第2節 アジア・大洋州地域

 

1, 内外情勢全般

 

(1) 総  論

 アジア・太洋州地域情勢は、最近の中国での民主化運動の抑圧に見られるような種々の不安定要因は内包しつつも、中ソ関係正常化、カンボディア問題の解決へ向けての話合いの進展等、全体としては平和と安定化の方向で推移してきた。

 朝鮮半島においては、南北対()という基本的な状況には未だ変化は見られないが、ソウル・オリンピックの成功を契機とした韓国の国際的地位向上や民主化を背景に、韓国と中国、ソ連、東欧諸国との関係改善をや南北対話の再開といった新しい動きが出てきている。

 中国では、89年5月の中ソ首脳会談を通じてほぼ30年振りに中ソ関係の正常化が実現された。

 インドシナ半島においては、カンボディア問題の政治的解決へ向けて関係者間及び関係国間での話合いが進展してきた。

 南西アジア地域では、従来より主要な緊張要因であったインド・パキスタン関係に、首脳間の話合いを通じて改善の兆しが見られる。また、アフガニスタンからのソ連軍の撤退は、同国内の安定の確保という新たな課題を残しつつも、基本的には南西アジア地域の安定化に資するものである。

 アジアNIEsの経済発展は、アジア・太洋州地域のみならず、世界経済の活性化に貢献している。ASEAN諸国は、域内協調と連帯を進め、着実な経済発展を続けている。

 大洋州地域においては、オーストラリア、ニュー・ジーランドは、自国経済の活性化に努めるとともにアジア諸国との関係強化に努力している。また、太平洋島嶼国については、域内協力が積極的に推進されている。

 なお、アジア・大洋州地域においては、域内諸国間の相互依存関係の進展に伴い、閣僚レベル会議の開催を含む政府間協力の必要性に対する認識が高まってきており、89年7月に開催されたASEAN拡大外相会議の場においても、アジア・太平洋協力に関する意見交換が行われた。

(2) 中国の民主化運動と当局による武力鎮圧

(イ) 概   観

 89年4月から6月にかけて、胡耀邦元総書記の死去を直接の契機に起きた民主化を要求する学生運動は、市民の広範な支持を得て、学生のハンガー・ストライキを支援する100万人規模のデモが何回も行われるなど、大きな盛り上がりを見せたが、結局、当局による武力制圧という結末を招いた。

(ロ) 情勢の推移

(a) 中国の民主化運動

 トウ小平中央軍事委員会主席が実権を握った78年末以降、民主化を求める動きはこれまで2回あった。第1回目は、市民が自分の意見を表明した壁新聞を、北京の町の「民主の壁」といわれるようになった一角に貼る動きで、78年末より約1年間続いた後、79年末禁止され、終息した。

 第2回目は86年末、安徽省合肥市にある中国科学技術大学の学生が、地方の人民代表選挙において規定に沿った民主的方法の実施を要求して起こった運動が、民主・自由を要求する全国的規模の学生運動に拡大し、ついには87年1月、胡耀邦総書記(当時)の辞任を招来したものである。

 今回の動きは、10年来の改革・開放政策による中国の人々の意識の変化、近代化政策による社会的、経済的ひずみの拡大、更にはソ連その他の社会主義諸国における政治改革の進展の影響等により、広範な市民や幹部、知識人をも巻き込んだ運動となった点で、広がりと深さにおいて前2回に比べ大きく異なる。

(b) 学生の要求

 89年4月15日の胡耀邦元総書記の死去直後の学生の要求は、(あ)胡耀邦氏の業績の再評価、(い)汚職、腐敗反対、(う)知識分子の待遇改善、(え)報道の自由等、広範囲にわたるものであった。しかしながら、4月26日の人民日報社説が学生運動を「動乱」と見なしたことから、学生の不満を引き起こし、以来、同社説を撤回し、学生の運動を民主愛国運動と認めさせることが学生側の要求の一つとなった。しかし、当局側はこの点について最後まで譲らなかった。

 他の要求は、決定権を持つ指導者との対話の実施であり、戒厳令施行直前の5月18日に行われた対話には、李鵬総理が出席したが物別れに終わった。

(c) 事態の進展

 1か月半余りにわたった学生運動は、4月15日より5月4日の「五四運動」70周年記念日までの前段階と、ゴルバチョフ・ソ連党書記長訪中の2日前の5月13日に始まったハンガー・ストライキから5月20日の戒厳令施行を経て、6月4日の武力行使へと続く後段階に分けられる。前段階においては、学生、当局側双方の抑制的態度が顕著であり、5月4日趙紫陽総書記(当時)の学生の要求に一定の評価を与えた発言により運動は終息に向かうかの印象すら与えた。

 しかし、5月15日からのゴルバチョフ訪中によって世界の耳目が北京に集まる時期に天安門前広場で始められたハンガー・ストライキは、その非暴力の方法がインフレや腐敗等の現状に不満を持つ市民の幅広い支持を得て、100万人規模のデモが数回行われ、17、18日こは政府機関、党機関、軍機関の一部職員も参加した。そのスローガンにも、最高指導者個人を批判する先鋭的なものが出現した。

 こうした事態の下、5月20日北京市の中心部に戒厳令が敷かれ、6月3日夜半から4日未明にかけて戒厳軍は天安門前の学生、市民を排除するために武力を行使し、その結果多くの死傷者が出た。このことは諸外国に大きな衝撃を与え、中国の対外イメージは大きく低下した。当局側は当初の学生運動が、「動乱」を経て「反革命暴乱」に変化したとの認識に基づき、武力行使が行われたとしている。

 トウ小平主席は6月9日、ゴルバチョフとの会見以来24日振りに公開の場に登場し、戒厳軍幹部と会見した。そこでトウ小平主席は重要講話を行い、今次一連の動きを「党と社会主義制度を覆し、中華人民共和国を転覆させ、ブルジョア共和国を樹立させようとするもの」と厳しく批判するとともに、その原因はここ何年かの「ブルジョア自由化思想の(はん)濫」にあるとした。同講話は、以後「全党の思想を統一する綱領的文書」とされ、各職場での学習が開始されることとなった。また、学生運動指導者及び労働者のリーダー等の摘発が進められた。

(d) 党第13期4中全会

 6月19日より21日まで開催された政治局拡大会議に続き、同23、24日の両日、党第13期中央委員会第4回全体会議が開かれ、趙紫陽総書記は「動乱を支持し、党を分裂させる誤りを犯した」として全職務を解任され、後任の総書記には江沢民政治局委員が就任した。11期3中全会路線及び13回党大会が確定した「1つの中心、2つの基本点」(経済建設を中心とし、4つの基本原則、改革・開放の堅持)の基本路線堅持を表明した。

(ハ) 各国の対応(わが国の対応は後述)

 6月4日の武力行使により多くの人命が失われたことに対し、米国、西欧各国を中心に人権重視の見地から、軍事協力の停止、政府高官の交流停止の措置を決める等、厳しい対応を示した。また、7月のアルシュ・サミットは中国に関する宣言を発表し、人権を無視した激しい抑圧を非難し、かかる行為の中止を強く促すとともに、中国が改革・開放に向けての動きを再開することにより、孤立化を避け可能な限り早期に協力関係への復帰をもたらす条件を創り出すようにとの期待を表明した。

