第3節 欧  州

第1項 地 域 全 般

 

1.  E C 統 合

 

(1) EC統合の現状

(イ) 統合の深化

(i) 市 場 統 合

 欧州共同体(EC)は、85年のEC市場統合白書に基づき、92年末までに人、物、サービス、資本の移動が自由な単一市場を達成することを目指し、そのための障害除去に必要な法令採択の作業を行ってきた。その結果、法令採択が必要とされた282項目の内、18項目(92年12月22日現在)に関しては、会社法の制定、税制の調和を始め、各国の利害対立の激しい分野が多く、引き続き加盟国間の調整が行われているが、これら項目を除く、全体の約94%にあたる264項目については具体的措置が採択されている。これらの法令には、加盟各国において国内法制化を必要とするものも多く、92年12月の時点での国内法制化履行率は加盟国平均で81%となっている。

 この結果、93年には、これまで採択されたEC法令の多くが発効し、完全ではないにせよ、人口約3億4,000万人、国民総生産(GNP)約6兆ドルの一大単一市場(日本に比べ人口は約3倍、GNPは約2倍)が生まれることとなる。今後、ECの経済統合の焦点は、後述のように経済・通貨統合に移ることとなるが、市場統合の完成自体歴史的意義を持つものであり、市場統合が構造調整、規制緩和、規模の経済の高まり等を通じて域内経済を活性化し、更には世界経済の発展に資するものとなることが期待される。

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(ii) 欧州連合条約

(a) 欧州連合条約への署名

ドロールEC委員長と宮澤総理大臣との会談(92年7月)

 

 ECは90年12月のローマ欧州理事会で、経済・通貨統合及び政治統合に関する今後の方向性を明らかにするとともに、それぞれについて第1回の政府間会議を開催した。その後、度重なる会合、91年6月のルクセンブルグ欧州理事会等を経て、91年12月にオランダのマーストリヒトで開催された欧州理事会で、欧州連合条約(Treaty on European Union、いわゆるマーストリヒト条約)について基本的合意がなされ、92年2月、この地においてEC12か国により条約が署名された。

 欧州連合条約は、従来の欧州共同体(EC)を発展させ、経済・通貨統合及び政治統合を進め、欧州連合(EU)の創設を図るものである。この条約は、欧州連合の最終目標を「欧州の諸国民の限りなく密接な連合」とした共通規定、経済・通貨統合に主として関連する欧州経済共同体設立条約(EEC)、欧州石炭鉄鋼共同体設立条約(ECSC)及び欧州原子力共同体設立条約(EURATOM)の3条約の一部改正、政治統合に関連する共通外交・安全保障政策、司法・内務協力、そして、発効の要件を規定した最終規定から成り、ほかに各種議定書及び宣言が付されている。

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(b) 経済・通貨統合面での統合

 市場統合の進展とともに、すべての加盟国が統合市場の恩恵に浴し、かつ効率的な統合市場を達成するためには、加盟国間の経済・金融政策の協調と調和を進めることが必要であるとの認識が高まり、89年6月には、既に、3段階で経済・通貨統合を進めるとのドロール委員会報告がまとめられていた。欧州連合条約はこの報告を取り込む形で経済・通貨統合について規定しており、これが批准され、発効すると、以下のスケジュールに沿って、金融政策の協調、財政政策の収れんが図られ、将来的には、欧州中央銀行を設立し、単一通貨の導入を図り、EC全域における単一の金融政策が実施されることになる。

 既に90年7月から、経済・通貨統合の第1段階として為替面での協調及び資本移動の自由化の過程は始まっている。欧州連合条約は、次の第2段階として94年1月より、欧州中央銀行創設に至る過渡的な機構として欧州通貨機構を創設し、各国金融政策の協調を強化し、欧州通貨制度の機能を監視をすることとしている。それを受け、遅くとも99年の1月には第3段階を開始し欧州中央銀行を創設するとともに、単一通貨を導入し、EC単一金融政策を実施することとなる。

 また、欧州連合条約は各加盟国が経済・通貨統合の第3段階に移行する条件として、物価の安定、政府財政、為替相場、長期金利についての数値基準を明記している。これはEC単一通貨を信頼性の高い、健全かつ安定した通貨とするために、高水準の経済実績を誇る加盟国のみでEC単一通貨を導入し、経済・通貨統合の第3段階に移行することを意図するものである。EC単一通貨は、域内において為替リスクを消滅させることにより通貨交換コストの消滅等の多大メリットをもたらすことに加え、経済状態の良好な国家の共通通貨として高い信頼性を誇り、米ドル、日本円とともに国際通貨体制の安定化の役割を果すことが期待でき、国際協調の促進にもつながる。また、EC域内国企業のみならず、域外国企業にとっても、経済・通貨統合の進展は、対EC投資の促進につながるものと考えられる。また、欧州中央銀行のあり方にもよるが、各国の政治的要求から独立したEC単一金融政策の遂行によって、各国金融政策への政治的介入を排除することが可能となる。更に言えば、単一通貨導入には、欧州政治統合に向けての役割、或いは欧州連合市民の象徴としての役割を担う側面もある。

 

欧 州 経 済・通 貨 統 合

 一方、92年9月、米国とドイツの金利差拡大、欧州連合条約批准をめぐる先行き不透明感、加盟国間の経済格差等を背景として、英国の為替相場メカニズム(ERM)離脱、イタリアのERM為替介入義務の放棄、5年8か月ぶりの欧州通貨制度(EMS)の再調整等一連の欧州通貨危機がもたらされた。経済通貨統合を推進していく上で通貨の安定は重要な要素であり、今回の通貨危機を引き起こした要因を早期に除去することが経済通貨統合実現のために望まれている。

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(c) 政治統合面での統合

 政治統合の中心は、共通の外交・安全保障政策にある。既に87年の単一欧州議定書において、欧州政治協力として外交政策の策定・実施における各国間の協調及び安全保障についての立場の調整等について定め、独立の事務局を設けている。これに従い、旧ソ連諸国や旧ユーゴースラヴィアの各共和国の独立承認問題、旧ユーゴースラヴィア情勢に対する和平努力等に関し既に協調、調整が活発に行われている。

