第6節 ソ連・東欧

1.ソ  連

 

(1) 内外情勢

(イ) 内   政

(a) ゴルバチョフ政権は成立後4年目の88年には、ペレストロイカ路線の重要な柱である政治改革に本格的に着手し、ソヴィエト(議会)の権限強化と党機構の改革が行われた。また、9月末の党中央委員会総会における古参幹部の指導部からの一掃、ゴルバチョフ書記長の最高会議幹部会議長の兼任等により、ゴルバチョフ書記長を中心とする指導部体制がより強化された。さらに89年5月に、ゴルバチョフは、最高会議議長に選出され、ゴルバチョフ政権の政治的基盤は一層強化された。

 ゴルバチョフ書記長の進めている諸改革のうちで最も進んでいるグラスノスチ(情報公開)は、ゴルバチョフ政権の4年間にかなり定着したが、当局による進歩的プレスに対する批判や集会の取締り等、次第に限界も生じてきた。特に、「民主化」及びグラスノスチ機運は、地方の民族意識を高め、コーカサス地方やバルト3国等の民族運動は先鋭化した。

(b) 88年6月の党協議会において決定された政治改革のプログラムに従って、同年9~10月の党中央委員会総会・最高会議は、「党とソヴィエトの機能分離」「ソヴィエトの権限強化」をスローガンに、党中央機構の改編、ソヴィエトの権限強化と選挙制度民主化のための憲法改正案の発表、全国民討議を経て12月に採択等を行った。党・ソヴィエトの幹部人事では、グロムイコ、ソローメンツェフ両政治局員、ドルギフ、デミチェフ両政治局員候補等の古参幹部を一掃する一方、権限強化に伴い重要性が増す最高会議幹部会議長のポストにゴルバチョフ書記長が就任した。同時に、党中央委員会の機構改革で書記局の機能を新設の6委員会に分割し、書記を各委員会の議長に就任させた。さらに、89年4月の党中央委員会総会にて、中央委員、中央委員候補、中央監査委員540名のうち、既に年金生活入りしていた110名を解任するとともに、ゴルバチョフ書記長のブレーン、側近等24名の中央委員候補を中央委員に昇格させ、党中央における権力基盤を一段と強化した。

(c) 新憲法の下で、89年3月に「人民代議員大会」代議員の選挙が実施された。この選挙は、従来の選挙に比較して、複数候補制、秘密投票制、任意投票制(棄権の自由)、選挙戦でのグラスノスチ(立候補者によるテレビ出演等)が確保されるなど、ソ連の選挙制度の「民主化」を反映したものとなった。

 この選挙では、モスクワ市で急進改革派のエリツィン(前モスクワ市党第一書記)が圧倒的支持で選出される一方、ソロヴィヨフ・レニングラード州党第一書記(政治局員候補)、サイキン・モスクワ市長を始めモスクワ、レニングラード、キエフの3大都市等でかなりの数の党・行政機関の要人が落選する等、ペレストロイカの現状に対するソ連国民の不満が強く反映される結果となった。

(d) 5月25日より6月9日まで第1回の「人民代議員大会」が招集された。新議会の主要メンバーとして、最高会議議長にゴルバチョフ書記長、最高会議第一副議長にルキャノフ政治局員候補、大臣会議議長(首相)にルイシコフ政治局員、最高会議連邦会議議長にプリマコフ党中央委員(前・世界経済国際関係研究所長)、最高会議民族会議議長にニシャノフ・ウズベク共和国党第一書記が各々選出された。また、最高会議の代議員も選出(542名)されたが、そのメンバー構成は、中央・地方の党・行政機関員、ゴルバチョフ書記長の改革派ブレーン、側近等が大勢であり、急進改革派ではエリツィンが選出(繰り上げ当選)された。

(e) 88年は、「民主化」、グラスノスチの風潮の下、前年までのクリミア・タタール人問題、ユダヤ人問題等を超えた大規模な民族問題でソ連国内は揺れ動いた。

 コーカサス地方では、2月以降、ナゴルノ・カラバフ自治州の帰属問題を焦点にアルメニア、アゼルバイジャンの両民族間の亀裂が拡大し、「100万人集会」、ストライキ、戒厳令布告、軍隊投入を経て、89年1月には、同自治州に暫定的な特別管理形態が導入され、中央直轄とされた。また、バルト3国では、87年より、ソ連への併合に対する抗議集会・デモが盛り上がりつつあったが、88年春以降、大幅な自治拡大を要求した「人民戦線」の運動が急速に広がり、88年後半の憲法改正のための国民討議の過程で、共和国によっては、国有財産の自主管理化、連邦法に対する拒否権等を主張するまでに至った。こうした民族運動は、白ロシア、グルジア、モルダヴィア、ウズベク等、他の共和国にも飛び火しつつある。特に、89年4月のグルジア暴動では、軍隊によるデモの鎮圧で約20名が死亡し、同年6月のウズベク暴動ではウズベク人とメスヘチア人(1944年コーカサス地方よりウズベク共和国に強制移住)との衝突で約100名が死亡する事態となった。

