際、マニラ・フレームワークの早期実施を強く支持することなどを内容とする金融情勢に関する共同宣言が発表された。

    (4)南西アジア

 97年にはインド、ネパール、パキスタンで政権交代が行われたが、南西アジア諸国は引き続き経済の開放・自由化に努力しており、5月の第9回南アジア地域協力連合(SAARC)首脳会合では、南アジア自由貿易地域(SAFTA)を2001年までに実現することが決定される等、域内協力の強化に取り組んでいる。一方、この地域では、カシミール問題を抱えるインドとパキスタンの間で対話が再開され緊張緩和が見られたものの、両国の核開発疑惑等不安定要因は依然存在している。日本は、この地域の諸国との関係強化に努めており、2月にはインド貿易見本市に宮澤特派大使(元総理)以下多数の日本企業関係者が参加した。2月下旬から3月初旬には秋篠宮同妃両殿下がネパール及びブータンを訪問したほか、5月にはスリランカ、パキスタンに政府派遣経済使節団が派遣された。さらに7月にはハシナ・バングラデシュ首相が訪日し、また池田外務大臣が独立50周年を迎えるパキスタン及びインドを約10年振りに訪問した。

    (5)大洋州

 4月に橋本総理大臣が豪州及びニュー・ジーランド(NZ)を訪問し、また、10月には南太平洋フォーラム(SPF)加盟国・地域首脳を東京に招待して、初めての日・SPF首脳会議が開催されるなど、大洋州諸国との関係は一層緊密化した。豪州では、ハワード政権が先住権問題などの内政課題に取り組むとともに、3月にハワード首相が中国を訪問するなど、アジア太平洋重視の外交政策を継続している。日本との関係では、日豪首脳会談の定期化(原則として年1回)につき一致し、8月に開催された第14回日豪閣僚委員会では日豪の協力関係をとりまとめた「日豪パートナーシップ・アジェンダ」が採択された。NZでは、国民党内部でボルジャー前首相が退陣し、12月にシップリー国民党・NZ第一党連立新政権が誕生した。太平洋島嶼国では、パプア・ニューギニア、ソロモン諸島などで総選挙が実施され政権が交代し、政治の世代交代が始まりつつある。

