第5節 ソ連・東欧
1. ソ連
(1) 内外情勢
(イ) 内政
(i) 87年は,1月の党中央委総会における「民主化」方針の決定,6月の総会における「国家企業法」等の「経済改革」の諸措置実行の決定等,「民主化」と経済改革を軸に推移し,全体として,改革の基本方針の確定を目的とする「ペレストロイカ」(立て直し)の第1期が完了した年と評価することができよう。
他方,「ペレストロイカ」の推進をめぐってその規模と速度に関し,党指導部内の意見対立が表面化し,11月にはエリツィン・モスクワ市党委第1書記が「政治的な誤り」という理由で解任される事態にまで至った(88年2月には党政治局員候補からも解任)。
ゴルバチョフ政権下におけるこれまでの指導部内の異動は,新旧勢力交代の異動であったが,エリツィンの解任は,新勢力内の,しかも「政治的な誤り」による異動の第1号であり,「ペレストロイカ」をめぐる党内の複雑な状況が露呈された。
(ii) ゴルバチョフ書記長は,87年6月の党中央委総会において,過去3年間の「ペレストロイカ」政策の総括と党内の「民主化」等のため88年に第19同党協議会を開催することを決定した。同党協議会は88年6月28日より7月1日まで開催され,ソヴィエト(議会)の改革,連邦最高ソヴィエト議長職の新設,任期制(1期5年,2期まで)の導入等が決定された。
(iii) 人事面に関しては,87年1月総会では政治局の人事はほとんど行われず,書記局の異動が目立った。6月総会では,スリュニコフ,ニコノフ及びヤコブレフ各書記が政治局員に昇格し,ゴルバチョフ政権の基盤強化を印象づけた。
また,5月に発生した「西独小型機の『赤の広場』着陸事件」にともないソコロフ国防相が解任され,ヤゾフ次官が国防相に抜擢された(ヤゾフは,6月に政治局員候補に昇格した)。
10月には,アリエフ政治局員が健康上の理由で解任された。
この結果(88年7月現在),政治局員13名のうち8名,同候補7名のうち5名,書記13名のうち10名がゴルバチョフ政権後新たに選任されたことになる。また,中堅レベルでも大幅な人事の交代が実施された。
(iv) ゴルバチョフ書記長は,非スターリン化の一環として,いわゆる「歴史の見直し」を着実に進め,学術界,マスコミ,演劇界でこれが活発化した。11月の革命70周年記念集会の演説においてゴルバチョフは,ブハーリンについて一定の肯定的な評価を下すとともに,スターリン時代の犠牲者の名誉回復のための委員会の設置を打ち出したが,演説の内容は全体として抑制的なものに留まった(ブハーリンについては88年2月に,法律上の名誉回復が行われた)。
(v) 民族問題では,86年12月にカザフ暴動が発生したのに続き,ゴルバチョフ書記長が推進する「民主化」と「情報公開(グラスノスチ)」政策を背景に,長年眠っていた民族意識が覚醒・表面化し,87年7月にクリミア・タタール人のクリミアヘの帰還を求める「赤の広場」座り込み事件,8月に沿バルト3国で反ソ独立を目指した抗議デモ,88年に入りアルメニア,アゼルバイジャン両共和国における騒擾事件等が連続的に発生した。また,ロシア民族主義の「パーミャチ(記憶)」,人権擁護を旗印とする「グラスノスチ」,複数政党制の導入を求める「民主連合」等各種の社会市民団体が輩出し,行動を起こした。
今後とも民族問題と「情報公開」政策をめぐる動向は注目される。
(ロ) 外交
87年におけるソ連外交の最重要の目標は,軍縮・軍備管理を中心に有利な対米関係を構築することにあり,また,この対米ポジションの強化を念頭に,ソ連は米国の外,西側諸国,中国などアジア諸国,さらには中南米諸国に対し幅広い外交活動を展開した。さらに,ソ連経済の活性化を図る観点から87年1月に施行した合弁事業法では,特に西側諸国との経済協力の推進に意欲的である。
(i) 対米・対西欧関係
対米関係では,ゴルバチョフ書記長が87年7月,INFのアジアを含む全廃に応ずる用意がある旨表明し,この後,数次にわたる米ソ外相会談を経て,我が国がかねてから主張してきたINF全廃について米ソ両国は合意に達し,ゴルバチョフ書記長が12月上旬訪米し,INF全廃条約に署名した。
また,この米ソ首脳会談における合意に基づき,88年5月29日~6月2日にレーガン大統領は訪ソし,4回目の米ソ首脳会談を行った。
