第2節 世界の主な動き
87年から88年にかけての世界の動きを振り返ると,前節において言及された「我が外交の基本課題」の背景となる国際社会の変化,その中での我が国の役割の増大等が浮き彫りになってくる。
以下においては当該期間中の世界の主要な動きを概観し,このような国際情勢の中で展開された我が国の主要な外交活動を第3節で説明する。
1. 国際政治の主な動き
(1) 東西関係においては,85年のジュネーブでの米ソ首脳会談により米ソ間の最高レベルの対話が再開され,その後86年のレイキャビクにおける首脳会談等を経て,対話の機運が徐々に高まっていたが,87年後半から88年前半においてはワシントン(87年12月)及びモスクワ(88年5~6月)で2回の首脳会談が開催された。このような米ソの対話に伴い,INF(中距離核戦力)条約の署名(87年12月)と発効(88年6月),ソ連軍撤退を含むアフガニスタン問題に関するジュネーヴ合意署名(88年4月)等,東西関係の改善に向けての幾つかの注目すべき動きが見られた。
ソ連ゴルバチョフ書記長と米国レーガン大統領の両首脳は,87年12月と88年5~6月それぞれ14年振りに相手国を訪問し,首脳間の対話の重要性とその継続を確認した。両国外相間の頻繁な会談と併せ,こうした両国間のハイレベルの対話は東西関係の安定化に向けて大きく貢献したものと言える。
INF条約を巡る交渉は87年を通じて紅余曲折をたどったが,同条約は87年12月のゴルバチョフ書記長訪米の際にレーガン大統領との間で署名されるに至り,88年6月1日レーガン大統領訪ソの際の批准書交換により,同日発効した。この条約は,米ソの地上配備の中距離核ミサイルという既存の核兵器を初めて,しかもアジア部を含めてグローバルに全廃するものであり,現地査察を含む詳細な検証規定を設けている,との点で意義がある。
軍備管理・軍縮交渉において基本的な重要性を持つ戦略核についての削減交渉(START)は,防御・宇宙交渉との関係,検証問題等を巡って難航しており,モスクワにおける米ソ首脳会談の際にも,顕著な進展は見られなかったが,米ソ双方とも50%削減については原則的に合意しており,その実現に向けて交渉を継続している。
東西関係は,軍備管理・軍縮の分野にとどまらない。東西関係がらみの地域問題のうちでもアフガニスタン問題については,82年6月以来,国連事務総長の個人代表としてのコルドヴェス国連事務次長の仲介により,パキスタンとアフガニスタンとの間で行われてきたジュ(1)東西関係においては,85年のジュネーブでの米ソ首脳会談により米ソ間の最高レベルの対話が再開され,その後86年のレイキャビクにおける首脳会談等を経て,対話の機運が徐々に高まっていたが,ネ-ヴ間接交渉が,88年4月14日に妥結した。アフガニスタン・パキスタン間の相互不干渉,米ソによる国際保証とソ連軍の撤退,難民の自発的帰還等を主な内容とする4文書と1つの了解覚書が,パキスタン,アフガニスタン,そして保証国としての米国,ソ連の間で署名され,5月15日よりソ連軍は撤退を開始した。
このような東西関係の動きは,何よりも西側が抑止力の維持に努めるとともに東側との対話を進めるとの基本的立場に立って強い結束を示し,これを背景に米国がソ連と交渉した結果達成されたものと言うことができる。即ち,西側は87年6月のヴェネチア・サミットで採択された「東西関係に関する声明」で再確認された抑止と対話,並びに東西諸国間の安定した建設的な関係のために永続的な基礎を構築するには,軍備管理・軍縮,地域紛争,人権問題,二国間問題の全分野にわたる進展が必要との基本的立場の下に結束を維持してきたが,この点は88年6月のトロント・サミット政治宣言においても再確認された。
