第3章 各地域情勢及びわが国との関係
第1節 わが国の主要な外交活動
わが国の外交は、その二つの基本的立場、すなわち、「先進民主主義諸国の一員」としての立場と、「アジア・太平洋地域の一国」としての立場に立脚して進められている。この二つの立場は、外交の一貫性と継続性の観点及びわが国の平和と繁栄の維持・発展に資するとの観点から、竹下内閣(87年11月~89年6月、竹下総理大臣、宇野外務大臣)においても、また、89年6月3日に成立した宇野内閣(宇野総理大臣、三塚外務大臣)においても、一貫して堅持されている。
さらに、今や国際社会の主要な担い手の一人となるに至ったわが国は、「世界に貢献する日本」を実現すべく、この1年、外交の分野において努力を払ってきた。特に、「国際協力構想」については、積極的に実施している(詳細は、第1章第3節3.国際協力構想の項参照)。
1. 先進民主主義諸国の一員としての外交
西側主要国の首脳が1年に1度、一堂に会し、政治、経済分野の世界の主要な問題につき、率直な意見交換を行う主要国首脳会議、いわゆるサミットは、わが国の外交活動にとって高い重要性を持つ。わが国は、サミットにおいて諸般の討議に積極的に参加し、実りある成果を生み出すことに努めていることはもちろん、アジア地域からの唯一の参加者として、米欧首脳の対アジア理解を促進することにも意を用いている。
89年7月14~16日には、革命200周年に沸くフランスで、3巡目に入ったサミットが開催され(アルシュ・サミット)、宇野総理大臣、三塚外務大臣、村山大蔵大臣、梶山通産大臣が出席した。このサミットにおいては、昨年のトロント・サミット以降の国際情勢の進展を踏まえつつ討議が行われ、経済分野では、インフレなき持続的成長の確保、多角的自由貿易体制の維持・強化、累積債務問題についても意見交換が行われたほか、国際世論の高まりを背景に、地球的規模の環境問題も重要な主題となり、これらに関する経済宣言が発出された。また、政治分野においては、人権、東西関係、中国、テロリズムに関する四つの宣言が発出された。なかでも、自由と民主主義という価値の重要性を、先進民主主義諸国の首脳が一致して確認したことは、意義深いことであった(各宣言は資料編に掲載)。
この機会に、宇野総理大臣、三塚外務大臣は、サミット参加国、及びフランス革命200周年記念行事出席の数多くの開発途上国の首脳、閣僚と会談し、国際情勢、二国間問題につき有益な意見交換を行った。
緊密な日米関係は、戦後四十数年間のわが国の平和と繁栄を保障した重要な要素であり、日米関係はわが国にとり最も重要な二国間関係である。このような認識の下、過去1年間においても、数次にわたる首脳や外相レベルの会談により、両国間の良好な関係の発展・強化が図られた。
首脳レベルの交流としては、89年2月に竹下総理大臣が訪米し、レーガン大統領の後を継いだブッシュ新大統領と会談した。大喪の礼の機会にも2度目の日米首脳会談が行われた。これらの会談を通じ、米国新政権の対日重視の姿勢、及び世界的な日米協力の重要性を確認した。89年7月のアルシュ・サミットの際にも、宇野総理大臣とブッシュ大統領との間で会談が行われた。
外相レベルにおいても、88年11月に宇野外務大臣が訪米し、また、89年6月には三塚外務大臣が訪米し、ベーカー国務長官等との会談を通じ、日米関係の重要性や二国間問題を緊密に協議していくことで意見の一致をみた。
二国間の懸案解決のためにも精力的な努力が払われ、89年に入ってからは、FS-X問題や電気通信機器の参入問題についても、順次解決をみた。
西欧諸国は、米国やわが国と価値観を同じくする諸国である。わが国は、日欧関係の強化を外交の重要課題の一つと位置づけ、その緊密化に鋭意努力してきた。
89年1月には、化学兵器禁止国際会議出席のためパリを訪問した宇野外務大臣が、フランス、イタリア、ヴァチカン、英国を順次訪問し、各国要人と会談し、有益な意見交換を行った。4月には、イタリアのデミータ首相が来日し、竹下総理大臣との間で、二国間関係のみならず主要な国際問題についても意見交換を行った。6月に、宇野外務大臣等がIEA及びOECDの閣僚理事会に出席するため、また7月には、宇野総理大臣、三塚外務大臣等がサミット出席のため、さらに7月末には、三塚外務大臣がカンボディア国際会議出席のため、フランスを訪問した。
2. アジア・太平洋地域の一国としての外交
アジア及び太平洋地域は、目覚ましい経済発展もあって新たな活力を示しているが、わが国外交は、この1年間も、アジア・太平洋の一国であるとの基本的立場に則り、進められてきた。