 欧州連合条約においては、これを一歩進め、外交政策、安全保障政策につき共通の政策をとっていくため、外交・安全保障の共通の関心事項について協調して行動し、また理事会にて合意された分野について共同行動をとると規定している。共同行動の対象は理事会で全会一致で決定するが、一部については特定多数決により決定することもできることとされた点が注目される。共同行動の対象としては、取りあえず地域別では中・東欧諸国(旧ソ連、旧ユーゴースラヴィアを含む)、マグレブ及び中東諸国、分野別では欧州安全保障・協力会議(CSCE)関連事項、軍縮・軍備管理、核不拡散問題、安全保障の経済的側面(通常兵器移転の透明性)等が挙げられ、具体策が検討されている。

 共通外交・安全保障政策は、連合の安全保障に係るすべての分野を対象としており、将来的には共通の防衛政策の策定、さらには共通の防衛にまで発展し得るものとされている。具体的には、連合の発展にとって不可欠の要素である西欧同盟(WEU)に、防衛的側面を含む連合の決定の検討、実施を要請することとしている。同時に、これは北大西洋条約機構(NATO)の枠内で策定される安全保障・防衛政策と両立することとされている。

 政治統合のもう一つの柱は司法・内務協力である。共通政策として取り上げるには至らなかったが、庇護政策、EC領域への外部からの出入及び規制に関する規定、移民政策、麻薬、国際的詐欺、民事司法政策、刑事司法政策、税関、テロ及び重大な国際犯罪対策に係る警察協力等を共通の関心事項としてとり上げ、協力することとした。この関連で欧州警察機構(ユーロポール)の設立も合意された。

 欧州連合条約では、以上のほかに、欧州議会の権限強化、欧州連合市民権の導入、サブシディアリティ(補完性)の原則等について規定されている。

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(d) 欧州連合条約の批准をめぐる最近の動向

 欧州連合条約は、92年中にすべての批准書が寄託されれば93年1月に、その後は最後の締約国が批准書を寄託した翌月に発効すると規定されている。

 92年2月の署名以降各国において批准手続きが開始されたが、批准の要件は各国によって異なっており、憲法改正が必要な国、国民投票が必要な国など様々である。6月にデンマークで行われた国民投票では、賛成が49.3%、反対が50.7%で批准は否決され、その後の他の諸国における批准手続きに大きな影響を与えたが、6月に開催されたEC臨時外相協議は、デンマークに扉を開きつつ、ほかの11の締約国は、条約の文言を変更することなく、引き続き批准手続きを進めることを決定した。

 その後は、6月のアイルランドの国民投票で、賛成69.25%、反対30.75%で批准のための憲法改正案が承認されたのをはじめ、ルクセンブルグ、ギリシャでも批准が決定された。9月に実施され、世界的に大きな関心を集めたフランスの国民投票は賛成51.05%、反対48.95%のわずかの差で批准が認められることとなった。フランスでは、議会手続きのみでも欧州連合条約を批准することが可能であったにもかかわらず、ミッテラン大統領があえて国民投票による承認を求めたものである。その背景としては、かかる重要案件については国民に直接賛否を問うべしとの基本的考え方のほかに、93年3月に予定されている国民議会選挙の対策等、内政上の思惑もあったことが取りざたされていた。フランスは本来EC統合に積極的な国と言われており、同国の批准決定がほかの各国の批准手続きに弾みをつけることが期待されていただけに、わずかの差の承認という結果に終わったことは、その後の各国の批准手続きに大きな影響を及ぼすこととなり、特に英国においては、批准反対派の勢いを増大させる結果となった。しかし、結果としては他の加盟国の批准は進み、92年末の時点で、EC12か国のうち10か国が既に批准を決定し、未批准国はデンマークと英国の2か国のみとなっている。

 12月のエディンバラ欧州理事会において、デンマークの防衛分野への不参加や経済・通貨統合の第3段階(単一通貨導入、欧州中央銀行設立等)への不参加など、デンマークの特別扱いについて加盟国が合意した。これを受け、デンマーク政府首脳は、93年4月から5月頃にも再度国民投票を実施する意図を表明した。

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(口) 統合の拡大

 ECは、市場統合、経済通貨統合を通じ、統合の「深化」を図る一方、欧州自由貿易連合(EFTA)諸国との欧州経済領域(EEA)創設の動き、東欧諸国との連合協定の締結、さらにはEFTA諸国の相次ぐ加盟申請等を通じ、「拡大」の方向にも向っており、今後、「深化」と「拡大」のバランスをいかにはかっていくかが課題となっている。

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(i) EEA協定

 ECとEFTA諸国(スイス、オーストリア、スウェーデン、ノールウェー、フィンランド、アイスランド、リヒテンシュタイン)との間には、72年に自由貿易協定が締結されていたが、ECの市場統合に向けた動きが活発化する中、単一市場を創設しようとの機運が高まり、91年10月、EC・EFTA間の人、物、サービス、資本の自由移動を実現することを内容とするEEAの創設について合意が成立し、92年5月、EEA協定が署名された。EEA協定は、92年中のEC及びEFTA諸国の批准を完了し、93年1月より発効することを予定していたが、92年12月にスイスで行われた国民投票により同協定が否決されたため、93年前半にスイス抜きで発効させるべく関係国間の調整が行われている。

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(ii) EC加盟申請の動向

 EEA協定は、EFTA諸国が、中立主義等のEC加盟に伴う政治的困難を排除しつつ、EC市場統合のメリットを享受することを可能とするものである。しかし、旧ソ連の崩壊に伴い中立主義の見直しの気運が高まったこと、及びEEA協定のみではEFTA諸国は基本的にはECにおける意思決定過程の外に置かれ続けることなどから、EFTA諸国は相次いでEC加盟申請に踏み切っている。92年末現在で、オーストリア(89年)、スウェーデン(91年)、フィンランド(92年3月)、スイス(92年5月)及びノールウェー(92年11月)が加盟申請を行っている。なお、92年12月のエディンバラ欧州理事会で93年初めよりオーストリア、スウェーデン、フィンランドとの間で加盟交渉を正式に開始することとされ、またノールウェーについても加盟交渉を開始する方向性が打出された。

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(iii) 中・東欧諸国との関係

 ECはポーランド、チェッコ・スロヴァキア、ハンガリーと91年12月、自由貿易地域の設立等を内容とする連合協定を締結しており、今後、中・東欧諸国のEC加盟への動きも活発化することが予想される。

