第1章 変化する国際情勢と日本の外交

 

第1節 変化の基調

 

1. 湾 岸 危 機

 

(1) 90年のヒューストン・サミットから1か月も経ずして起きたイラクのクウェイト侵略は、国際社会を大きく揺さぶった。国際社会が冷戦後の新しい国際秩序を模索し始めた時に、しかも主要な石油産出地として世界的な重要性を持つ湾岸地域に発生した事態であっただけに、湾岸危機が国際社会に与えた衝撃は大きかった。

 国際社会は、国連を中心に結束して、イラク軍のクウェイトからの即時無条件撤退のために行動した。このことは、国連安全保障理事会が、イラクに対する即時無条件撤退の要求、経済制裁措置、イラクが期限までに国連安全保障理事会の諸決議を完全に実施しない場合に国連加盟国が武力行使を含むあらゆる必要な手段をとることを認めるとの決定、そして正式停戦等の諸事項について合計14本の決議を採択したこと、米国主導の下に構成された多国籍軍に29か国が参加したこと、そして、日本、ドイツ、サウディ・アラビア、クウェイト、アラブ首長国連邦等の国が多国籍軍支援のための経費を支出したこと等に示されている。こうした共同行動に参加した国が、いかにしてイラクの暴挙を克服して国際秩序を回復するかが、冷戦後の新しい国際秩序のために先例的な意味を持つという認識に立って行動していたことは疑いを容れない。

(2) 湾岸危機に対する対応においてとりわけ注目されたことは、国連安全保障理事会の役割の増大である。第二次世界大戦後の国際政治を長きにわたって支配してきた冷戦構造の下で、安全保障理事会はその本来の機能をほとんど発揮できない状況にあった。それに比較すると、湾岸危機に関する安全保障理事会の活動は、正に画期的なものであった。イラクのクウェイト侵略を放置してはならないという、国際社会に広く行き渡った危機感がその背景にあったことは言うまでもない。しかしそれとともに、近年急速に高まりつつある米ソ間の協調体制が、安全保障理事会の対応を円滑なものとすることに大きく貢献したということも、今後のために認識しておくべき重要な点である。

(3) 他方、湾岸危機は今後の国際社会のためにいくつかの重要な教訓を残した。

 その第1は、国際社会は依然として地域紛争の危険を抱えているということである。ナミビア問題やニカラグァ内戦の解決に示されたように、東西間の冷戦の終焉が地域紛争の解決を促したという効果があったことは事実であり、同じようなことが、朝鮮半島やカンボディア問題においても見られ始めている。しかし、他方で、アラブとイスラエルの対立抗争、カシミール問題、サイプラス問題のように、東西間のイデオロギー的な対立とは直接の関係なしに発生し、今も未解決のままに残されている問題も少なくない。また、ユーゴースラヴィアやソ連における民族対立の激化は、イデオロギー対立の緩和に伴う民主化、自由化の進展が、それまで抑えられていた各種の対立、抗争を表面化させることにもなることを示している。

 今回の湾岸危機は、このような領土、資源、民族、宗教といった原因に根ざす対立、抗争や、地域的な勢力争いに目を向け、地域紛争の原因となる様々な対立や抗争の解決に努力することの重要性を改めて認識させることになった。

 従来国連を通じた協力は別として、この種の地域的な対立、抗争について日本がその解決のための責任や役割を積極的に担うことはほとんどなかった。しかしこれからは、日本の利害が直接影響を受けるような事態であるか否かを問わず、世界の平和と安定のために一定の責任と役割を果たすという見地から、世界各地の地域的な対立や抗争の解決のために、そして問題解決後の地域的安定の確保のために、日本が積極的な外交活動を展開していくことが重要である。

 湾岸危機の教訓の第2は、大量破壊兵器及びミサイルの不拡散並びに通常兵器の移転の規制の重要性である。湾岸危機は、核兵器、生物兵器、化学兵器とそれらの運搬手段としてのミサイルの拡散や通常兵器の無制限な移転がもたらす危険性を強く認識させることとなった。世界の兵器輸出の約8割を占めていると言われている国連安保理常任理事国の5か国が通常兵器の移転の規制に関する協議を開始したこと、そして、ロンドン・サミットにおいて、大量破壊兵器及びミサイルの不拡散と通常兵器移転の規制を呼び掛ける宣言が採択されたことは、このような認識を反映したものである。

 この関連では、日本政府が5月に、国連と協力して京都で軍縮会議を開催し、この問題に対する国際社会の関心を高めるとともに、通常兵器の移転に関する国連への登録制度などについて具体的提案を行ったことは国際的に評価され、ロンドン・サミットの宣言に日本の主張が色濃く反映されることとなった。

