第5節 西  欧

 

1. 欧州を舞台とする東西関係の動向

 

(1) 西欧諸国の対ソ・対東欧外交の活発化

 近年の東西関係の改善及びソ連・東欧における改革の動きを背景に、西欧諸国は対ソ外交・対東欧外交を活発に展開してきている。特に、88年秋から89年夏にかけて、西欧諸国とソ連、東欧諸国との間で要人往来が活発に行われた。

 対ソ・対東欧外交の進展に当たって、西側として政策の整合性及び一貫性を確保していくとの観点から、西欧各国は他の西欧諸国と、あるいは米国、わが国等との間で二国間協議を始め、サミット、NATO、EC等の場において、緊密に意見交換及び政策調整を行っている。

 

(2) 欧州安全保障・協力会議(CSCE)ウィーン・フォローアップ会議の終結

 欧州における東西対話は、各国の個別の外交のみならず、多数国間の国際会議においても活発化している。CSCEは、NATO及びワルシャワ条約機構加盟国及び欧州の非同盟中立諸国(全35か国)から構成されている。75年にヘルシンキ最終文書((あ)欧州の安全保障、(い)経済・科学技術・環境の分野での協力、(う)人道その他の分野での協力等につき規定)を採択して以来、欧州における東西対話の重要な枠組みとなっている。

 ヘルシンキ最終文書の実施を促進するために、フォローアップ会議が継続的に開催されてきているが、その第3回会議であるウィーン・フォローアップ会議は、86年11月から開催され、89年1月、軍縮、人権、経済協力、環境等広い分野にわたって東西間の合意を達成し、2年以上に及んだ会議を終えた。今回の会議の成果として、欧州通常戦力交渉(CFE)及び信頼・安全醸成措置交渉(CSBM)の開始(第2章第1節4.軍備管理・軍縮の項参照)並びに、人権分野における実質的進展が特に重要である。

 人権分野については、同分野での約束を履行するメカニズム(注)について新たに合意された。また、次回フォローアップ会議(92年)までの間に3回にわたって人権会議を開催することが決定され、第1回目の人権会議が89年5月、パリで開催された(第2回は90年コペンハーゲン、第3回は91年モスクワ)。

(3) NATOにおける西側の結束の維持

 西側の安全保障政策、対東側政策の協議の場として、NATOの役割は重要である。

 IMF全廃条約発効、欧州通常戦力交渉及び信頼・安全醸成措置交渉の開始等に加え、ソ連の平和攻勢を受けて、軍縮ムードが高まりを見せている中で、NATOとして、かねてより東西関係、安全保障、軍備管理・軍縮問題に関して、如何に今後の基本方針を構築するかが懸案となっていた。

 89年5月に開催されたNATOサミットは、「宣言」を採択し、NATO創設40周年にあたって、この40年の自由と平和をNATOの成功と表現し、東側の抑圧的体制に対する西側体制の優位を(うた)った。また、ソ連・東欧の改革を評価しその推進を要求しつつ、改革が持続すれば東西関係の発展を促すことになると指摘した。

 他方、軍備管理・軍縮については、NATO内部で検討が続けられてきた「軍備管理・軍縮の包括的概念」が、NATOサミットで採択された。同文書は、NATOの安全保障、軍備管理政策の指針を示している。安全保障政策については、自由の下での平和を政治的手段及び十分な防衛力によって維持することを目的とするとした上で、防衛力については、見通しうる将来、適切な核戦力と通常戦力の組合せにより抑止戦略を維持していく必要があるとしている。軍備管理政策については、安全保障の強化を目的としてより低い水準での軍事バランスを追求することとしている。

 今回のNATOサミットを前にして、短距離核戦力(SNF)問題につきNATO諸国間で意見の対立があり、合意点を見出し得るか懸念された。サミット開始まで「SNF削減交渉反対、SNF近代化推進」を主張する米・英と、「SNF交渉の早期開始、近代化先送り」を主張する西独が意見の食い違いを見せていたが、ブッシュ米大統領が通常戦力交渉に関する提案(第2章第1節4.軍備管理・軍縮の項参照)を行ったこと等が弾みとなって、最終段階で妥協(注)が成立し、NATOの結束を維持することができた。