日韓関係が極めて良好に推移するなか、88年9月には竹下総理大臣が韓国を訪問し、ソウル・オリンピックの開会式に出席した。また、北朝鮮に対し従来より柔軟に対応することを明らかにした88年7月の盧泰愚
88年8月、日中平和友好条約締結10周年を機に、竹下総理大臣が中国を訪問し、中国首脳と活発な意見交換を行い、両国関係の一層の発展に向けての基盤が強化された。また、竹下総理大臣は、日中投資保護協定の署名に立ち会うとともに、敦煌
その後、4月の胡耀邦中国共産党元総書記の死去を機に、学生や市民のデモが活発化し、6月4日、中国政府はデモを武力鎮圧した。この混乱のなか、わが国政府は、北京在留邦人に退避勧告を発出し、5,000名近くの邦人を無事退避させた。この問題は、7月のアルシュ・サミットにおいても取り上げられ、中国についての宣言が発出された。その中には、この度の中国の抑圧行為に対する非難とともに、中国が改革と開放への動きを再開することにより、中国の孤立化を避け、協力関係への復帰をもたらす条件を創り出すよう期待する旨のメッセージが盛り込まれた。わが国は、均衡のとれた宣言を作成するために努力した。
89年5月には、宇野外務大臣が、わが国の閣僚として初めてモンゴルを訪問し、暖かい歓待を受け、日本とモンゴルの関係は新しいスタートを切った。
ASEAN諸国との関係も、わが国は重視している。89年4月から5月にかけ、竹下総理大臣がブルネイを除くASEAN5か国を訪問し、各国首脳との会談を通じて相互理解を深めるとともに、同訪問中に行った政策演説の中で、わが国の対ASEAN外交基本政策の「継続性と一貫性」を強調した。7月には、三塚外務大臣がASEAN拡大外相会議に出席し、アジア・太平洋地域の友好協力関係の強化に貢献するとともに、カンボディア問題の包括的政治解決達成の必要性を訴えたほか、カンボディア復興国際委員会の設立を提案し、わが国の積極的な協力姿勢を示した。同月末、三塚外務大臣は、パリにおけるカンボディア国際会議の閣僚レベル会合に出席した。
88年8月、航空機事故により、パキスタンのハック大統領が亡くなり、葬儀が行われたが、当時メキシコ訪問中であった宇野外務大臣も、当初の予定を変更し、急遽
89年1月の第10回日豪閣僚委員会で、両国間に「建設的パートナーシップ」を構築することが合意された。89年7月には、日・南太平洋フォーラム(SPF)対話を通じ、南太平洋地域との関係強化が進められている。
3. その他の地域との外交の展開
(1) 日ソ関係
88年12月に、シェヴァルナッゼ・ソ連外相が来日し、宇野外務大臣との間で、2年7か月振りに日ソ外相間定期協議及び平和条約交渉を行った。特に領土問題については、歴史に遡った議論が行われたが、ソ連側は従来の主張を繰り返すのみであった。この会談において、日ソ間の一層の政治対話拡大の方向が確認され、また、平和条約作業グループを設置することが合意された。89年1月の化学兵器禁止国際会議の機会にも、パリで日ソ外相会談が行われ、わが国の基本的考えをソ連側に伝えた。3月には、東京で日ソ事務レベル協議及び平和条約作業グループの会合が行われ、さらに4月には、モスクワで平和条約作業グループの会合が行われた。89年5月には、宇野外務大臣が訪ソし、日ソ外相間定期協議及び平和条約交渉を行った。この際の議論を通じ、今後日ソ双方が関係改善のための努力を進めていく方向性が定まったことは、重要な意義を有する。また、ゴルバチョフ書記長の具体的訪日時期に関して、90年初めに検討することも合意された。
(2) 東欧との関係
わが国と東欧諸国との関係においても、様々な動きがあった。88年8月には、浜田外務政務次官がハンガリー、アルバニア、ブルガリアを歴訪した。アルバニアについては、わが国高官としては初めてのものであった。その後、東欧における変化に強い関心を有する米国を始めとする西側諸国と東欧諸国との要人往来が活発化するなか、89年7月のアルシュ・サミットでは、東欧に関して集中的討議が行われ、東西関係に関する宣言が発出された。その中では、特にポーランドとハンガリーについて、その改革への動きを歓迎し、西側として積極的にその改革に協力する意思が表明されている。わが国も、応分の貢献を行っていく所存である。
(3) 中南米との関係
中南米との関係は、本年も良好に推移し、同地域での対日関心の高まりもあって、多くの要人が来日した。88年8月に宇野外務大臣がメキシコを訪問し、修好通商条約100周年記念式典に出席するとともに、同国の抱える累積債務問題等につき意見交換を行った。
(4) 中近東、アフリカとの関係
中近東、アフリカとの関係も良好に推移した。わが国がアルシュ・サミットの際に表明したアフリカ諸国等に対する6億ドルの経済構造改善支援無償援助について、関係国より強い期待が寄せられている。