 また、日本政府が4月に、今後の政府開発援助(ODA)の実施に当たり、被援助国の軍事支出の動向、核兵器等の大量破壊兵器及びミサイルの不拡散に対する姿勢、武器移転に対する姿勢等を考慮することを明らかにしたことは重要であり、ロンドン・サミットの宣言においても、良き先例として指摘されている。

 大量破壊兵器及びミサイルの拡散防止も、通常兵器の移転規制も、実行の難しい問題である。それだけに、これらの問題に対する国際社会の

ロンドン・サミットにおける各国首脳(91年7月)

 関心を高める努力を常に行いつつ、同時に国際協力の下で必要な措置を着実に拡充し、強化していくことが重要である。

 湾岸危機の教訓の第3は、先にも触れた国連を中心とする国際協調による紛争処理の重要性である。クウェイトの解放は、このような事態に軍事的に対処するに当たって指導的な役割を果たしうる国は、米国をおいてほかにないことを明らかにした。しかし、それと同時に、米国が独力でこのような役割を果たし得ないことも明らかになった。また、米国が指導的役割を担う場合も含めて、国連の権威の下における国際協調という原則が国際的な平和回復活動を効果的に実施する上で重要であるということも、今回改めて認識された。ロンドン・サミットの政治宣言が「国際秩序の強化」を主題とし、特に国連の機能強化の必要性を強調したことはこのような認識を反映したものである。

 

2. ソ連の変革

 

(1) 東欧における急激な変化、東西関係における冷戦の終焉、そして、ソ連自体におけるペレストロイカの推進を背景に、ヒューストン・サミットの前後から国際社会におけるソ連問題の性格が急速に変化した。ソ連における民主化と市場経済の導入の動きを支援し、促進するための対ソ支援にいかに取り組むかが、西側にとっての重要な政策課題になった。また、ソ連経済の悪化とともに、ソ連の軍事的な脅威よりも、ソ連国内の混乱がもたらす危険の方が大きな問題として認識されるようになった。そしてそのような状況を背景に、ロンドン・サミットでは対ソ支援問題が議論の中心となり、また、サミットとは切り離した形をとったものの、サミット終了後にサミット参加国(G-7)首脳とゴルバチョフ・ソ連大統領との会談が行われた。

(2) 対ソ支援問題は、ソ連の民主化と市場経済導入を支援し、国際政治及び経済の両面においてソ連が真に建設的なパートナーとなることを促進することを目的とするもので、90年のヒューストン・サミット以来の課題である。

 ロンドン・サミットでは、対ソ支援問題がより本格的に議論され、欧州諸国の一部からは、思い切った対ソ支援を行うことを求める意見も出された。ソ連と陸続きの欧州諸国では、ソ連国内に混乱が生じた場合に生じ得る大量の難民流入が現実的な問題として心配されており、さらに、いまだ約27万人に上るソ連軍を国内に抱えているドイツにとっては、ソ連の混乱がソ連軍の撤退を滞らせる結果になることが強く懸念されていた。 

 しかし最終的には、G-7首脳とゴルバチョフ大統領との会談後の記者会見でメイジャー英国首相が明らかにしたとおり、サミット参加国は、(あ)国際通貨基金(IMF)と世界銀行がソ連との間に特別提携関係をつくること、(い)IMF、世界銀行、経済協力開発機構(OECD)、欧州復興開発銀行(EBRD)の4つの国際機関が、ソ連経済改革のための実務的助言やノウ・ハウを提供すること、(う)エネルギー、軍需産業の民需転換、食品流通、原子力の安全確保、運輸の5分野での技術的支援を強化すること、(え)ソ連産品及びサービスに対する市場アクセスを改善すること、(お)ソ連との対話を継続するため、サミット議長(今回はメイジャー英国首相)が91年中にソ連を訪問すること、(か)各国の蔵相、中小企業担当相がソ連を訪問し、経済改革への協力を協議することを慫慂(しょうよう)することという6項目について合意した。ソ連自身に市場経済導入のために必要な思い切った経済改革を行う用意が整っていないことに加えて、政治的に見ても、民主化に対するソ連の取組が不徹底であり、また、軍事費の削減や北方領土問題、対キューバ支援問題に対するソ連の姿勢にも、より思い切った改善が必要と判断されたからである。ソ連に対する大規模な資金援助については、経済的に見ただけでも時機尚早であるというのがサミット参加国の共通の認識であった。

