第7節 中 近 東
1. 主要な地域の動き
(1) 中東和平
(イ) 87年末よりイスラエル占領下にある西岸・ガザにおいては、パレスチナ人のインティファーダ(蜂起)が続いている中で、PLO側はジョルダンによる西岸分離政策を契機にパレスチナ民族評議会で現実穏健路線を採択し、88年12月のジュネーヴ国連総会においてアラファト議長は穏健路線の明確化(イスラエル生存権承認、テロ放棄)を行った。これを受け、米国はPLOとの対話を開始(88年12月)し、EC諸国は89年にはいり和平促進への役割を求めて中東諸国との接触を活発化し、また、ソ連外相は、17年振りに中東諸国訪問を行う(89年2月)など関係諸国の外交活動が活発化し、和平機運が一気に高まった。
(ロ) 他方、イスラエルは、占領地政策に対する国際的な批判が高まる一方で、国内においても政府批判の声が出てきた結果、国論が二分された状況の下、シャミール首相が4月の訪米時に被占領地における選挙の実施を中心とする和平提案を行った。米国は同提案にある選挙構想について、イスラエルとパレスチナ人の交渉の端緒を開く可能性ありとして、それを基礎にアラブ・イスラエル双方と協議を行う構えをみせるに至った。アラブ側は選挙自体は拒否しておらず、イスラエル軍が撤退した後、国際的監視の下で、かつその選挙が包括的和平に結びつくのであれば検討の余地ありとの態度を示している。
(ハ) わが国は、88年末来の注目すべき種々の変化にもかかわらず和平プロセスの十分な進展が未だ得られていないことを憂慮している。アラブ・イスラエル双方の立場には依然大きな相違があるが、わが国としては、関係当事者がこの和平実現への好機を逸することなく、一層努力することを期待し、また国際会議構想及び包括的解決策への一環としての被占領地選挙構想の帰趨に注目している。特に、アラブ・イスラエル双方との政治対話の一層の強化、パレスチナ人に対する援助(89年度予算において、国連開発計画における日本パレスチナ開発基金に対し、2.46億円、国連パレスチナ難民救済事業機関に対し、12.3億円を拠出)を通じ、和平努力に積極的に協力していくこととしている。
中東和平問題に閲するわが国の基本的立場
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(x) 主にパレスチナ人
(出所) ユダヤ人、アラブ人は米側資料(1987年) 難民はUNRWA資料(1987年)
[参考 全パレスチナ人:5,139千人]
(2) イラン・イラク紛争
(イ) 和平交渉の現状
80年9月以来8年に及ぶイラン・イラク間の戦闘も、イランが即時停戦を求める国連安全保障理事会決議598を受諾し、88年8月20日こは停戦が実現した。8月25日以降国連事務総長主宰の下で和平交渉を継続しているが、両国間の意見の隔
イランでは89年6月、革命の象徴ともいえる最高指導者ホメイニ師が死去したが、イランの政局が今後どのような展開を見せるか、また和平交渉の進展にどのような影響を与えるか注目していく必要がある。
(ロ) わが国の対応
わが国は、イラン・イラク間の早期和平達成のための国連事務総長の和平努力を全面的に支援し、停戦監視にあたっている国連イラン・イラク軍事監視団に対しては資金協力を行うとともに、同監視団に政務官として外務省員1名を派遣している。またイラン・イラク両国と対話のパイプを有しているわが国は、種々の機会に両国に対し、早期和平達成の必要性を呼びかけている。
なお、停戦を迎えたイラン・イラク両国は、その戦後復興に関し、わが国への期待を強めているが、政府としては、和平の進捗状況を踏まえつつ、できる限りの協力を行っていくとの姿勢で臨んでいる。
安保理決議598(骨子)
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(参考) イラン・イラク紛争と国境線問題
イラン・イラク紛争の直接の原因の一つとして挙げられるものに両国間の国境線問題がある。この問題は古くオスマントルコ・イランの国境確定条約(1639年)にさかのぼり、以後、地域の政治情勢を反映して国境紛争・確定が繰り返された。
シャトル・アラブ河については、いずれの協定でもイラン側河岸が国境線とされてきたが、75年のアルジェ協定で初めて同河川の中央線が国境線となった。イラクはイランとの武力紛争開始に際して(80年9月)、イランのアルジェ協定不履行を理由に協定を破棄し、シャトル・アラブ河に対する主権を主張した。和平交渉では同河川の浚渫