(ロ) 外   交

 88~89年においてソ連は、米国における大統領選挙、政権交替、新政権の政策検討が進められた期間、対西欧外交を活発に展開するとともに、対中関係の正常化を積極的に推進した。さらに、経済活性化等のペレストロイカ推進のため、膨大な軍事費の軽減、過剰軍備の削減を迫られているソ連は、兵力50万人の一方的削減を含む一連の軍縮提案を発表した。

(a) 対米・対西欧関係

 対米関係では、88年12月、ゴルバチョフ書記長は、国連総会出席に際してレーガン大統領、ブッシュ次期大統領と会談し、レーガン政権との間に築かれた米ソ間の対話の継続と発展を確認した。

 ブッシュ新政権登場後は、89年3月のウィーンにおける米ソ外相会談に次いで、5月には第2回ベーカー・シェヴァルナッゼ会談がモスクワで開催され、軍備管理・軍縮、人権、地域問題、二国間関係、全地球的問題の5分野にわたって検討された。

 この会談の席上、ソ連外相は、89年中に東欧諸国から短距離核(SNF)弾頭500個の撤収を決定した旨通報した。

 なお、ゴルバチョフ書記長は、88年12月の国連総会における演説の中で、ソ連軍兵力50万人の一方的削減、東欧諸国からの6個戦車師団の撤退等のソ連軍削減構想を発表した。

 88年後半から89年前半にかけてのソ連の対西欧外交は極めて活発であった。

 これらの首脳会談を通じて、ソ連は、経済活性化のため各国から資本及び技術の導入を促進すべく、二国間関係の強化及び対ソ経済協力を訴え、西独、イタリア等からのクレジット・ラインを設定したほか、貿易、経済関係の多くの協定、取極を締結した。他方、ソ連は、西欧の統合に向けた動きに強い懸念を表明するとともに、「欧州共通の家」の建設を呼びかけた。さらに軍備管理・軍縮分野では核抑止論を非難し、SNF近代化反対を唱え、欧州の非核化、米軍プレゼンスの削減、あるいはNATO欧州諸国の結束に水をさす動きを示した。

(b) 対東欧関係

 88~89年におけるソ連の東欧諸国との交流では、ホネカー東独国家評議会議長(88年9月)、チャウシェスク・ルーマニア大統領(10月)、グロース・ハンガリー党書記長(89年3月)、ヤケシュ・チェッコ党書記長及びヤルゼルスキ・ポーランド国家評議会議長(いずれも4月)の訪ソが注目された。ゴルバチョフ書記長はこれらの首脳会談において、ソ連の内政・外交、特に政治、経済改革のペレストロイカについて強調し、他方、ポーランド、ハンガリー等における政治改革に理解を示し、また、歴史上の問題、例えばポーランドとの「カチンの森事件」の調査等にも言及した。他方、軍備管理・軍縮分野では、89年7月ブカレストにおいてワルシャワ条約機構政治諮問委員会が開催され、共同コミュニケと「核、化学兵器のない安定した欧州と、軍備・軍事費の大幅削減のため」と題する政治宣言を採択し、NATOに対して軍縮への積極的対応を訴えた。

(c) 対アジア関係

 中ソ間では、89年5月、ゴルバチョフ書記長が30年振りに訪中し、トウ小平との首脳会談並びに楊尚昆国家主席等との会談を重ね、両国の国家関係及び党関係の正常化が達成された。この際、今後の中ソ関係を律する原則として平和共存等の5原則が共同コミュニケに規定された。

 ゴルバチョフ書記長は、88年9月、クラスノヤルスク市において、86年のウラジオストック演説に次いで、アジア・太平洋政策を改めて総括的に提示した。同演説では、シベリア、極東開発のための対ソ経済協力を呼びかけ、韓国との経済関係の可能性に初めて言及したが、安全保障に関する7項目提案等は基本的に従来の主張を繰り返したものであった。

