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(1)中国とその周辺国・地域
中国は、近年目覚ましい経済発展を遂げてきているが、一方で、イデオロギー面での求心力低下が指摘される中、国有企業改革、失業対策、大規模不良債権処理等の深刻な課題にも直面している。こうした中国にとって97年は、香港返還(7月)と第15回共産党大会(9月)という重要な行事を迎えた年となった。
97年の韓国の国内政局は12月の次期大統領選挙を巡って展開した。1月に発覚した「韓宝(ハンボ)事件」は、政界を巻き込む巨大不正疑惑事件に発展し、政経癒着の構造が明るみに出される中で、現職大統領の次男の不正蓄財や国政への介入も明らかとなった。与党新韓国党は李会昌(イ・フェチャン)氏を大統領候補としたが、同党の候補者選考で第2位であった李仁済(イ・インジェ)氏も新党を結成し、独自に立候補した。一方、野党側では、金大中(キム・デジュン)、金鍾泌(キム・ジョンピル)両候補の連合により、金大中氏への候補者一本化が行われた。12月18日の投票の結果、国民会議総裁の金大中候補が大統領に選出され、与野党間の政権交代、全羅道出身の大統領が初めて実現することとなった。
東南アジア諸国連合(ASEAN)は、97年、創設30周年を迎え、引き続き政治、経済、社会といった幅広い分野で域内協力を推進している。政治や安全保障面では、東南アジア平和・中立・自由構想(ZOPFAN構想)の実現に努めるとともに、経済面では、ASEAN自由貿易地域(AFTA)、ASEAN投資地域(AIA)、ASEAN産業協力スキーム(AICO)等、域内の貿易や投資を一層促進するための取組を進めている。12月、マレイシアで開催されたASEAN首脳会議では、以上のようなASEANのイニシアティブを内容とした「ASEAN・ヴィジョン2020」が発表された。 97年にはインド、ネパール、パキスタンで政権交代が行われたが、南西アジア諸国は引き続き経済の開放・自由化に努力しており、5月の第9回南アジア地域協力連合(SAARC)首脳会合では、南アジア自由貿易地域(SAFTA)を2001年までに実現することが決定される等、域内協力の強化に取り組んでいる。一方、この地域では、カシミール問題を抱えるインドとパキスタンの間で対話が再開され緊張緩和が見られたものの、両国の核開発疑惑等不安定要因は依然存在している。日本は、この地域の諸国との関係強化に努めており、2月にはインド貿易見本市に宮澤特派大使(元総理)以下多数の日本企業関係者が参加した。2月下旬から3月初旬には秋篠宮同妃両殿下がネパール及びブータンを訪問したほか、5月にはスリランカ、パキスタンに政府派遣経済使節団が派遣された。さらに7月にはハシナ・バングラデシュ首相が訪日し、また池田外務大臣が独立50周年を迎えるパキスタン及びインドを約10年振りに訪問した。 4月に橋本総理大臣が豪州及びニュー・ジーランド(NZ)を訪問し、また、10月には南太平洋フォーラム(SPF)加盟国・地域首脳を東京に招待して、初めての日・SPF首脳会議が開催されるなど、大洋州諸国との関係は一層緊密化した。豪州では、ハワード政権が先住権問題などの内政課題に取り組むとともに、3月にハワード首相が中国を訪問するなど、アジア太平洋重視の外交政策を継続している。日本との関係では、日豪首脳会談の定期化(原則として年1回)につき一致し、8月に開催された第14回日豪閣僚委員会では日豪の協力関係をとりまとめた「日豪パートナーシップ・アジェンダ」が採択された。NZでは、国民党内部でボルジャー前首相が退陣し、12月にシップリー国民党・NZ第一党連立新政権が誕生した。太平洋島嶼国では、パプア・ニューギニア、ソロモン諸島などで総選挙が実施され政権が交代し、政治の世代交代が始まりつつある。
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米国では、グローバリゼーションの負の側面に議論が集まった90年代前半と対照的に、経済の拡大を背景に、低失業率と高い経済成長率の実現という経済の構造的変化が指摘されるなど、経済を中心に楽観的な見方が進んだ。しかし、雇用の安定的確保に対する国民の懸念は消えておらず、所得格差の拡大等の問題の存在、国内の内向き傾向の継続も指摘されている。また、年の終わりにはアジア経済の混乱が米国経済に及ぼす影響についての議論が高まった。