同時に,ゴルバチョフ書記長指導下のソ連が,中距離核ミサイルSS-20の廃棄やアフガニスタンからのソ連軍の撤退に応じるといった柔軟な動きを見せたことも事実である。これは基本的には,ソ連として,ゴルバチョフ書記長が国内において進めている経済の建て直しのために西側の資本と技術の導入を必要としており,それゆえ西側との関係改善は不可欠であるとの認識があることによるものと見られる。また,米国のINFを欧州から除去するためなら,それに対応してソ連のINFを全廃してもソ連の安全保障上プラスである,あるいは,アフガニスタンからの撤退については,それがソ連の対外的イメージの向上や対外関係の改善,国内での経済改革促進等の面でプラスになるといった判断がソ連側にあったとも考えられる。ゴルバチョフ書記長は,こうした費用対効果を十分に計算し,それを実行する決断力を有している面があり,この点,従来の指導者と異なっていることは指摘でき,その限りにおいて,ゴルバチョフ政権は西側との対話を通じ,束西間に安定した関係を構築する可能性をより多く与える政権であると言えよう。しかし,これらの新しい動きは,ソ連の基本的戦略に根本的変化が生じていることを意味するものではなく,むしろ,今後とも超大国の地位を維持すべく,政治,経済,社会,軍事,すべての面において「強いソ連」を建設するというソ連の目的には変更はないと見るべきであろう。
過去1年余の動きは,上記の通り西側にとり歓迎されるべきものを含んでいたが,同時に,東西関係は基本的に対立関係にあるというのが現実であることも否定できない。欧州におけるワルシャワ条約機構側の通常戦力の面での優位,あるいは極東におけるソ連軍事力の増強の趨勢などは,依然大きな問題として残されたままである。このような状況の下,欧州においてはINF全廃後のNATO戦略のあり方の検討が行われており,また従来より進められて来た仏独防衛協力,WEU(西欧連合)の再活性化といった欧州独自の防衛力強化に向けての動きも促進された。また,西側諸国間においては米国の財政事情の悪化等に伴い,バードン・シェアリング(負担分担)の問題も提起されている。
以上のような東西関係の展開の中で,我が国は西側の一員として従前に比し一層大きな役割を担いつつある。そのことは,ヴェネチア・サミット及びトロント・サミット等を通じ西側が結束を強化する際に示された,我が国の立場・活動に対する各国からの評価にも示される。特にINF条約の妥結に至る長い交渉の過程で,我が国が,米国の提案したアジア部を含めてのINFのグローバルな全廃との立場を終始強く支持してきたことは,前述の結果をもたらすのに与かるところ大であった。
(2) 東側においては,経済の行き詰まりから各国において様々な改革が試みられている。ソ連においては,ゴルバチョフ書記長は,政治的には「公開性」や「民主化」を進め,経済的には,本年より国家企業法や協同組合法等を実施に移し,改革の試みを行っている。しかし,経済面での成果は遅々としており,また,エリツィン事件(87年11月)にみられるようにペレストロイカのテンポや方法を巡るソ連国内の議論が活発化し,さらに「公開性」がソ連各地での民族問題の高まりを惹起する等,政治的にもペレストロイカ推進の道は平坦とは言い難い。ゴルバチョフ書記長は,88年6月28日~7月1日に開催された第19回ソ連共産党協議会において,政治面での改革に重点をおき,その結果,ソヴィエト制度の改革(ソヴィエトの権限拡大),最高ソヴィエト議長職の新設,任期制(1期5年で2期まで)の導入等が決定されたが,これらの改革に対する今後の実施振りが注目される。ゴルバチョフ書記長は,ソ連においてペレストロイカ路線を進める一方で,東欧諸国に対しても,各国の国内条件を考慮しつつ各国国内経済活性化を求める方針をとっているが,東欧諸国各々の政治,経済,社会状況の違いから,ペレストロイカ路線に対する東欧諸国の反応は多様である。特に,ゴルバチョフ書記長の「民主化」,「公開性」の方針は,一部の東欧諸国に対し過去の経験とも関連して複雑な波紋を投げかけていると言えよう。
(3) 中ソ関係においては,引き続きソ連が対中関係改善に積極的姿勢を示しているが,中国は依然「3つの障害」,特にカンボディア問題の解決を対ソ関係正常化の前提とする立場を崩していない。しかし,両国関係は実務関係を中心として改善しつつあり,国境交渉も87年に2回行われ,継続している。また,カンボディア問題に関するシハヌーク・フンセン会談(87年12月,88年1月),ジャカルタ非公式会合(88年7月)等の動きを踏まえ,カンボディア問題を協議するための特別の中ソ次官級協議が開催される(88年8月)等注目すべき動きも出て来ている。