   2.北米

 米国では、グローバリゼーションの負の側面に議論が集まった90年代前半と対照的に、経済の拡大を背景に、低失業率と高い経済成長率の実現という経済の構造的変化が指摘されるなど、経済を中心に楽観的な見方が進んだ。しかし、雇用の安定的確保に対する国民の懸念は消えておらず、所得格差の拡大等の問題の存在、国内の内向き傾向の継続も指摘されている。また、年の終わりにはアジア経済の混乱が米国経済に及ぼす影響についての議論が高まった。
 1月にはクリントン政権2期目が発足し、就任演説で、「21世紀への架け橋の構築」を目指すと述べ、2月の一般教書演説で、財政均衡等の当面の残された課題、最重要課題としての教育改革、次世紀に向けた課題(科学技術の振興、家族の絆・地域社会の強化)、NATO拡大等の外交課題に取り組む旨述べた。
 クリントン大統領は、好調な経済を背景に、財政均衡やNATO拡大等の政策課題を進展させ、中道路線の維持と小規模ながら国民に訴える課題を取り上げ、高い支持率を維持した。特に、90年代に入ってから米国政治の中心課題であった財政赤字削減については、景気拡大による歳入増が大きな要因であり、社会の高齢化に伴う問題が先送りにされたとの指摘もあるが、5月にクリントン政権と議会共和党の間で2002年までの財政均衡達成を目指す予算案が合意され、双方とも大きな成果として誇ることになった。
 他方、政治倫理・選挙献金をめぐる問題は党をとわず、報道や議会調査、司法捜査が行われ、国民の関心は低かったが政局の話題を多く占めた。選挙資金改革については、ソフト・マネー(規制対象外の政党の増勢のために使われるが実態的には選挙献金と区別し難い資金)の規制等を中心に議論されたが、選挙にかかる費用の増大は顕著であり、結局先送りになった。
 また、年後半には、大統領が中南米との通商拡大を目指すために重要視した通商一括交渉権限を獲得するいわゆるファスト・トラック法案が、雇用流失を懸念する労組や環境団体の反対により自党民主党の支持を得られず、97年中の投票が断念され、政策運営の難しさが現れた。
 ただし、94年に続いて、96年の選挙でも上下両院で多数党の地位を維持した共和党は、95年の予算協議における対決姿勢の後遺症や、党内保守派からの党指導部のクリントン政権への妥協の不満、同政権の共和党の政策課題の取り込み等により、依然勢いを回復していない。
 外交は、1月のクリントン政権2期目発足以来、1期目以上に精力的に展開された。6つの外交戦略目標として、(A)平和かつ民主的な統合欧州の構築、(B)アジア太平洋地域の安定と統合のための米国の役割強化、(C)主要地域(ボスニア、中東他)の和平構築支援、(D)テロ、麻薬、環境等、新しい安全保障上の挑戦への対応、(E)現代的で即応態勢の整った軍事力と効果的な外交のための予算確保、(F)開放された世界経済及び地域経済へ向けての努力を挙げつつ(バーガー国家安全保障大統領補佐官)、年初より精力的な要人外遊や国内広報が行われ、一定の実績を上げた。
 具体的には、クリントン政権は、(A)CWC批准、(B)NATO拡大、(C)対中MFN更新・江沢民訪米を含む対中関与政策の再確認、(D)ボスニア和平努力の再起動、(E)「日米防衛協力のための指針」の見直し、(F)四者会合の本会議開始、(G)COPⅢの議定書合意等を成果に挙げている。
 98年については、内政面では財政均衡合意という大きな政策課題の一応の決着により、改めて政策課題の提示が求められている。また、外交面では、(A)イラク、(B)アジア経済危機(IMF拠出)、(C)NATO拡大上院批准、(D)国連分担金滞納分支払い、(E)ボスニア(米軍の6月末以降駐留延長)、(F)ファスト・トラック(4月クリントン大統領チリ訪問)、(G)中東和平の他、(H)クリントン大統領の訪中(98年中)・アフリカ訪問(3月)・南アジア訪問(98年中)へ向けた準備等があるが、中には扱いが困難なものもある。既に、11月の中間選挙(上院34議席、下院全435議席、36州の知事改選)も影を落とし始めており、クリントン政権の舵取りが注目される。
 経済は97年も拡大し、5%前後の低失業率を維持しつつ、物価は総じて安定している。米国経済が歴史的な構造変化を遂げているとした「ニューエコノミー論」が盛んに取り上げられた。好景気による税収増と政府支出の削減努力により、97会計年度(96年10月~97年9月)の財政赤字は219億ドルと、クリントン大統領就任時の約2900億ドルから劇的に減少している。また、財政均衡合意を基に約1000億ドルもの減税を実施しつつも2002年度までに財政を均衡させるとした財政調整法も成立した。良好なマクロ経済環境、好調な企業業績、年金資金を始めとした旺盛な需要等により、株式市場は好調を維持しているが、香港市場の株式暴落、アジアの通貨危機等を契機として調整局面に入ったと見る向きもある。ドル高基調を背景に米国の貿易赤字は拡大傾向にあり、対日貿易赤字も96年10月以降再び拡大している。
 カナダでは、97年6月総選挙が行われ、クレティエン首相の率いる自由党が引き続き政権を維持することとなった。クレティエン政権は雇用創出を最重要課題に掲げつつ、財政赤字の削減、インフレ抑制政策の堅持等に積極的に取り組んでおり、国民の高い支持を得て、政局は安定的に推移している。ケベック州の主権(分離)問題については、今後もカナダ内政上の重要課題であることに変わりはない。他方、ブシャール同州首相は、主権(分離)問題を念頭に置きつつも、州経済の建て直しを最優先に取り組んでいる。外交面では、カナダは12月にオタワで行われた署名式において120カ国以上の国が署名した対人地雷全面禁止条約の作成に中心的な役割を果たした。また、11月にはAPECの議長国としてAPECヴァンクーヴァー会合を主催し、97年を「アジア太平洋の年」と位置づけて、同地域との関係強化に尽力した。
 日加関係については、モルガット上院議長の訪日(3月)、アックスワージー外相の訪日(4月)、APECヴァンクーヴァー会合出席に続く橋本総理大臣のカナダ公式訪問(11月)、APEC閣僚会議参加(11月)及び対人地雷禁止条約署名式出席(12月)のための小渕外務大臣の訪加など要人の往来も両国間で活発に行われた。橋本総理大臣訪加の際には、共同文書「21世紀に向けた日加関係の強化」が発表された。この他、在ペルー日本国大使公邸占拠事件への対応を協議するため、トロントで日ペルー首脳会談(2月)が行われた。