(3) カンボディア問題

(イ) 概   観

 78年12月のヴィエトナムの軍事介入を発端とするカンボディア問題は、シハヌーク派、ソン・サン派、クメール・ルージュの抗越3派からなる民主カンボディア連合政府と、ヴィエトナムが支援する「ヘン・サムリン政権」とが対()し、長きにわたり政治的・軍事的に膠着状態が続いていた。しかし88年からカンボディア当事者やASEAN諸国を始めとする関係国の動きが活発となり、特に89年初めから和平をめぐる事態は新たな進展を示している。カンボディア問題は、越軍の駐留継続、難民問題の長期化、インドシナにおけるソ連のプレゼンス増大等により、タイを中心とするASEAN諸国にとって安全保障上最大の問題であったが、今後の和平プロセスの進展如何によっては、10年以上も継続してきた、この深刻な地域紛争にも終止符が打たれる可能性が出てきた。

(ロ) 情勢の推移

(a) 87年12月及び88年1月の2度にわたり行われたシハヌーク殿下とフン・セン(「ヘン・サムリン政権」首相)との間の会談に引き続き、88年7月にはインドネシアのイニシアティブで第1回ジャカルタ非公式会合(JIM)が開催され、11月には第3回目のシハヌーク=フン・セン会議が行われたが、カンボディア国内の総選挙実施のための政治体制のあり方、及び越軍撤退に伴う国際監視問題を中心に、双方の主張は平行線をたどった。

(b) 89年に入り、タイのシティ外相の訪越、中越外務次官会談の実現、タイのチャチャイ首相によるフン・セン「ヘン・サムリン政権」首相訪タイ招待、中ソ間の対話等、カンボディア和平に重大な影響力を持つ国々の動きが活発化した。さらに、同年2月には第2回ジャカルタ非公式会合も開催された。こうした中で、ヴィエトナムは同年4月5日、ラオス、「ヘン・サムリン政権」とともにインドシナ3国共同宣言を発表し、89年9月末までにヴィエトナム軍をカンボディア領内から撤退させると発表した。

(c) 89年5月2~4日シハヌーク殿下とフン・セン「ヘン・サムリン政権」首相はジャカルタにおいて第4回目の会談を行った。この会談では、双方が将来のカンボディアの暫定的政治体制のあり方について従来に比べ柔軟な姿勢を見せ、一定の歩み寄りを示した。また9月の越軍全面撤退を前に、カンボディア和平に関する国際会議を開催することで合意(7月末パリで開催)し、これに先立ってカンボディア各派間の協議を行うこととした。

(ハ) カンボディア問題の急展開の背景

 過去10年以上にわたり(こう)着状態にあったカンボディア問題が89年にはいり、かくも急速な展開を見せるようになった背景としては、まず、88年以降、世界に対話路線が定着する中でソ連軍のアフガニスタン撤退等、地域紛争の解決の機運も高まり、中ソ関係は30年振りの中ソ首脳会談の実現(89年5月)に示されるように急速に改善した。このようなグローバルな緊張緩和の流れがインドシナの和平にも少なからぬ影響を与えている。

 第二に、ヴィエトナムが、国内経済の不振や国際的孤立を脱して西側諸国との協力を強化したいとの考えから、政治解決に前向きの姿勢を示してきたことが挙げられる。

(ニ) わが国の立場

(a) このように、カンボディア和平達成の機運は最近とみに高まっているが、越軍撤退をどのように検証するか、撤退後のカンボディア国内の政治体制をどのようなものとするか、自由・公正な総選挙をどのように実施するか等については依然未解決であり、今後パリでの国際会議を中心とする和平プロセスにおける重要な課題となっている。

(b) わが国は、カンボディア問題を最も身近なアジアにおける地域紛争としてとらえ、その重要性を認識し、従来よりASEANの和平努力を支援するとともに、ヴィエトナムに対しても問題解決への貢献を呼びかけてきた。また、わが国は和平過程自体への協力及び和平達成後のインドシナ復興への協力の意向を累次表明してきている。

(c) 東南アジアの持続的平和とカンボディアの真の安定のためには、(あ)国際監視の下の越軍の完全撤退、及び過去にポル・ポット政権が行った非人道的政策の再来阻止、(い)民族自決に基づく公正・自由な選挙を実施しうる体制の確立、(う)真に効果的な国際監視メカニズムの導入、及び(え)上記のすべてを含む包括的政治解決の達成が不可欠であるとの考えを、89年4月竹下総理大臣のASEAN諸国訪問や7月のASEAN拡大外相会議の場で明らかにしてきた。

(4) アジア・太平洋協力の進展

 アジア・大洋州地域は、多様性に富み、包括的にとらえることは困難であるが、全体として見れば、わが国を含む先進諸国の内需主導型の安定成長、アジアNIEsの輸出の躍進、ASEAN諸国の協調と着実な発展等の要因により、今や世界で最も活力があり、輝かしい経済発展を遂げつつある。

 アジア・大洋州地域は、21世紀に向けてますます大きな役割を果たすことが期待されており、最近、各方面からアジア・太平洋諸国間の協力をより一層緊密なものにするための諸提案が出され、真剣な話合いが行われている(第2章第1節2.アジア・太平洋情勢の項参照)。

(5) アジアNIEsの動向

 近年のアジアNIEsの経済的躍進は、東アジアのみならず世界経済の活性化に大きく貢献している。他方、輸出主導型の経済発展を遂げてきたアジアNIEsの輸出環境は悪化しつつある。すなわち、自国通貨の為替レートの上昇、賃金コストの上昇等の要因による輸出競争力の低下、及び米国が89年1月からアジアNIEsに対する特恵関税供与を停止する等により、アジアNIEsの88年の経済成長率は前年に比べやや鈍化した。

 このような状況を克服するため、アジアNIEsは輸出市場の多様化に努めており、従来の米国中心から、日本、NIEs域内、ASEAN等向け輸出の増大に努めるほか、中国を始めとする社会主義諸国との経済交流にも積極姿勢を示し始めている。また、国内産業構造の高度化、内需主導型経済への移行等に努める一方、ASEAN諸国等への投資を増やし生産拠点のシフトを進めるなど、アジア地域における国際的水平分業の促進にも貢献している。

 

2. 主要国・地域情勢

 

(1) 朝鮮半島

(イ) 概   観

 米ソ関係を始めとする東西関係における対話の定着や、ソ連を始めとする社会主義諸国の変化等の新しい国際情勢、韓国の国力の飛躍的向上と民主化を背景に、朝鮮半島においても、88年7月の盧泰愚(ノテウ)大統領の「7・7」宣言以降、南北対話や韓国と社会主義諸国との関係改善といった緊張緩和に向けての動きが見られた。他方、軍事休戦ラインを境に南北間で厳しい政治・軍事的対峙が続いているとの基本的構造には変化はない。特に89年に入り、北朝鮮の韓国在野勢力への働きかけ、これに伴う韓国世論の硬化により南北対話は停滞している。中国情勢も微妙な影響を与えるとみられ、引き続き朝鮮半島情勢は東アジア・太平洋地域の中での焦点の一つである。