 ゴルバチョフ書記長は、88年11月、86年に次いで2度目のインド訪問を行い、ソ連の対印関係重視に変更がないことを言明、また、パーマー・ニュー・ジーランド副首相の訪ソ(88年11月)、シェヴァルナッゼ外相の日本、フィリピン、北朝鮮歴訪(12月)、アラタス・インドネシア外相(89年5月)及びマングラプス比外相(7月)の訪ソ等、アジア・太平洋諸国に対する外交を積極的に展開した。

(d) 対中東関係

 アフガニスタン問題においては、88年5月に開始された.駐留ソ連軍の撤退は、89年2月には終了した。しかしながら、ソ連軍撤退後もアフガニスタン国内では激しい戦闘は続いており、ソ連は反政府勢力に対する武器援助を理由にパキスタンのジュネーヴ協定違反の非難を繰り返している。

 ソ連は、中東和平国際会議の開催を一貫して主張しており、89年2月にはシェヴァルナッゼ外相がシリア、ジョルダン、エジプト、イラク、イランを歴訪して国際会議開催へ向けて働きかけるとともに、イラン・イラク紛争についても意見交換を行った。

 ソ連は湾岸諸国との関係改善を図っており、88年8月、カタルとの外交関係を樹立、サウディ・アラビアとの交流を図り、またイランとの間では、経済交流、要人の往来等により関係強化に努めている。

(e) 対中南米関係

 ソ連はニカラグァを支援し、キューバとは、89年4月にゴルバチョフ書記長がソ連首脳としてプレジネフ訪問以来15年振りに同国を訪問し、有効期限25年の友好協力条約に調印した。このほか、サルネイ・ブラジル大統領の訪ソ(88年10月)を始めとして、ソ連は中南米諸国との関係強化を図っている。

(ハ) 経   済

(a) 全般的動向

 ゴルバチョフ政権発足後4年目にあたる88年の経済実績は全体として計画未達成に終わった。経済メカニズムという質的側面についても、例えば88年に実施されている「国家企業法」の機能振りにも象徴されるように、依然中央管理的な慣習から脱却し得ず、所期の成果は挙がっていない。その上、歳入規模の20%を上回る大幅な財政赤字やインフレなどの根の深い構造的諸問題が顕在化している。ゴルバチョフ書記長自身、現在の経済状況が「政治的性格を帯びつつある」と形容しているほどである。

 現在、財政健全化のために国防費の削減を始めとする措置を図っているが、いずれにしても国内経済の立て直しがいかに困難な課題であるかがますます明確になっている。

(b) 民営セクターの動向

 国営セクターのメカニズム改善と並んで、経済改革のもう一つの柱でもある民営セクター拡充の点では、個人業の分野でも協同組合の分野でも、期待された展開は見られていない。特に、経済活性化の上で期待された協同組合も一定の普及は見られるものの、管理者層の抵抗、高い価格と協同組合従事者の高給に対する一般住民の反感など、多くの問題点を抱えている。因みに、88年における協同組合業の従事者数は約136万人で、生産された財貨やサービスは約61億ルーブル(国民所得の1%弱)であった。

(c) 農業問題

 ゴルバチョフ体制下では、農業面でもコルホーズ及びソフホーズの自主権強化や集団請負制、家族請負制などの新経営形態が推進されてきたが、ソ連農業に固有の構造的欠陥を克服するには至らず、かつ高度化しつつある食生活の要請に対応しきれていない。最近特に食糧事情の悪化が顕在化した。この点、88年9月、ゴルバチョフ書記長がクラスノヤルスクを訪問し住民との直接対話をした際、住民側から激しい不満が表明された。

 このような状況を放置することはペレストロイカの流れにも影響しかねず、ゴルバチョフ政権としても食糧問題を最優先課題として位置づけ、農業問題に力点を置き、89年3月には農業問題を集中的に討議する党中央委総会を開催した。ゴルバチョフ書記長は、これまでの種々の改革措置に加えて、農業改革の「切り札」として、農民に土地や生産手段を長期にわたって貸与する「賃貸請負制」の促進に力点を置いているが、事実上の「私有制」にもつながりかねないこの制度の導入をめぐっては内部でも議論があるほか、これまでの無競争的なやり方に慣れ親しんできた農民の惰性もあって、必ずしも順調に普及はしていない。