 米欧間のバードン・シェアリング(負担の分かち合い)をめぐって、NATO内部で調整を図るべく作業が進められてきたが、88年12月の防衛計画委員会において、「同盟の集団安全保障の強化-同盟の役割、危険及び責任の分担」と題する報告書を採択し、その中で、同盟への貢献は、単なる国防費等経済負担だけでなく、訓練・駐留のための場所・施設等の提供及び演習・訓練に伴う社会的コストも勘案すべきである、とした上で、各国の貢献度の総合的評価を行っている。

 

2. 「一つの声」で話す西欧

 

(1) 着実に前進するEC市場統合

 87年7月に発効した「単一欧州議定書」は、92年末までに財、人、サービス、資本の自由な移動を確保して域内に国境のない領域を完成するとの目標を示し、また、意思決定の方法として、従来の全会一致制に代わり、多くの事項について特定多数決を採用することによって政策決定を迅速化しようとするなど、画期的なものであり、現在同議定書に沿ってEC市場統合の実現が進められている。

 EC市場統合の完成は、3億2,000万人の巨大な単一市場の登場を意味し、EC委員会の調査報告によれば、各種規制の撤廃及び統合による域内市場の一体化、合理化、競争の促進等による経済効果は大きく、ECの成長率は4.5%上昇するものと見込まれる。

 統合の現状を概観すると、農業、漁業、通商政策の分野では、構成国の権限がECに移行され統合がほぼ完了しているが、他の分野では様々な問題が依然として存在する。85年6月にEC委員会により策定された「域内市場統合白書」は、92年末の市場統合完成を目指して、(あ)物理的障害の除去(税関手続き廃止、動植物検疫の統一化、出入国管理の廃止等)、(い)技術的障害の除去(基準・認証の統一、資格・免状の相互認証、銀行業規制の共通化、資本取引きの自由化等)、さらに、(う)財政的障害の除去(付加価値税率の調和等)と3分野にわたり、299の項目(その後整理され、現在は全部で279項目)につき域内障壁を除去するとの目標を設定した。89年5月31日現在、上記項目のうち80%以上につきEC委提案が出され、約半分が理事会で採択されている。

 統合作業のうち残された分野が税制、国境規制、金融等各国の国家主権の根本に係わる問題であるため、これまでより作業の速度は若干遅くなると思われるが、88年6月のハノーヴアー欧州理事会で各国首脳の間で確認されたように、域内市場統合は既に後戻りできない段階まで進んでおり、個別問題をめぐり意見の相違は生じるとしても、統合に向けての基本的流れが変わることはないと思われる。

 さらに、市場統合の延長には、経済・通貨統合という目標があるわけであるが、特に対立が大きいとされた通貨統合の問題についても、ドロール委員長の下に委員会が設置され、89年4月に今後通貨統合に至るまでの過程を3段階に分けて示す最終報告書を採択したが、89年6月のマドリッド欧州理事会においては、第1段階(中核は全EC加盟国の欧州通貨制度(EMS)への加盟)を90年7月1日から開始すること等、通貨統合実現にむけての手順について合意された。

 

 

             

ECの統合の歩み

 

1952年:  欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の成立。

1957年:  ローマ条約(欧州共同体設立条約)採択。

1958年:  欧州原子力共同体(EURATOM)の成立。

      欧州経済共同体(EEC)の成立。

(原6加盟国:仏、西独、伊、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ)

1967年:  上記3共同体の各機関を統合、欧州共同体(EC)と呼称。

1973年:  英国、デンマーク、アイルランド加盟(EC 9か国に)。

1981年:  ギリシャ加盟(EC 10か国に)。

1985年:  域内市場統合白書策定。

1986年:  スペイン、ポルトガル加盟(EC 12か国に)。

1987年7月: 「単一欧州議定書」発効(ローマ条約を実質的に改正)
1988年2月: 臨時欧州理事会(通称ECサミット)にてECの財政・農業改革に合意。
   6月: ハノーヴァー欧州理事会(市場統合は後戻りできない段階まで進みつつあることを首脳レベルで確認)
   12月: ロードス島欧州理事会(市場統合中間報告書を採択)
1989年6月: マドリッド欧州理事会