(ロ) 韓国政情

 盧泰愚大統領は、「寛容と忍耐」の姿勢で国内の民主化を着実に推進してきている。少数与党の国会においては、野党がより責任ある自制した態度をとってきていることもあり、基本的には「対話と妥協」による政治が定着している。

 88年9~10月のソウル・オリンピック期間中には、同大会の成功に向け、安定を最優先させて、与野党間で政治休戦が合意されたほか、オリンピック終了後、最大の政治懸案であった中間評価についても与野党各々の思惑により、89年3月、事実上無期延期されるに至った。また、主要懸案である第5共和国時代(全斗煥(チョンドウホワン)政権時代)の不正問題と光州事件問題については、国会等の場で積極的な議論が行われたのを始め、全前大統領の実兄を含む関係者の逮捕、全前大統領の謝罪表明(88年11月)等、種々の措置がとられてきた。その後も与野党間の駆け引きが続いており、全前大統領の国会証言等が議論されているが、民主的ルールの中で処理することでおおむねコンセンサスが得られていることもあり、政情不安をもたらすような事態は回避されてきた。

 他方、民主化の過程で、一部国民の要求拡大と過激化に伴い、韓国社会に一見不安定な側面が出た。学生運動の過激化・暴力化、一部学生による北朝鮮の主張の公然たる支持、急進的な主張を行う在野団体の発足などに対しては、一般国民の大半は反発しているとみられる。

 特に韓国経済に大きな影響を与えたのは労使紛争である。89年にはいり、現代重工業や馬山、昌原地域の労働争議に数万人前後の労働者が参加したといわれ、全国的な労使紛争の多発により、生産活動や輸出等も影響を受け、その結果、ウォン高とも相まって89年1~3月の成長率(年率)は5.7%に低下(86~89年は12%台)し、貿易黒字幅も縮小しつつある。

 韓国政府は、ある程度の摩擦・混乱は民主化過程での避け得ない現象と見ていたようであるが、国民世論の安定化への指向を背景に、反政府指導者の(ムン)牧師訪朝事件(89年3月)、釜山東義大学事件(過激派学生による警官6名の焼死)(同4月)を契機として「左翼暴力革命勢力」の取締りを強化している。さらに、6月にはいって、徐敬元(ソギョンウォン)議員(平民党)の秘密訪朝(88年8月)の発覚、女子大生の世界青年学生祭典(平壌)への参加などによって、7・7宣言による対北宥和姿勢や治安当局の能力に対する批判が高まった。そのような情勢を背景に、国民一般及び野党の間にも、対北朝鮮警戒心が高まるとともに、韓国政治においては全般的に保守回帰の傾向が強まりつつあり、南北対話に微妙な影響を投げかけている。

(ハ) 韓国と社会主義諸国との関係改善

 韓国政府は、国内的に民主化推進に努める一方、目覚ましい経済発展やソウル・オリンピックの成功に象徴される国際的地位の向上を背景に、いわゆる「北方外交」として、社会主義諸国との関係改善に積極的に乗り出した。オリンピックには中ソを始め大多数の社会主義諸国が参加したほか、89年2月には社会主義国との間で初めてハンガリーとの国交樹立がなされた。中国は、北朝鮮の立場に配慮し、韓国との関係を、経済分野に限定し「政経分離」の立場を明確にしているが、韓中貿易は往復30億ドル以上(88年)にものぼっている。今般の中国情勢が両国関係にいかなる影響を与えるかについては速断できないが、韓国政府は中国情勢の行方を慎重に見極めつつ対中関係を進めていくとの方針をとっている模様である。ソ連は、88年9月のクラスノヤルスク演説において初めて公式に韓国に言及して以来、対韓関係改善姿勢を明確にしてきており、貿易事務所の相互設置(89年4月ソウル、同7月モスクワ)を始めとする経済交流等の非政治分野での交流拡大にとどまらず、金泳三(キムヨンサム)民主党総裁の招待(89年6月)など、政治分野でも一定の関係改善を進めている。89年7月現在、このほか、ポーランド、ユーゴー、ブルガリアとの間でも貿易事務所が相互設置されるなど、東欧諸国との関係改善は着実に進んでおり、近い将来、更にポーランド、ユーゴーとの国交が樹立されるとの観測もある。

 なお、韓国と自由主義諸国との関係は、貿易摩擦はあるものの、韓国の経済発展や民主化を背景に一層進展している。米韓関係については、在韓米軍撤退を主張する過激派学生の動きに加え、農産物等の自由化を強く迫る米国への一部農民等の反発により、反米感情の台頭が注目されているが、韓国国民全般の対米感情は基本的に従来同様良好と考えられる。また、米議会の一部において在韓米軍一部縮小の論議がなされているが、米国政府は89年2月のブッシュ大統領の訪韓時や7月の米韓安保協議会でも対韓コミットメントを確認しており、また、韓国側も野党を含め米軍の縮小ないし撤退に対しては慎重な態度をとっているので、現下の情勢では在韓米軍は現状のまま維持されることとなろう。

(ニ) 南北対話

 盧泰愚大統領の「7・7」宣言は、南北間の非生産的な競争対立を共に繁栄する民族共同体としての関係に発展させようとする考え方に基づき、北朝鮮との間のあらゆる分野における人的交流、交易等の推進を提案した画期的なものであった。これを契機に86年1月以降中断されていた南北対話が再開され、南北国会会談の予備会談は88年8月以降7回にわたって行われたほか、88年末より89年初頭にかけて南北高位当局者会談予備会談、南北体育会談が行われた。また88年10月の国連総会においては、史上初の韓国大統領演説及び北朝鮮外務次官の演説が行われた。

 これらの動きにより、朝鮮半島の安定と緊張緩和に対する期待が高められることとなった。

 しかしながら、89年2月にはいり、北朝鮮側は、毎年実施されている米韓合同演習「チーム・スピリット89」を非難し、南北対話の延期を通告したのを始め、さらに(ムン)牧師の訪朝(3月)、徐敬元(ソギョンウォン)議員の秘密訪朝の発覚(6月)等、正規の南北対話には積極的に対応せずに、韓国内の在野の人物を一方的に平壌に招いたことに対し、韓国政府及び世論は反発し、北朝鮮に対する不信感、警戒感が強まることとなった。他方、北朝鮮側は、これらの訪朝した人物に対する韓国政府の処分(逮捕)に強く反発、文牧師らの逮捕者の釈放、国家保安法の撤廃等を要求しており、南北対話をめぐる雰囲気は悪化・緊張している。韓国側は、南北対話に臨む北朝鮮の基本戦略が韓国国内のゆさぶりである点は変わっていないとみて警戒の姿勢を強めており、今後南北対話の進展には相当の()余曲折が予想される。