(3) ロンドン・サミットから1か月後に起きたソ連国内情勢の激しい変化は、ソ連問題の性格を根本的に変えることになった。保守派によるクーデターが3日間で失敗したことは、民主化、自由化に対する強い期待がソ連国民の間に広く浸透していたことを強く印象付けた。そして、クーデターの克服を契機にして一挙に進んだ連邦と共和国の双方のレベルにおける共産党の活動停止や公的機関における政党活動禁止の動きは、共産主義イデオロギーが国民に対して訴える力を失ったこととあいまって、ソ連の非共産化が急速に進むことをうかがわせている。また、このような民主化、自由化の大きなうねりと、共産党等がソ連を事実上統制してきた統治の仕組みの崩壊は、民族主義的な主張やそれを背景とする共和国の独立志向を噴出させ、バルト三国が完全な独立を達成したほか、共和国間の関係のあり方についても、これまでの連邦制とは異なる新しい主権国家の間の協力関係を形成する方向に進み始めている。

 そのようなソ連の変革を安定的に促進し、定着させるために行われる対ソ支援は、従来以上に重要な課題になったと言える。しかし、外国が本格的な対ソ支援を行いうる条件が整うためには、ソ連国民自身の意思によって、各共和国と連邦の権限の確定、市場経済導入のための明確な計画の作成といった幾つかの重要な決定がなされなければならない。

 保守派のクーデター失敗に続く動きから判断して、ソ連邦も各共和国も市場経済の導入に向かって思い切った改革を行う方向に進むと想定される。しかし、情勢の変化が極めて速く、それだけに不測の事態から混乱に陥る可能性も排除できない。各種行政組織の機能をいかに確保するかという問題は当面の大問題であり、特に地方レベルでは事態は深刻と考えられる。また、各分野において、既得権益を守ろうとする勢力は残っていると思われ、さらに、共和国間の利害対立や地方レベルでの民族的な対立がこれから表面化してくることも予想される。

 他方で、経済の悪化は進んでおり、さらに冬にかけて食糧不足が発生する可能性もあり、人道的な見地からの食糧、医療援助が国際社会にとっての緊急の課題として浮上している。

 ソ連軍の手にある核兵器、化学兵器、生物兵器の管理が今後いかに行われるかも国際的な懸念材料となっており、対ソ支援との関連においてソ連の軍備や軍事費の一層の削減を促し、軍需産業の民需への転換を促すことも、これまで以上に重要になっている。

(4) これまでのソ連が今後どのような国、もしくは国の集合体になるかは、日本にとっても極めて重要な問題である。しかも、日本は対ソ支援において、技術面でも資金面でも大きな役割を果たしうる能力を持っており、西側世界においても、また、ソ連邦やロシア共和国を始めとする幾つかの共和国においても、日本からの支援に対する期待が高まっている。

 他方で日本は、ソ連側との間で北方領土問題を解決し、平和条約を締結するという課題を抱えている。これに関連してロンドン・サミットの政治宣言は、対ソ支援を考える際の重要な政治問題の一つがソ連のいわゆる新思考外交であるとの認識に立って、「我々は、国際協力のこの新しい精神が、アジアにおいても欧州におけると同様に十分に表れることを希望する」と表明し、さらに、議長声明は「北方領土問題の解決を含む日ソ関係の完全な正常化はこのことに大きく寄与するであろう」と指摘した。北方領土問題の重要性は、ヒューストン・サミットにおいても参加国の共通の認識として指摘されていたが、ロンドン・サミットにおいて対ソ支援との関連における北方領土問題の重要性が、サミット参加国の共通の認識として明確に表明されたことは、特に重要である。例えば米国は、7月末のブッシュ大統領の訪ソ、また、9月のベーカー国務長官の訪ソに際しても、ソ連側に対して、北方領土問題の解決の促進を促している。

 日ソ関係については、ロンドン・サミットに先立って、91年4月にゴルバチョフ大統領夫妻が訪日した。その際の日ソ共同声明において、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島が、平和条約で解決されるべき領土問題の対象であることが明記されるとともに、この問題の解決を含む平和条約締結のための準備作業を加速化することが第一義的に重要であることが確認された。また日ソ関係全体について、領土問題の解決を最重要課題として推進しつつ、他の分野での関係も発展させるという、いわゆる拡大均衡の考え方に立って各種の協力を進めるために、前記の日ソ共同声明に加え15の文書が作成された。北方領土問題について実質的な前進はなかったものの、ゴルバチョフ大統領夫妻がソ連の大統領夫妻として初めて訪日したことと、そしてそれを機に、日ソ双方において、日ソ関係の将来について幅広い議論が行われたことは画期的なことであり、日ソ関係の将来のためにも、アジア・太平洋地域の安定のためにも有益であった。