 88年の穀物生産は旱魃(かんばつ)などの影響もあって1.95億トン(86年及び87年とも約2.1億トン)に落ち込み、国外から約3,600万トンの穀物を輸入した。

 ソ連の農業の場合、生産面の問題もさることながら、農産物の収穫、輸送、貯蔵及び加工の過程で発生する損失は20%以上もあるといわれ、この面での事態改善も重要なポイントとなっている。

(d) 対外経済面での改革の動き

 87年1月1日から、それまでの貿易の国家独占体制が変更され、貿易担当省以外の一部省庁や企業も直接貿易活動を行う権限が付与され、また、合弁企業の設立が可能となったが、88年12月の規則の改正により、89年4月から、事実上申請するすべての生産企業や協同組合に対して貿易を行う権限が付与されるようになり、また、合弁設立の手続きや条件の面でも一部改善が見られた。さらに、外貨とルーブルのオークションの創設、90年1月から企業レベルの取引を中心として外貨の対ルーブル換算レートを100%割増しする、などの決定が行われた。

 そのほか、極東地域などに経済特区を創設する構想も検討されている。

(2) わが国との関係

(イ) 概   観

 88年12月のシェヴァルナッゼ外相訪日以来、日ソ間の真の関係改善の実現を目指し、両国間の政治対話が活発に行われている。相次ぐ対話により両国間の相互理解は深まったといえるが、他方、日ソ関係発展の障害となっている北方領土問題に関するソ連の態度には、これまでのところ実質的変化は見られず、今後ともこのような対話を拡大・強化しつつ、粘り強い対ソ交渉を続けていく必要がある。

 89年5月に訪ソした宇野外務大臣は、領土問題の解決による平和条約の締結を最重要課題としつつ、日ソ関係を全体として拡大均衡させ、関係改善を実現したいとのわが国の基本的考えを説明し、ソ連指導部の賛同を得た。このことは、今後日ソ双方が関係改善のための努力を進めていく方向性を定めたものとして重要な意義を有する。

 日ソ首脳間の相互訪問も、このような両国関係全体の発展に大きな弾みをつけるものとして重要であり、88年12月のシェヴァルナッゼ外相訪日の際、ゴルバチョフ書記長訪日に向けての準備作業を両国外相会談を中心に進めていくことが合意された。また、89年5月宇野・ゴルバチョフ会談においては、具体的な時期に関し、90年初めに検討することで合意された。

(ロ) 平和条約交渉

 北方領土問題の議論を含む日ソ平和条約交渉は、88年12月のシェヴァルナッゼ外相訪日の際、領土問題に関し日ソ双方より歴史に遡った詳細な議論を行い、また常設の外務次官レベルの平和条約作業グループの設置に合意するとの新たな進展を見せ、その後、かつてない頻度をもって交渉が進められた。この交渉においてソ連側は、領土問題に関する議論を拒否していた従来のアプローチを変更し、領土問題の歴史的及び国際法的側面の議論に事実上応じる姿勢を示したが、議論の実質においては、ソ連側の立場は依然として極めて厳しいものがあり、日本側の提起するすべての論点を論(ばく)するとの立場をとるに至っている。

 

ソ連訪問に際し、ゴルバチョフ書記長を表敬する宇野外務大臣(当時) (89年5月)

 

(a) 88年9月の国連総会において、栗山外務審議官は、シェヴァルナッゼ外相及びペトロフスキー外務次官と会談し、シェヴァルナッゼ外相訪日の時期に合意するとともに、同訪日の際には領土問題について歴史に遡った詳細な議論を行いたい旨伝達した。

(b) 88年12月、東京で2年5か月振りに開催された日ソ外相間定期協議においては、外相会談、外務次官レベルの平和条約作業グループ(栗山外務審議官、ロガチョフ外務次官)の相当部分が、領土問題の議論にあてられた。日本側より、1855年の日露通好条約以来の歴史の流れに沿って日本側の基本的立場を詳細に説明したのに対し、ソ連側の発言は従来明らかにしていた諸点を網羅的に繰り返したものに終始した。

 12月21日に発表された日ソ共同コミュニケにおいては、日ソ交渉において「双方は、両国関係に存在する困難の除去に関し、その歴史的及び政治的側面についてのそれぞれの認識を述べた」と明記されたが、これは、上に述べた平和条約締結交渉の実体を従来に比べて一層明確に規定したものといえる。また、平和条約交渉を一層促進するため、平和条約作業グループを常設化することに合意した。