   3.中南米

 中南米地域では、90年代に入り民主主義が定着し、市場経済原理に基づく経済改革が行われ、経済統合が進展したが、97年も、これら3つの流れは継続し、さらに、域内協力の更なる進展が模索されるなど、より確実な経済発展への方向性が見られた一年であった。
 中南米諸国は、既にキューバを除いて民主主義体制に移行しているが、97年は、より強固な民主主義に向けての動きが見られた。メキシコでは、7月に行われた国政選挙で約70年にわたり政権を担当してきた制度的革命党(PRI)が議会下院で過半数を失いながらも、PRI出身のセディージョ大統領は、そうした選挙結果を同国で進めてきた政治改革の成果であると前向きに評価した。また、エクアドルでは、政情不安を引き起こしていたブカラン大統領が2月に議会によって解任され、一時混乱が生じたが、最終的には平和裡に事態が収拾されるなどの動きが見られた。なお、キューバについては、10月に行われた第5回共産党大会で、社会主義及び革命路線を堅持し、共産党一党体制を再確認するなど、民主化に向けた具体的な動きはこれまでのところ見られていない。
 一方、経済面では、アジアの通貨危機及びこれに伴う世界的な株価下落は、新興市場であるブラジル、アルゼンティン、メキシコにも少なからぬ動揺を与えた。しかしながら、こうした諸国は、80年代の債務危機、94年末のメキシコ通貨危機の教訓を踏まえて外国為替管理及び金融制度の強化に努めてきたことから、迅速な経済措置の発表や好調な米国経済に支えられるなどして、大きな打撃を蒙ることは免れ、中南米地域全体としては堅調な経済成長を記録した。このことは、中南米諸国が、市場経済原理に基づき、経済改革を進める中で、マクロ経済運営の健全さを確保するよう努力してきた成果とも考えられる。他方、経済改革の進展に伴い増大した貿易赤字や上昇した失業率を改善しつつ、緊縮財政の下でいかに持続的な成長を確保していくかが引き続き課題となっている。
 さらに、中南米諸国が市場経済という価値観を共有していることは、市場開放型の経済統合を促進している。具体的には、アルゼンティン、ブラジル、パラグァイ、ウルグァイを加盟国とするメルコスール(南米共同市場)において、97年には、サービス分野の自由化に向けた交渉が開始されたほか、アンデス共同体(加盟国:ボリヴィア、コロンビア、エクアドル、ペルー、ヴェネズエラ)との自由貿易地域の創設に向けた交渉が進められるなど経済統合の深化と拡大の動きが見られる。また、キューバを除く米州34カ国が出席して94年に米国で開催された第1回米州サミットにおいて提唱された米州自由貿易地域(FTAA)の創設については、5月にはブラジルにおいて第3回米州貿易大臣会合が開催され、98年4月にチリで開催される予定の第2回米州サミットにてFTAA創設に向けた具体的交渉を開始することが宣言された。
 中南米諸国は、アジアと中南米の経済交流が着実に拡大していることを背景に、アジア太平洋地域にも高い関心を有しており、11月のヴァンクーヴァーでのAPEC非公式首脳会議で、98年からペルーがAPECに参加することが決定された。中南米地域では、メキシコ、チリに次ぎ3カ国目のメンバーとなる。
 こうした中で、日本としては、96年の橋本総理大臣の中南米5カ国訪問の際に提唱した、日本と中南米との21世紀に向けての「新時代のパートナーシップの構築」を目指して、様々な機会を通じて関係の強化に努めている。まず、中南米各国との二国間関係の強化については、5月末から6月にかけて天皇皇后両陛下が初の中南米御訪問としてブラジル及びアルゼンティンを御訪問されたほか、秋篠宮同妃両殿下が5月にメキシコ(日本人メキシコ移住百周年記念式典への御臨席)及びジャマイカを御訪問され、また、常陸宮同妃両殿下が9月にチリ(日チリ修好百周年記念式典への御臨席)及びグァテマラを御訪問された。中南米諸国からも、セディージョ・メキシコ大統領が3月に国賓として訪日したのを始めとして、97年を通じて元首級7人、外相4人が訪日した。さらに、中南米の主要地域グループとも政策対話を強化するために、国連総会時に第9回日本・リオ・グループ外相会合を行ったほか、バルバドスではカリブ諸国との協議を実施した。また、有望な新興市場であり、欧米企業の進出が目立ってきているメルコスールとの関係については、10月にメルコスール諸国との政府間会合を行うとともに、メルコスールの市場環境についての理解を深めるとの目的で日本・メルコスール官民合同会議を東京で開催した。

   4.欧州

    (1)欧州の新たな秩序造りの大幅な進展

 欧州では、97年は、政治、経済、安全保障の各分野において、新たな秩序造りが大きく進展した、画期的な年となった。まず安全保障面では、北大西洋条約機構(NATO)拡大に関する基本方針が決定され、NATOとロシアの協議の枠組み等が新設された。次に政治面では、欧州連合(EU)の基本条約であるマーストリヒト条約を改訂するアムステルダム条約への署名が行われ、さらにはEU拡大の基本方針が決定された。また、経済面では、単一通貨ユーロを導入する経済通貨統合第三段階の開始(99年1月)のための手続きが確認され、各国において参加に向けた準備が本格化した。

欧州の主要国際機構

    (2)欧州安全保障の新たな展開

[NATOとロシアの基本文書]