 さらに、クーデター失敗後に各共和国の権限が強化される中で、ソ連の対日政策においてもロシア共和国の重要性が格段と高まることとなったが、この関連で91年9月のハズブラートフ・ロシア共和国最高会議議長代行の訪日において、エリツィン・ロシア共和国大統領が北方領土問題を法と正義に基づいて早期に解決したいとの立場に立っていること等が明確にされたことは特に重要である。このような新しい政治状況の下で、日本政府としても、今後はソ連邦に加えてロシア共和国との対話や交流を強化していくことが不可欠である。

 このような状況の下で、歴史的と言うべきソ連の変革を民主化及び市場経済の導入を定着させる方向で安定的に促進することと、北方領土問題を解決することという2つの重要な政策目標を、いかにして共に達成するかを考えることが、日本外交の当面の最重要課題となっている。

(5) 中・長期的な視点から見て、共産主義大国であったソ連が非共産化し、かつ、共和国の独立傾向が強まることは、これから形成される共和国間の協力関係の形態のいかんを問わず、国際政治に様々な影響を与えることになると考えられる。

 ソ連の変革が国際政治にいかなる変化を及ぼすかは、これからのソ連の変革自体の規模と速度にもよるところが大きく、安易な推測は慎まなくてはならない。また、ソ連の変革に対する外からの影響には限界があり、ソ連国民の意思とその上に立った指導層の活動が変革の帰趨を決めるものであることは言うまでもない。

 しかし、ソ連の変革が、外からの影響を受けながら進むということも事実である。このことは、ソ連が経済改革のために外からの支援を必要としていること一つをとってみても明らかである。それだけに、ソ連の変革に対するこれからの国際社会の対応は重要である。

 その関連で注目しておかなければならないことの一つは、これまでのソ連がこれからどのような国になろうとも、少なくともソ連あるいはロシア共和国が引き続き核兵器を含む膨大な軍事力を保有する国であり続け得るということである。それだけに、対ソ支援問題を考えるに当たって、ソ連邦や共和国の軍備や軍事費の一層の削減を求めることが重要である。

 さらに国際政治上注目しておくべきもう一つのことは、東欧諸国そしてそれに続いたソ連における民主化の進展は、他の地域の社会主義国の政治体制のあり方を国際的に際立たせる結果になりつつあるということである。ソ連の民主化が、世界的な規模で民主化を促進しようとする動きを強化することになると考えられるだけに、欧州以外の地域の社会主義国の民主化の問題が、今後国際政治の注目を一層浴びることになると思われる。

 

3. 米ソ関係

 

(1) 米ソ関係は89年12月のマルタでの首脳会談を一つの転機として、対立から協調へと基調を変化させてきた。90年5月のゴルバチョフ大統領の訪米もこのような過程の一環であり、91年7月末のブッシュ大統領の訪ソは、この協調関係を内外に向けて確認するものとなった。その間に達成された欧州通常戦力(CFE)交渉や戦略兵器削減交渉(START)の合意、各種の地域紛争の解決、特に、湾岸危機の処理に当たっての米ソ協調の実績の積み上げが、この協調関係を裏付け、促進してきたことは言うまでもない。

 このような米ソ関係の変化の背景には米ソ双方における情勢認識の変化があったと考えられる。ソ連については、政治・経済改革を推進するために米国との協調関係が不可欠であるとのゴルバチョフ大統領の強い認識が、近年の対米姿勢の根底にあったと考えられる。

 ゴルバチョフ大統領の対米関係重視の姿勢の背景には、(あ)ソ連経済の再建のために資源を再配分するためには、米国との軍拡競争に終止符を打つことが必要である、(い)経済改革のために不可欠な西側の支援を確保するためにも、米国との関係改善が重要な意味を持っている、そして(う)ゴルバチョフ大統領の国内的な指導力を確保するためには、超大国として米国と対等の地位を保ちつつ、外交面での成果を挙げることが大きな意味をもっており、このためにも米国との協調関係を維持することが重要である、といった考慮があったと判断される。

 米国にとっても、貿易収支と財政収支の双子の赤字に象徴される経済問題を抱え、同時に、企業の国際競争力の面で日本などに遅れをとる分野が目立ち始めているという状況の下で、ソ連との対決からくる軍事的な負担を軽減することは重要である。また、世界各地における地域紛争の解決にもソ連の協力が必要である。ナミビアの独立やニカラグァ和平の実現に当たって見られ始めたソ連の協調的な姿勢が、アンゴラやエル・サルヴァドルにおける和平の促進においても見られており、特に、湾岸危機への対応に当たってのソ連の協調的な姿勢は、ゴルバチョフ外交の積極的な側面を米側関係者に強く印象付けることとなったと思われる。