イラン・イラク関係地図
(3) アフガニスタン
(イ) ソ連軍撤退後のアフガニスタン情勢
88年4月14日に成立したアフガニスタン(ナジブラ政権)、パキスタン、米国、ソ連の間のジュネーヴ合意に従って89年2月15日までに駐留ソ連軍の撤退が完了した。
しかしながら、ソ連軍撤退後もソ連の支援を受けたナジブラ政権と米国、パキスタン等の支援を受けた反体制ゲリラの間の武力衝突は依然として続いている。
なお、89年2月上旬から3月上旬にかけて、親パキスタン・スンニー派7派連合はムジャディディを大統領とするアフガン・ムジャヒディーン暫定政権の樹立を宣言したが、領土の実効的支配を確立していないことから幅広い国際的承認を得るには至っておらず、7月現在ではサウディ・アラビア、バハレーン、マレイシア、スーダンが同政権を承認したのみで、米国、パキスタンは政治的支援を行うにとどまっている。
他方、ソ連は、暫定政権はアフガニスタン国内の対立の悪化を招来するものであるとして、これを非難しており、あくまでナジブラ政権を支援する構えを見せている。
ナジブラ政権はソ連軍撤退以前より「国民和解」を主張し、反体制ゲリラとの妥協とこれの体制への取り込みを企図してきたが、ゲリラ側は一貫してナジブラとの妥協はあり得ずとの姿勢を崩していない。また、パキスタンのブットー首相は6月にアフガニスタン問題の政治的解決の必要性を主張し、その前提としてナジブラの退陣を要求したが、政権側の受け入れるところとはなっていない。このように政治的解決について関係者の考え方の隔
(ロ) わが国の立場
ジュネーヴ合意に基づきソ連軍が撤退を完了したことは、より安定した東西関係の構築及び地域の平和と安定に資するものとして評価しうるが、今後、アフガニスタンの真の安定のためには、国民の幅広い支持基盤を有する政権がアフガン人自身の手で樹立されることが必要である。
わが国は、国連の調停努力及びジュネーヴ合意履行支援のための国連アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションに対し財政的支援を行っているほか、外務省員1名を政務官として派遣している。アフガニスタン難民帰還援助に関しては、88年6月の国連事務総長アピールを受けて88年9月に6,000万ドルの拠出表明を行ったほか、88年度補正予算よりアガ・カーン国連調整官事務所に対して140億円(1億500万ドル)を支出した。また、アフガン人の総意を反映する幅広い基盤を有する政府が樹立された場合には、アフガニスタンに対する復興援助を検討する予定である。
(4) レバノン
88年9月の大統領選挙が、宗教各派間の意見調整の失敗により実施されず、大統領不在のまま、アオン首相(国軍司令官、キリスト教マロン派)とホス首相(イスラム教スンニー派)の二つの政権が併存し、89年3月以降東西ベイルート間で砲撃戦が展開されるなど混迷の度を深めた。
これに対し、スフェイル・キリスト教マロン派総司教、アラブ連盟6人委員会による調停工作が展開された。その後89年5月末の臨時アラブ首脳会議の決定を受け6人委員会に代わり、ハッサン・モロッコ国王等による3人委員会がレバノン政治改革、大統領選挙実施に向け調停工作を行ったが、6カ月の任期を待たずして7月末にその活動は頓挫するに至った。
(5) 西サハラ問題
76年のスペイン撤退以後の西サハラ地域は、モロッコとポリサリオ戦線との間で領有権をめぐり対立関係にあったが、88年8月、国連事務総長が和平提案(内容は未公表であるが、国連監視下での停戦の実現、住民投票の実施の2点に主眼をおいたものといわれる)を提示したことから急速に和平に向けての動きが活発化し、88年10月には西サハラ問題を担当するグロス国連事務総長特別代表が任命された。
(6) アラブ地域統合の動き
(イ) アラブ・マグレブ連合(AMU)、アラブ協力理事会(ACC)の設立
アラブ地域においては81年に湾岸協力理事会(GCC)が設立されているが、新たな域内協力の動きが具体化しつつある。すなわち、88年6月に第1回マグレブ・サミットが、また89年2月には第2回サミットが開催され、マグレブ5か国(リビア、テュニジア、アルジェリア、モロッコ、モーリタニア)間で、アラブ・マグレブ連合条約が調印された。
また、89年2月、ジョルダン、イラク、エジプト、北イエメンにより、アラブ協力理事会が設立され、域内4か国の経済的相互補完関係の強化が図られることとなった。