これらの首脳会談及びその準備のための数次にわたる外相会談を通じ,軍縮・軍備管理,人権,地域紛争及び二国間関係の各分野である程度の進展をみせ,上記1NF全廃条約の他に,アフガン紛争に関するジュネーヴ協定の合意(後述)をみた。しかし期待された戦略核兵器50%削減の軍備管理問題その他の懸案問題では実質的な進展をみず,成果を得るには至らなかった。
西欧諸国に対しては,ソ連は「欧州の共通の家」の呼びかけの下に西欧への親近の姿勢をみせつつ,INF全廃条約締結後は,シュトラウス西独キリスト教社会同盟党首の訪ソ(87年12月),ルイシコフ首相のスウェーデン,ノールウェー訪問(88年1月),シェヴァルナツゼ外相の西独,スペイン訪問(1月),ハウ英外相の訪ソ(2月),シェヴァルナッゼ外相の訪米よりの帰途のポルトガル訪問(3月),ゲンシャー西独外相の訪ソ(7月)等の機会をとらえて,NATOに対するワルシャワ条約機構軍の通常兵器の優位を背景に,欧州の非核化並びに米欧分断を目指す平和攻勢を強め,他方,ココム規制の緩和等を訴えて西側諸国との経済協力の推進を図っている。
(ii) 対東欧関係
ゴルバチョフ書記長は,87年4月にチェッコスロヴァキア,5月にルーマニア,88年7月にポーランドを訪問し,またベルリンにおけるワルシャワ条約機構政治諮問委定例会議(87年5月),革命70周年記念集会(11月,モスクワ),さらにINF条約締結後のベルリンにおけるワルシャワ条約加盟国首脳会議(12月),ワルシャワにおけるワルシャワ条約機構政治諮問委定例会議(88年7月)の機会等に各国首脳との会談を重ね,ソ連の外交及び内政に関し東欧各国の理解を求め,東欧陣営の結束を図っている。なお,ゴルバチョフ書記長は,88年3月,ユーゴースラヴィアを訪問し,ベオグラード宣言(55年)及びモスクワ宣言(56年)の諸原則を再確認する新しい宣言を発表した。
(iii) 対アジア関係
中ソ間では,貿易・経済,人的・文化交流等種々の実務的分野での関係拡大の傾向がみられ,87年2月,9年ぶりに再開された次官級国境交渉は,8月には第2回交渉が北京で開催され,専門家による作業部会の設立について合意した。
しかし,中国側は,ゴルバチョフ書記長の再三にわたる中ソ首脳会談の必要性に言及した発言に対して,「3つの障害の除去」,就中,カンボディア問題の解決を前提とする立場を崩しておらず,これを拒否している。
ゴルバチョフ書記長は,87年7月,インドネシア紙とのインタビューで1年前のウラジオストック演説で述べたソ連のアジア・太平洋地域に対する高い関心を再確認した。
この関心の具体的表れとして,87年にはシティ・タイ外相(5月),マハディール・マレイシァ首相(8月),ホーク豪首相(11月)が,88年にはモフタル・インドネシア外相(2月),プレム・タイ首相(5月)が各々訪ソし,3~4月にはロガチョフ外務次官のフィリピン,マレイシア,インドネシアの歴訪があった。その外,各種代表団による交流等を通じて,ソ連は経済協力の推進等関係強化を呼びかけており,また,太平洋経済協力会議(PECC)を評価してそれへの参加意図を表明し,88年,同国内委員会を設立した。
(iv) 対中東関係
アフガニスタン問題については,88年1月のシェヴァルナッゼ外相のアフガニスタン訪問の後,2月,ゴルバチョフ書記長がジュネーヴにおけるパキスタン・アフガニスタン間接交渉の妥結を条件にソ連軍の5月15日からの撤退を表明し,4月のタシケントにおけるゴルバチョフ・ナジブラ会談後これを確認する声明を行った。
このような経緯の後,4月14日ジュネーヴにおいてパキスタン,アフガニスタン,米国,ソ連各外相によりアフガニスタン和平に関する合意文書が調印され,5月15日よりアフガニスタン駐留ソ連軍の撤退が開始された。
(v) 対中南米関係
中南米では,ソ連はニカラグァ支援,キューバとの関係強化の外,シェヴァルナッゼ外相のブラジル,アルゼンティン,ウルグァイ歴訪(87年9~10月),サンギネッテイ・ウルグァイ大統領の訪ソ(88年3月)の機会等を通して,これら諸国との関係強化を図っている。
(ハ) 経済