(2) 8月以来のソ連の変革が米ソ関係の性格を基本的に変えることになることは疑いを容れない。そして、国際政治における米ソ協調は一層強化されることになると思われる。

 他方で、STARTの合意により米ソ双方が戦略核兵器の削減に向かって具体的な措置をとることになったと言っても、両国が、引き続き大量の核兵器を持って相互抑止の姿勢を維持していることには変わりはない。したがって、軍備管理・軍縮面における米国の対ソ政策においては、START及びCFE条約の批准を促進すること、及びSTARTに続く核兵器の一層の削減のための交渉を推進することに重点が置かれることになると思われる。なお、米国は対ソ支援における西側諸国、特にG-7の協調関係を保つことを引き続き重視することになると思われる。

 また、中・長期的には、第二次大戦後の米国外交を支配してきた、共産主義大国ソ連を「封じ込め」て、その外への進出を抑えるという目的を失った後の米国外交が、今後どのようなものになるかという問題が、国際政治にとって重要な意味を持ってくると思われる。米国が孤立主義に戻ることは予想されないが、米国の外交政策の優先課題に相当の変化が出てくることは十分予想される。

 

4. アジア・太平洋地域の安定と発展

 

(1) アジア・太平洋地域は、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国及び新興工業国・地域(NIEs)を中心に順調な経済発展を遂げてきており、このことがこの地域全体の安定にも貢献してきた。また、それに加えて、米ソ関係の基調の変化、ソ連や東欧諸国の改革、湾岸危機といった問題に国際政治の焦点が当てられてきた中で、アジア・太平洋地域においても緊張緩和へ向けて幾つもの前向きの動きが見られた。韓国とソ連が国交を樹立し(90年9月)、虜泰愚(ノテウ)韓国大統領がソ連を訪問し(同年12月)、91年4月にはゴルバチョフ大統領が訪日の帰途に済州島に立ち寄り、それぞれ首脳会談を行ったことは画期的なことであった。また、韓国と中国も90年10月に貿易事務所の開設に合意するに至った。さらに、中国は90年8月にインドネシアと国交を正常化し、同年10月にシンガポールと国交を樹立した。中ソ関係も89年5月のゴルバチョフ大統領の訪中を受けて、90年4月には李鵬中国総理が訪ソし、さらに91年5月に江沢民中国共産党総書記が訪ソし、両国関係は完全に正常化した。

 この地域の最も重要な関係の一つである日ソ関係においても、先に触れた通り、ゴルバチョフ大統領の訪日が実現し、北方四島の問題を解決して平和条約を締結するための交渉を加速させることが合意された。これに加えて、日本と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が国交正常化を目指した交渉を開始したことも、この地域の緊張緩和に向けた重要な動きの一つである。

(2) ソ連の軍事力についても、モンゴルやカムラン湾からの撤退が進行し、また、89年に発表されたソ連東部からソ連軍を20万人削減する計画も完了したと言われる。しかし、極東ソ連軍の兵器体系の近代化は引き続き進んでおり、ソ連が核兵器を含む膨大な軍事力をこの地域に蓄積しているという状況に基本的には変わりはない。

 他方、米軍についても、90年に発表された海外兵力再編成計画の下での部分的な削減が進行中である。しかし、同時に、この地域の安定要因としての米軍の存在に対する各国の認識も深まりつつある。90年11月にシンガポールが米国との間で、米軍による施設の使用拡大に関する行政協定を締結したこともこの間の事情を反映している。なお、91年1月に日本が米国との間で、在日米軍の経費の分担を拡充するための特別協定に署名したことも、この面での重要な動きとして認識されている。

(3) アジア・太平洋地域には、2つの対立・抗争地域がある。その中でも国際的な影響の最も大きい朝鮮半島について、90年9月に南北首相会談が開始されたことは、緊張緩和のために画期的な展開と考えることができる。韓国と北朝鮮の国連同時加盟についても、朝鮮半島の緊張緩和のために前向きの効果が期待できる。

 北朝鮮による核兵器開発の可能性が国際的な問題となっている中で、北朝鮮と国際原子力機関(IAEA)との保障措置協定が91年9月のIAEA理事会で承認されたが、北朝鮮は種々の条件を付すことにより、この協定の締結と履行を遅らせている。北朝鮮が自らが締結している核不拡散条約(NPT)に基づく義務を誠実に遵守することを確認することは、日朝国交正常化交渉を進めている日本にとって重要である。また、北朝鮮が核兵器を開発していることが事実だとすれば、それは日本の安全保障のみならず、アジア・太平洋地域の安全保障を脅かす重大な事態であり、また、核不拡散体制に対する挑戦でもある。したがって、関係国とも協力しつつ、北朝鮮当局の責任ある行動を求めていくことが重要である。

