第8節 アフリカ
1. 内外情勢
(1) 概 観
アフリカ諸国の多くは、独立以来30年間、不安定な内政と地域紛争、天候に左右されやすい農業と一次産品輸出に依拠する脆弱な経済構造を抱え、開発途上地域の中でも、最も困難な道のりを歩んでいる。こうした中で、88年には長年にわたる地域紛争解決の動き、豊作と構造調整努力の進展という明るい材料もあったが、他方で人種・部族問題、経済改善の限界等、構造的かつ困難な課題が依然残されていることが明らかになった。
(2) 経済情勢と構造調整努力
アフリカ諸国では80年から86年の一人当たりGDPが年平均3.1%ずつ低下(途上国平均では1.8%の伸び)し続けており、またLLDC42か国中28か国がこの地域に集中していることに象徴されるとおり、その経済情勢は、開発途上地域の中でも特に厳しい。とりわけ、農業生産の動向と構造調整政策の進展が、重要な鍵と考えられる。
88年は降雨に恵まれたため、西部アフリカを中心に穀物生産はおおむね順調であったが、人口増加、輸送・貯蔵体制の不備、天候異変に対する脆弱性からくる構造的な食糧不足は解消されていない。
また、多雨・高温等の結果、過去30年来最悪の規模で移動性バッタが異常発生し、当初は西部から北部、次いで東部アフリカにまで作物への被害が出たほか、水害も発生し、アフリカの農業の自然条件に対する脆弱性が改めて露呈された。
一次産品市況の低迷、低成長、外貨不足等の経済困難も継続している。特に累積公的債務残高(87年末)は総額1,039憶ドル、対GNP比80.7%(途上国平均では38.5%)に達し、アフリカ諸国の経済規模に鑑
かかる条件の下で多くの国は世銀・IMFと協調しつつ、価格・貿易政策の弾力化、財政支出の効率化、統制緩和等により民間活動の役割を高め、内外の均衡を確立すべく、いわゆる構造調整努力に励んでいる。構造調整実施国に対しては、世銀のアフリカ特別計画を始めとする各種構造調整融資、債務救済措置等により国際的支援が行われている。
このような中で世銀は、構造調整実施国の成長率は80~85年の1%から86~87年には4%近くまで上昇し、構造調整を実施していない国ではかろうじて成長したにとどまったことを考慮すれば、徐々に調整の効果が出てきた旨指摘するに至った。他方、構造調整の過程においては貧困層を中心に国民生活が圧迫され、不満が高まっていることも事実なので、構造調整を支援する一方、政治的、社会的コストへも配慮することが課題となっている。
(3) 内政の相対的安定と今後の課題
アフリカでは、87年10月(ブルキナ・ファソ)以来、クーデターは発生しておらず(ただしクーデター未遂は発生)、ナイジェリア、ガーナ等は民政移管への積極的動きが見られたことから内政は相対的に安定していたといえる。他方、次のような内政の安定を脅かす深刻な問題が依然として残されており、これらの問題の克服はアフリカの将来にとって重要な意味を持っている。
部族・人種問題は、欧州列強による人為的な植民地分割に起因するところが大であるが、かつてのビアフラ内戦に代表されるような部族・人種間の対立は依然としてアフリカに不安定の影を投げている。
ブルンディでは従来より少数派のツチ族と多数派のフツ族の両部族の対立がみられたが、88年8月には地方において、両部族間の相互殺戮
また、89年4~5月には、セネガル、モーリタニア間で発生した両国民間の対立を契機に、相互の国内で相手国国民が危害を受け、大量の本国帰還者が出る事態に至った。
この事件は単に両国国民の反目というよりは、モール系(遊牧民)と黒人系(農耕民)の旧来の反目、さらには開発に伴う生活環境の変化にも起因していると考えられる。
セネガル、モーリタニアにおける混乱でも経済不振からくる民衆の不満が事態の悪化に拍車をかけたが、89年5月ナイジェリアで経済不振への不満を背景に、学生を中心としたデモ、暴動が発生したほか、いくつかの国ではクーデター未遂が起こった。
(4) 地域情勢の進展
アフリカ最大の政治問題である南ア問題については大きな進展はなかったが、アンゴラ・ナミビア、アフリカの角、チャード等、いわゆる地域紛争については平和的解決へ向けた大きな進展が見られた。
(イ) 南ア問題
88年に入り、ボータ大統領は反アパルトヘイト団体に対する活動規制を断行、保守系白人の票を確保すべく治安・秩序維持に対する国民党の断固たる姿勢を示し、白人議会補欠選挙(3月)及び統一地方選挙(10月)における国民党勢力挽
89年1月にボータ大統領が脳卒中により一時入院したことにより後継者問題が急浮上した。3月には、与党国民党の党首にデ・クラーク教育相が選出され、ボータ大統領も4月の国会演説において9月の任期切れとともに引退する意向を表明したため、新大統領には、デ・クラークの就任が確実と見られている。