 NATOは、95年秋より新規加盟を希望する諸国と対話を重ねてきたが、ロシアは一貫してNATO拡大に反対してきた。しかし、97年1月からソラナNATO事務総長とプリマコフ・ロシア外相との間で協議が重ねられ、3月のヘルシンキでの米露首脳会談を経て、NATO・ロシア間で集中的に交渉が行われた結果、5月末にパリにおいて「NATOとロシアとの間の相互の関係、協力及び安全保障に関する基本文書」がNATO加盟国及びロシアの首脳により調印されるに至った。
 この「基本文書」は、NATOとロシアは互いを敵とはみなさない旨うたうとともに、NATOの新規加盟国には核兵器を配備せず、相当規模の通常兵力も配備しないことを明記した。さらに、この「基本文書」により、NATOとロシアの間に「常設共同理事会」が設置され、欧州の安全保障のみならずPKO、軍備管理、核・生物・化学兵器の不拡散、麻薬、テロといった広範な問題について協議し、可能な限り協力し、適切な場合には共同決定及び共同行動を取り得るメカニズムが創設された。この「常設共同理事会」は大使レベルで毎月会合を持ち、外相・国防相レベルで年に2回会合を持つこととなっている。

[NATO拡大]

 7月のマドリッドNATO首脳会議において、NATOへの新規加盟を希望する諸国のうち、ポーランド、チェッコ、ハンガリーの3カ国と加盟交渉を開始することが決定され、12月の外相理事会において、これら3カ国の各加盟議定書に署名が行われた。今後、各加盟国によって加盟議定書が批准され、99年4月に予定されるNATO50周年記念の首脳会議までに、これら三ヶ国の新規加盟が実現する見込みである。
 さらに、12月のNATO外相理事会においては、冷戦後の新たな安全保障環境を踏まえ、危機管理や平和支援、大量破壊兵器の拡散防止等の新たな課題に対しより効果的かつ柔軟に対応できるように軍事機構を改変するため、司令部の総数を65から20に削減する等の新たなコマンド・ストラクチャーに基本的に合意した。

    (3)欧州統合の進展-EUの深化と拡大

 欧州統合の進展は、EUの統合の度合いを強める「深化」と、EUの加盟国を増やす「拡大」の両面からなるが、97年はこの両面において大きな進展が見られた。 

[EUの深化-アムステルダム条約の採択と署名]

 欧州統合の深化及びEU拡大に備えた機構改革を行うため、EUの基本条約であるマーストリヒト条約(欧州連合条約)の改訂に関する政府間会合(IGC)が96年3月から開始され、97年前半に集中的な交渉が行われた結果、6月のアムステルダム欧州理事会で改訂条約(アムステルダム条約)に合意するに至った。
 アムステルダム条約では、雇用に関する章の新設、柔軟性の原則(一部の加盟国のみでも協力を推進できるとの原則)、建設的棄権(一部の加盟国が棄権しても意思決定が行えるメカニズム)の導入を始めとする共通外交・安全保障政策の拡充、入国審査等一部の司法・内務協力の共同体事項化が盛り込まれている。一方、欧州委員会の委員の数の削減や特定多数決制度の見直し等、EUの拡大を睨んで意思決定機構を簡素化するとの機構改革については、加盟国間の利害が対立して結論が得られず、将来の課題として先送りされることとなった。
 10月にはアムステルダムでオランダ、ルクセンブルグ首相を始めEU各国外相による条約署名式が行われた。今後各国の批准手続を経て発効することとなる。

[EUの拡大]

 EUには、中・東欧の10カ国、サイプラス及びトルコの計12カ国が加盟を希望している。欧州委員会は、97年7月に「アジェンダ2000」と題する報告書を提出し、その中で中・東欧の5カ国(ポーランド、ハンガリー、チェッコ、エストニア、スロヴェニア)及びサイプラスの計6カ国との加盟交渉開始を提案した。
 これに対し、一部の加盟国が、全ての加盟申請国と同時に加盟交渉を開始すべきであると主張し、12月のルクセンブルグ欧州理事会では、(イ)欧州委員会の提案した6カ国とは98年春以降に加盟交渉を開始する、(ロ)それ以外の中・東欧5カ国(ルーマニア、スロヴァキア、ラトヴィア、リトアニア、ブルガリア)については今後毎年の状況の進展により加盟交渉に入ることができる、(ハ)トルコについては、他の加盟申請国と同じ基準で審査されることを確認しつつも、現時点では右基準を満たしていないので加盟交渉の対象とはせず、トルコの加盟準備を促進する観点から「加盟に対する欧州戦略」を策定する、(ニ)さらに、EU加盟国及びトルコも含めた全加盟申請国が参加する「欧州会議」を設置することを決定した。
 これに対し、トルコは加盟交渉の対象からはずされたことに強く反発し、欧州会議への不参加を表明するとともに、EUとの政治対話を中止するに至った。