 もう一つの紛争地域であるカンボディアについては、シハヌーク殿下の指導力、そしてパリ会議共同議長国や関係国の努力もあって、カンボディア人当事者間の対話の場として最高国民評議会(SNC)が機能を開始し、そのSNCにおいて各派の軍事力の削減についての合意が成立するなど、和平に向けた動きは91年8月末までに大きな前進を見た。その結果、91年中にもパリ会議が再開され、国連の適切な関与を得た形で公正かつ恒久的な和平を達成するため、最後の調整が行われる見通しとなった。

 和平実現の暁には、日本としては、カンボディアの安定や復興のために積極的な役割を果たすべきことは言うまでもない。既に91年5月、海部総理大臣はASEAN歴訪の際の政策スピーチの中で、和平達成後、日本でカンボディア復興会議を主催することを明言しているところである。

(4) アジア・太平洋地域の地域協力については、ASEAN、ASEAN拡大外相会(ASEAN-PMC)、アジア・太平洋経済協力(APEC)閣僚会議等の活動が定着しており、特にASEAN拡大外相会議を中心として、従来の経済面での協力に加えて政治・安全保障面での対話が深まりつつある。

 アジア・太平洋の安全保障については、ソ連が欧州安全保障・協力会議(CSCE)のような欧州のプロセスをアジア・太平洋地域に適用することを主張し、豪州やカナダも似たような発想から出た提案を行っていた。これらに対し、日本はアジア・太平洋地域と欧州との地政学的条件や戦略環境の違いを指摘し、この地域では、経済面での協力を中心として、既存の協力の仕組みを活用して地域の安定を図ることが重要である旨主張してきた。ゴルバチョフ大統領が訪日の際に、欧州のプロセスをアジア・太平洋地域に適用するという従来の主張を繰り返さなかったことは、この地域の実情についてのソ連側の認識が深まったことをうがかわせるものであり、評価に値する。

 他方、アジアの多くの国の当面の関心は、米国がその存在をどこまで減少させるのかという点と、その関連で、日本がこの地域で今後どのような役割を果たそうとするのか、軍事的な活動を拡大するのではないかという点にある。その背景には、かつての日本の行動がアジアの人々にもたらした悲劇についての記憶とそれに根ざす日本の将来に対する懸念がある。海部総理大臣が韓国訪問(91年1月)、ASEAN諸国訪問(91年5月)、中国及びモンゴル訪問(91年8月)を通じて、日本の過去の行為について厳しい反省の意を表明するとともに、シンガポールにおける政策演説において、歴史教育の徹底を誓ったことは、こうしたアジアの人々の気持に配慮してのことである。また、中山外務大臣が、7月のASEAN拡大外相会議において、アジア・太平洋地域の「友好国間で安心感を高めるための政治対話」の重要性を説き、ASEAN拡大外相会議をそのような政治対話の場として活用することを提案したのも、同じ認識に立って、域内各国との協力のための政治的な基盤を強化しようとしたものである。

 

5. 国境を越えた問題

 

 地球環境、難民、麻薬、テロといった、その影響が国境を越えて広がるために、一つの国による取組のみによって解決することが困難な問題が顕在化していることも、近年の国際情勢の大きな特徴であり、これらの問題を解決していくための国際協力の重要性が強調されている。特に、これらの問題の多くが開発途上地域の経済的後進性や政治的な不安定性に根ざし、また、結果的に開発途上国の経済困難や政治的な不安定性を増すことになっていることは、開発途上国に対する支援を重視する日本の立場との関連で注目する必要がある。

 地球環境問題は、ロンドン・サミットにおいても、優先課題として認識され、問題の解決、特に92年6月にブラジルで開催される予定の国連環境開発会議(UNCED)の成功に向けた国際的な協力による取組の重要性が強調された。

 また、難民・避難民問題は、人道的な問題であるのみならず、周辺地域の不安定要因ともなる政治的な問題でもある。しかもこの問題の多くは開発途上地域で発生しており、世界的に見て難民の数がこの1年間に1,500万人から1,700万人に増加したと言われている。

 テロ事件も依然として世界各地で発生しており、最近は、ペルーにおける国際協力事業団(JICA)専門家の殺害事件にも見られるように、日本人自身がテロの標的とされる危険性も増大している。さらに国際的な麻薬の取引も増加の一途をたどっており、この問題の解決に向けて、生産国、中継国、消費国が協力して、麻薬生産の削減、不正な取引の防止に努めていくことがますます重要になっている。