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中南米地域では、90年代に入り民主主義が定着し、市場経済原理に基づく経済改革が行われ、経済統合が進展したが、97年も、これら3つの流れは継続し、さらに、域内協力の更なる進展が模索されるなど、より確実な経済発展への方向性が見られた一年であった。
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欧州では、97年は、政治、経済、安全保障の各分野において、新たな秩序造りが大きく進展した、画期的な年となった。まず安全保障面では、北大西洋条約機構(NATO)拡大に関する基本方針が決定され、NATOとロシアの協議の枠組み等が新設された。次に政治面では、欧州連合(EU)の基本条約であるマーストリヒト条約を改訂するアムステルダム条約への署名が行われ、さらにはEU拡大の基本方針が決定された。また、経済面では、単一通貨ユーロを導入する経済通貨統合第三段階の開始(99年1月)のための手続きが確認され、各国において参加に向けた準備が本格化した。 (2)欧州安全保障の新たな展開[NATOとロシアの基本文書]
NATOは、95年秋より新規加盟を希望する諸国と対話を重ねてきたが、ロシアは一貫してNATO拡大に反対してきた。しかし、97年1月からソラナNATO事務総長とプリマコフ・ロシア外相との間で協議が重ねられ、3月のヘルシンキでの米露首脳会談を経て、NATO・ロシア間で集中的に交渉が行われた結果、5月末にパリにおいて「NATOとロシアとの間の相互の関係、協力及び安全保障に関する基本文書」がNATO加盟国及びロシアの首脳により調印されるに至った。 [NATO拡大]
7月のマドリッドNATO首脳会議において、NATOへの新規加盟を希望する諸国のうち、ポーランド、チェッコ、ハンガリーの3カ国と加盟交渉を開始することが決定され、12月の外相理事会において、これら3カ国の各加盟議定書に署名が行われた。今後、各加盟国によって加盟議定書が批准され、99年4月に予定されるNATO50周年記念の首脳会議までに、これら三ヶ国の新規加盟が実現する見込みである。 欧州統合の進展は、EUの統合の度合いを強める「深化」と、EUの加盟国を増やす「拡大」の両面からなるが、97年はこの両面において大きな進展が見られた。 [EUの深化-アムステルダム条約の採択と署名]
欧州統合の深化及びEU拡大に備えた機構改革を行うため、EUの基本条約であるマーストリヒト条約(欧州連合条約)の改訂に関する政府間会合(IGC)が96年3月から開始され、97年前半に集中的な交渉が行われた結果、6月のアムステルダム欧州理事会で改訂条約(アムステルダム条約)に合意するに至った。 [EUの拡大]
EUには、中・東欧の10カ国、サイプラス及びトルコの計12カ国が加盟を希望している。欧州委員会は、97年7月に「アジェンダ2000」と題する報告書を提出し、その中で中・東欧の5カ国(ポーランド、ハンガリー、チェッコ、エストニア、スロヴェニア)及びサイプラスの計6カ国との加盟交渉開始を提案した。
欧州経済は、96年後半からの改善の動きが更に加速されつつある。EUの実質GDP成長率は、96年の1.8%から、97年には2.6%にまで回復し、98年には3.0%となる見込みである(10月の欧州委員会見通し)この背景には、低水準の物価上昇率(同見通し:2.1%)、良好な金融環境に支えられた域内投資の伸び(同見通し:2.6%)を始め、力強い域外需要、経済に対する企業及び消費者の信頼回復による域内需要の回復等があるものとみられる。
以上概観してきたように、欧州では、新たな秩序造りが大きく進展しているが、この動きは、欧州自身の安定のみならず、アジア太平洋地域、国際社会全体にも重要な影響を及ぼすものである。また、冷戦後の新たな国際社会においては、日米欧が協力し、環境問題などのグローバルな問題に協調して対処していく必要があることから、日本としては欧州との間で緊密な協議・対話を維持・発展させ、相互の叡知と経験を交換し、国際社会の期待に応えうる「成熟したグローバル・パートナーシップ」を築いていくことが重要である。