 

(2) 具体化する欧州政治協力

 西欧は、伝統的に世界政治に対する影響力を有してきたが、EC諸国が市場統合を推進し、経済的重要性をさらに増大させるとともに、政治面でも共同歩調をとることにより、国際政治における発言力を一層高めつつある。具体的には、単一欧州議定書において成文化された欧州政治協力(EPC)の枠組みの中で、東西関係、中東問題、中南米問題等の主要な外交問題について12か国声明を発出する等の行動をとっている。

 最近の例では、89年初めECトロイカ外相(注)による中東諸国歴訪外交(2月11日~13日、ジョルダン、エジプト、シリア訪問)、『悪魔の詩』問題に関する共同声明(2月20日、在テヘラン大使の本国召還及びハイレベル交流の中止)、マドリッド欧州理事会(6月26日~27日)における中国に関する宣言が挙げられる。EC12か国は、共通の政策と立場を明らかにし、ますます「一つの声」で発言力を高めていくことが予想される。

(3) 欧州自由貿易連合(EFTA)諸国の動き

 スイス、オーストリア、スウェーデン、フィンランド、ノールウェー、アイスランドから構成されるEFTAは、従来よりEC諸国とは密接な経済的、文化的、社会的つながりを有するものの、ECの外にあって独自の政治、経済政策をとってきた。しかし、EC市場統合が急速に進展するにつれて、新たな対応を迫られるに至った。

 EC・EFTA間において相互経済協力が促進され、84年のルクセンブルグ宣言により、将来的にはEC・EFTA全加盟国を包含する欧州経済領域(EES)の設立により、財、人、サービス、資本等の自由な交流を目指すことが合意された。それ以降引き続き、基準・認証、原産地規則、研究・開発等さまざまな分野での協議・協力が進展しつつある。

 最近、EFTA加盟国の一部には、EC市場に全面的に参加するため、ECに加盟しようとの動きが出ている。オーストリアは89年7月に加盟申請し、ノールウェー、スウェーデンにおいても、産業界等を中心に、加盟論が出てきている。しかしながら、中立主義をとっている一部EFTA諸国が、最終的には政治統合をも目指すECに加盟することについては、両者の整合性の確保等について、なお解決すべき多くの問題を残している模様である。

 

2. 西欧主要国の動向

 

(1) 英  国

 サッチャー政権は89年5月4日で満10年が経過した。同首相は、87年6月の総選挙で野党に大差で3選を果たしたことから国内運営に自信を示し、88年には抜本的減税を実施した。89年初頭には保健・医療制度並びに司法制度の改革についての具体案を発表した。他方、労働党は、政策見直しを行い、核兵器の一方的廃棄政策の放棄等現実路線を打ち出しており、89年3月以降に支持率が逆転しつつある。89年6月の欧州議会選挙では、労働党(45)、保守党(32)と議席数が逆転した。

 経済は、82年以来拡大傾向を維持し、88年のGDP成長率は4.5%、失業率も34か月連続して減少し、89年5月では6.4%となった。財政収支も87年に18年振りに黒字に転換、88年には140億ポンドの黒字を計上した。一方、景気の過熱で輸入が急増し経常収支の赤字が増大した。また、インフレ傾向が進んでおり、89年4月の消費者物価は前年比8%上昇した。政府はインフレ抑制策とポンド維持策として高金利政策を堅持し、89年6月では基準貸出金利は14%の高水準にあり、保守党に対する支持率低下の主因となっている。当面、好況を維持しつつインフレを抑制するという困難な経済運営を余儀なくされている。

(2) フランス

 88年4~5月の大統領選挙後6月に行われた総選挙では、社会党は単独過半数獲得に失敗したが、ロカール社会党内閣は、共産党あるいは中道諸派の支持または棄権を取り付けつつ巧みな議会運営を行い、内政は比較的平穏に推移しており、88年から89年前半にかけて行われた各種国内選挙においても与党社会党の相対的優位の傾向に変化はない。