(ロ) 臨時アラブ首脳会議
89年5月23から26日、モロッコのカサブランカにおいて臨時アラブ首脳会議が、レバノンを除くアラブ連盟加盟20か国及びPLO代表が出席して開催された。同会議ではレバノン問題、中東和平問題等が取り上げられた。また、イスラエルとの平和条約締結により、79年3月よりアラブ連盟加盟資格を停止されていたエジプトは、同会議への出席招待を受け、10年振りにアラブ連盟復帰を果たした。
2. 主要国情勢
(1) イスラエル総選挙
88年11月の総選挙は中東和平問題が主な争点となったが、選挙結果は労働党とリクードの二大政党の不振に終わった。これに対し、宗教諸政党の勢力が伸長し組閣の鍵を握ったが、その連立政権参加条件が過大であったことから国内外より強い反発を招き、首班指名を受けたシャミールが最終的に労働党と再度の大連立政権を組んだ。
(2) テュニジア総選挙
テュニジアにおいては、ブルギバ大統領に代わって就任したベン・アリ大統領(87年11月就任)が89年4月に初めての大統領選挙及び国会議員選挙に臨んだ。この選挙では99%という圧倒的支持を受けベン・アリ大統領が再選され、国会議員選挙では与党・立憲民主連合が全議席を独占する結果となった。
(3) アルジェリア国内問題
アルジェリアにおいては、近年、原油市場軟調の影響もあり物価高騰、失業者の増加等経済情勢が悪化の一途をたどり、若年層を中心に政府に対する不満が高まり、88年10月、アルジェを中心とする大規模な暴動となった。政府は戒厳令を公布し、武力で暴徒を鎮圧する一方、シャドリ大統領自ら憲法改正等の政治改革、経済自由化の推進等の経済改革を発表した。
(4) イ ラ ン
88年8月、イラン・イラク間の停戦が実現して以後の1年間、イランは内政・外交面で大きく揺れ動いた。
停戦後、経済復興が内政上の大きな焦点となり、国内経済活性化のため外国資金導入も検討されたが、具体的な経済復興計画が実施されるには至らなかった。
他方、大統領と首相が併立している革命後の行政機構については、円滑な国政運営のために大統領権限を強化すべきとの認識が広がり、憲法改正審議も開始された。このように新たな国造りに向けて体制整備が進む中で、89年6月、ホメイニ師が死去したが、ただちにハメネイ大統領を最高指導者とする後継体制が発足し、政情安定化が図られた。7月には大統領選挙が行われ、前評判どおりラフサンジャニ国会議長が当選した。
外交面では、対米関係に変化は見られなかったものの、西欧諸国については、88年11月、ゲンシャー西独外相がイランを訪問、89年1月にムサビ首相がイタリアを訪問するなど関係増進の機運が高まった。しかし、ホメイニ師が89年2月、小説『悪魔の詩』はイスラムを冒とくするものとして英国人著者及び出版関係者の処刑をイスラム教徒に呼びかけたため、西欧諸国との関係は緊張し、英国とは外交関係断絶に至った。
他方、ソ連との間では、89年1月、ホメイニ師がゴルバチョフ書記長に宛てて関係強化に意欲を示す書簡を発出、89年6月、ラフサンジャニ国会議長がソ連を訪問して経済、科学技術、軍事等広範な分野における両国協力関係強化について合意された。
(5) スーダンにおけるクーデター
89年6月、南部内戦終結のための和平交渉の遅れ等に不満をもつ軍部により無血クーデターが発生し、86年4月発足のマハディ政権に代わってバシール政権が発足した。
3. わが国との関係
(1) 総 論
わが国は、国際政治、経済に占める中近東諸国の重要性、その相互依存関係等に鑑
(2) 経済・技術協力
わが国は、88年8月、豪雨・洪水災害に見舞われたスーダンに対し、緊急援助隊の派遣、見舞金援助を行うとともに、国内避難民救済のため輸送経費等の供与を行った。
また、88年10月、わが国の無償資金協力によって約3年間の歳月をかけ完成したカイロの教育文化センターが開所し、センター落成記念事業として中東・アフリカ地域で初の歌舞伎公演等を行った。
(3) 貿易関係
88年のわが国の中近東諸国との貿易は、輸出が100億ドル(対前年比2%増)、輸入が203億ドル(対前年比2%減)で、103億ドルの輸入超過(対前年比5%減)となった。
わが国のエネルギー供給に関して湾岸諸国への依存度は依然として大きく、わが国の原油総輸入(184億ドル)の67.2%はアラブ首長国連邦、サウディ・アラビアなど中近東諸国からのものである。