また米中関係は,チベット問題や中国の対イラン武器供与問題等をめぐり若干のさざ波が立つ場面もあったが,呉学謙外交部長の訪米(88年3月)等要人の相互訪問が行われ,両国間の友好関係が確認されるなど,基本的には順調に推移していると言えよう。
(4) 世界の地域紛争について見れば,アフガニスタン問題で前述の通り大きな進展があった以外に,イラン・イラク紛争においては,7月18日,イランが早期停戦等を内容とする国連安全保障理事会決議598を公式に受諾後,国連事務総長の調停努力により8月20日に停戦が実現した。また,中東和平問題,アンゴラ・ナミビア問題,カンボディア問題,中米紛争等の主要な地域紛争において,紛争当事国や関係国等が解決に向け従来に比し活発な動きをみせた。
しかし,これらの紛争はいずれも根が深く,全面的な和平実現には依然として紆余曲折があるものと思われる。
このような中にあって,我が国が,国連の場で,また,関係諸国との間で,問題の政治的解決を目指して展開した外交努力,あるいはアフガニスタン問題,イラン・イラク紛争に積極的に取り組む国連に対する積極的支援は,国際場裡で高く評価されるとともに,このような分野での我が国への期待が高まりを見せた。
2. 国際経済の主な動き
世界経済は大幅な対外不均衡の継続,右を背景とする保護主義圧力の高まり等に直面しており,特に87年10月の世界的な株価の暴落,その後の大幅なドル安の進行等の経済情勢は世界経済の先行き不透明感をクローズアップさせることとなった。また・途上国の累積債務問題にも大きな改善が見られなかった。
他方,世界経済は基本的にはインフレなき緩やかな成長を維持しており,また対外不均衡の是正についても米国の輸出の順調な拡大,我が国の輸入増大等により改善の傾向が出てきている。さらに,途上国経済の多様化の中で,アジアNIESのめざましい経済発展が注目されてきており,世界経済における位置づけという観点から国際的な議論の高まりが見られる。
このような世界経済の状況において,我が国は,様々な内需振興諸策等を通じ輸入の一層の拡大に努める等,マクロ面での政策協調に積極的に取り組み,世界のGNPの一割を優に超える経済力を持つ国家としての責任を果たしてきた。また近年,世界経済・貿易におけるプレゼンスを益々増大させ,その動向が地域内外より注目されているアジアNIEsとの関係においても,日本は西側先進国とNIEsとの対話の促進に努める等,その果たすべき役割に期待が持たれている。
(1) 87年においても,米国経済の「双子の赤字」は継続した。西側諸国間では,G5,G7,OECD閣僚理事会,サミット等の場を通じて国際協調強化の努力がなされ,それがある程度進展したにもかかわらず,米国経済の先行きに対する不安感等を背景に87年10月には米国の株価の暴落という事態が発生し,これが全世界に波及した。米国の対外不均衡については,基軸通貨国たる米国が最大の対外債務国になるという事態が生じ,また世界的に大幅なドル安の進行が見られた。このような状況の下,包括貿易法案の成立等,米国内において「公正」な貿易を求める指向が強まった。
しかし,この株価暴落というショックは,他方で米国が自国の経済に対する認識を改める効果を生んだ。米国の財政赤字については,87年にはレーガン大統領が赤字削減案につき議会と合意する等,米国内で財政赤字削減の重要性が再認識された。また米国の対外不均衡についても,最近になって米国の貿易収支に改善の兆しが見えはじめている。但し,米国の貿易収支の急速な改善等に見られる良好な経済パフォーマンスが直ちに保護主義防圧に奏効するか否かは即断できず,今後の推移を注目していかなければならない。この間,西欧においては,英国が比較的堅調な成長を示したものの,西独等を中心に低めの経済成長にとどまった。
また,開放的な多角的貿易体制の維持・強化を目指し,86年9月に開始されたガット・ウルグァイ・ラウンド交渉は,87年から88年にかけて各国からの積極的な提案を得て,本格交渉へ向けての検討作業が進められた。