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(2) 日本との関係

(イ) 総  論

 91年7月にオランダのヘーグで発表した日・EC共同宣言においては、日本とECが自由、民主主義、法の支配、人権といった政治的価値と市場原理や自由貿易に基づき世界貿易の発展を促すという経済的価値を共有しており、また相互依存関係が益々強まっているとの認識の下に、政治、経済、科学、文化その他の主要な国際問題全てについて協議し調整することとした。そのための枠組みとして、従来からの日・ECトロイカ外相協議(ECトロイカとはECの現、前、次期議長国の3者を指す)、日・EC委員会閣僚会議に加え、新たに年1回の日・EC定期首脳協議を開催することとし、首脳同士が大所高所から政策協議を行う場が設けられた。

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(口) 政 治 関 係

 日・EC共同宣言の発出時に行われた第1回協議に続き、92年7月には英国のロンドンにおいて、宮澤総理大臣、メイジャー英国首相、ドロールEC委員長の間で第2回日・EC定期首脳協議が開催された。この協議では、様々な国際問題につき意見交換が行われたが、特に、直後のミュンヘン・サミットに向けて北方領土問題等主要な国際問題につきEC側と政策調整を行う機会が得られたことは有意義であった。この第2回首脳協議により、政治面を含めた包括的な日本とECの関係は安定軌道へ乗り出したと言えよう。

 日本とECの間では、事務レベルでの頻繁な接触に加え、上記の日・EC定期首脳協議、さらには、日・ECトロイカ外相協議、日・ECトロイカ政務局長協議といった協議の枠組みを活用し、対話が積み重ねられており、特に軍備管理・軍縮、中東和平、旧ソ連支援等について、着実に協力の成果が得られている。

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(ハ) 経 済 関 係

 日本とECの間の経済関係においては、91年来の貿易不均衡拡大が懸念材料ではあるが、日・EC共同宣言に基づき、環境、開発援助等幅広い分野での協力関係を引き続き進展させ、より健全な競争と建設的な協力に基づいた関係を構築していくことが重要である。

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(i) 現  状

 86年以降減少傾向にあった日本の対EC貿易黒字は、90年11月以降再び増加に転じ、91年は対前年比48%増の274億ドルを記録した。その主な要因としては、第1に、両ドイツ統一によるドイツの需要増加、第2に、90年秋以降の円高傾向によるドル建て輸出価格の上昇、第3に、90年に急増した絵画、高級車等の輸入の減少等があげられる。92年に入っても貿易黒字は91年から更に拡大する傾向にある。

 投資面では、85年にEC市場統合白書が発表されて以降、日本企業の巨大なECマーケットへの積極的参入、及びEC保護主義化への懸念等を理由に日本の対EC直接投資が活発化した。90年度に入り、ECへの大型投資案件の一巡、バブル経済崩壊等による企業業績及び資金調達力悪化等を原因として、対EC直接投資額は、大幅に減少してきている(90年度は対前年比5.2%減、91年度は対前年比34.0%減、さらに、92年度上半期は対前年同期比22.2%減)。

 ECの対日直接投資も、EC経済の停滞を反映して、91年度は前年度を下回る水準となった(注)。その投資規模は、日本の対EC直接投資額の約8分の1にすぎず、今後ともEC内の企業が一層日本に対する関心を高めていくことが期待される。

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(ii) 対話の進展

 日本とECの間においては、加盟国レベルのみならず、ECレベルでも定期首脳協議や閣僚会議をはじめ、次官級レベルの日・ECハイレベル協議、及び、産業協力や競争政策等、個別の分野ごとに経済対話のフォーラムが存在しており、活発な意見交換が行われている。

 日本とECの間の経済界の交流や対話も活発化している。特に、平岩経団連会長を団長とする経団連ミッションが91年11月及び92年3月の2度にわたり欧州諸国を訪問したが、このミッションを契機に、日本企業の新たな行動原理として共生論が提唱され、国内での論議が高まってきていることは注目される。

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(iii) 貿易不均衡問題

 92年6月、EC理事会は、88年以来4年ぶりに対日政策に関する結論文書を採択した。この文書は、日・EC共同宣言に基づいた日本とECの政治対話の進展やあらゆる分野における関係強化の必要性を強調するなど、従来の結論文書に比べて前向きな内容となっているが、経済面では、拡大しつつある貿易不均衡への懸念を表明し、このような不均衡の原因を評価し、分析するための日本とECの会合を提案している。首脳レベルでもEC側より貿易不均衡拡大への懸念表明がなされ、対日市場アクセス改善等、個別問題における要求が行われた。日本とECの間の貿易不均衡の原因は日本市場の閉鎖性にあるのではなく、むしろ、EC側の企業が日本市場に余りに無関心であり、十分な市場開拓努力を行っていないことにも起因している面がある。このような観点から、EC企業を含め、EC側が日本市場を正当に評価し、一層の市場開拓努力をすることが、貿易関係の拡大的発展にとって不可欠である。しかしながら、このような経済面での問題が日本とEC間の関係全般に影響を及ぼすような事態は、日・EC共同宣言の精神に逆行するものであり、是非とも避けねばならない。そのためにも双方が緊密な対話を維持し、発展させることが必要である。日本は、92年6月、EC理事会の結論文書に呼応する形で「日本政府の対EC政策に関する基本的考え方」を発表し、このような姿勢を示した。

 今後数年間は、日・EC共同宣言に基づいた関係構築に向け極めて重要な時期であり、経済面においても日本とEC双方が対話と相互理解の途を追求していくことが以前にも増して重要となっていると言えよう。

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2. 欧州安全保障の動き

 

 冷戦の終焉、ソ連の崩壊を経て、さらに旧ユーゴースラヴィアあるいは旧ソ連内部における民族紛争等を抱え、今日、欧州における安全保障環境は構造的な変化の中にある。また、欧州連合の完成に向けての進展の中で欧州の独自性の確保という動きも見られる。このような変化に直面し、北大西洋条約機構(NATO)、欧州安全保障・協力会議(CSCE)、西欧同盟(WEU)等、欧州における安全保障上の既存の枠組みは、自らの役割の再定義を迫られると同時に、関連諸機関との役割の調整を余儀なくされている。近年の欧州における変化は正に革命的であるが、欧州はこのような革命的な変化に対しいかにして秩序ある枠組みを与えることができるかを模索しているところであると言えよう。