ブレア英首相と会談する橋本総理大臣(6月)     (4)欧州経済情勢

 欧州経済は、96年後半からの改善の動きが更に加速されつつある。EUの実質GDP成長率は、96年の1.8%から、97年には2.6%にまで回復し、98年には3.0%となる見込みである(10月の欧州委員会見通し)この背景には、低水準の物価上昇率(同見通し:2.1%)、良好な金融環境に支えられた域内投資の伸び(同見通し:2.6%)を始め、力強い域外需要、経済に対する企業及び消費者の信頼回復による域内需要の回復等があるものとみられる。
 各国経済においても、99年1月に予定されている経済通貨統合第3段移行に必要な経済収斂基準達成に向けて大きく前進した。各国において財政赤字削減を始めとする積極的な努力が払われ、EU15カ国のうち英国、デンマーク、スウェーデン、ギリシャを除く11カ国について当初から第三段階に移行する可能性があると見込まれる。単一通貨ユーロの導入によって、今後欧州統合が一層進展することが予想される。
 一方、失業問題は、前年に引き続き欧州経済の最大の課題であった。97年のEU諸国の平均失業率見通しは依然10.7%に達している一方、経済通貨統合のための経済収斂基準を満たすため、各国が財政緊縮政策を採る結果、積極的な雇用対策が打ち出されないとのジレンマに直面した。
 このような状況の中で、社会党新政権が誕生したフランスなどが中心となって、EUとして雇用問題にも積極的に取り組もうとする機運が生まれ、11月にEUで雇用問題に議題を絞った初の首脳会合であるルクセンブルグ特別欧州理事会が開催され、ガイドラインの策定や多角的監視システムの採用等の成果を得た。
 中・東欧諸国経済は、ほぼすべての国において経済成長がプラスを記録し、また物価上昇率も安定するなど、全体としておおむね安定的に推移している。しかしながら、民営化等を積極的に推進し経済改革が順調に進展している国がある一方、困難に直面している国もあり、地域内において経済改革の進捗状況には格差が見られる。

欧州経済通貨統合の流れ

    (5)日欧関係

 以上概観してきたように、欧州では、新たな秩序造りが大きく進展しているが、この動きは、欧州自身の安定のみならず、アジア太平洋地域、国際社会全体にも重要な影響を及ぼすものである。また、冷戦後の新たな国際社会においては、日米欧が協力し、環境問題などのグローバルな問題に協調して対処していく必要があることから、日本としては欧州との間で緊密な協議・対話を維持・発展させ、相互の叡知と経験を交換し、国際社会の期待に応えうる「成熟したグローバル・パートナーシップ」を築いていくことが重要である。
 日欧間では、すでにEUを始め、英国、仏、独との間で、具体的な協力の枠組みが策定され、首脳協議も定期化されている。97年は、6月のデンヴァー・サミットの際に、日英首脳会談、日仏首脳会談、日独首脳会談が開催された。また、同月には、ハーグにて、日EU定期首脳協議が開催されるとともに、ノールウェー・ベルゲンにて初めて日・北欧首脳会談が開かれた。その他、リッポネン・フィンランド首相、ヘルツォーク独大統領、ディーニ伊外相、ソラナNATO事務総長、プローディ伊首相、キンケル独外相、アハティサーリ・フィンランド大統領、アスナール・スペイン首相、コッティ・スイス副大統領兼外相、ブラザウスカス・リトアニア大統領、メリ・エストニア大統領、ストヤノフ・ブルガリア大統領など、欧州諸国より要人訪日が相次ぎ、ハイレベルでの活発な交流が続けられてきている。
 英国との間では、5月のブレア労働党政権発足直後、池田外務大臣が訪英し、クック外相と日英外相定期協議を行い、小渕外務大臣も9月の国連総会出席の折、クック外相と会談を行うなど、グローバルな視点を共有する特別なパートナーとして緊密な協力関係を築いている。
 独との間では、10月のキンケル外相の訪日の際、「日独パートナーシップのための行動計画」が改訂され、最近の国際情勢を踏まえた協力の枠組みが整備された。また、仏との間では、6月の日仏首脳会談の際に、両首脳間にてカンボディア情勢につき意見交換がなされたことを受け、その後、日仏が共同してカンボディアに特使を派遣するなど、国際情勢に機敏に対応した協調関係が図られてきている。また、気候変動枠組条約第3回締約国会合(COPⅢ)の交渉において、橋本総理大臣と、プローディ伊首相、ブレア英国首相、コール独首相との間で緊密な調整が行われるなど、グローバルな問題についても首脳レベルで緊密な意見交換が行われてきている。
 また、中・東欧諸国においては民主化、市場経済化が着実に進められている。こうした諸国の国造りや、旧ユーゴー地域の復旧・復興等は、欧州の課題であると同時に、国際社会全体に共通するグローバルな課題でもある。こうした認識から、日本は、欧州諸国とも協調しつつ、これらの課題に積極的な取組を行ってきている。
 NATOとの間では、6月の池田外務大臣のブラッセル訪問、及び10月のソラナNATO事務総長の訪日の機会に、ハイレベルでの会談が行われた。こうした会談を通じて、欧州の安全保障に関する動向は、相互依存が一層進んだ現在、アジア太平洋地域にも重要な影響を及ぼすものであるとの日本としての関心をNATO側に伝達しており、今後とも密接な意見や情報の交換を行っていくことで意見の一致をみている。
 その他の欧州の地域国際機構との間では、欧州評議会(CE)には、オブザーバーとして10月の首脳会議を始め各種会合へ積極的に参加してきている。また、12月には欧州安全保障・協力機構(OSCE)外相理事会が開かれたが、「協力のためのパートナー」(いわゆるオブザーバー)である日本からは、丹波外務審議官が出席した。