(2) 先進諸国の対外経済関係については・ウルグァイ・ラウンドを成功さぜることの重要性が繰り返し確認される中にあって,米国は,二国間交渉により諸外国の市場開放を要求するアプローチを強めてきている。その一方で,地域経済統合の動きも見られ,米加間においては両国間の貿易・投資促進を目的として,米加自由貿易協定が署名された。また,欧州については,87年7月の単一欧州議定書発効により,ECが92年完成を目途に取り組んできている域内市場統合の動きが加速され,既にEC域内では3億2000万人を擁する統一市場の完成に備えての経済活動が活発化するとともに,EFTA(欧州自由貿易連合)等の近隣諸国との経済関係緊密化の動きが見られる。
(3) 開発途上国の累積債務問題は,開発途上国自身に困難をもたらしているばかりでなく,世界経済の健全な発展にとっても大きな問題である。先進諸国による「最貧国」の債務負担軽減の動き,88年6月のトロント・サミットでの突っ込んだ議論等を含め関係者の協調による対応が行われたが,未だ大きな改善は見られていない。特にアフリカ諸国等については,問題の一層の深刻化が国際的にも大きく取りあげられるに至った。
開発途上国の経済パフォーマンスには,経済政策や貿易構造の違いによる多様性が見られており,累積債務問題の深刻化,一次産品価格-世界の主な動き-の低迷等が一部途上国の経済環境を悪化させている一方,アジアNIEsの躍進が注目されている。NIESについては,88年5月のOECD閣僚理事会や6月のトロント・サミットでも取り上げられる等,先進国側もこれら諸国・地域との対話・協調の必要性に対する認識を深めてきている。
(4) 原油価格は87年前半は比較的堅調に推移したが,OPEC内部の対立が深まるにつれて増産が顕著となり,88年に入ってから価格は弱含みの動きとなった。しかしながら,8年にわたったイラン・イラク紛争の停戦が実現する等,国際石油市場を取り巻く環境は大きく変容しつつある。
3. アジア・太平洋地域の主な動き
日本はアジア・太平洋地域に位置し,これらの諸国との歴史的,文化的な関係も密接である。アジア・太平洋地域の平和と安定は日本の平和と繁栄にとって切り離し得ず,さらに近年は経済的パートナーとしてのアジア・太平洋地域の意味も益々重要なものとなりつつある。
(1) アジア・太平洋地域は多様性に富み,包括的に捉えることは困難であるが,全体として見れば,(イ)強固な日米関係と米国の同地域へのコミットメントの維持・(ロ)中国の経済建設重視・対外開放路線,(ハ)韓国の民主化の進展,(ニ)アジアNIEsの躍進,(ホ)ASEAN諸国間の協調と着実な発展等の要因により,同地域の情勢は安定的に発展していると言える。
日米関係は以前にも増し緊密な協力関係となっており,また米国はアジア・太平洋地域の重要性を認識しており,同地域へのコミットメントを維持している。両者は一体となって,アジア・太平洋地域の安定にとって重要な役割を果たしている。
中国については,87年10月から11月にかけて開催された第13回党大会で,「改革と開放」を一層強力に推進していくことが確認されたのみならず,人事面でも若返りが実現され,同方針をさらに推進するための布陣が敷かれた。対外政策についても近代化政策を遂行するため,中国は「独立自主外交」の名の下にイデオロギー色の薄い平和な環境作りの外交を推進している。
韓国では,「6.29民主化宣言」に象徴されるように,民主化推進へ向け一大転換が図られ,与野党合意による憲法改正が行われた上で,16年振りに直接選挙による大統領選挙が実施された。盧泰愚民正党総裁が大統領に選出され,88年2月新政権を発足し,韓国史上初の平和的政権交代が実現した。また,88年9月~10月に開催されるソウル・オリンピックには中ソ両国を含む史上最多の161の国と地域が参加する予定であり,その成功のため,国をあげての努力が傾けられている。
韓国,台湾,香港,シンガポールのアジアNIESは,輸出を中心に高い成長率を達成し,アジア・太平洋地域の経済を活性化するとともに,日本,アジアNIEs,ASEAN諸国間の相互依存関係を強化している。これは,同地域の経済的繁栄や政治的安定,ひいては世界経済の活性化にも寄与している。