ゴルバチョフ書記長は,書記長就任以来,停滞している経済の活性化を最重要課題に設定し,この課題を実現すべくこれまで断片的ながらも種々の改革措置を講じてきたが,87年の「国家企業法」の成立をもって,一応経済改革の基本的な政策が出そろい,今後は改革の本格的な実践段階に入ったものといえる。
(i) 経済改革の動向
(a) 87年6月の党中央委総会において,初めて包括的な形で中央集権的命令経済の基軸ともいうべき計画,価格,生産財供給などの経済管理メカニズム改革のガイドラインが発表された。
この改革の主要方向は,企業活動を律する「国家企業法」(87年6月採択。88年1月1日から当面約2,500の工業関係企業に適用)の中に集大成された。この法律はこれまでの企業に対する中央(省)の束縛の大幅な緩和と企業の自由裁量権の大幅拡大を目指しており,企業の独立採算制を徹底し,資金面でもこれまでのように過度に中央財政に依存するのではなく,利潤や銀行融資などを通じて企業自らが調達することを考え方の骨格としている。
この他,88年5月には協同組合法が承認され,単に農業分野のみならず,消費物資生産,サービスなど幅広い分野での協同組合促進の方向が定められた。
(b) 今後の問題としては,この新しい管理メカニズムを体現している「国家企業法」がどこまで円滑に定着し,実効的に機能していくか,さらに,協同組合や賃貸請負制などの新たな生産組織形態がどこまで普及していくかが注目されるが,今後の経済改革の動向に関連して,この外にも,ソ連経済の構造的アンバランスの元凶といわれる現行価格体系の改訂(食肉,ミルク,パンなど生活基礎物資の値上げを伴う)問題や,中央経済管理機構の人員削減問題など,いずれも解決の困難な課題に直面しており,いよいよ改革の正念場を迎えることになろう。
(c) 他方,改革の諸措置が定着して成果を生み出すようになるまでには一定の期間を要するし,紅余曲折も予想される中で,ゴルバチョフ書記長は,優先的に解決すべき重要問題として(あ)食糧,(い)消費物資とサービス,(う)住宅などのいわば衣食住の充実を重視し,改善していくことが国民のペレストロイカに対する意識と感情を直接左右するものであるとして,その意義を強調している。
(ii) 87年度経済実績
生産国民所得は,計画の4.3%に対して,実績は2.3%増,鉱工業生産高は計画の4.4%増に対し,3.8%増,農業生産高は計画の2.2%増に対し,0.2%増という結果に終わり,生産国民所得の伸び率という観点からのみ見れば,戦後最低であった79年と同程度の低い水準であった。
いずれにしても,87年の経済実績は全体として低調であったといえよう。
個別分野では,燃料・エネルギー(石油は6.24億トンで最高記録),穀物(86年とほぼ同じ2.1億トン)と畜産,住宅建設などは好調であらたものの,他方,現政権が最も重視している機械工業及び消費財生産が不振であった。
(2) 我が国との関係
(イ) 概観
全般的にいって,日ソ関係は,貿易,経済,漁業,文化等の実務関係は着実に進展しているが,北方領土問題など基本問題に進展がみられないのが現状である。日ソ両国は,共に関係改善への意欲はあるものの,どの様に改善していくかについての考え方に隔たりがある状況に鑑み,その隔たりを出来るだけ小さくするためには両国間の政治対話の拡大・強化が重要である。87~88年にかけても政府間貿易経済協議(87年6月),国連に関する協議(同年8月),外相会談(同年9月),事務レベル協議(同年11月,88年6月),中東に関する意見交換(88年1月)等が行われ,また,民間レベルでも,日ソ・ソ日経済委員会合同会議(88年1月)などが開催された。
(ロ) 北方領土問題
(i) 倉成外務大臣は,87年9月の国連総会出席の際にシェヴァルナッゼ外相と会談し,日ソ関係の真の改善のためには,北方領土問題の解決が不可欠であること,右は日本国民の総意であり避けて通れない問題であること,ソ連が北方4島一括返還を求める我が国の正当な主張を直視し積極的な対応をとることを強く望む旨主張した。これに対し,シェヴァルナッゼ外相は,歴史的,法的にソ連に対して日本側が要求する根拠がないと思っている旨述べ,従来のかたくなな態度に変化はみられなかった。