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(1) 軍備管理・軍縮の進展と軍事情勢の変化

 冷戦時代の西側の主要な関心の一つは、欧州における通常戦力の面での旧ワルシャワ条約機構軍の優位にいかに対応すべきかということであった。そのためNATOは、核兵器使用の可能性を保持しながら、柔軟反応戦略によって東側の攻撃を抑止する一方で、欧州における通常戦力削減のための努力を続けてきたのである。90年11月に、通常戦力の面での東側の優位を過去のものとする欧州通常戦力条約(CFE条約)が署名されたが、その後、ワルシャワ条約機構の崩壊、さらにソ連の崩壊等から生じた条約の主体をいかに確定するかという新たな問題を解決した上で、92年11月にこの条約は正式に発効した。また、同時に、兵員の上限を規定するCFE-Ia条約も署名、発効に至り、これにて欧州における通常戦力の削減は大きな節目を迎えた。

 なお、これらCFE条約及びCFE-Ia条約の今後の実施については、信頼・安全醸成措置を取り決めるウィーン文書92(92年5月発効)の実施とともに、92年7月のCSCEヘルシンキ首脳会議にて創設が決定された安全保障協力フォーラムにおいて交渉が継続されることとなる。

 また、核戦力についても、91年10月、NATOが短距離核戦力の全廃及び準戦略核戦力の80%削減を決定し、また93年1月、米国とロシアの間の第2次戦略核戦力削減条約(STARTII)が署名されるなど、削減に向けての努力が続けられている。

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(2) 北大西洋条約機構(NATO)

 冷戦構造の崩壊を受け、NATOは、自らを政治的価値の同盟と位置付け、その政治的役割を益々強化するとともに、これまでの脅威認識からリスク(不安定性)を中心とする概念上の変化を打ち出し、これに対応する新戦略を採択した。今日NATOは、冷戦後の新たな役割の具体化に努めるとともに、新戦略に基づく兵力の再編成の過程にある。

 なお、米国のプレゼンスについては、削減はするものの引き続き欧州に確保するものとしている。

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(イ) NATOの新戦略

 NATOの軍事戦略は、従来、前方展開戦略と柔軟反応戦略を基本としていたが、旧ソ連諸国の変化、東西ドイツの統一、中・東欧諸国に駐留していた旧ソ連軍の撤退の進行等を受けて、既に前方展開戦略は削減された前方プレゼンスという戦略に変更され(91年11月、NATOローマ首脳会議)、今日NATOは小規模ではあるがより機動性の高い部隊を配備し、必要な際にこれらを集結ないし移動させることによってリスクに対応するという態勢をとる方向に変化しつつある。また柔軟反応戦略についても、中距離核戦力(INF)条約による中距離核戦力の全廃(91年5月)、欧州の準戦略核戦力の80%削減及び短距離核戦力の全廃の決定等によって修正を余儀なくされている。

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(口) 旧東側諸国との関係

 今日のNATOの旧東側諸国に対する政策の基本は、これら諸国に対し、いかにして共通の価値観を基礎にした国家建設を支援していけるか、という点にあるといって良いであろう。ローマ首脳会議で採択された宣言では、NATOの役割として、これまでの「対話」及び「集団防衛力の維持」に加え、「協力」を加えることとなったが、これは、旧ワルシャワ条約機構諸国との対話の枠組みとして北大西洋協力理事会(NACC)を設立するなど具体化されてきている。このNACCは、中・東欧諸国の安定を促進することにより、欧州の安全保障に貢献することを目的としており、外相級、大使級の会議を開催している。

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(ハ) NATOと平和維持活動

 NATOがその役割を、同盟国の安全確保のみならず、全欧州における安全保障のための枠組みの構築に求めつつある中で、欧州における平和維持活動への協力は不可避である。NATOは既に、旧ユーゴースラヴィア問題との関係で、92年7月からアドリア海での対旧ユーゴースラヴィア監視活動を行っているほか、同年10月からはボスニア・ヘルツェゴヴィナ上空(NATO域外)での飛行禁止区域の監視活動をも実施し、さらに、国連の実施している人道物資援助の防護及び重火器管理に関する活動を支援するため、11月から国連保護隊(UNPROFOR)として約6,000人規模の地上部隊を旧ユーゴースラヴィアに派遣している。NATOはまたCSCEの下での平和維持活動にも協力の姿勢を示し、既に92年6月の外相理事会において、CSCEの下における平和維持活動を支援する用意があることを表明している。

 このような、欧州の平和維持活動へのNATOの協力は、今後NATOとしての重要な活動の一つとなっていくと思われる。

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(ニ) 日本との関係

 NATOがその政治的役割を更に強化し、欧州の新秩序構築のために、より広い役割を果たしつつある中で、日本とNATOとの対話の強化は、日欧、あるいは日米欧関係の全般的強化において重要な意味をもっている。そうした中で、日・NATO間では、91年9月のヴェルナー事務総長の来日を含め、人的交流が進展しているほか、92年11月には第2回日・NATO安全保障ハイレベル・セミナーが開催され、日・NATO双方において対話を継続していくことの重要性が再確認された。

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(3) ECの共通外交・安全保障政策

 92年2月に署名された欧州連合条約はEC12か国が外交及び安全保障面において「一つの声」で発言するとの方向性を打ち出し、経済面のみならず政治面での統合を含む「欧州連合」創設を図っている。この共通の安全保障政策を軍事面で支える機関として西欧同盟(WEU)の役割が重視され、WEUは欧州連合の防衛面での不可欠の要素であり、かつ大西洋同盟の欧州の柱を強化する手段と位置付けられている。なお、WEUは、そもそも専ら加盟各国の防衛政策の調整を行う機関として発足したが、92年6月のペータースベルク宣言により、軍事部隊の創設によって独自の軍事作戦能力を保持することとなった。

 さらに、ドイツ、フランス両国は、92年5月の独仏首脳会談において、このWEUの下で行動する「欧州軍団」構想を提唱し、その核として、既に編成されていた独仏合同旅団を発展させ独仏合同軍団を創設することについて合意した。また、フランス、ドイツは92年12月、独仏軍団をNATOの指揮下にも置くことに同意した。これはNATOの軍事機構に参加していないフランスのNATOとの関係強化を図る動きとして注目される。

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(4) 欧州安全保障・協力会議(CSCE)

 冷戦時代、東西対立を前提として、両陣営間の信頼醸成を図ることを主目的としていたCSCEは、冷戦構造の崩壊に伴い、市場経済、民主主義といった共通の価値観を基礎とする域内の安定を目的とする協力のための枠組みとして発展しつつあり、そのために、機構の整備や機能の強化が進みつつある。