(c) 89年1月、パリでの化学兵器禁止に関する国際会議の機会に開催された日ソ外相会談においては、宇野外務大臣から、日ソ関係をバランスのとれた形で進めるためにはソ連が領土問題を動かすことについて真剣に考える必要があるとの基本的考えを示したのに対し、ソ連側は、すべての問題を領土問題のまわりに位置づけるのは良い考えでない旨主張し、日ソ間の立場の相違が改めて示された。

(d) 89年2月、大喪の礼出席のため来日したルキャノフ最高会議幹部会第一副議長と竹下総理大臣との会談において、竹下総理大臣より領土問題を横において平和条約の議論を進めることはできない、話合いにより困難な問題の双方間の差が縮まることを確信する旨述べたのに対し、ルキャノフ副議長より、領土問題を両国関係の前進の道の上でどうしても避けて通れない壁とすることは妥当でない旨述べた。

(e) 89年3月及び4月に開催された平和条約作業グループにおいては、領土問題の歴史的、国際法的論点につき詳細な議論が行われるとともに、双方が平和条約の概念についての見解を述べ、日本側は北方領土の帰属の問題を解消することが日ソ平和条約の最重要課題であることを強調した。

(f) 89年5月にモスクワで開催された日ソ外相間定期協議においては、日本側より、領土問題を解決した上での平和条約締結の問題が日ソ関係を改善するに当たっての最重要課題であること、また領土問題を棚上げすることなく今の時代にこそ解決すべきことを強調した。ソ連側からは、日米安保条約の下でも日ソ平和条約の締結は可能である等述べつつ、領土問題に関するソ連側の立場には変更のないことが明確にされた。また、双方は平和条約交渉を一層促進することに合意した。

(ハ) 経済関係

 88年には往復貿易額で過去最高の59億ドル(対前年比19.9%増)となった。

 商品別に見ると、88年の輸出では、伝統的な対ソ輸出品目である鉄鋼、機械が増加した。輸入は全般的に増加を示し、特に非鉄金属(白金、パラジウム、ニッケル、アルミニウム等)、石炭、及び魚介類を中心とした食料品が増加した。木材は金額ベースでは増加したが、数量ベースでは減少した。また、86、87年と大幅に増加してきた金の輸入は減少した。

 87年1月にソ連で合弁事業設立に関する大臣会議の決定が施行されて以来、現在までに木材加工、水産、サービス業を中心に14件の日ソ合弁企業がソ連国内に設立されている。

(ニ) 漁業関係

 89年の日ソ双方の200海里水域での相手側の漁獲を決める、いわゆる日ソ200海里交渉は、88年11月下旬から東京で開催され、12月に88年並みの漁獲割当量(無償部分・双方21万トン、有償部分・日本側のみ10万トン)で妥結した。89年の日本漁船によるソ連系サケ・マスの漁獲に関するいわゆる日ソ・サケ・マス交渉は、ソ連が88年に声明した日本側による公海操業の全面停止を前提として、総漁獲量の大幅削減を主張したため、3月下旬にいったん中断した。4月下旬に再開された交渉においてもソ連は一歩も譲歩をせず、総漁獲量15,000トン(88年は当初20,826トン、米国200海里水域操業問題で調整後17,668トン)となったが、漁業協力費は前年と同じ37億円に据え置かれた。

(ホ) 科学技術交流

 88年12月、東京において科学技術協力委員会が開催され、88年の協力計画として87年合意された農林業、核融合、医療等の5分野に加え、環境、地震予知の2分野の協力が新たに加わり、日ソ間の協力は7分野に拡大された。

 また、88年12月のシェヴァルナッゼ外相来日時には日ソ渡り鳥条約の批准書の交換が行われ、同条約は発効した。

 さらに、88年12月のアルメニア地震災害に際しては、被災地救援・復旧のため10億円の災害無償援助、2.3億円の医療品等物資供与を行うとともに、2次にわたり地震専門家チームを派遣した。

(ヘ) 文化交流

 87年12月25日に発効した日ソ文化協定に基づき、88年12月に東京で第1回日ソ文化交流委員会が開催された。同委員会において日ソ文化交流発展のための諸問題に関し意見交換が行われ、2か年の日ソ文化交流実施計画(89年4月1日~91年3月31日)が作成された。また、同実施計画発効のための文書が宇野外務大臣とシェヴァルナッゼ外相との間で交換された。