(ii) 87年11月,東京において行われた事務レベル協議において,我が方は,日本は従来より一貫して領土問題を解決し平和条約を締結することによって安定した日ソ関係を構築すべきと言い続けており,この方針は竹下新内閣の下でも全く変わらない旨述べると共に,56年の日ソ共同宣言によって国交回復した際,歯舞,色丹は平和条約締結後に日本に引き渡すこと,国交回復後も領土問題を含め平和条約締結交渉を継続することにつき合意した点,及び,73年の田中総理大臣訪ソの際,両国首脳間で北方4島の問題を含む戦後未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することを確認した点等を指摘し,この問題についてソ連側の真剣な考慮を求めることを強く主張した。
しかし,ソ連側は,「領土問題については,日本側はソ連側の主張をよく知っている。ただ,日ソ関係改善に前提条件をつけることは全く展望のないことである。日本側は,日本国民の世論,感情と言われたが,ソ連にも,国民感情があり,世論がある。」と述べた。
(iii) 宇野外務大臣は,87年11月,ロガチョフ外務次官(事務レベル協議ソ連側代表),12月,アダミシン外務次官(米ソ首脳会談の内容を日本側に説明するために来日)の表敬訪問を受けた際,日ソ関係の進展を希望するが,そのためには,北方4島一括返還により領土問題を解決し,平和条約を締結することを日本政府,国民が強く望んでいる旨改めて力説した。
(iv) さらに88年6月,モスクワにおいて行われた事務レベル協議においても,我が方より改めて北方領土問題の解決,平和条約の重要性を強調するとともに,ソ連側がこの問題について真剣に対応するよう要請したが,ソ連側の対応は従来の立場を繰り返すにとどまった。
(v) また,88年7月には中曽根前総理大臣が訪ソしゴルバチョフ書記長と会談を行い,前総理より,北方領土問題に関する日本側の立場を歴史的事実に言及しつつ主張した。
(ハ) シェヴァルナッゼ外相訪日問題
86年5月の安倍外務大臣訪ソの際の日ソ共同コミュニケにおいて,87年中にシェヴァルナッゼ外相が来日し,外相間定期協議を継続することが合意されていたが,同外相の都合により,87年中の来日は実現しなかった。しかし,シェヴァルナッゼ外相の訪日時期については,88年7月中曽根前総理大臣がゴルバチョフ書記長と会談した際,先方より88年末との時期が示され,政府としては9月の国連総会における外相会談で正式に話し合う予定である。
(ニ) 経済関係
日ソ貿易は,83,84年と減少した後,85年より回復に転じ,86年には,往復で51億ドルに達した。87年は,円高の外,ソ連の外国貿易組織の改編に伴う混乱,ソ連での年初の厳冬による影響もあり,往復で49億ドル,対前年比4%減と僅かに減少した。87年の我が国よりの輸出は,上半期に著しく不振だったため,前年より18.6彩減少したが,輸入は,対前年比19.3%増となり,両国間の貿易不均衡も我が国の黒字額が2・1億ドル,前年5分の1以下に縮小した。
商品別に見ると,87年の対ソ輸出では,従来の中心的な品目であった鉄鋼,一般機械が減少し,化学製品が増加した。輸入は,全般的に増加しているが,特に非鉄金属(白金,パラジウム,ニッケル,アルミニウム等)は大幅に増加,また,石炭,金も伸びた。他方,木材は品質等の問題もあり,他の国からの輸入が増えている中で,ソ連からの輸入は減少した。
(ホ) 漁業関係
我が国北洋漁業を取り巻く国際環境は,200海里水域・母川国主義(サケ・マス等の潮河性魚種の母川国が当該魚種の資源についての第一義的利益及び責任を有するという考え方)の時代に入り年々厳しさを増しており,この点は日ソ漁業交渉にも表われている。
88年の日ソ双方の200海里水域での相手側の漁獲を決めるいわゆる日ソ200海里交渉は,87年11月下旬からモスクワで開催され,難航の後ようやく12月末に,ほぼ87年並みの漁獲割当量(無償部分・双方21万トン,有償部分・日本側のみ10万トン)で妥結した。ただし,有償支払金額は87年比33%増の17億1千万円に引上げられた。
88年の日本漁船によるソ連系サケ・マスの漁獲に関するいわゆる日ソサケ・マス交渉も,ソ連側が92年までに日本側の公海操業を全面禁止とするよう主張したため難航し,3月中旬いったん中断した。交渉は4月下旬に再開され,総漁獲量20,826トン(87年は24,500トン),漁業協力費37億円(前年同)で妥結した。