 これらの問題のいずれにおいても、日本の果たし得る役割は大きい。特に環境問題や難民問題は、資金協力、技術協力、人的協力等の面で日本が大きな役割を果たし得る課題である。また、91年1月に日本の緒方貞子教授が国連難民高等弁務官に任命されたが、これについても、難民問題についての日本の積極的な協力に対する期待が込められたものと受けとめて対応することが重要である。

 

6. 国際経済

 

(1) 国際経済における当面の最大の課題は、多角的自由貿易体制の維持と強化である。90年7月ヒューストン・サミットは、多角的自由貿易体制の維持と強化に断固たる決意を持って臨むことを宣言し、そのために、ウルグァイ・ラウンド交渉を90年末までに妥結させることを確認した。それにもかかわらず、90年12月のブラッセル閣僚会議においても、農業問題をめぐる対立のために交渉は妥結しなかった。その後交渉は再開され、農業、サービス等、7つのグループの下で、年内の終結に向けて交渉が続けられている。91年7月のロンドン・サミットの経済宣言では、91年末までのラウンドの完了を目指し、各首脳はその過程に「個人的に関与する」ことを約束した。

 ウルグアイ・ラウンドを成功裡に終結させるためには、各国が、国内的に困難な決断をすることが求められる。自由貿易体制がこれまでの日本の繁栄を支え、また今後の発展に欠かせないことを考えれば、ウルグアイ・ラウンドを成功裡に終結させるために積極的な役割を果たしていくことは、日本の責務である。

(2) 国際経済が直面しているもう一つの問題は、地域的経済統合の動きである。92年末までに単一市場を形成することを目指す欧州共同体(EC)においては、90年12月以降、政治面を含めた統合に向けた動きが活発化しており、また、欧州自由貿易連合(EFTA)諸国との間では欧州経済領域(EEA)創設の動き、東欧諸国との間では連合協定締結の動きが進んでいる。他方、北米地域においても、米加自由貿易協定が89年より実施され、米国、カナダ、メキシコの間の自由貿易地域についても協定締結の動きが活発化している。こうした地域的なアプローチは場合によっては排外的となり、自由貿易の原則を損なう方向に進む可能性を秘めている。90年12月、東アジア経済圏構想(EAEG)がマレイシアにより提唱された背景には、このような地域統合への動きに対する警戒感が存在したと考えられる。その意味でも地域統合が多角的貿易体制の維持や強化と合致する形で押し進められることを確保する努力が常に求められる。

(3) 世界的な資金需給格差の問題も大きな懸念材料となっている。従来からの開発途上国の経済発展のための資金需要に加え、東西ドイツの統一や東欧諸国の経済改革、先進国における景気回復に伴う投資増加等による資金需要も増大していくことが見込まれている。また、ソ連の市場経済への移行も資金需要の増大につながる可能性がある。

 一方、先進国の資金供給力は縮小傾向にあることから、今後資金需給の格差は拡大することが予想される。これが世界的に金利を押し上げ、各国の経済成長の鈍化や累積債務国の負担の増加につながり、また開発途上国の経済発展に必要な資金の確保に悪影響を与えることが懸念されている。

 このような状況に適切に対応していくために、世界各国が財政赤字の削減、民間貯蓄の増大、資金のより効率的な利用を図ることがますます重要になっている。

 

7. 日米欧関係

 

(1) 先にも触れたとおり、湾岸危機は、国際的な危機に対応する上での米国の軍事的な強さと政治的な指導力を強く印象付けた。

 しかし、米国の力にも限界が見られ始めている。湾岸危機に対処するに当たって同盟国による役割分担を強く求めた米国政府の姿勢にも、この点についての米国自身の認識が反映されている。特に、経済の面における米国の力の相対的な低下は顕著であり、米国が80年代中頃以降、純債務国に転じたことや、米国の対外債務が世界最大になっていることは、このことを象徴的に示している。

 米国の経済力の低下と反比例するかのように高まってきたのが、日本の国際的な地位である。湾岸危機に対処する過程で多額の資金協力を求められたのも、日本が湾岸地域からの石油輸入に大きく依存しているいうこと以上に、経済大国としての日本の地位にふさわしい責任を分担することを求められたものと理解するべきである。対ソ支援、対東欧支援、対中米支援といった国際的な援助構想において常に日本の資金援助に対する期待が寄せられることについても、同様に考えられる。