 恒例の日本映画祭(88年11月14日~12月4日)、ソ連映画祭(89年5月11日~19日)がそれぞれ相手国で開催された。「現代日本陶芸展」(国際交流基金との共催)がソ連国内で巡回展示されたのを始め、大使館、総領事館を中心に日本文化の紹介が行われた。

 また、モスクワにおいて裏千家代表団(88年8月19日~27日、団長:千宗室裏千家家元)による茶会が催され、講演、展示、デモンストレーション等を通じ日本文化の一端が広くソ連に紹介された。

2. 東欧、ユーゴースラヴィア、アルバニア

 

(1) ワルシャワ条約加盟諸国(東欧)

(イ) 東欧情勢の流動化

 東欧諸国においては、経済不振が続いている。状況は国により異なるが総じて競争不在、官僚主義という中央統制経済に内在する要因によって、経済の活力が失われ、国民生活が圧迫されている。こうした中で、ソ連の「ペレストロイカ」の進行が各国国民の意識に強い影響を与え、特に西欧的民主主義の伝統の強い東独、ポーランド、チェッコスロヴァキア、ハンガリーにおいて民主化要求の動きが増大した。

(ロ) 東欧の多様化

 東欧諸国の国内の変化と並行して、ソ連・東欧関係の弛緩が顕著になっている。ソ連は国内改革に専念するため、東欧各国の国内の安定を重視しており、各国に画一的な路線の採用を迫ることによって東欧諸国に波紋が起こることを極力避ける意向と考えられる。東西関係の改善が進みつつある今日、ソ連にとって東欧諸国への介入の敷居は高まっているものとみられている。このため、東欧諸国の自立性が増大しており、各国の改革に対する態度はそれぞれの国内事情を反映して著しく多様化している。

(a) ポーランド

 巨額の対外債務、経済改革の遅滞等により経済困難が深刻化するなか、88年8月、大規模なストライキが発生した。このストライキでは賃上げ要求のほかに81年に禁止された自主労組「連帯」の再合法化要求が掲げられた。政府当局側はストライキ打開の方途として、「連帯」を含む幅広い社会勢力代表からなる「円卓会議」を提唱し、ほぼ1か月に及んだストライキはようやく収拾された。この「円卓会議」は89年2月から開催され、2か月にわたる討論を経て、「連帯」の再合法化、自由選挙に基づく国会上院の創設等、今後の民主化方針について合意し、4月に閉幕した。

 89年6月、ポーランドの社会主義政権成立以来、部分的とはいえ初めての自由選挙が実施され、結果は上院及び下院での「連帯」の圧勝となった。

 西側諸国はこの選挙結果を民主化の進展と評価し、対ポーランド支援の方針を打ち出した。また、ソ連も選挙結果を冷静に受け止め、「連帯」と当局の協力を慫慂(しょうよう)する論評を行って注目を集めた。

 しかし、約390億ドルの累積債務を抱える同国の経済情勢には回復の兆しは見られず、インフレが進んで国民生活を圧迫している。ポーランド政府は、88年秋以来、IMFとのスタンド・バイ・クレジット供与に関する交渉を継続しているが、クレジット供与の条件たる経済の構造調整について合意できず交渉は進展していない。

(b) ハンガリー

 68年以来、他の社会主義諸国に先がけて経済改革に着手、市場経済メカニズムの導入を図り、企業の自立性を拡大する等自由化政策による経済活性化に努めてきたが、過去2年間における経済不振は、深刻な政治問題ともなっている。88年5月には、56年の動乱以来32年間政権の座にあったカーダールが経済問題の責任をとる形でグロース党書記長へ政権を委譲したが、むしろその後も88年1月に導入された付加価値税等によりインフレ傾向が強まるなど国民生活はさらに圧迫され、国民の不満も根強いものがある。

 このような状況の下、89年にはいり結社法の制定(1月)、党中央委総会での複数政党制導入の決定(2月)等政治改革の動きが活発化している。89年6月16日、56年の動乱の際にワルシャワ条約機構からの脱退を宣言して国家反逆罪で処刑されたナジ元首相の再埋葬が行われた。これは当時の関係者の名誉回復及び「反革命」とされていた歴史の見直しを伴うものであり、同国の民主化への動きは急激に進展した。

 また、6月24、25日の両日開催された党中央委総会では、党議長に「経済改革の父」といわれるニュルシュ政治局員が就任するとともに、政治改革の中心人物ポジュガイ政治局員、グロース書記長、ネーメト首相を加えた4名で構成される幹部会による集団指導体制が発足、従来9名であった政治局も21名から成る政治執行委員会へ改組され、大幅な党の機構改革が行われた。