   5.ロシア・NIS諸国

    (1)ロシア

 3月まではエリツィン大統領は、健康不良のため指導力を発揮できず政局が流動化した。しかし、その後は若手改革派政府を基盤に、積極的な改革策の推進と国内情勢の安定に努めた結果、マクロ経済や軍改革の分野では一定の進展も見られた。また、外交面でも活発な首脳外交を展開するなど、第二次エリツィン政権の政策の実質的始動の年となった。しかし、経済・社会分野やチェチェン問題等では依然難問が山積している。また、大統領の後継者問題が今後の課題となっている。

[内政状況]

 エリツィン大統領は、年初に肺炎で入院し、その後も体調不良が続き、3月までは指導力を発揮できず、その間ポストエリツィンを巡る権力闘争が表面化し、政局が流動化した。
 3月以降大統領は、年次教書演説を皮切りに、内閣改造を断行、若手改革派を起用して積極的な改革策を打ち出し、財政再建、社会問題、国の経済力に見合った規模の効率的な軍建設を旨とする軍改革等で指導力を発揮した。
 また、大統領は、改革推進のため国内情勢の安定確保に努め、議会には対話の姿勢を示して最低限の協調関係を確保し、地方との間には権限分担条約の署名を押し進め安定した関係の構築を目指した。しかし、チェチェン問題では、5月にチェチェンの地位を棚上げした形で平和条約を締結したものの、完全独立を志向する同共和国との立場の違いは依然大きい。
 一方、エリツィン政権を支えている金融資本家同士が、夏以降企業の政府保有の株式の公開を巡り政治家を頂いて勢力争いを展開し、これが政局の混乱要因になるなど、新たな問題も発生した。
 97年末、エリツィン大統領は風邪のため2週間入院加療したが、大統領の健康問題は、次期大統領選挙を巡る権力闘争を惹起し情勢を不安定化させ得る大きな要因になっている。大統領の後継者問題は、引き続き今後のロシア政局の大きな焦点となろう。

[経済状況]

 インフレ率は緊縮財政等により95年以降鎮静化し、97年は11%となった。国内総生産は97年になりようやく底を打ち、0.4%増加し、鉱工業生産も1.9%増加した。為替レートの安定化も継続している。こうした明るい側面がある一方、投資の低迷、巨額の企業債務の累積、企業の税の不払い等による財政難という問題が継続しており、総じてロシア経済は未だ困難な状況にある。
 この中で、政府による年金及び軍人と公務員に対する賃金の未払い問題が注目されていたが、年内に政府としての公約を果たした旨の宣言が行われた。しかし、財政の健全化は今後とも大きな課題である。
 経済改革は、民営化、貿易自由化等の面で進展が見られるが、税制改革、土地所有制度確立、外国投資関連の法令整備等の進捗状況は遅い。

[対外関係]

 97年、ロシアは引き続き独立国家共同体(CIS)諸国との関係を最重要視するとともに、多極的世界の構築を目指す全方位的な外交の展開に努めた。
 CIS諸国関係では、4月、ベラルーシとの間で連合条約が、また、ウクライナとの間では5月に黒海艦隊分割協定や包括的基本条約が署名された。 他方、10月のCIS首脳会議では、民族問題の未解決、自由な貿易の阻害等につきCISの現状を批判する意見が相次ぐなど、CISのあり方を再検討する必要性にも直面した。多極的世界の構築については、G7首脳級のロシア訪問をはじめ、11月にはエリツィン大統領の中国訪問等活発な首脳外交を推進したほか、プリマコフ外相の対イラク外交、中東、南米諸国訪問等広範な外交が展開された。さらに、デンヴァー・サミットでのG8化、APEC加盟等、ロシアの国際社会への統合の努力に一定の成果が得られた。NATO拡大については、ロシアは反対との立場を維持しつつも、拡大は不可避との現実的判断に立ち、5月NATO・ロシアの協力関係を規定した「基本文書」に署名した。