 ロカール内閣は、ニュー・カレドニア問題に関して、88年6月マティニョン合意を達成して現地情勢の沈静化に成功し、また、9月に発生した公共部門のストライキが民間部門に波及する前に収拾する等、おおむね順調な滑り出しを見せている。また、富裕税の導入等、社会主義的政策を実施する一方で、企業の活性化による産業・経済の構造調整を行うことを重視し、政府の直接介入を避けるとともに、減税による企業負担の軽減を図る等の現実的政策を推進している。

 国内経済は好調を維持したものの依然として高い失業率、貿易赤字等が課題となっている。

 対外関係では、欧州統合への前向きな取組み、西独との関係強化、米ソ及び第三世界との対話の促進が図られた。加えて、89年がフランス革命200周年に当たり、フランスがサミット議長国であることを機に、人権あるいは人道的観点からの外交を積極的に展開している。

(3) ドイツ連邦共和国(西独)

 与党のキリスト教民主同盟は、87年連邦議会選挙勝利以降、州議会等地方レベルの選挙で後退傾向が継続しており、89年4月コール首相は体制を立て直すべく内閣改造を行うとともに、不人気な政策を一部手直しした(利子源泉課税の廃止、徴兵期間延長の先送り)。同年6月の欧州議会選挙で与党キリスト教民主・社会同盟は、かろうじて第一党の座は確保したものの大幅に得票を減らし、右翼政党が進出した。

 経済は88年、堅調な個人消費、投資並びに輸出の拡大により、80年代最高の経済成長率3.4%を達成し好調であった。89年にはいっても順調な拡大傾向は継続しており、第1四半期の経済成長率は4.2%を達成している。雇用情勢は依然厳しいものの、89年5月には失業率7.6%、失業者数195万人と82年10月以来初めて失業者数が200万人を下回った。西独政府は伝統的にインフレ警戒心が強いが、89年4月の消費者物価上昇率は前年同月比で3.0%に達しており、インフレを懸念する声もある。西独の88年の貿易黒字は1,280億マルクと史上最高を記録したが、貿易黒字の3分の2はEC域内に対するものであり、対米黒字は減少傾向にある。

(4) イタリア

 88年4月に成立したデミータ内閣は、内政改革、財政改革等の重要課題に積極的な取組みを見せたが、次第にこれらの課題について、連立与党間の対立が顕在化し、89年4月には医療費の個人負担増加等をめぐりキリスト教民主党と社会党の対立が先鋭化した。5月、クラクシ社会党書記長がデミータ首相を批判したことを直接の契機として、デミータ首相は大統領に辞表を提出した。大統領は事態収拾のため政界関係者との協議を行い、調整の結果、7月23日アンドレオッティ内閣が成立した。

 84年以降順調な成長を続けているイタリア経済は、88年には80年代最高の3.9%の成長率を記録するなど良好な実績を示した。内需の好調等により、88年後半以降物価の再上昇の傾向が見られるものの、88年の消費者物価上昇率は5.0%の水準(87年は4.6%)にとどまっている。88年貿易収支は12兆8,750億リラの赤字で、89年にはいり赤字幅拡大の傾向が見られる。88年失業率は12.0%、特に、若年層、女性、南イタリアの失業率が高い。

 

3. わが国との関係

 

(1) 日米欧三極間の協調と日欧関係

 西欧諸国は、わが国及び米国と共に、自由、民主主義及び市場経済という基本的価値観及び制度を共有している。東西関係や国際経済問題を始めとして大きな動きが見られる国際社会の中で、わが国が今後一層の国際的役割を果たしていくためには、日米欧三極間の協調が極めて重要である。日米間の結束を維持しつつ、日米関係、米欧関係に比べるとまだまだ希薄な日欧関係の強化を図ることは、バランスのとれた三極協調体制を発展させるためにも不可欠である。このような認識の下に、わが国政府は、西欧諸国との協調は日本外交の重要な柱であり、政治、経済、文化等あらゆる面において日欧関係を発展させるべく努力している。また近年では、西欧諸国においても、わが国に対する関心が高まりつつあり、かかる状況を背景に、日欧協力関係は従来にも増して進展している。