国連においては、88年12月の第43回総会で、例年どおり加盟国に対して国連憲章第7章に基づく対南ア包括的強制制裁措置を愆慂
(ロ) アンゴラ・ナミビア問題
アンゴラ問題に関しては、米ソの緊張緩和、内戦の膠
この和平協定の成立により、アンゴラ駐留キューバ軍は91年7月までに撤退を完了することとなり、同時に南アが不法支配を続けていたナミビアについても90年4月に独立する運びとなった。
国連安保理は、和平協定の成立を受け、89年1月、ナミビア独立手続を定めた安保理決議435を同年4月1日より実施することを決議した。
この決議を受け、4月1日より国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)要員も逐次ナミビア入りし、停戦の監視、治安維持の任にあたっている。6月中旬よりはアンゴラ、ザンビア等に逃れていたナミビア難民の帰還も始まっており、7月からは、11月に予定される制憲議会選挙に向け選挙キャンペーンが開始されることになっている。
他方、アンゴラ政府と反政府ゲリラ・アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)との内戦は、88年12月22日の和平協定成立後も続いていたが、ザイール、コンゴー、ガボン等のアフリカ諸国が、アンゴラ政府とUNITAとの間の和解の仲介に乗り出すようになり、種々仲介の努力が図られた結果、89年6月22日、モブッ・ザイール大統領の主催によりザイールのバドリテで開かれたアフリカ諸国首脳会議において、ドス・サントス・アンゴラ大統領が初めてサヴィンビUNITA議長と会見、24日午前0時より停戦を実施することで合意をみた。
ただし、実際にはアンゴラ政府とUNITAとの間で、右合意に違反しているとの非難の応酬が続いており、アンゴラ国民和解(アンゴラ政府とUNITAとの和解)の具体的条件についても、両者の間にはまだかなりの意見の隔たりがあるため、今後の動きに注目する必要がある。
(ハ) 「アフリカの角」(アフリカ大陸東端部地域)
88年前半よりエティオピア北部では、ティグレ、エリトリア両州の分離独立を目指す反政府ゲリラの活動が活性化し、89年2月にはティグレ州の州都メケレが陥落する等、政府軍の苦戦が続いていたが、ついには89年5月に至り、一部の軍部不満分子によるクーデター未遂事件が発生した。しかし、政府は6月、反政府ゲリラに対し前提条件なしの和平交渉を提案し、主要ゲリラ・エリトリア人民解放戦線(EPLF)はこれを受け入れ交渉に応じる旨発表しており、その成り行きが注目される。
キューバ軍アンゴラ撤退・ナミビア独立のスケジュール
他方、エティオピアと隣国ソマリアやスーダンとの関係は改善の兆しが見え始め、特に、オガデン紛争以来対立関係にあったソマリアとは88年4月外交関係を再開し、スーダンとは関係改善に向けての努力が継続されている。
(ニ) チャード紛争
87年9月チャード・リビア間で停戦合意が成立した後、両国関係は徐々に改善し、88年10月には外交関係が再開された。ただし、両国間の争点となっているアウズウ地帯の帰属問題は依然懸案のままである。
2. わが国との関係
(1) 概 観
アフリカは、国連全加盟国の3分の1近い国数を背景に国際場裡において大きな発言力を有し、また、豊富な資源を擁し、世界経済上も重要な役割を担っている。他方、経済の基盤は未だ脆弱で開発途上地域の中でも国際社会からの支援を最も必要とし、また地域紛争等の不安定要因
を抱えている。
わが国としては、アフリカの経済開発のための支援は、国際社会全体が取り組むべき課題であるとの観点から、経済・技術協力の急速な充実に努めてきた。また、南部アフリカ問題等の政治問題についても積極的役割を果たすことを検討するとともに、これら経済・政治関係をより地についたものとしていくために、人物・文化交流を通じた相互理解の促進に努めている。
(2) 経済・技術協力
わが国は、近年、アフリカの構造的食糧不足や累積債務問題を始めとする経済困難克服努力への支援の強化に努めており、この結果、わが国の対アフリカODAは、この10年間で約7倍まで増加し、わが国の二国間ODAに占めるシェアも8.4%から14.7%に増大した。
特に、最近はアフリカ諸国の構造調整努力に対する支援が重視されている。すなわち、アフリカ諸国の累積債務の増大、国際収支の赤字拡大等による経済困難の深刻化に鑑み、87~89年度の3年間に、これら諸国に対し、その経済構造改善努力を支援するため5億ドル程度のノン・プロジェクト型無償資金協力を実施中であり、88年度末までには、19か国に対し、356億円(約3億ドル)の協力を実施した。
