第3節 湾岸危機後の諸問題への対応
1. 湾岸危機後の諸問題
多国籍軍による武力行使は、イラクが国連安全保障理事会の関連諸決議を受諾するとの意向を明らかにしたことを受け、2月28日に至り停止され、事実上の停戦が成立した。これにより、湾岸危機は収束に向かうこととなったが、停戦決議の実施過程において、イラクが国際法上の義務に違反してウラン濃縮を行っていたことが確認された。このほか、湾岸を中心とする中東地域には、クルド難民問題、イラクによりもたらされたペルシャ湾原油汚染やクウェイト油井炎上等の環境破壊への対応、イラク軍によりペルシャ湾に敷設された機雷の除去、クウェイトを始めとする地域諸国の復興など、国際社会として緊急に取り組まなければならない多くの問題が残された。
(1) クルド難民問題
多国籍軍による武力行使の停止以後、91年3月初旬には、イラク国内で北部のクルド人及び南部のシーア派国民による反政府暴動が拡大した。イラク政府はこれらの暴動を武力により弾圧したため、3月末より、クルド人を中心とする難民が国境を接するイラン及びトルコに大量に流入する事態となった。これに対し、4月6日、国連安全保障理事会は、イラクのクルド人抑圧を非難し、クルド人に対する人道援助を要請する決議688を採択した。
4月中旬より、国連安保理決議688に沿った人道的かつ暫定的な措置として、米国、英国、フランス、オランダ等による合同軍が難民保護のためイラク北部に展開し、難民キャンプを設置するなどの活動を行った。5月中旬以降は、合同軍が設置した難民キャンプの一部が国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に移管され始め、イラク北部に国連警備官が派遣されるなど、イラク内での国連の活動が次第に活発化した。6月7日に、難民救済活動の責任を合同軍から国連に完全に移管する旨の合意が成立したことを受けて、合同軍は撤収を開始し、7月15日に撤収を完了した。
イランに流入した難民の数は、一時は140万人にも上り、また、トルコに流入した難民の数は一時は41万人にも上った。5月中旬以降、自主帰還が進み合同軍等の協力によってイラクへの大量帰還が進展したことにより、8月初旬現在、イランに17万人弱、トルコ・イラク国境に約7,000人の難民が滞留しているのみとなった。
4月よりクルド反政府組織とイラク政府の間でクルド人の自治の拡大等に関する交渉が行われているが最終的合意は未だ成立していない。クルド問題の実際的な解決のためにはクルド人にも十分な権利と安全が保障される政治体制を確立することが必要であり、この交渉の推移が注目される。
(2) 環 境 問 題
多国籍軍が武力行使を開始した直後の91年1月19日頃より、イラク軍はクウェイトの石油積出し港であるミナ・アル・アハマディの石油施設及び同港沖に停泊していた5隻のタンカーから、故意に原油をペルシャ湾に流出させた(注)。流出した原油はサウディ・アラビア東部海岸を南下し、海岸に漂着するとともに、カタル北岸まで到達した。7月現在、洋上に浮遊していた原油は蒸発、沈降、漂着によりほとんど視認できない状態となっており、洋上の回収作業は概ね終了し、対策作業の重点は沿岸の清掃に移行している。さらに、2月22日から24日にかけて、イラク軍はクウェイトから敗走する際、クウェイト国内の油田に放火し、600余りの油井が炎上した。油井火災によって発生した煙は周辺諸国に拡散し、イラン、イラク等で黒い雨が降ったほか、大気汚染により、周辺諸国では例年に比較して日中の気温が10度近く低下したとの報告もあった。
(3) イラクによる核開発
国連安保理決議687による停戦の後、同決議に基づき、国際原子力機関(IAEA)は、イラクにおける核兵器、核物質等の現地査察のための調査団を派遣した。調査は、イラク側の抵抗、妨害等もあって必ずしも順調に進んでいない。この調査の過程で、イラクが核不拡散条約(NPT)の締約国であり、かつ、IAEAとの間でフル・スコープ保障措置協定を締結しているにもかかわらず、これらの国際法上の義務に違反してウラン濃縮を始めとする原子力活動を行っていたほか、若干のプルトニウム抽出を行っていたことが判明した。IAEAはこのようなイラクの行為は平和利用目的のものとは考えにくいと判断している。
2. 日本の対応
湾岸危機後の中東地域の安定の確保は、今後の安定した国際秩序の形成にとって不可欠の要素であり、また、エネルギーの安定的供給の観点からも、極めて重要な問題である。特に、同地域に石油輸入の約7割を依存する日本にとり、その安定の確保は国家の死活的利益に関わるものであり、今後長期的な地域の安定確保のための国際的な努力に積極的に参画していくことは、日本の国際社会における責務であると同時に、日本自身の利益のためにも必要なことである。このような観点から、政府は3月20日に「中東の諸問題に対する当面の施策」をまとめ、(あ)中東地域の安全保障、(い)軍備管理・軍縮、(う)中東和平、(え)経済復興、(お)環境面での協力について各種の施策をとっていくことを明らかにした。また、これに加えて難民支援の分野でも積極的な貢献を行うことを明らかにした。