(ヘ) 科学技術協力
87年12月,モスクワにおいて科学技術協力委員会が開催され,88年度における農林業,核融合,医学等の分野の協力計画が作成された。
(ト) 文化交流
(i) 26年ぶりの歌舞伎のソ連公演(87年5月末~6月末)やモスクワにおける日本庭園の開園(7月)等,大型の文化行事が実施され,近年日本や日本文化に対する関心が高まってきているソ連国民の間で大きな関心を集めた。また,恒例の映画祭も,ソ連映画祭(6月),日本映画祭(88年1~2月)がそれぞれ相手国各地で開催された。
(ii) 87年12月,日ソ文化協定が批准書の交換により発効し,今後の文化交流が,相互主義の原則に基づき拡大均衡の方向で一層発展するための法的基盤が整った。また,12月,在ソ連日本国大使館広報部が開設されたが,これは,在ソ連諸外国大使館の中で初めて我が国に対し認められたものである。
2. 東欧地域及びユーゴースラヴィア
(1) 内外情勢
(イ) ワルシャワ条約加盟国
(i) 東欧諸国は,70年代末以降国内経済不振に直面してきている。
87年においても経済成長率は,あらかじめ低目の成長率(2%)を設定したハンガリーを除き,いずれの国も目標を達成できず,国内経済の活性化は各国指導者にとり依然最重要課題となっている。
こうした国内事情の下で,ソ連ゴルバチョフ政権の推進する「ペレストロイカ」の影響も受け,各国で程度の差はあるが改革の動きが見られた。特に,ゴルバチョフ改革以前から独自の経済改革を進めてきたハンガリー及びポーランドにおいては,両国とも現下の経済不振ないし困難を克服すべく経済改革が一層推進された。
(ii) 経済困難克服のため82年以来導入された経済改革が遅々として進まないポーランドにおいては,87年4月,ヤルゼルスキ国家評議会議長が経済改革第2段階テーゼを発表し,改革推進に対する断固たる決意を表明した。
これに基づき,10月には,(i)企業の自主性拡大,(ii)経済の効率化,価)適正価格の導入(補助金の削減)等を含む実施プログラム及び政治・社会面の改革プログラムが発表された。同国政府は,同改革推進に対する民意を問うべく87年11月,経済改革及び政治・社会改革の進め方につき国民投票を実施したが,物価引上げ等による生活水準の低下を懸念する国民の前に有権者の過半数の賛成が得られず,改革の手直しを余儀なくされた。88年2月以降3度にわたり,国民投票の結果を踏まえ,下方修正された形での物価引上げが実施されたが,生活水準の低下に対する国民の不満は,4月末から5月初旬にかけてグダンスクをはじめ各地での賃上げスト続発の形となって現れた。
(iii) 68年以来他の社会主義国に先がけて経済改革を実施してきたハンガリーにおいても,経済不振の問題は深刻であり,この打開のため87年6月,幹部会議長(国家元首),首相を含む大幅な人事異動を行うとともに,9月に赤字企業への補助金削減による財政赤字の解消,売上税導入等の税制改革等経済再建のための緊急対策が策定された。
(iv) チェッコ及びブルガリアでも,ソ連の「ペレストロイカ」に呼応した改革が行われている。チェッコでは,88年2月に「経済メカニズム再構築のための連邦政府指令」が発表されたが,経済改革は順調には進んでいない模様であり,また,ブルガリアは経済改革の一環として,86年以降機構改革を頻繁に行ってきたが,現場ではこのような動きに対し混乱も見られる。
なお,東独及びルーマニアにおいては,経済改革への動きは未だ見られない。
(v) ソ連での「ペレストロイカ」の進行及び東欧諸国内での経済改革の動きに伴い,一部諸国指導部内の力関係が流動化し,指導者の高齢化の問題もあいまって,チェッコ,ハンガリーでは指導者の交代が行われた。すなわち,チェッコでは,68年以来政権の座にあったフサーク書記長が,87年12月「健康上の理由」により辞任し,ヤケシュが新書記長に就任した。また,ハンガリーでは,経済政策に対する国内の不満等を背景に,88年5月,ハンガリー動乱後終始政権の座にあったカーダール書記長が辞任し,グロース首相が新書記長に就任した。