    (2)NIS諸国

 97年のNIS諸国の政治情勢はおおむね安定していた。国内紛争で不安定な情勢が続いていたタジキスタンでも、6月に新たな政権の枠組みを含む最終和平合意が達成されており、依然情勢は楽観視できないものの和平履行に向けての動きが着実に現れている。ただし、コーカサス地域の民族紛争では、停戦合意の長期遵守の一方で紛争地域の分離の既成事実化の動きもある。
 経済面では、各国の改革努力がマクロ面を中心に成果を上げているが、インフラの整備等まだまだ残された課題も多く、また一部の国では改革に伴う困難も拡大しつつある。しかし、アゼルバイジャンの石油等カスピ海沿岸を中心にエネルギー資源の開発は次第に軌道に乗りつつあり、関係する諸国の経済発展への原動力として期待を集めつつある。
 このような政治面・経済面での肯定的要素を背景に、NIS諸国の政策は多様性を増しつつある。その中で97年は、ベラルーシがロシアとの間で連合条約(4月)及び連合憲章(5月)に署名するという動きはあったものの、ロシアを中心とするCIS統合強化の動きは全体的な流れとはならなかった。10月のキシニョフにおけるCIS首脳会議ではCISのあり方に批判が集中し、CISの再編問題が浮上する結果となった。
 7月の経済同友会における橋本総理大臣のスピーチでは「ユーラシア外交」におけるシルクロード地域の重要性が強調された。日本はこのような重要性を踏まえ、改革努力への支援を含めNIS諸国との二国間関係の発展に努めた。5月にはウクライナの外相を招待して外相会談を行ったほか、中央アジア諸国との関係においては、7月の小渕衆議院議員を団長とするミッション派遣、9月の麻生経済企画庁長官による訪問等を通じて対話を深めた。12月には中央アジア5ヶ国と域外諸国の有識者を招いて東京で中央アジア総合戦略セミナーを開催し、中央アジア地域の将来について率直な意見交換を行った。

   6.中近東

    (1)最近の中東情勢と橋本総理大臣のサウディ・アラビア訪問

ファハド・サウディ・アラビア国王と会談する橋本総理大臣(11月)  中東地域は、日本の原油輸入の約8割を供給しており、エネルギーの安定供給の上で死活的な重要性を有しているのみならず、国際社会全体の平和と安定にとっても極めて重要な地域である。このような認識から、日本は、この地域の国々との関係の一層の強化に取り組むと同時に、この地域の平和と安定の確保のために積極的に関与している。
 その一環として、橋本総理大臣は、11月8日及び9日にサウディ・アラビアを訪問し、21世紀に向けて両国間で政治、経済、新分野(教育・人造り、環境、医療・科学技術、文化・スポーツ)における包括的なパートナーシップを構築することにつき一致した。また、その直後には総理特使(平林外政審議室長)が他の湾岸協力理事会(GCC)諸国を訪問し、同様の包括的関係を構築することにつき各国首脳と一致した。

    (2)イラク、イラン

 イラク及びイランの情勢は、前述の中東和平問題と並んで、中東における不安定要因の一つである。
 イラク国内では、7年以上にわたる国連制裁の結果、物資不足やインフレなど経済状況の悪化が進んでいる。このような状況を踏まえて、食糧や医薬品等の人道物資購入を可能とするためにイラクの限定的石油輸出を認めた安保理決議986(95年4月採択)が、96年12月に実施に移され、90年8月のクウェイト侵攻以降停止していたイラクの石油の輸出が、部分的かつ厳重な国連の監視の下ながら、再開された。以来、同決議は180日ごとに延長・更新されてきている。他方、フセイン政権は依然として国内を掌握する力を有していると見られる。また、イラクは、大量破壊兵器廃棄のための国連特別委員会(UNSCOM)による査察活動が米国の影響力の下にあり、経済制裁解除の見通しが立たないとして、UNSCOMに非協力的な態度を見せている。このため、UNSCOMに対し完全かつ無条件の協力を求める安保理、特に米国との間で緊張状態が続いている。日本は、湾岸地域の平和と安全を回復するためには、イラクが関連安保理決議を完全に履行することが不可欠と考えており、再三にわたりイラクに対し決議の履行を求めている。
 イランでは、5月の選挙でハタミ元文化イスラム指導相が国民の圧倒的支持を得て大統領に選出された。8月に発足した同政権は、「文明間の対話」、「法の支配」などこれまでのイラン指導部には見られなかった政治理念を掲げて、諸改革に取り組んでいる。しかし、これに反対する勢力も小さくなく、今後の動向には大いに注意する必要がある。
 国際社会には、中東和平に対する暴力的妨害、テロ支援、大量破壊兵器開発など、イランの行動に対する懸念が依然存在し、特に米国は、イラクに加えイランも厳しく封じ込める「二重封じ込め政策」を採っている。EU各国は、ドイツ国内で起こったテロ事件へのイラン政府の関与を示す裁判所判決が4月に出されたことを受け、「批判的対話」の中断を決定し、駐イラン大使を召還した。日本もイランとのハイレベル要人交流を停止したが、イランとの対話を通じて同国の前向きな変化を一層促進させる環境を作っていくことが重要との考えから、11月のEU各国大使の帰任に先がけて停止措置を解除し、外務次官級協議を実施した。