(2) 日欧経済関係の進展

 87年よりわが国の対EC輸入の伸びが輸出の伸びより高くなっており、この傾向は88年には一層強まり、同年は不均衡の前年比がわずかながら減少した。

 また、近年、日・EC間の産業協力が活発になってきており、特にわが国の対EC直接投資は大幅に増加している。また、EC各国もわが国からの投資誘致に熱心である。

 個別問題に目を転じても、ガットパネルの結論を踏まえ、級別制度、従価税の廃止等を内容とする酒税法改正が89年4月より施行されたことにより、長年の懸案であった酒税問題が一応の解決を見たほか、自動車関連税問題も同年4月の自動車に対する物品税の廃止、及び自動車税の改正により解決をみる等、日・EC関係が改善をみる方向に進んでいるといえる。他方、EC各国(英国を除く)が131品目にわたり維持してきた対日差別数量制限は、わが国にとっては日・EC間の長年の懸案であるが、88年9月より開始されたECとの非公式協議により、EC側から40にものぼる品目につき即時撤廃するとの提案を得、解決へ向けて一歩前進した。

 

日本とECの貿易、投資関係

(1)日本とECの貿易 (単位:10億円)

( ):対前年(同期)比増減率(%)

(注)1. 86年の対前年同期比は、85年のEC10か国とスペイン、ポルトガルの合計に対する比率。

2. 89年1-7月分は速報値。

(出所) 大蔵省統計

 

(2)わが国のEC12か国に対する直接投資

(出所) 大蔵省統計

 

 一方、92年のEC市場統合に関しては、わが国として世界経済の発展に寄与するものとして歓迎する半面、92年を控えて、ECが保護主義的方向に傾くことがないよう希望している。具体的には、例えばECが域内で現地生産しているわが国の進出企業に対して賦課している部品に対するアンチ・ダンピング税に関しては、わが国としてガットのルール上問題の多い制度であると考えており、ガットの場で問題を提起した。また、国際的ルールの確立していない現状で一方的に新たな原産地規則を制定していく最近のEC委員会の動きは、企業にとり予見可能性を欠き、貿易、投資に対して制限的な効果を有するとして懸念を表明している。

 88年7月には、東京で日・ECハイレベル協議が行われ、さまざまな分野で日・EC関係を今後とも発展させるための意見交換が行われた。その後、ナルエスEC副委員長(88年11月)、大喪の礼参列のためアンドリーセン副委員長(89年2月)、バンゲマン副委員長(89年5月)が来日する等、わが国の官民そろってのECの市場統合に対する関心の高まりも背景にあり、EC委員会との交流が活発化している。

 

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(注)  各国は、他国の情報要請に対し回答する。人権問題が生じれば、その解決のための二国間会議を開催し、更にこれらに関連する情報を人権会議及び次回のフォローアップ会議に提供する。
(注)  妥協の内容は、「軍備管理・軍縮の包括的概念」によると、(あ)ウィーンにおける通常戦力交渉で合意が成立し、それに基づく削減が実施されることを条件に、SNFの部分的な削減を達成するための交渉を開始する用意がある、(い)SNF削減は通常戦力削減が完了した後に着手する、(う)SNF近代化については92年に決定する、(え)米国のSNF「ランス・ミサイル」の後継システムの研究・開発は米国自身の決定ではあるが、NATO加盟国はその価値を認める等となっている。この内容は、条件付きながら、近代化決定先送り、SNF交渉開始という西独の主張を受け入れつつ、米国の研究・開発について認め、さらにSNF交渉につき条件を付してその全廃を目指さないとする点は米・英の主張を受け入れたものであり、米英・西独双方の妥協の形となっている。
(注)  半年毎に回り持ちの議長国、前議長国、及び次期議長国の外相。当時は各々スペイン、ギリシャ、フランスの3国外相。