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(イ) 機構整備・機能強化

 90年11月のパリ首脳会議以降、CSCEでは、紛争の平和的解決のためのメカニズム、平和維持活動の創設等、機構整備、機能強化が進展している。

 さらに、92年12月のストックホルム外相理事会では、CSCE事務総長職の設置を決定したほか、少数民族高等弁務官にファン・デル・ストゥール元オランダ外相を任命し、また、紛争の平和的解決のための調停・仲裁裁判所の設置に係る条約に、フランス、ドイツ、スウェーデン等約30か国が署名するなどの進展が見られた。

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(口) 参加国数の増加と役割の増大

 CSCEは当初35か国で出発したが、その後、91年にアルバニア、92年に旧ソ連、旧ユーゴースラヴィアの各共和国、また93年1月からは分離独立によりチェッコ及びスロヴァキアの両共和国が改めて参加することとなり、現在の参加国は53か国となっている。これによってCSCEは、文化、宗教等で多様な国々を主権国家として迎えつつ、また、その取り扱う内容及び地理的範囲のいずれの点でも拡大させている。また、その役割の増大とともにCSCEに対する域外国の関心も次第に高まってきていることから、CSCEは従来の北米・欧州といった限られた枠組みを越えつつあると言えよう。

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(ハ) 日本との関係

 以上のような冷戦後のCSCEの発展は、CSCEが新しい世界秩序を構築していく上で重要な役割を果たしつつあることを示している。そのような中で、日本がCSCEとより緊密な関係を築いていくことは、日本にとってもまたCSCEにとっても有益であり、92年、日本が特別ゲストとして招かれたヘルシンキ首脳会議では今後首脳会議、外相理事会、高級事務レベル委員会を含むCSCEの主要会議に日本を招待し、決議には参加できないものの発言権を与えることが決定された。

 その後、ストックホルム外相理事会では、日本がCSCEに対して積極的に協力ないし関与していくべき主要分野として、第1に兵器の拡散・移転等グローバルな問題が扱われる分野、第2に国連等ほかの国際機関との協力関係が問題となる分野、第3に安全保障等で日本に直接的影響が及び得る分野を挙げ、日・CSCE関係の具体的なあり方の基本的方向を示した。

 このように、CSCEとの関係の強化は、今後の日米欧関係の強化、日本の国際貢献にとっても大きな意味をもっているが、CSCE自体が未だ変化の途上にあることもあり、日本とCSCEとの関係は今後更に発展していくべきものである。

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3. 旧ユーゴースラヴィア問題

 

 90年以降分裂への動きが顕在化しつつあったユーゴースラヴィアにおいては、91年6月スロヴェニア、クロアチアの北部2共和国が独立宣言に踏み切ったのを皮切りに、9月にはマケドニア共和国がこれに続き、翌92年3月にはボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国も独立を宣言した。残るセルビア、モンテネグロ両共和国は4月に両共和国から成るユーゴースラヴィア連邦共和国(新ユーゴースラヴィア)を樹立した。こうして、1918年セルビア・クロアチア・スロヴェニア王国として発足し、ユーゴースラヴィア王国、ユーゴースラヴィア社会主義連邦共和国と名称を変えつつ70余年にわたり多民族国家として存続してきたユーゴースラヴィアは事実上解体、消滅することとなった。

 しかしながら、上記の分裂、解体の過程で生じた武力の行使をも含む民族紛争は未だ終息にいたらず、問題の解決にはほど遠く、むしろ今後コソヴォ、マケドニア等火種をかかえる他の地域にも波及するのではないかと懸念される状況にある。

 スロヴェニア共和国で独立宣言直後に発生した戦闘は短期間のうちに終息した。スロヴェニア共和国は、ユーゴースラヴィア内の共和国にしては珍しく単一民族国家であることもあり、すでに離脱を達成したとの立場をとっている。

 クロアチア共和国では91年の後半を通じセルビア人居住地域全域で激しい戦闘が続いたが、92年3月以降国連保護隊(UNPROFPR)がこの地域に派遣されたことにより92年末現在小康状態が保たれている。しかし、領内のセルビア人住民側とクロアチア当局側との和解にはまだほど遠い状態である。

 クロアチア共和国の戦火は心配されていたとおり3民族が混在しているボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国に飛び火するところとなった。統一体としての共和国を維持するため独立宣言を行ったイスラム教徒及びクロアチア人側と、セルビア人居住地域の独立あるいは共和国内での民族別分割を狙うセルビア人側が争い、戦闘は事実上民族間境界線の確定のための戦いという性格を帯び、そのために一層激しいものとなっている。

 セルビア共和国とモンテネグロ共和国はほかの共和国が全て独立を宣言した後、旧ユーゴースラヴィアを承継する国家としてユ-ゴースラヴィア連邦共和国(新ユーゴースラヴィア)を樹立したが、国際的に承認されるところとならず、さらには、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国のセルビア人武装勢力を支援しているとして国連により厳しい制裁措置を課せられている。

 マケドニア共和国は、92年9月独立を宣言し、これに対し、ギリシャは「マケドニア」の国名は元来古来ギリシャの一地方を指すものとして国名の変更を強硬に要求した。ECは92年6月のリスボン欧州理事会において、ギリシャの強い主張を反映し、「マケドニア」の語を含まない名称の下に承認の用意があることを決定した。しかし、マケドニアは国名変更に応じず国際的承認を得られていない。マケドニアは経済的にも窮迫しており、セルビア南部のアルバニア人密集地域であるコソヴォとともに、ボスニアの戦火が飛び火するのではないかと懸念されている。

サラエボ空港の国連保護隊(共同)

 

 ユーゴースラヴィア情勢は、今やヨーロッパのみならず広く国際社会が取り組むべき大きな問題となっている。はじめECがユーゴースラヴィア各民族の指導者を集めて調停に務めていたが、クロアチア共和国での戦火が拡大するに及んで国連が乗り出し、約1万4,000の国連保護隊を紛争地域に送って停戦の維持に当たっている。その後、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国にも援助物資の輸送を保護するため、英国、フランス等の兵を主力として約7,000名の保護隊を投入した。

 他方、国連は、セルビア共和国、モンテネグロ共和国が旧ユーゴースラヴィア地域、特にボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国における民族紛争の最大の責任者であるとして、この両共和国が構成する新ユーゴースラヴィアに対し、92年6月以降、貿易、資本取引、航空機乗り入れ、スポーツ交流の禁止を含む厳しい制裁を課している。