(ホ) 北朝鮮情勢

 北朝鮮においては、金日成(キムイルソン)主席及び金正日(キムジョンイル)秘書父子の指導体制が堅持され、金正日秘書への政権移譲も着実に進んでいるものと見られる。

 経済面では、技術的立ち遅れ、生産設備の老朽化、過大な軍備負担などにより、種々の困難に直面している模様である。北朝鮮は、経済打開のための改革や西側諸国からの資本・技術の導入など、現指導体制を脅かしかねない開放政策には基本的に慎重な姿勢をとっていると思われる。今般の中国情勢は、北朝鮮の今後の動向に微妙な影響を与えることとなろう。

 当面北朝鮮の内外基本政策には大きな変化は見られないと思われるが、外交面においては、韓国がソウル・オリンピックの開催やその北方外交の推進により国際的立場の強化を図っていることに対応して、北朝鮮としては、国際的地位の向上を図るため、7月の平壌での世界青年学生祭典の開催に全力を尽くしたほか、西側諸国の一部に対しても関係改善を働きかけるなど、外交強化を図っている。伝統的に友好的関係にある中国・ソ連については、北朝鮮は、両国が韓国との関係改善を図ることにつき相当(けん)制している模様である。

(2) 中  国

(イ) 政   治

 89年4月から6月にかけて起きた学生による民主化要求運動は当局による武力制圧という結果を招き、さらには6月23日、24日の党第13期中央委員会第4回全体会議において改革・開放政策を担ってきた趙紫陽総書記が解任されるとの事態をもたらすこととなった。

 しかし、この10年来、改革・開放政策により経済建設を中心とする近代化を進めてきた中国にとって、改革・開放政策以外に選択の余地はなく、今後も紆余曲折をたどりながらも近代化へ向けて努力していくこととなろう。

(ロ) 経   済

 88年の中国経済は、GNPが前年比11.2%増(計画値は7.5%増)等過熱気味に推移し、特に供給を上回る大幅な需要の伸びにより、物価が急激に上昇した。このため、88年9月の第13期中国共産党第3回中央委員会全体会議において、インフレ抑制と経済環境の整備、経済秩序の整頓を内容とする今後2年間の調整方針が決定され、固定資産投資の抑制、集団購買力の圧縮、通貨流通の抑制、流通市場における不正行為の取締り強化等の具体的措置が講じられた。89年3月の第7期全国人民代表大会第2回会議でも、同方針遂行の不退転の決意が表明されたが、依然物価上昇の鎮静化の兆しはなく、経済調整が十分な効果を発揮しているとも言えない。さらに6月の学生運動に対する軍の武力鎮圧により、国際社会における中国の信用の低下をもたらし、今後、国内経済の低迷とあわせて、諸外国との貿易、投資、借款等にマイナスの影響が出てくることが予想される。

(ハ) 外   交

 89年5月中旬まで、中国は、米ソ間を始めとした国際情勢における対話路線の定着を背景に、中ソ関係正常化等を始め積極的な外交を展開した。その過程で「平和共存5原則」を基礎とする「国際政治新秩序」の樹立を提唱し、また対ASEAN外交4原則を発表した。

 88年12月、インドのガンジー首相が同国首相としては34年振りに訪中して友好関係回復を宣言し、89年1月キューバ外相、3月モンゴル外相がそれぞれ初めて訪中して関係改善を図り、更に対ヴィエトナム、対アルバニア関係も成果はともかく外務次官の訪中実現にまで進んだ。インドネシアとの関係も東京でのスハルト・銭其シン会談(89年2月)を契機に関係正常化のための協議が開始された。また韓国との間では間接貿易・人的往来など実務関係の漸進、サウディ・アラビア国王特使の訪中など、外交関係未樹立国との関係にも一定の進展が見られた。

 しかし、中国内政の急転回は対外関係に直ちにはね返り、西側諸国の中国非難の中で中国の対外姿勢は硬化し、とりわけ米中関係の冷却化が懸念される。中国側は従来の「独立自主外交路線」は変わらない旨強調する一方、外国からの外交的、経済的圧力には屈しないと述べて反発を強めた。

(ニ) 香   港

 「基本法」草案は89年2月から第2次意見聴取が進められており、また、英中合同連絡委員会における両国間の案件の処理も進展をみてきたが、6月の中国の事態を受けて会議の延期等の影響が出ている。

(3) 東南アジア地域

(イ) ASEAN(東南アジア諸国連合)

 ASEANは、87年12月に10年振りの首脳会議を開催し、88年はそのフォローアップに努めたが、目立った進展は見られなかった。

 政治面では、カンボディア問題の解決のためにジャカルタ非公式会合開催等でイニシアティブをとったものの、その他の問題では大きな進展は見られていない。経済面では、首脳会議で合意された域内特恵貿易制度、ASEAN工業合弁事業の改善等については、88年10月に開催されたASEAN経済閣僚会議でもあまり取り上げられず、ASEAN諸国間の調整の難しさを物語っている。

 89年7月、ブルネイで開催されたASEAN拡大外相会議では、とりわけ、カンボディア問題について、包括的な政治解決達成の必要性を強調する共同アピールを採択し、ASEANとしての共通の立場を確認した。また、対比多国間援助構想(MAI)についても声明を発表し、各国がMAIに有意義な貢献を行うよう要請した。さらに、韓国と分野を限定した対話関係を開始することが了承されたことは、ASEANの域外国との協力関係の強化を目指すものとして注目を要する。なお、新しいASEAN中央事務局長にルスリィ・ヌール・インドネシア外相顧問を選出した(7月16日就任、任期は3年)。

(ロ) ASEAN各国

(a) インドネシア

 88年のインドネシア内政は安定的に推移した(注1)。89年にはいり、大統領後継問題についての論議が活発化し、土地収用問題等をめぐり学生デモが行われるなどの動きも見られた。

 外交面においては、スハルト大統領が89年2月大喪の礼参列のため訪日した際、銭中国外交部長と会談し、インドネシア・中国国交正常化を進めることが合意された。また、インドネシアは同年2月に第2回ジャカルタ非公式会合を開催する等、引き続きカンボディア問題の解決のため尽力した。

 経済面では、非石油ガス製品の輸出振興を中心とする民間部門の活動を支援するため、規制緩和パッケージ(注2)が次々と発表された。89年5月には、投資に関するネガティブ業種リストが発表された。

 インドネシア政府は、石油への依存からの脱却を図る産業構造調整策、あるいは、前述の規制緩和措置といった経済政策をとるとともに、財政及び国際収支上の困難にもかかわらず、債務は繰り延べ等に訴えることなくきちんと返済していく旨言明している。これらは、わが国を始めとする対インドネシア援助国会議(IGGI)諸国等の同国経済に対する信頼の基礎となっている。その結果、民間の対インドネシア投資は好調な伸びを示し、また89年6月のIGGI会合では参加各国・各機関より総額43億ドルにのぼる援助意図表明があった。