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3月まではエリツィン大統領は、健康不良のため指導力を発揮できず政局が流動化した。しかし、その後は若手改革派政府を基盤に、積極的な改革策の推進と国内情勢の安定に努めた結果、マクロ経済や軍改革の分野では一定の進展も見られた。また、外交面でも活発な首脳外交を展開するなど、第二次エリツィン政権の政策の実質的始動の年となった。しかし、経済・社会分野やチェチェン問題等では依然難問が山積している。また、大統領の後継者問題が今後の課題となっている。 [内政状況]
エリツィン大統領は、年初に肺炎で入院し、その後も体調不良が続き、3月までは指導力を発揮できず、その間ポストエリツィンを巡る権力闘争が表面化し、政局が流動化した。 [経済状況]
インフレ率は緊縮財政等により95年以降鎮静化し、97年は11%となった。国内総生産は97年になりようやく底を打ち、0.4%増加し、鉱工業生産も1.9%増加した。為替レートの安定化も継続している。こうした明るい側面がある一方、投資の低迷、巨額の企業債務の累積、企業の税の不払い等による財政難という問題が継続しており、総じてロシア経済は未だ困難な状況にある。 [対外関係]
97年、ロシアは引き続き独立国家共同体(CIS)諸国との関係を最重要視するとともに、多極的世界の構築を目指す全方位的な外交の展開に努めた。
97年のNIS諸国の政治情勢はおおむね安定していた。国内紛争で不安定な情勢が続いていたタジキスタンでも、6月に新たな政権の枠組みを含む最終和平合意が達成されており、依然情勢は楽観視できないものの和平履行に向けての動きが着実に現れている。ただし、コーカサス地域の民族紛争では、停戦合意の長期遵守の一方で紛争地域の分離の既成事実化の動きもある。
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イラク及びイランの情勢は、前述の中東和平問題と並んで、中東における不安定要因の一つである。 日本は、サウディ・アラビア、アラブ首長国連邦、カタル、クウェイト、オマーン、バハレーンからなるGCC(本部リヤド)6ヶ国に原油輸入の70%近くを依存している。これら諸国とは、上述の、11月の橋本総理大臣によるサウディ・アラビア訪問及び総理特使による他のGCC諸国訪問を踏まえ、今後経済のみならず、政治・新分野(教育・人造り、環境、医療・科学技術、文化・スポーツ)も含めた包括的な友好協力関係の構築を積極的に推進していくことが重要である。
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97年は、前年に引き続きアフリカの新しい流れとも言える民主化の進展や経済構造調整などの好ましい動きがみられた一方で、ザイール(現コンゴー民主共和国)やコンゴー共和国等における武力による政権交代に見られるように、アフリカにおける紛争、難民等の課題が、大湖地域を始めとして依然として多く残されていることを示す一年であった。 【97年の動き】
政治面では、リベリアにおいて、地域機関である西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)のイニシアティヴの下、大統領・議会選挙が平和裡に行われ7年余りの内戦に終止符が打たれ、また、中央アフリカでの国軍の騒乱に端を発する紛争において、アフリカ諸国自身が仲介軍を派遣し成果を上げるなど、いくつかの国においてアフリカ諸国自身による紛争解決に向けての前進が見られた。 【日本との関係】
日本は、従来より、アフリカの政治的安定と開発は国際社会の重要な課題であるとの認識に基づき、国際社会と協調しつつ、アフリカが抱える諸問題の解決に向けてのアフリカ自身の自助努力を積極的に支援してきている。小渕外務大臣は、9月に開催されたアフリカに関する国連安保理閣僚級会合において、アフリカに対する国際社会の支援強化の必要性を強調しつつ、日本としても、政治的安定及び開発の両分野において、アフリカ諸国自身の努力を積極的に支援していく考えであることを明らかにした。
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