ASEAN諸国は87年12月,ASEAN設立20周年を記念するASEAN首脳会議をマニラで開催し,域内の協調を進めるとともに,全体としては政治的な安定を維持しつつ着実な経済発展を遂げている。
(2) 以上のように,アジア・太平洋地域の情勢は,基本的に我が国にとっても好ましいものであったが,他方,同地域内にも以下のような緊張要因が存在していることは注目すべきである。
第一に,ソ連は北西太平洋地域を中心とする極東における軍事力を引き続き質量両面にわたり増強し,軍事分野での協力を含め北朝鮮やヴィエトナムとの関係を強化するとともに,アジア・太平洋地域の諸国に対し各種の平和攻勢をかけてきている。このようなソ連の動きは,極東におけるソ連の戦略的立場の強化,政治的影響力の拡大及び米国の軍事面,政治面における影響力の減少,さらには同地域の経済活力の利用等を狙ったものと言える。
第二に,朝鮮半島では,依然として南北が対時する緊張状態が続いている中で,87年11月には大韓航空機爆破事件が発生した。韓国が民主化推進に向け大きく転換し,経済的にも順調に発展しているのに対し,北朝鮮は依然経済困難を抱え,南北の経済力格差は一層拡大している。こうした状況の下で,88年7月盧泰愚韓国大統領は,南北関係の改善や日米等の北朝鮮との関係改善に関する韓国の協力等,朝鮮半島の安定化を目指した6項目から成る特別宣言を発表したが,北朝鮮はこれを拒否した。その後,南北直接対話が2年8ヵ月振りに国会議員間で再開される等の動きも見られているが,朝鮮半島情勢は引き続き目を離せない状況にある。
第三に,カンボディアにおけるヴィエトナム軍の駐留は,東南アジア地域の最大の不安定要因である。ヴィエトナム軍の撤退を含めたカンボディア問題の政治的解決に向けて,87年12月と88年1月の2回にわたり,シハヌーク・フンセン会談が行われた。これは,ヴィエトナム軍のカンボディア侵攻(78年12月)以来初めてのカンボディア人当事者間の直接対話であり,和平への何らかの糸口になり得るものとして期待されたが,ヴィエトナムの政治解決プロセスヘの参加のタイミング,ヴィエトナム軍撤退の手順・方式,連合政権樹立を含む将来のカンボディアの政治体制といった重要な諸点につき合意には至らなかった。また,88年7月,ジャカルタ郊外ボゴールにおいてカンボディア4派,ヴィエトナム,ラオス,ASEAN諸国の参加を得て非公式会合が開催された。このように種々の機会を通じ政治的解決に向けた動きが見られているが,問題は複雑であり,今後の動きに注目していく必要がある。
第四に,フィリピンでは,87年8月のホナサン大佐によるクーデター未遂事件等,86年2月にアキノ政権が成立して以来5度の国軍クーデター未遂事件や頻発するNPA(新人民軍)ゲリラ活動等に見られるように,依然不安定要因は消えていない。しかし,アキノ政権が9月の内閣改造で政策及び政権基盤を現実路線にシフトさせ,また軍の待遇改善等に努めたことで,軍部,実業界の支持は相当回復した。経済も実質経済成長率が86年の2%から87年は5.7%に向上し,新憲法に対する国民投票(87年2月),上下両院選(同5月),新議会の召集(同7月),ASEAN首脳会議の開催(同12月)等明るい材料もあった。今後は治安の確保と農地改革問題等を含め経済再建の具体策の早急な実施が最重要課題である。
その他にも緊張要因として,中越間の南沙群島を巡る紛争,カシミール問題や核開発問題を巡るインドとパキスタンとの緊張関係の継続,国境を巡る印中関係,スリランカの民族問題等が挙げられる。南太平洋においても,フィジーのクーデター発生や,仏領ニューカレドニアの独立運動継続等,不安定な状況が見られた。
このような状況を踏まえ,我が国は,トロント・サミットにおいて,アジア・太平洋地域からの唯一の参加国として,特にソウル・オリンピックを控えた朝鮮半島情勢の重要性を強調するとともに,フィリピン情勢,カンボディア問題等についての説明を行った。それにより,参加各国の首脳・外相の理解を深めることができたと考える。我が国として,今後ともアジア・太平洋地域の諸問題につき,グローバルな観点からその安定化に向けて努力を継続していくことが世界への貢献の一環として重要である。