(b) フィリピン

 内政面では、87年以降憲法制定、議会設置、地方選挙と続いたアキノ政権の民主的政治体制整備は、89年3月のバランガイ(最小の地方行政単位)選挙により、一通り完了した。88年8月にはラウレル副大統領が与党を離脱したが、9月にはアキノ大統領支持の与党が合併して一つの党「民主フィリピンの闘い(LDP)」を結成したことも、同政権の安定化に寄与した。

 外交においては、米国との間で、88年10月に米比軍事基地協定の見直し交渉が合意に至ったほか、日本、ASEAN諸国との関係を中心に引き続き活発な首脳外交を展開した。社会主義諸国との間でも、マングラプス外務長官の訪越(88年11月)・訪ソ(89年7月)、シェヴァルナッゼ・ソ連外相の訪比(88年12月)が行われた。

 経済面では、88年の実質経済成長率は製造業、サービス業を中心に6.7%の高成長を記録するとともに、海外からの投資も大幅に増加する等、順調に回復した。しかし、依然対外累積債務等の資金面の問題は経済再建への阻害要因となっている。その救済のため、先進諸国は89年5月のパリ・クラブにおいて債務繰り延べにつき合意し、7月にはわが国の積極的なイニシアティブの下、対比多国間援助構想を実現するための世銀主催の拡大援助国会合が東京で開催された。

(c) マレイシア

 88年2月、マハディール首相を党首とする与党第一党の統一マレイ国民組織(UMNO)は、党役員選挙をめぐる訴訟で、裁判所により政党としての法的地位を否定されるという危機を迎えた。しがし、その直後にマハディール首相の下で新党UMNO BARU(新UMNO)が結成され、与党第一党の地位を確保し、89年初めまでに反マハディール派も大部分入党する等、従来のUMNOを実質的に継承した。

 外交面では、国連平和維持活動への人員派遣、国連安全保障理事会非常任理事国(任期89~90年)当選等、活発な活動が見られた。

 経済面では、一次産品の価格上昇、輸出の持続的拡大等により、88年は8.1%の成長率を記録した。また、GDPに占める部門別割合は、87年以来製造業が農業を上回っている。

(d) シンガポール

 88年に入っても製造業、商業・観光部門が引き続き好調であったこともあり、11.0%と大幅な経済成長を達成した。

 かかる好況を背景に、政府は89年9月に任期満了を待たずに国会を解散して総選挙を実施し、与党人民行動党が大勝した(81議席中80議席を獲得)。その後の組閣において、建国以来同国を指導してきた第一世代はリー・クァン・ユー首相を除き全員が引退し、代わって若手の積極的登用が行われた。

(e) タ   イ

 88年のタイ内政は、8年間以上にわたるプレム長期政権が総選挙を経て交替し、チャチャイ政権が誕生した。チャチャイ首相は政局を柔軟かつ堅実に運営し、タイ経済も順調に発展を示しており、また政府と軍部との間に対立関係がないことから、タイ内政は平穏かつ安定的に推移した。

 タイ経済は、農産部門の好況、好調な輸出及び外貨の流入等により引き続き順調に推移し、88年に11%(タイ側推計)の経済成長を遂げた。他方、急速な経済の拡大は、タイの消費者物価、貿易収支等に影響を与え、88年の消費者物価指数は4.5%(推定)上昇し、貿易赤字は前年の2倍以上の38億ドルに増加した。

 外交面では、タイは従来より引き続きASEANの結束、西側諸国との協調を重視している。他方、カンボディア問題に関し、タイは前線国家としてヴィエトナム、「ヘン・サムリン政権」に対し強硬な立場をとってきたが、チャチャイ政権成立後「インドシナを戦場から市場に」のスローガンの下、インドシナへの積極的な経済進出を目指す路線を打ち出しており、カンボディア和平が進展し始めた中で、タイの動向が注目される。

(ハ) インドシナ地域及びミャンマー(旧ビルマ)

(a) ヴィエトナム

 88年6月、ドー・ムオイ副首相が首相に就任し、グエン・ヴアン・リン党書記長の下で引き続き経済・社会改革を推進したが、疲弊した経済困難の根は深く、著しい改善は見られなかった。急速に進んだインフレに対し、政府は大幅な貨幣切下げと金利政策で対応している。

 対外的には、88年末に中国及び西側との関係改善を念頭においた憲法改正を行った。89年4月には、カンボディア駐留の越軍の89年9月までの完全撤退を発表したが、その後、米国を含む西側との関係を拡大するとの姿勢をより積極的に打ち出しており、民間関係者を中心とする交流は活発化している。カンボディアをめぐって悪化した中国との関係では、中国を敵視した内容の憲法の修正と、それに続く外務次官級会談の再開が注目されたが、中越関係については今後のカンボディア情勢の進展にも関連しており、両国の関係正常化にはなお時間が必要であろう。

(b) ミャンマー(旧ビルマ)

 ミャンマーでは、88年3月以降長期の経済困難を背景として全国規模の反政府デモが激化し、26年間続いたネ・ウイン政権は退陣した。その後を継いだセイン・ルイン政権及びマウン・マウン政権は事態収拾を図ったが、ますます情勢は混迷を深めた。このような状況の下、9月18日ソー・マウン大将の率いる国軍がクーデターにより全権を掌握し、同大将を議長とする国家秩序回復評議会が設置された。現政権は、複数政党制による総選挙の実施及び従来鎖国主義的であった経済体制の自由化を標(ぼう)している。総選挙は90年5月に実施の予定であり、旧ビルマ社会主義計画党の流れをくむ国民統一党や、民主化運動指導者アウン・サン・スー・チー女史の率いる国民民主連盟等を始めとする200以上の政党が盛んな政党活動を行っている。経済面では、外資法の制定や中国、タイとの国境貿易の開始(88年10月)、国営企業法の制定(89年3月)等、顕著な経済開放政策を推進している。また、現政権は89年3月末には社会主義経済体制を放棄することを公式に発表した。なお、6月に現政権は国名の英語名称を従来のビルマからミャンマーに変更した。

(4) 南西アジア地域

(イ) 総論-インドに対抗する周辺国-

 南西アジアにおいては、インドがこの地域において優越的立場を強めているとの周辺諸国の警戒心があり、インドと周辺国との間で緊張関係が近年とみに顕在化している。例えば、インド平和維持軍(IPKF)のスリ・ランカ撤退問題をめぐる印・ス関係の緊張、インド・ネパール通商・通過両条約失効(89年3月)に伴う両条約の改訂問題、バングラデシュ洪水に関する国際的対策とインドの反応等、周辺諸国とインドとの対立が目立っている。こうした一連の動きと関連して、88年12月の南アジア地域協力連合(SAARC)で醸成された南西アジア地域の安定化への期待も、印・ス関係の緊張等により頓挫しており、89年11月に予定されているコロンボでのSAARC首脳会議開催も危ぶまれている。

 他方、歴史的に南西アジアの最大の緊張要因である印・パ関係は、ブットー首相とガンジー首相との間の対話の進展により改善の兆しがうかがわれる。88年12月に、ガンジー首相がインド首相としては28年振りのパキスタン訪問を行い、同じく34年ぶりの訪中を行ったことは、南西アジアの安定に資する動きとして歓迎される。