また、世銀のアフリカ特別計画を始め、国際機関との協調融資による構造調整支援を重視し、88年度には、689.14億円(87年度には91億円)にのぼる協力を行った。
さらに、LLDCに対する債務救済措置が拡大されたことにより、アフリカ諸国における本措置対象国は6か国から15か国に増大した。
88年は降雨量が多かったことから水害が多発し、移動性バッタが異常発生したが、このような不測の事態に対してわが国は迅速な対応を示した。バッタ防除対策として国連食糧農業機関(FAO)を通じ10億円の無償資金協力を行ったほか、難民が流入したルワンダ等を始めとする国々の難民、帰還民対策へも国連難民高等弁務官(UNHCR)や世界食糧計画(WFP)を通じて協力を行った。
(3) 経済関係
88年のわが国とアフリカ諸国との貿易は、わが国輸出の1.6%、輸入の1.8%と例年並みにとどまったが、88年10月、日本・アフリカ間の貿易・投資関係の促進を目的として、4年振りに政府派遣経済ミッションが、ジンバブエ、カメルーン、ナイジェリアを訪問した。
(4) 南部アフリカ問題への対応
(イ) 南ア問題
南アのアパルトヘイトに断固反対するとの立場から、従来より各種の対南ア規制措置をとってきている。88年初めよりはわが国業界に対し、対南ア貿易につき慎重な対応を行うよう要請してきた結果、88年にはわが国の対南ア貿易は円ベース、ドル・ベースの双方で前年に比べ減少となった。
また、アパルトヘイトの犠牲者たる南ア黒人支援のため、医療、教育等の黒人支援プロジェクトに対する拠出を87年度から開始し、さらに、南ア周辺諸国に対する経済協力の強化も行ってきている。
(ロ) アンゴラ・ナミビア問題
わが国は、国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)に対し立ち上がり経費として、既に1,355万ドルの任意拠出を行っているほか、今後、更に約4,600万ドルの分担金を拠出する予定である。さらに89年11月予定のナミビア制憲議会選挙の選挙監視のため約30名の要員派遣を行う予定である。また、ナミビア難民に対する緊急援助としてユニセフを通じ1.44億円、UNHCRを通じ3.26億円の援助を行った。
アンゴラ国内和解については、当事者の努力とアフリカ諸国首脳の和平イニシアティブにより、6月22日停戦合意が成立したことを歓迎するものであり、また、アンゴラ難民に対する緊急援助としてUNHCRを通じ1億400万円、赤十字国際委員会(ICRC)を通じ3,500万円の援助を行った。
(5) 相互理解の促進
わが国におけるアフリカのイメージは、飢餓や自然災害の多発といった暗い側面に偏
(イ) 人物交流
わが国は、政府指導者から青年層まで、あらゆるレベルの人的交流を行うべく、各種招聘事業の実施に努めている。
その結果、チサノ・モザンビーク大統領(88年5月、非公式)、ディウフ・セネガル大統領(88年6月、国賓)、エヤデマ・トーゴー大統領(89年4月、非公式)が訪日したほか、ハイレベルの訪日が相次いだ。
他方、わが国からは、88年6月、浜田外務政務次官がウガンダ及びマダガスカルを公式に訪問した。
(ロ) 文化交流
外務省は、地方公共団体、民間団体と協力し、アフリカについてのわが国国民の理解を深めるとともに、地方の国際化推進も支援した。
(a) アフリカ文化の紹介
88年8月、セネガルの音楽グループ、ガーナの伝統音楽奏者、ナイジェリアのデザイナーを招き、東京、北海道、名古屋、大阪でアフリカの音楽とファッションを紹介した。
また、89年3月、タンザニア、マダガスカル、エティオピアの伝統音楽奏者を招き、東京、長野、石川、福井でコンサートを開催した。
さらには、89年8~11月、映画、音楽、美術、ファッション等あらゆる角度からアフリカ文化の紹介を行う「アフリカ・カルチャー・キャンペーン'89」を開催するにあたって、6月に皇太子殿下のご臨席を得てオープニング・セレモニーを開催した。
(b) 植林ツアー
アフリカが直面する砂漠化の問題を体験し、植林活動に参加することを目標に、88年度を通して北海道、名古屋、大阪より、各々ナイジェリア、ケニア、セネガルへの市民のツアーを派遣した。89年度もさらに同様のツアー派遣を予定している。
(c) 知的交流-アフリカ開発連続セミナー
89年3月、アフリカ諸国より開発実務担当者を招き、わが国有識者と、食糧自給問題及び構造調整政策について意見交換するセミナーを東京と名古屋で開催した。