 欧州においては、市場統合を越えたEC統合に向けて経済・通貨統合や政治統合に関する政府間協議が進められており、さらに、東欧諸国の欧州への復帰ということもあり、中・長期的には欧州の将来には明るい展望が開けている。そうした中で、西欧諸国の間で、欧州の国際的な発言力を高めようとする意識が一層高まっており、安全保障面でも西欧連合(WEU)やECを中心に、北大西洋条約機構(NATO)内における欧州独自の役割を強化しようとする動きも始まっている。旧東ドイツ地域の編入が短期的にドイツ経済に大きな負担となっており、ユーゴースラヴィアにおける民族的対立を背景とする紛争が近隣諸国の懸念を高め、また、ソ連の国内情勢の悪化が欧州諸国の不安材料になっているといった問題はあるが、国際社会における欧州の地位は相対的に高まる傾向にあると考えられている。

(2) このような状況の下で、日本と米国、日本と欧州の間の関係にも変化が生じ始めている。日米関係については、海部総理大臣とブッシュ大統領が、91年に入って、サミットにおける同席を別にして2度会談した(4月、カリフォルニア州ニューポート・ビーチ、及び7月、メイン州ケネバンクポート)ほか、随時電話連絡をとるなど、日米両政府間の協力関係は緊密さの度合いを深めている。

 しかし、依然として大幅な貿易不均衡を始めとする日米間の経済問題を背景に、米国国民の対日懐疑心や対日不信感が高まっている。89年には、米国の世論調査において、日本の経済的な競争力をソ連の軍事力以上に脅威として受けとめる見方が広まりつつあることが明らかになった。湾岸危機に際しても、日本の大規模な財政支援を評価する声は少なく、むしろ、人的な貢献の面における日本の存在感の小ささを批判する声の方が支配的であった。他方、日本の世論においても経済交渉等における米国の対日姿勢を高圧的なものとする反発や米国との関係において日本の独自性を明確にすることを求める声が高まりつつある。

 また、アジア・太平洋地域の国々の中からも、日米関係の将来を心配する声が出始めている。

 日米双方の世論のこうした動きの原因が何であるかは必ずしも明らかではない。日米間の相互依存関係の深まりの結果、お互いに解決すべき問題も多くなったという面が現在の日米関係にあることも事実である。しかし、日米間の相互認識の面で近年米国の世論の中に広まりつつある対日不信感や、日本の世論の中に高まりつつある「日本は米国に対してもっと自己主張を強めるべきである」といった議論は、日米間の力関係の相対的な変化に関係する、より根の深い問題でもある。また、東西対立の解消とともに、同盟関係というこれまでの日米関係を律していた政治的な条件が世論との関係で説得力の小さいものになってきたことが、こうした議論を生んでいるという面があることも否定できない。

 他方において、日米両国が今後とも、お互いにお互いを必要とする相互依存、相互補完の関係にあることは明らかである。またそのような関係を安定的に維持し、強化することが日米両国のためのみならず、アジア・太平洋地域、ひいては世界の安定のために重要であることも言うまでもない。したがって、日米間の相互認識の問題に取り組み、両国の世論の支持が得られるような形で日米関係を強化していくことが、日米両政府にとっての当面の大きな政策課題である。

(3) 日欧関係は、日米欧三極の間の関係の中で最も浅い関係であった。このことは日欧間の地理的な隔たりとも関係がある。しかし、より基本的には、西欧諸国と日本が世界経済の問題は別として、政治的に関心を有する地域を異にしていたことや、西側内部の関係については、専ら、各々と米国との間の同盟関係の維持と強化に関心を集中していたことが、日欧関係が深まらないままに今日に至った原因である。その間においても、日英関係のように双方の努力によって二国間の協力関係が深まった例もある。しかし概して言えば、日欧関係は二国間においても関係が浅く、まして、日本とECとの関係は経済面での一定の協力関係に限られてきたといっても過言ではない。

 海部総理大臣がロンドン・サミットの後にECの議長国としてのオランダを訪問し、ルッベルス・オランダ首相及びドロールEC委員長との間で初めて日EC首脳会談を行い、日本とECの間の協力関係の拡大のための宣言を発表したことは画期的なことである。92年末のEC市場統合を踏まえて、日本とECの関係、日本と西欧諸国との協力関係を、経済面に限らず政治から文化までの幅広い分野において深めていこうとする日欧双方の意欲がその背景にあることは言うまでもない。この宣言に盛られた精神をいかに実行に移していくかが、日欧双方にとってのこれからの大きな課題である。

(4) 日本、北米諸国及び西欧諸国は、自由、民主主義及び市場経済という基本的価値観を共有しており、また、日米欧の国民総生産(GNP)の合計は世界のGNPの6割以上を占めている。このような関係にある日米欧の三極関係を強化することが世界の平和と繁栄のために不可欠の重要性を持っていることは言うまでもない。

 近年G-7の間の政策協調が経済面のみならず政治面でも積極化しつつあることはこの意味で重要である。

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