(ロ) 域内情勢の動き

(a) ブットー政権の成立と印・パ関係の新たな展開

 88年8月、ハック大統領が搭乗機の事故により急逝した後、同年11月、11年振りに政党の参加を認めた民主的な総選挙が平穏裡に実施された。この結果、パキスタン人民党(PPP)が第一党となり、12月、同党のブットー党首が首相に指名され、イスハク・カーン大統領代行が新大統領に選出された。

 ブットー首相は、内政面では地方議会及び連邦議会で相当の勢力を占める野党対策、経済再建問題などの重要課題に直面しており、今後の動向が注目される。他方、外交面ではアフガニスタン問題を始めとして従来の外交路線(親西側・回教諸国・中国及び非同盟主義を原則)を踏襲しつつも、対印関係については、ガンジー首相との首脳会談(88年12月、89年7月)に示されるように、関係改善に努め、南西アジアの最大の不安定要因たり得る両国関係に明るい兆しが見え始めている。これは、インド亜大陸の安定化への第一歩として歓迎すべき動きといえよう。さらに、ブットー首相は、対米関係も従来どおり維持・促進すべく、最友好国の中国に続き2度目の公式訪問先として89年6月米国を訪問し、パキスタンの核開発疑惑のため米国の出方が注目されている90年度対パキスタン援助問題を中心に米側関係者と協議した。

(b) インド内政

 88年のインド内政は、前年の首相近辺の汚職疑惑、与党内部の造反、野党勢力の連合化等の影響が尾を引き、ガンジー政権は厳しい展開を余儀なくされた。

 しかし、その後の野党の動きが、各党における内部の確執、野党の中心的指導者であるV・P・シンの指導力の陰りと相まって、精彩を欠くものとなる一方、ガンジー首相は、外交面では、ゴルバチョフ書記長の訪印(88年11月)、自らの訪中(12月)及びパキスタン訪問(12月及び89年7月)を成功裡にこなし、また順調な経済回復を背景に、貧困対策、民衆の政治参加等をスローガンに掲げ、89年中に行われる予定の総選挙に備えている。

 なお、89年5月の中距離弾道ミサイル(アグニ・ミサイル)の打ち上げ成功は、インドのミサイル開発の進展を示すものであった。他方、本件は、第三世界におけるミサイル・システムの拡散につながるものとして各国の懸念を高めており、南西アジア地域の安定と平和に及ぼす影響という観点からも注目されている。

(ハ) その他の域内諸国の動き

(a) スリ・ランカ民族問題

 88年12月の大統領選挙の結果勝利を収めた与党統一国民党(UNP)のプレマダーサ新大統領(前首相)は、積極的に民族問題の政治的解決に取り組み、6月にはタミル過激派(LTTE)と直接交渉を行い、和解を成立させた。また、これに基づき、大統領選挙中の公約であったインド平和維持軍(IPKF)の全面撤退を求めたが、インド側は期限つきの一方的撤退を拒否した。これにより両国関係は緊張したが、7月末にIPKFの一部撤退を行うことで妥協が成立し、今後の撤退日程は両国協議に委ねられることになった。一方、シンハラ過激派人民戦線(JVP)の反政府活動も活発になっており、両国関係をめぐる事態の一層の混迷が懸念されている。

(b) インド・ネパール関係

 89年3月、インド・ネパール間の通商・通過両条約は、改訂交渉がまとまらず失効し、その影響が、特に外国貿易に大きく依存しているネパールにおいて石油製品の不足等の形で現れている。条約失効の原因は、両条約を一本化すべしと主張するインドと、別個のものであるべしとするネパールとの見解の相違に加え、両国間に従来より存在している諸問題が複雑に関係しているものとみられ、問題は長期化する兆しを見せている。

(5) 大洋州地域

(イ) 豪   州

 ホーク首相は83年3月の就任以来、労働党としては革新的ともいえる経済の自由化路線を推進し、88年の豪州経済は、羊毛等を中心とした一次産品の市況回復、世界経済の順調な成長を背景におおむね順調に伸びた。88年上半期には輸出の増加により、貿易収支は4年振りに黒字を記録した(ただし、下半期には、貿易収支、経常収支ともに大幅な赤字になった)。他方、国内の製造業の競争力強化等、経済合理主義に基づく市場メカニズム重視の経済政策は、福祉予算削減、賃金上昇の抑制等、実質生活水準低下の形で市民生活に直接影響を及ぼし、ニュー・サウス・ウェールズ州議会選挙や連邦補欠選挙において、一時、国民の間に労働党離れの兆候が見られた。ホーク政権にとっては、国民の間にくすぶる生活水準の低下への不満にいかに応えるかが、次期総選挙で4選を果たすための課題となっている。

 野党は、83年の総選挙での敗退以来、低迷状態から抜け出せずにおり、国民の労働党離れ傾向にもかかわらず、ハワード自由党党首のアジア移民削減を含む移民論争により支持率低下を招いた。この低迷を打開すべく、89年5月、自由党、国民党ともに党首が交替し、次期連邦総選挙をにらみ党内体制の立て直しを図っている。

 外交面では、ホーク政権は従来よりANZUS条約を軸とする対米関係及びアジア・太平洋諸国との関係を重視してきたが、特に最近では自らを東アジア・太平洋国家として位置づけ、同地域との経済関係伸長を目指すとともに、同地域の主要メンバーとしての地位を確立しようとの姿勢が強く見られる。そのため、首脳レベルでの積極的な対アジア外交を展開するとともに、89年1月、アジア・太平洋政府間協議構想を提唱し、その実現のために域内関係諸国等への根回しを行っている。また、対米関係についても、89年4月末、クウェイル米副大統領が訪豪し、豪米首脳の間で両国のANZUS条約を通じる防衛上の絆が再確認された。

(ロ) ニュー・ジーランド

 ロンギ労働党政権は、経済の再建を図るため、88年も引き続き政府資産の売却、省庁の統廃合を含む諸改革を積極的に推進した。高騰していたインフレは鎮静化してきたが、失業率は2ケタ台の水準にあり、雇用問題が注目されている。与党は国民世論の支持において野党の後塵を拝しており、今後の経済の動向と政局の動きが注目される。

 外交面では、豪州との関係強化を図るとともに、豪州と同様、アジア・太平洋指向を強めつつあるが、対米関係では、89年4月に訪米したロンギ首相が、凍結状態にあるANZUS理事会からの脱退を示唆し、内外の論議を呼んだ。

(ハ) 南太平洋島(しょ)

 南太平洋地域における近年の変動は、フィジー情勢の沈静化等、おおむね収(れん)の方向にあるが、島嶼国の抱えている経済的・社会的(ぜい)弱性等の問題は基本的に変わりはなく、ヴァヌアツのクーデター騒ぎ、パプア・ニューギニアのブーゲンビル島の騒(じょう)、ニュー・カレドニアのチバウ・カナク社会主義・国民解放戦線(FLNKS)議長暗殺等、依然流動化の素地は残されている。

 