 92年8月にはECと国連の共催でユーゴースラヴィア問題国際会議(ロンドン会議)を開催し、紛争の全当事者に政治的解決を受け入れるよう圧力をかけた。この会議は常設の機関として運営委員会を設置した。その共同議長であるヴァンス元米国国務長官とオーエン元英国外相を中心に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国における紛争の解決策を提出するなど積極的な調停活動を続けている。

 このほか、欧州安全保障・協力会議(CSCE)も少数民族問題が深刻化する惧れのある地域に長期ミッションを派遣し、また、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を始めとする諸機関が、300万人を超える難民や被災民の救援活動を行っている。

 日本も、ユーゴースラヴィア問題に対する国際社会の取組を支持、支援するとの観点から、難民支援の一環としてUNHCR等の国際機関に約2,451万ドルを拠出し、ロンドン会議に政府代表を送り、CSCEの長期ミッションに参加するなどの貢献を行っている。

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第2項 主要国の動き

 

1. 英  国

 

 90年11月の就任以来、メイジャー首相はサッチャー前政権の不人気政策であった人頭税を廃止し、対欧州政策については協調的な姿勢を打ち出すなど、保守党の政策に対する国民の支持を高めるために努めてきた。90年第3四半期以降連続のマイナス成長という戦後最長の厳しい不況の中で迎えた92年4月の総選挙では、事前の各種世論調査においても労働党が有利との予想が多かったにもかかわらず、結果としては保守党の経済政策が支持を集めて同党が過半数を制し、引き続き5年間政権を担当することとなった。しかしながら、その後も英国経済は不況から抜け出せないまま、92年9月にはポンドが急落して英国は為替相場メカニズム(ERM)から離脱することとなり、また10月には大規模な炭坑閉鎖計画をめぐってメイジャー政権の経済政策に対する批判が高まった。

 メイジャー首相は92年7月から半年間EC議長国を務める機会を捉え、積極的な対EC外交を実施したが、その一方でEC統合の推進に否定的な保守党内の欧州懐疑派の取扱いに細心の注意を払うことを余儀なくされている。92年6月にデンマークにおける国民投票で欧州連合条約批准が否決されたこと、9月のフランスにおける国民投票での同条約承認がわずかの差であったこと、及びポンドがERMを離脱したこともあり、欧州懐疑派は勢いを増した。これに対し、メイジャー首相は10月にバーミンガムにて特別欧州理事会を開催するなど、欧州連合条約承認に向けての環境作りに努め、11月には下院において小差ながらこの条約の議会審議推進に関する動議の可決を得た。しかし、動議の翌日には、メイジャー首相は最終段階の審議を93年5月まで行わない旨述べている。

 12月には、エディンバラで欧州理事会が開催され、欧州連合条約批准に関するデンマークの取扱い及びEC中期財政問題について合意に達し、EC拡大交渉の早期開始が決定されるなど、前向きの成果が得られ、議長国首相として会議をとりしきったメイジャー首相の外交手腕に対する評価が高まった。

 日本と英国の二国間関係は、良好に推移しており、特に両国間の政治対話は、92年に限っても1月の二ュー・ヨーク、7月のロンドンにおける首脳会談、及び1月のワシントン、9月のニュー・ヨークにおける外相会談をはじめとして様々なレヴェル、分野で頻繁に行われ、緊密な政策協議や協調が進められてきている。経済面においても、日本の英国に対する直接投資額が累計ベースでECに対する直接投資総額の約40%を占めていることに見られるとおり、両国の結びつきは強い。特に、英国側は91年以来、日本に対する輸出と投資及び日本よりの技術移転の促進を柱とした「プライオリティー・ジャパン」キャンペーンを推進中であり、このキャンペーンの前身であった「オポチュニティー・ジャパン」キャンペーン同様、英国の日本に対する積極的な姿勢の表れとして評価される。文化面においては、91年9月から約4か月間にわたり英国全土で大型日本紹介文化事業である「ジャパン・フェスティヴァル1991」が開催され、英国人の日本に対する理解の増進、友好関係の強化に大きな効果があった。

 英国は、欧州統合の進展に際しては一貫して欧州を開かれたものにするとの立場を堅持する一方、日本との関係強化に積極的であり、また、米国との間では伝統的に緊密な関係を維持している。日本がこのような英国との関係を強化していくことは日本と欧州の全般的な関係の推進にも大きく寄与していくものである。

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2. フ ラ ン ス

 

 フランスではミッテラン政権の長期化に伴う国民の飽きと、失業率の増大などに起因する不満の高まりから、政局は93年3月の国民議会選挙等に向け流動化し、さらに大統領選挙を念頭においた動きも見られる。91年5月に就任したクレッソン首相(当時)は、対外関係(特に対日関係)のほか内政面においても当初の期待を裏切り、ついに92年3月の地方選挙における大敗(社会党の支持率が結党以来最低の18.3%)の責任をとって辞任した。92年4月首相に就任したべレゴヴォワ前蔵相は雇用問題を最重要施策に掲げている。

 外交面では、ソ連の崩壊以後の国際情勢の基本的枠組みの変化を受けて、フランスは独自外交を模索している。そうした中で、核兵器の位置づけを含むフランスの新しい安全保障政策をめぐる議論も活発化し、92年4月、南太平洋の核実験を当面中断する旨発表した。

 また、92年9月には、欧州連合条約批准のための国民投票が実施され、わずかの差で承認された。従来、欧州統合の最大の推進者であったフランスでのこの結果は内外に大きな波紋を及ぼしたが、これまでとかく知識人やエリートを中心に進められて来た欧州統合について国民一人一人が真剣に考えたことは、将来のためには好ましいことと見られる。フランス政府としては、ドイツとの連携の下での欧州統合の推進なしには自国に明るい将来はないことを十分認識するとともに、21世紀を見据えた世界新秩序の構築過程で欧州の影響力を確保するためにも欧州連合の実現が不可欠であると考えている。

 経済面においては、フランス経済は、欧州の中では比較的低いインフレ率、また、大きく改善された貿易収支等、基本的に健全な状態にあるものの、10%を超える失業率は深刻な社会問題となっており、国民の不満を高める結果となっている。しかし、フランス政府は現在、財政均衡を主な目的とする緊縮方針を基本としているため、思い切った財政支出を伴う景気浮揚政策をとれない状況にある。