(1) 難 民 問 題
難民問題について日本は、関係国際機関からの要請に応え、資金協力として総額1億ドルを拠出したほか、国連の関連決議に基づく米国、英国の動きに先立ち、医師と看護婦からなる国際緊急援助隊をイランに5チーム(合計51名)、トルコに1チーム(8名)派遣し、また、イラン及びトルコに対し救援物資(総額9,378万円)を供与した。なお、イランについては、日本の緊急援助隊が、政府派遣のミッションとしては、最初に現地に到着した。また、中山外務大臣は91年5月にイランを訪問した際、イラン北西部の難民キャンプ等の視察を行った。
(2) 環 境 問 題
原油の流出による海洋汚染や油井の炎上による大気汚染などの環境問題については、日本は、サウディ・アラビアを始めとする被害を受けた国に対し、湾岸平和基金を通じオイル・フェンス、油吸着材、オイル・スキマー、小型油回収船等を迅速に送付したほか、原油回収、海水淡水
ペルシャ湾で原油回収作業を行う国際緊急援助隊員
(国際協力事業団提供)
化施設保全、環境保健医療、大気汚染等のため調査団、専門家、国際緊急援助隊など総計70名(91年8月末現在)を派遣するなどの協力を行った。
さらに、国際機関を通じた協力として、国連環境計画(UNEP)緊急行動提案、国際海事機関(IMO)湾岸油汚染災害基金に対する資金の拠出を実施している。このような日本の貢献は、サウディ・アラビアを始めとする関係国より高い評価を得ている。
(3) ペルシャ湾の機雷の処理
ペルシャ湾北西部海域には、イラク軍が約1,200個の機雷を敷設したとされており、クウェイト国内の油井や港湾施設が破壊されたこととあいまって、クウェイト解放後も同国の復興や同国及びサウディ・アラビア北部からの原油輸出の大きな障害となった。91年4月、政府は海上自衛隊の掃海艇等6隻を乗員約510名と共にペルシャ湾に派遣することを決定した。自衛隊の掃海艇は6月以降、米国、英国、フランス、ベルギー、イタリア、ドイツ、オランダ、サウディ・アラビアの8か国の部隊と共に、クウェイト沖の公海上等で掃海作業を実施した。
日本は、平和憲法の下、武力行使の目的を持つ海外派兵を行わないという方針を堅持している。今回の措置は、正式停戦が成立し、武力衝突の危険が去った状況の下で、日本の船舶を含む船舶の航行の安全確保のため海上に遺棄されたと認められる機雷を除去するという平和的かつ人道的な貢献として行われたものであり、海外派兵には当たらない。
日本のこの新しい国際貢献は、中東諸国のみならず、アジア諸国を含む多くの国々や国連事務総長からも評価され、あるいは歓迎された。また、今回の措置は国民の高い支援を得て実施されたが、これは日本の果たすべき国際的な責任に対する最近の国民の意識の高まりを示すものといえよう。
(4) その他の問題
以上の諸問題に加え、湾岸を中心とする中東地域においては、地域の安全保障、軍備管理・軍縮、パレスチナ問題を中心とする中東和平等、その解決が地域の長期的安定にとり不可欠な諸問題が存在している。これら地域の諸問題の解決に当たっては、第一義的に域内諸国の意向を尊重するべきことは当然であるが、同時にこれら域内諸国の意向を踏まえつつ、国際社会全体の問題として積極的に取り組む必要がある。
日本は、イラク・クウェイト国境監視団(UNIKOM)に外務省職員を派遣し、イラクにおける大量破壊兵器の廃棄に関する国連の特別委員会にも専門家を派遣したほか、イラクによるIAEA保障措置協定違反が明らかになったことにかんがみ、在京イラク大使を招致し、これを非難するとともに国連安保理決議687の迅速かつ誠実な履行につき善処を申し入れた。また、湾岸危機によって、核兵器、化学兵器、生物兵器等の大量破壊兵器及びミサイルの拡散や、通常兵器の移転のもたらす危険性が明らかになったことを踏まえて、日本は、大量破壊兵器及びミサイルの不拡散と通常兵器の移転規制を促進させるために外交活動を一層活発に展開し、91年5月に京都で国連と協力して軍縮会議を開催し、さらにロンドン・サミットにおいてこの問題の重要性を説明した。その結果、ロンドン・サミットの宣言に日本の主張が大きく反映されたことは、既に指摘したとおりである。また、IAEAの場においても、IAEA保障措置の整備と強化を提唱し、具体的強化策を提出することを明らかにした。
さらに中東和平に関連して、湾岸危機の克服を契機に、和平のための国際会議を開催しようとする米国の提案が実現の方向に向かいつつあるが、日本としても中東和平の促進のために側面的支援を行うこととし、その第一歩として、日本とアラブ諸国の関係及び日本とイスラエルの関係をより均衡のとれたものとするためのいくつかの措置を講じた。特にこれまで関係が比較的に薄かったイスラエルとの間においては、91年1月に小和田外務審議官をイスラエルに派遣し、その後6月に中山外務大臣がイスラエルを訪問して、対話を深めるとともに、占領地域のパレスチナ人に対する援助を拡充することとした。