3. わが国との関係

 

(1) 総  論

 わが国はアジア・大洋州地域の一国として、この地域の平和と繁栄に貢献するため、政治対話の推進、人的交流の活発化、経済協力の拡充等に努めている。

(2) 朝鮮半島

(イ) 全   般

 朝鮮半島の平和と安定はわが国の安全にとって極めて重要であることはいうまでもない。そのためには、まず韓国の繁栄と安定が重要であり、また、南北対話が進展し、関係諸国間でバランスのとれた交流と関係改善が進むことが望ましい。わが国は従来より朝鮮半島問題は第一義的には南北当事者間の話合いを通じて解決されるべきとの立場をとっており、わが国の役割には限りはあるものの、対話進展のための環境整備など可能な限りの貢献を行うとの姿勢を維持している。88年10月、盧泰愚大統領は国連演説で六者会談(米、中、ソ、日、南北朝鮮)開催に言及したが、北朝鮮が「クロス承認」や「朝鮮半島分断の固定化」につながるとして拒絶しているため実現には至っていない。しかし、最近、関係諸国間で、政治レベルではないにせよ、民間レベルでの学術・人物交流が活発化しつつあり、そのような動きは関係諸国間の相互理解を高めるものとして、わが国も歓迎、支援していく考えである。

(ロ) 日韓関係

 自由と民主主義という基本的価値観を有する韓国との友好協力関係の増進は、わが国の対朝鮮半島政策の大前提であるが、日韓関係は現在極めて良好である。88年9月には竹下総理大臣がソウル・オリンピック開会式出席のため訪韓したほか、89年4月には東京で第4回外相定期協議が行われる等、日韓間には間断なき対話が維持されている。当初88年秋に予定されていた盧泰愚大統領の訪日は、昭和天皇の御病状やわが国国内事情により2度にわたって延期となり、その早期実現が課題となっている。今後両国関係をさらに強固なものとしていくためには、(あ)わが国として在日韓国人問題(三世問題)、在サハリン韓国人問題、在韓被爆者問題等、過去に起因する問題に対し誠意をもって取り組んでいくこと、(い)学術、文化、青年交流を強化し両国民間の相互理解を一層深めること、(う)グローバルな視点から協力関係を構築していくことが重要である。88年には日韓の民間有識者から構成される21世紀日韓委員会(「賢人会議」)が発足し、中長期的観点からの日韓関係のあり方について意見交換が行われており、今後、その結果が日韓両政府に対する提言としてまとめられることとなっている。

 日韓間の貿易不均衡是正は両国間の長年の課題であったが、最近円高等により日本の韓国からの輸入が急増(88年対前年比46.3%増、同年輸出は16.7%増)しており、日本側の黒字幅は87年52億ドルから88年には36億ドルに減少し、拡大均衡の方向にある。日韓経済関係が技術移転、市場アクセスの改善等を通じて今後一層強固なものとなることが期待されている。

(ハ) 日朝関係

 わが国は、「7・7」盧泰愚特別宣言を始めとする朝鮮半島をめぐる新たな国際情勢を踏まえ、国際政治のバランス(南北朝鮮と日、米、中、ソの関係)に配慮しつつ、日朝関係を改善することとし、88年7月に初めて公式に政府間対話を呼びかけて以来、その実現に努力してきている。具体的には、88年9月、オリンピック開催を前にして、大韓航空機事件に対する対北朝鮮措置を解除したほか、89年1月、わが国の朝鮮半島政策を明らかにするとともに、北朝鮮労働党代表団の来日を無条件で受け入れた。さらに、89年3月には竹下総理大臣が国会で、わが国の過去の行為に対する深い反省と遺憾の意を朝鮮半島地域のすべての人々に対し表明するとともに、日朝間政府間対話の早期実現の期待を表明した。しかしながら、これまでのところ北朝鮮側は、日本が「敵視政策」、「対韓国一辺倒政策」をとっていると非難し、対応に応じてきていない。なお、日朝間の最大の懸案である第18富士山丸問題については、山口社会党書記長の訪朝(88年9月)、田辺社会党前書記長の訪朝(89年3~4月)やソ連外相の来日(88年12月)の機会を利用して、種々のルートで働きかけを行っているが、遺憾ながらこれまでのところ進展はない。政府としては引き続き日本人2名の早期釈放、帰国に向け最大限の努力を行っていく所存である。

(3) 中  国

(イ) 全   般

 88年は日中平和友好条約締結10周年という記念すべき年であったが、この間、種々のレベルの友好往来を通じて日中関係は順調に発展した。89年にはいっても、李鵬総理の訪日(4月)が行われる等、日中関係は良好であったが、89年4月から6月にかけて発生した中国の学生・市民による民主化要求運動が、結局、中国当局側の武力行使によって鎮圧されるという事態に至り、西側諸国を中心に対中批判が高まり、日中関係にも少なからぬ影響が出ている。

 わが国は6月4日の武力行使により多くの人命が失われたことに対し、外務報道官が「憂慮に堪えない」旨の談話(6月4日)を発表し、官房長官が遺憾の意を表明(同5日)するとともに、外務事務次官が在京中国大使を招致し、中国政府の行為は「人道の見地から容認し得ない」旨述べて中国政府の自制を求めた(同7日)。また、その後の中国政府による学生・市民の取締りの強化についても、外務大臣の参議院外務委員会の所信表明等において、「それが中国の国内問題であるとしても、民主主義国であるわが国の基本的価値とは相容れないもの」との認識を表明した。

 6月7日には北京の在留邦人に退避勧告が出されたが、かかる情勢悪化に伴い、技術協力・開発協力関係ミッションの派遣延期、中国滞在中の専門家等の引き揚げ、日中科学技術協力委員会の延期等、日中間の関係にも様々な影響が及んだ。

(ロ) 経済関係

 88年の日中貿易は、総額193.3億ドルと過去最高を記録するとともに、84年以来顕著となっていた貿易不均衡も大幅に改善され、拡大均衡という好ましい方向に向かって発展した。89年1~5月も同様の方向にある。また、同年の対中直接投資も、中国側の投資環境改善努力、日中投資保護協定の署名・発効(88年8月竹下総理大臣訪中時署名。発効は89年5月)等もあり、約2.96億ドルに達し、中国側の外資導入政策に沿った形で製造業を中心に件数、金額とも増加の趨勢を示した。しかし、4月以降の中国情勢の急変に伴い、これまで順調に発展していた貿易・投資等の経済交流にも、今後一定の影響が及ぶであろう。

 中国は82年以来、ほぼ毎年わが国ODAの最大の受取国となっており、中国の受け取る二国間ODAの約7割をわが国が供与しているなど、極めて緊密な協力関係にある。88年度の対中経済協力実績(技術協力を除く)は約1,700億円となっている。第3次円借款については、88年8月、竹下総理大臣より、90年度からの6年間に約8,100億円をめどとする協力を行う用意がある旨の意図表明がなされた。

(ハ) 台   湾

 88年の来日者数は約37万人(前年比12%増)となり、訪台日本人数は約91万7,000人(同15.9%増)となった。同年の日台間輸出入総額は、前年比25%増の231億ドルと急増し、わが国の出超額は56億ドルとなった。