 外交面においてもハンガリーは89年2月の韓国との外交関係樹立に見られるとおり、従来から独自色の強い対西側積極外交を展開している。

(c) ブルガリア

 ジフコフ党書記長は88年7月、党内ナンバー2と目されていたアレクサンドロフ党政治局員兼書記を解任し、代わりに同書記長の古くからの人脈を重用する等、政権の維持に意欲を見せている。ジフコフ政権は国内改革を進めるソ連との関係を引き続き維持していくために、特に経済分野での改革政策(89年1月、株式会社、私企業の設立及び株式、社債の発行等を規定した国家評議会令を発表)を打ち出す等、表面上、ソ連との共同歩調を見せているが、これらの改革は必ずしも実効が伴ったものとはなっていない。

(d) チェッコスロヴァキア

 「プラハの春」の弾圧によって実権を握った現指導部は、自らの正統性を否定しかねない政治改革の導入には極めて慎重な姿勢を見せている。他方、経済面においては市場経済メカニズムの導入を中心とする抜本的な改革の必要性を認め、経済建て直しのための様々な施策が発表されているが、その実効は上がっていない。

 88年10月には「プラハの春」以来の改革急進派であり、党内.保守派との対立が嵩じていたシュトロウガル首相に代わり、ヤケシュ書記長の腹心といわれるアダメツ新首相が就任したが、かかる人事異動等を通じて、政治的安定を重視しつつ徐々に経済改革を進めようとするヤケシュ書記長の権力基盤の強化が図られた。

 こうした中で、反体制グループ「憲章77」を中心として反体制活動が活発化しており、「プラハの春」20周年を迎えた88年以来数千人規模のデモ、集会が頻発している。

(e) 東   独

 分断国家であり、西独という直接の比較対象に隣接しており、市場経済メカニズムや西側的民主主義の導入は国家としての西独との相違をあいまいにしかねない。東欧諸国の中にあっては比較的良好な経済を背景に、東独はソ連流の改革は不必要との断固たる姿勢を見せている。88年11月にスターリン批判を行ったソ連誌『スプートニク』を発禁処分にしたことや、天安門事件の際に中国の保守強硬路線を一貫して支持し、西側諸国の対中制裁の動きを内政干渉として公式声明により強く非難したことは、かかる東独の立場を鮮やかに印象づけた。しかし、経済の実体面においては、投資不足、設備近代化の遅れ等のため、87年以降停滞傾向が明らかになっている。こうした事態を踏まえ、東独は経済部門に関しては何らかの改革の必要性を感じており、70年代後半より導入され一定の成功を収めてきたコンビナート制(注)に若干の手直しを加え、極めて慎重ながらも経済再活性化に向けて独自の試みに着手している。

(f) ルーマニア

 チャウシェスク政権は、一族登用、頻繁な人事異動により権力集中を進めており、また、ルーマニアにおいては民主化と改革は実施済みとの建前をとり、ソ連流の改革に背を向けている。89年3月には共産党古参党員6名がチャウシェスク非難の公開書簡を発表したのを機に国内統制が一段と強化された。かかる同国の人権問題、特に急激かつ強権的な農村統廃合を目的とする国土再編計画(システマティザーレ)についてはハンガリー系少数民族の処遇をめぐってハンガリーとの間に先鋭な対立をひきおこし、国際的非難が高まっており、89年3月の国連人権委において対ルーマニア非難決議が可決された。

 同国は89年4月、81年には104億ドルに達していた対外債務の完済宣言を行ったが、これも経済建て直しの成功によるものではなく、国民生活の極端な切り詰めによるものと言われている。

(ハ) 相互対立の表面化

 以上のような多様化とともに、従来一枚岩を誇った東欧諸国の間で対立が表面化し、各国の改革路線をめぐり、不協和音が目立ってきている。例えば、東独、チェッコ、ルーマニアがナジ元首相の再埋葬についてハンガリー批判を行った。中国天安門の事件の際には、公式声明でハンガリーが中国を非難したのに対し、東独は中国を擁護した。また89年7月には、チェッコの反体制グループと接触したポーランドの「連帯」系議員をチェツコ当局が強く非難した。

 ルーマニアの国土再編計画(システマティザーレ)をめぐるハンガリーとルーマニアとの間の対立は前述のとおりである。さらに、ハンガリーは国連人権委員会におけるルーマニア非難決議の共同提案国となって注目を集めた。