 日本とフランスの関係を見ると、GNP世界第2位(日本)と第4位(フランス)の国同士としては余りに希薄な両国関係の幅を広げ、また深めることが両国のみならず世界全体の発展と安定に必要である。幸いこうした認識をフランス側も持つに至り、政治と経済両面で日本を積極的に捉えようとする政策が打ち出され始めている。特に、92年1月に発表された対日輸出キャンペーン「ル・ジャポン・セ・ポシブル」(「日本、それは可能」の意)は、経済面におけるフランスの日本に対する積極的な姿勢の現れである。日本としても、このようなフランスの姿勢はフランスのみならずEC内の企業の日本への関心を高め、かつ、相互理解を深めるものとして高く評価しており、これを成功に導くべく積極的に支援を行っている。92年4月の宮澤総理大臣がフランスを訪れた際には、対日輸出支援強化策、人的交流強化策、及び、情報伝達機能強化策の3本柱からなる支援策を発表した。

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3. ド イ ツ

 

 90年10月のドイツ統一達成の勢いに乗ったコール政権は、その年の12月の総選挙で安定多数を確保したが、湾岸危機に際しての対米支援及び旧東ドイツ地域再建の財源確保のため公約に反し増税を実施した。しかし、旧東ドイツ地域の経済的再建は容易に進まず、東西間の生活水準のみならず価値観の違いが大きな社会問題として指摘されるに至っている。このような状況の中で、統一後の州選挙で与党キリスト教民主同盟は敗退を重ね、ドイツ上院(州政府の代表で構成)は与野党逆転の状況(31対37)となり苦しい議会運営を強いられることとなった。さらに、92年に入ってからの州選挙では保守、革新を問わず州政権を担ってきた政党の得票率が大きく後退し、極右及び環境政策を唱える政党の伸長が見られた。こうした中で、ドイツの政局は94年の次回連邦議会選挙に向けて各党が戦略を練り始めるなどの動きを見せている。

 外交面では、92年5月にゲンシャー外相からキンケル外相への外相の交替はあったものの基本的政策方針に変更は見られない。具体的には、ドイツとフランスの関係を基軸に欧州統合の推進、欧州安全保障・協力会議(CSCE)の機能強化、ECのユーゴースラヴィア共和州承認カタログの採択(91年末)の実現等、欧州統合及びユーゴースラヴィア問題の欧州内解決に向けて引き続き積極的なイニシアティヴが見られた。これは、統一されたドイツのあるべき姿として「ドイツのためのヨーロッパ」ではなく「ヨーロッパのためのドイツ」でなければならないとの現指導者の強い信念に立脚している。また、旧ソ連及びポーランドとの善隣友好条約の締結に続き、91年後半にほかの旧東欧4か国との間で逐次善隣友好条約を署名した。また北大西洋条約機構(NATO)と旧ワルシャワ条約機構諸国との対話の枠組みとして北大西洋理事会(NACC)設立の推進、さらに国際科学技術センター設置の共同提案国となるなど、旧ソ連諸国や中・東欧諸国に民主主義と安定が定着し、ドイツとの良好な関係が維持されるための布石をうっている。

 こうした中で、統一と主権の完全回復を達成した国家として、ドイツの国際貢献をめぐる議論が活発化している。特にドイツ連邦軍のNATO域外への派遣及びそのための「基本法」改正が重要な論点となっており、92年11月、最大野党の社会民主党党首が、一定条件下で、国連憲章の枠内での軍事行動参加の可能性の検討を行う用意があるとの方針を打ち出したことが注目される。また、最近の国連安保理改組の議論の高まりを背景に、キンケル外相は、9月の国連総会における演説で安保理常任理事国議席獲得への関心を表明した。

 経済面においては、91年の増税、高水準の賃上げ、マネー・サプライの急増、財政赤字の拡大等の要因からインフレ圧力が高まっていることなどを背景に、高金利政策による金融引締めが実施されている。高金利及びその結果としてのマルク高は、国内景気回復の阻害要因となっているのみならず、欧州通貨制度(EMS)の為替相場メカニズム(ERM)を通じて欧州各国の金融政策に対する制約の要因となっている。特に、92年9月に始まった欧州通貨危機はドイツの高金利政策によるマルク高が主要な原因となった。

 ドイツは統一のコストや欧州連合の推進に忙殺されている面もあるが、日本にとって欧州の中心的存在たるドイツとの対話と協力の必要性は今日一層増大している。92年は宮澤総理大臣が二度にわたりドイツを訪れ、ドイツからはゲンシャー外相(当時)等の閣僚が訪日するなどの要人の往来が活発に行われ、日独関係増進の観点から大きな成果を上げた。日独関係の強化は、二国間においてのみならず、日本と欧州の関係全般、さらには世界新秩序の構築という観点からも重要な意味を持つに至っており、日本としてはこうした幅広い認識に基づきドイツとの関係を推進していくことが必要である。経済面においても、日本にとり欧州で最大の貿易相手国(対EC貿易額の約3分の1)であるドイツとの協力関係は日本と欧州の経済関係全般にとりますます重要となっている。ドイツ国内においては、91年の日本の対独黒字の大幅な拡大を背景に、ハイテク分野等における日本に対する警戒も一部に見られる一方、むしろ日本とドイツの間の対話・協調により産業協力を進めていくべきとの認識が高まっている。

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4. イ タ リ ア

 

 92年4月に繰上げ総選挙が実施され、キリスト教民主党と左翼民主党(旧共産党)の二大政党のほか、キリスト教民主党と連立与党を組む社会党と社会民主党も敗北し、代わりに北部地方の自主性尊重と中央政界不信を掲げる新興政治勢力であるレーガ・ノルド(北部同盟)が躍進した。こうして欧州での共産主義体制の崩壊と国民の価値観の多様化及び中央政界不信の高まりの中で、多党化、小党化現象が一段と顕著となり、連立4党体制の基盤はますますもろくなってきた。4月に新国会が招集された後、アンドレオッティ内閣の総辞職、コッシーガ大統領の辞任、スカルファ口新大統領の就任等、政局は激動した。6月に発足したアマート新内閣は、欧州統合を積極的に推進しようとしており、欧州統合の中でイタリアがとり残されないためには、早急に打開すべき問題が多いことを国民に訴えている。特に、現在のイタリアの主要課題として経済と財政の再建、政治制度改革と政治倫理の改善及びマフィア等の犯罪対策強化の3点を挙げ、大胆な施策を実施中である。