    (3)湾岸協力理事会(GCC)諸国

 日本は、サウディ・アラビア、アラブ首長国連邦、カタル、クウェイト、オマーン、バハレーンからなるGCC(本部リヤド)6ヶ国に原油輸入の70%近くを依存している。これら諸国とは、上述の、11月の橋本総理大臣によるサウディ・アラビア訪問及び総理特使による他のGCC諸国訪問を踏まえ、今後経済のみならず、政治・新分野(教育・人造り、環境、医療・科学技術、文化・スポーツ)も含めた包括的な友好協力関係の構築を積極的に推進していくことが重要である。

   7.アフリカ

 97年は、前年に引き続きアフリカの新しい流れとも言える民主化の進展や経済構造調整などの好ましい動きがみられた一方で、ザイール(現コンゴー民主共和国)やコンゴー共和国等における武力による政権交代に見られるように、アフリカにおける紛争、難民等の課題が、大湖地域を始めとして依然として多く残されていることを示す一年であった。

【97年の動き】

 政治面では、リベリアにおいて、地域機関である西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)のイニシアティヴの下、大統領・議会選挙が平和裡に行われ7年余りの内戦に終止符が打たれ、また、中央アフリカでの国軍の騒乱に端を発する紛争において、アフリカ諸国自身が仲介軍を派遣し成果を上げるなど、いくつかの国においてアフリカ諸国自身による紛争解決に向けての前進が見られた。
 一方、ザイール(現コンゴー民主共和国)では、コンゴー・ザイール解放民主勢力同盟(AFDL)のカビラ議長率いる反政府軍が、武力によりモブツ政権を打倒し、5月に新政権を樹立した。また、コンゴー共和国においても、大統領選を巡る対立から現大統領派と前大統領派との間で武力衝突が起こり、前大統領派が軍事的勝利を収めた。また、5月に軍事クーデターが発生したシエラ・レオーネにおいては、ECOWASのイニシアティヴにより10月に和平合意が達成されたものの、その後和平プロセスの実現は円滑に進まず、さらにブルンディのように紛争解決の糸口が見えない国もあり、アフリカにおいては依然として、開発の前提である政治的安定が大きな課題となっている。このような状況に対応して、アフリカの紛争問題に関する取組についての国際的議論が国連安保理を始めとして活発に行われた。
 経済面では、多くのアフリカ諸国が、世銀・IMFとの協議に基づき市場経済原理の導入や政府機構の簡素化等を中心とする構造調整政策を進めているものの、その成果は国によって様々である。貧困を解消し、持続的成長を達成するためには、インフラ整備など経済活動の条件整備、教育制度の充実などの人造り強化が重要な課題となっている。
 また、アフリカの発展に向けてのアフリカ諸国自身による努力の一環として、アフリカ統一機構(OAU)、南部アフリカ開発共同体(SADC)、ECOWAS等の地域機関が、その活動を活発化させている。

【日本との関係】

 日本は、従来より、アフリカの政治的安定と開発は国際社会の重要な課題であるとの認識に基づき、国際社会と協調しつつ、アフリカが抱える諸問題の解決に向けてのアフリカ自身の自助努力を積極的に支援してきている。小渕外務大臣は、9月に開催されたアフリカに関する国連安保理閣僚級会合において、アフリカに対する国際社会の支援強化の必要性を強調しつつ、日本としても、政治的安定及び開発の両分野において、アフリカ諸国自身の努力を積極的に支援していく考えであることを明らかにした。
 このような基本的立場に立った努力として、第一に、政治的安定の分野では、9月にアフリカ紛争問題担当大使を任命し、大湖地域を中心とした紛争に関し関係各国との対話や働きかけなどを行った。また、リベリア大統領・議会選挙における選挙監視活動等の人的貢献やOAU平和基金への拠出等を通じ、紛争解決に向けてのアフリカ諸国自身の努力を支援し、難民救援活動のためのUNHCRを通じる支援など国際機関を通じての貢献も引き続き行った。
 第二に、開発の分野では、93年のアフリカ開発会議の成果を踏まえ、アフリカ諸国自身による経済改革等の開発努力に対する支援を行った。また、日本はアフリカ自身の開発努力とこのような努力に対する国際社会の支援を更に強化するために、98年10月に東京において「第2回アフリカ開発会議(TICADⅡ)」を開催することとしている。97年には同会合の成功に向けての一連の協議を行い、6月にはアジア・アフリカの協力の推進につき討議する「第2回アジア・アフリカ・フォーラム」をバンコックにおいて開催し、9月には第2回アフリカ開発会議担当大使を任命したほか、11月には東京に於いてアフリカ諸国の閣僚・次官クラス及び他のドナー諸国、国際機関の参加を得て準備会合を開催し、アフリカの開発促進のための具体的な行動計画を作成するための主要分野等について討議した。