(vi) ソ連の「ペレストロイカ」の影響は東欧各国の国民意識にも及んでおり,東独,チェッコ等において,未だ散発的ながら青年・インテリ層を中心とした自由・民主化に対する要求の高揚が見られた。東独においては87年6月,ベルリン・ブランデンブルク門前のロック・コンサートの際をはじめ,88年初頭にかけデモ騒動が数件起こり,また,チェッコでは,87年11月に憲章77グループによるデモ,88年3月には宗教団体によるデモ等が見られた。
(vii) 外交面においては,ソ連・ゴルバチョフ書記長のチェッコ訪問(87年4月),ルーマニア訪問(同年5月)をはじめとする東欧諸国とソ連との間の活発な要人往来等を通じ,ソ連との緊密な関係が維持された。他方,INF条約署名等東西関係の進展を背景に,従来も西側との交流を活発に行ってきた東独,ハンガリー,ポーランド等に加え,チェッコ,ブルガリアにも西側諸国との交流促進の動きが見られた。
85年より活発化した中国との関係は,引き続き維持されるとともに,国交を有さない韓国との経済面での交流が活発化した。
(ロ) ユーゴースラヴィア
(i) ユーゴースラヴィアでは,経済困難の打開が最大の課題となっている。ユーゴー政府は,特に生産・輸出促進及びインフレ抑制を最大の目標として物価凍結・賃金凍結等種々の行政介入を行ってきたが,労働者の不満も強く,ストライキが頻発する結果となった。88年5月,ユーゴー政府は,IMFと協調して価格,輸入,外貨市場の自由化を中心とする市場経済指向の新経済政策を施行するとともに,経済政策運営における連邦の権限を強めて経済困難に抜本的に対処すべく,憲法改正(ただし,連邦制,自主管理制度等の根本原則に変更を加えるものではない)を準備中である。
(ii) 外交面では,87年6月には非同盟地中海諸国外相会議,また,88年2月にはバルカン諸国外相会議の開催のためのイニシアチブをとる等,域内協力に対する積極的な姿勢を示した。また,88年3月にはゴルバチョフ書記長がユーゴーを訪問し,相互不干渉,平等等の諸原則を確認する新宣言が発表された。
(2) 我が国との関係
(イ) ワルシャワ条約加盟国
(i) 我が国は,西側の一員として,より安定的かつ建設的な東西関係の構築に貢献するため,東欧諸国と政治,経済,文化交流等あらゆる分野での関係促進に積極的に取り組んでいる。具体的には,87年6月にはヤルゼルスキ・ポーランド国家評議会議長と首脳レベルでの政治対話を行うとともに,9月の国連総会に際しては,東独,ハンガリーとの外相会談を行った。
(ii) また,87年1月の中曽根総理大臣(当時)の東独及びポーランド訪問の際の首脳間の合意に基づき,7月にはポーランドにおける環境汚染の実情を調査する「環境調査団」を派遣した。また,11月には東欧諸国との文化交流の促進を目的とする「文化使節団」を東独,ポーランド及びハンガリーに派遣した。さらに,青年相互間の交流を促進すべく,87年秋から88年にかけて東独,ポーランド各国青年50名を我が国に招へいした。
(iii) 経済面では,87年の対東欧諸国貿易総額は前年比16%増の11.88億ドルとなった。
政府としては,東欧諸国との経済関係促進の環境造りに資すべく,ポーランド及びチェッコとの間でそれぞれ政府間経済混合委員会を開催するとともに,第9回東欧経済関係促進セミナーを開催した。
(ロ) ユーゴースラヴィア
(i) 我が国は,南欧の重要な安定勢力であり,非同盟・自主独立外交を堅持するユーゴースラヴィアに対し,従来より政治,経済両面で支持を行ってきている。87年9月には,国連総会に際して同国と外相会談を行うとともに,88年5月には,ミクリッチ連邦執行評議会議長(首相)を公賓として我が国に招待し,首脳レベルでの政治対話を行うとともに,ユーゴースラヴィアの経済困難に対し積極的支援を行う姿勢を明らかにした。
(ii) また,87年1月の中曽根総理大臣のユーゴースラヴィア訪問の際の首脳間の合意に基づき,同年5月には両国経済関係の一層の促進を目的とした我が国官民よりなる「経済交流促進ミッション」を派遣した。また,同年11月には文化・人的交流の促進を目的とした「文化使節団」を派遣するとともに,87年秋から88年にかけてユーゴースラヴィア青年50名を我が国に招へいした。
(iii) 経済面では,87年の対ユーゴースラヴィア貿易総額は前年比10%増の1.06億ドルとなった。