(4) モンゴル

 中ソ関係の改善、ソ連におけるペレストロイカの進行等、国際環境の好転を背景にアジア重視外交に転換しつつあるモンゴルは、最近、わが国をソ連に次ぐ第2のパートナーと位置づけるようになった。89年5月の宇野外務大臣のモンゴル訪問の際には、今後の両国関係についての意見交換が行われ、日モ関係の新しいページを開いた。

(5) 東南アジア地域

(イ) ASEAN

 88年においては、竹下総理大臣が87年12月、日・ASEAN首脳会議へ出席の際に表明した対ASEAN基本政策に沿った形で、「ASEAN・日本開発ファンド」及び「日本・ASEAN学術交流基金」の実施等の新たな施策がとられた。

 

フィリピン訪問に際し、アキノ大統領の出迎えを受ける竹下総理大臣(当時) (89年5月)

 

 89年4月末から5月初旬にかけてブルネイを除くASEAN諸国を訪問した竹下総理大臣は、ジャカルタで「共に考え、共に歩む-日本とASEAN」と題する政策演説を行い、その中でわが国の対ASEAN基本政策の「継続性及び一貫性」を強調し、ASEAN側の理解を得た。また、この訪問は日・ASEAN関係に一層の幅と深みを持たせることとなった。

 89年7月には、三塚外務大臣がブルネイで開催されたASEAN拡大外相会議に出席した。

(ロ) ASEAN各国

(a) インドネシア

 わが国との関係においては、引き続き要人の往来が頻繁に行われた。特に、竹下総理大臣はASEAN諸国歴訪の一環としてインドネシアを訪問した際に20億ドルの89年度対インドネシア資金協力を表明するなど、両国関係の一層の進展が見られた。

 わが国の対インドネシア貿易については、従来のエネルギー資源輸入に加え、輸入品の多様化が進んだ。対インドネシア投資は、88年には対前年比半分以下になったものの、インドネシア政府による投資環境整備協力もあり、89年にはいってから着実なペースで回復している。

(b) フィリピン

 わが国はアキノ政権の新たな国造り努力を可能な限り支援するとの立場を維持しており、特に、89年7月にはわが国の積極的なイニシアティブの下、世銀主催の対比拡大援助国会合が東京で開催され、対比多国間援助構想が具体化に向け動き出した。

 交流の活発化に伴い両国間の経済関係も進展し、わが国の対比輸入(88年)は対前年比50%増加し、またわが国の対比投資(同)も238%増を記録した。

(c) マレイシア

 マハディール首相が81年に提唱した「東方政策」(日本及び韓国の発展、勤労倫理等を学ぶ人造り政策)に対し、わが国は産業技術研修生及び留学生の受入れ等の面で引き続き積極的に協力している。近年のマレイシア政府の投資誘致政策、円高等により、日本からの投資は、88年には対前年比137%増と大幅に増大した。

(d) シンガポール

 首脳間の交流をはじめ、ハイレベルで間断のない対話が行われた。これに伴い両国関係は引き続き順調に推移した。

(e) ブルネイ

 モハメッド外相の訪日(89年5月)等要人の往来も活発に行われ、両国関係は引き続き順調に推移した。

(f) タ   イ

 日・タイ関係は、要人の往来を始め、全般的に順調に推移した。

 貿易面では、88年のタイの対日輸出が前年比で40.7%と大幅に伸びたにもかかわらず、対タイ投資の激増に伴う資本財を中心とするわが国の対タイ輸出が急増した結果、タイの対日貿易赤字は24.1億ドルにのぼった。また、投資面では、86年後半に始まったわが国からの対タイ投資ラッシュが依然として続いており、88年にはわが国の投資は183億バーツと、外国からの対タイ投資の約5割を占めた。

(ハ) インドシナ地域及びミャンマー(旧ビルマ)

(a) ヴィエトナム

 78年末のヴィエトナム軍のカンボディア侵攻以来日越関係は全般的に停滞していたが、最近、相互理解増進のための政府関係者の相互往来、文化・学術面での人的交流は着実に進んでいる。貿易は近年低レベルであるが、堅調に推移しており、88年には初めて日本側の入超を記録した。

(b) ミャンマー(旧ビルマ)

 わが国は、88年9月の国軍による全権掌握後、事態の推移を見守ってきたが、現政権が既に国際法上の政府承認の要件(実効的支配の確立及び国際法遵守の意思と能力)を満たしていると判断し、89年2月17日政府承認を行った。88年半ば以来事実上停止していた経済協力については、政府承認後は従来実施中だった案件について徐々に活動を再開するが、新規案件については当面は検討しないとの立場をとっている。

(6) 南西アジア地域

 わが国と南西アジア諸国は、伝統的に友好関係を維特してきているものの、相互交流は必ずしも活発なものではなかった。しかし、80年代にはいり、経済協力中心の関係から、文化、社会面を含む幅広い関係が形成されつつある。

(7) 大洋州地域

(イ) 88年は「豪州建国200年祭」へのわが国参加、長年の懸案である牛肉問題の解決、竹下総理大臣の訪豪等、日豪両国関係緊密化の観点から特に注目すべき年であった。第10回日豪閣僚委員会(89年1月)では、アジア・太平洋の平和と繁栄、自由で開放的な世界経済体制の維持・強化、地球環境保護、日豪関係の多角化を柱とする両国間の「建設的パートナーシップ」の構築につき合意された。88年7月の竹下総理大臣の訪豪の際の両国首脳間の合意に基づき、今秋わが国国内各地において、豪州の生活スタイル・文化等を包括的に紹介する「日豪生活文化交流」を開催する予定になっている。

 投資分野における日豪関係も緊密化しつつあり、87/88年度はわが国が豪州に対し最大の投資国になった。しかし最近、わが国の対豪観光、不動産等への直接投資への風当たりが一部豪州地域においてはかなり厳しいものになってきている。

 また、ニュー・ジーランドとの間にも貿易を中心に良好な二国間関係が維持されている。

(ロ) 南太平洋島嶼国との関係も引き続き強化されており、トンガで開催された第19回南太平洋フォーラム(SPF)会合(88年9月)のコミュニケでは、日本の南太平洋地域に対する援助増が高く評価された。第1回SPF・域外国対話(89年7月)にはわが国も招(へい)され、有意義な意見交換を行った。

 なお、わが国は88年12月、ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の両国と外交関係を開設した。

 

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(注1)  主な動きとしては、国防・治安対策上の最高の権限を有してきた国家治安秩序回復作戦司令部(KOPKAMTIB)が廃止され、新たに調整機能を主とした国家安定強化調整庁(BAKORSTANAS)が新設された(9月)。また、ゴルカル全国大会(10月)においては、ワホノ前東部ジャワ州知事がゴルカル新総裁に選出された。
(注2)  財政・金融及び銀行業務(88年10月)、商業、工業、農業及び海運(11月)、資本市場及び金融機関(12月)に関する規制緩和。