 冷戦後の世界新秩序構築の面では、92年7月からイタリアは西欧同盟(WEU)の議長国(任期1年)として欧州地域の安全保障をめぐる議論、さらには欧州新秩序の構築に向け欧州各国をとりまとめるなど重要な役割を果たしている。また、不安定化要因が増している中・東欧地域及び中近東地域を、自国の安全保障上重要な地域として重視し、アルバニアへの軍人による援助ミッションを派遣したり、中・東欧地域における経済と政治協力を図ることを目的とした「中欧イニシアティヴ」を推進している。また、中東和平会議二国間会合のローマでの開催に向けた動きやイスラエルとECの関係強化の主張等中東和平プロセスへの関与、地中海諸国との協力の推進を積極的に図っている。

 イタリアと日本は伝統的に良好な関係にあるが、特に最近、北方領土問題に関する日本の立場への理解と支持、日本の欧州安全保障・協力会議(CSCE)との関係強化への積極的協力等、イタリア政府首脳は自国の国際社会における立場も十分念頭に置きつつ、日本に対し好意的な態度を示している。また、経済面においても基本的に良好な関係にあり、日伊ビジネス・グループの活動等、両国産業界の間の交流も活発となっている。

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5. 中・東欧諸国

 

(1) 中・東欧諸国の改革

 中・東欧諸国の改革の意義は、共産主義打倒の先駆けとしての意義にとどまらない。中・東欧諸国で定着しつつある民主主義は、ほかの地域における自由と民主主義の確立に弾みを与え続けている。91年8月、中・東欧諸国における民主政権は、ソ連(当時)のクーデターに対しいち早く不支持の立場を明確にし、ソ連共産主義の崩壊を後押しした。これは、89年の中・東欧諸国の改革に対し、ゴルバチョフソ連大統領(当時)が不介入という中立的な立場しか取り得なかったのとは対照的である。また、改革が先行している中・東欧諸国が経済の復興に成功すれば、ほかの旧共産主義諸国における改革勢力を勢いづかせることは確実である。このように、中・東欧諸国の改革が成功するか否かは、引き続き世界的な意義を有する。

 他方、このような意義を有する中・東欧諸国の改革は幾つかの不安定要素を抱えている。その第1は市場経済移行に伴う経済的困難である。ポーランド、ハンガリー、チェッコ、スロヴァキア(チェッコとスロヴァキアは93年1月に分離、独立した。)の4国については、92年に入り経済の後退に下げ止まりが見られたが経済の水準が改革前の水準に回復するにはなお数年を要すると見られる。また、改革の開始が遅れたブルガリア、ルーマニア、アルバニアでは経済困難は一層深刻である。もとより、中・東欧諸国の経済の復興のために市場経済への移行以外の選択技はないことは明らかであり、改革の速度の緩急については若干の議論は出ているものの、各国政府は改革政策を堅持しており、国民の改革に対する支持も揺らいでいない。しかし、経済改革に伴う失業、倒産等の社会的負担が長期にわたって継続する場合、国民の改革に対する支持が掘り崩される危険はある。

 第2に、共産主義の崩壊とともに民族主義が高まりつつあることも不安定要素である。前述したとおり旧ユーゴースラヴィア地域における民族問題(第2章第2節第6項参照)は武力紛争に発展したが、そのほかの地域においても、チェッコ民族とスロヴァキア民族間の確執、ルーマニア、スロヴァキア内のハンガリー系住民、ブルガリア内のトルコ系住民、リトアニア内のポーランド系住民等の問題がある。これらの問題については、ユーゴースラヴィア紛争の泥沼化がいわば抑止力となって、今のところ、深刻な事態を発生させていない。また、チェッコとスロヴァキアは93年1月合意に基づき分離・独立した。なお、経済的な不満が過激な民族的な要求を一層先鋭化する危険性もあることにも注意する必要がある。

 国際社会は、各国において少数民族を含むすべての国民の権利が適切に保護されること及びいかなる問題も武力によらず平和的に解決されることを強く訴えていく必要がある。

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(2) 中・東欧謔国支援と日本の対応

 既に見てきたように、中・東欧諸国が民主主義を定着させ経済を復興させることは国際社会全体の利益であり、これらの諸国が経験している種々の困難を克服していくことを支援することは、先進民主主義国の共通の責務である。このような考え方から、先進民主主義諸国は、積極的な支援を継続しており、日本も応分の負担を行っている。中・東欧支援国会合(G-24)(注)で取りまとめられた支援総額は、92年6月現在約560億ドルであるが、その内、日本が表明した支援は45億ドルを超え、全体の8.3%に相当している。

 中・東欧諸国の改革を支援していく上で、次の3点が重要である。

 第1は、中・東欧諸国による改革努力の継続が支援の前提であるという点である。これは、改革の第一義的な責任は中・東欧諸国自身にあり、支援は中・東欧諸国による自助努力があってはじめて有効であるということに加え、そもそも改革のないところに支援は行わないというより強い政治的メッセージを含んでいる。G-24や欧州復興開発銀行(EBRD)が明示的に政治的民主化と市場経済への移行を支援の条件に掲げ、スロヴェニアを除く旧ユーゴースラヴィアに対する支援を停止しているのもこのような理由に基づくものである。

 第2は、日米欧三極間の協力が必要であるという点である。これは、中・東欧諸国に対する支援の必要性が非常に大きいことから、各国の支援を調整しその効果を最大限にする必要があるためである。このような観点から今後ともG-24の役割は重要である。

 また、中・東欧諸国は一様にECとの関係強化を目指しているが、一方で、日本と米国の役割に強く期待しており、日本と米国が協力してこの地域に支援を行うことも有意義である。日本は、92年5月クエール米国副大統領が訪日した際、米国と協力して中・東欧の諸国の民間企業を育成する目的で、4億ドルを限度とした支援策(注)を表明したが、これは日米協力の一例として特筆されよう。

 第3は、各国が比較優位を有する分野で重点的な支援を行うことである。日本は、戦後復興の経験を生かした産業政策等のノウハウの移転や環境分野の資金協力等に重点を置き、具体的な施策を実施していく必要がある。

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(注)

 前年度と比較可能なオランダ、ドイツ、フランス及び英国の比較で12.8%減。

(注)

 89年7月のアルシュ・サミットの合意に基づき創設された、先進各国の中・東欧支援を緩やかに調整するフォーラム。EC委員会が議長。参加国はOECD加盟国と同じ24か国。支援の受益国は、現在、ポーランド、ハンガリー、チェッコ・スロヴァキア、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、バルト3国、スロヴェニアの計10か国。

(注)

 3億ドルの日本輸出入銀行のツーステップ・ローンと日本国際協力機構(JAIDO)に対する1億ドルの増資。