(ニ) 西側諸国の対応

 欧州の中心という地政学上最も重要な位置を占める東欧において、以上のように急激な変化が進行中であることについて、欧米諸国において関心が高まっている。東欧における改革は西側の価値観の拡大であり、西側の安全保障の拡大につながるとの観点から、欧米諸国は東欧における変化を歓迎、特に改革の進んでいるポーランド、ハンガリーに対しその自助努力を支援するとの姿勢を強めている。アルシュ・サミットにおいても、東西関係に関する宣言の大半が両国の支援への決意表明に費やされ、今後サミット諸国を含め両国支援に関心を有する西側諸国の会議を開催し、西側各国の支援措置を相互に補強し合うものとすべく調整していくことが合意された。

(ホ) わが国との関係

(a) わが国は地理的・歴史的要因により、これまで東欧諸国との間では、アジア諸国等との関係におけるほどには有機的な関係を構築するに至っていない。しかしながら、東欧における改革の動きは、経済建て直しが進まぬまま、改革が過度に急激に進めばかえって欧州情勢を不安定化させる等、東西関係全体、ひいてはわが国にも影響を及ぼし得るものである。

 わが国は西側の一員として、改革の動向に関心を有しており、宇野総理大臣はアルシュ・サミットにおいてポーランド及びハンガリーの改革のソフト・ランディングのため応分の協力を行う旨述べた。89年5月、ハンガリーに対してはその工業設備近代化プロジェクトのため、世銀との協調融資により、80億円の調達先アンタイドの輸銀8号ローンが調印されている。

(b) 88年8月には浜田外務政務次官がブルガリア、ハンガリーを訪問し、政治対話を深めた。89年3月にはポーランドのマリノフスキ国会議長が訪日した。

(c) 文化面においては、88年10月にはポーランドにおいてわが国文化を幅広く紹介すべく日本文化週間が開催され、好評を博した。

(d) 88年のわが国の対東欧貿易総額は、14.57億ドル(前年比22.6%増)となった。東欧諸国からの輸入が44.5%と大幅に増加したため、わが国の貿易黒字は2.45億ドルから0.94億ドルへ減少した。

(2) ユーゴースラヴィア

(イ) 内外情勢

(a) ユーゴースラヴィアでは、経済困難の打開が最大の課題となっており、88年11月には市場経済指向の経済改革を主内容とする連邦憲法改正が行われた。同年12月、ミクリッチ内閣は経済政策失敗の責任を問われ総辞職した。89年3月に発足したマルコヴィッチ内閣は、IMFと協調しつつ、外資導入、債券市場導入等、市場経済に向けた大幅な経済改革を進めつつある。一方、アルバニア系住民人が多数を占めるコソヴォ自治州では民族対立問題が深刻化した。

(b) 外交面では、88年9月のサイプラス非同盟外相会議で第9回非同盟首脳会議主催国を引き受ける等、引き続き非同盟運動の強化に努めている。

(ロ) わが国との関係

(a) わが国は、南欧で重要な位置を占め、非同盟・自主独立外交を堅持するユーゴースラヴィアに対し、従来より政治・経済両面で支持を行ってきている。88年11月には、ミクリッチ首相来日の際、竹下総理大臣が提案した日・ユ経済関係促進セミナーを日本で開催した。89年2月にはわが国が会場を提供し、東京でユーゴースラヴィア見本市の開催が実現した。さらに、わが国はユーゴースラヴィアの累積債務問題に対処するため、89年3月に約34万ドルの債務繰延べを実施した。

(b) 88年の対ユーゴースラヴィア貿易総額は対前年比268%増の2億8,000万ドルと飛躍的に増大した。

(3) アルバニア

(イ) アルバニアは従来の自力更生路線を踏襲しつつも、徐々に近隣西側諸国との交流を進めており、特に西独及びフランスとの積極的な関係強化が見られる。他方、東側諸国との関係改善も進められている。

(ロ) 88年12月のOECD・DAC会合において、西独提案に基づきアルバニアを途上国分類に含める旨決定され、わが国も、同決定を支持した。

(ハ) 88年8月の浜田外務政務次官のアルバニア訪問、89年3月のカプラーニ外務次官及びホッジァ外国貿易次官の訪日(いずれも国交樹立以来最高レベルの要人往来)により両国間にはかつてない関係強化がみられた。

 

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(注) 研究・開発から生産・販売までを一手に行う大独占企業制。