(5)レーガン米大統領のユーレカ大学における演説

(1982年5月9日,米国イリノイ州)

「傍観者」からの卒業

卒業する諸君にとって,本日が極めて特別な日であるのは言うまでもないことだ。本日は私にとっても特別な日だと言っても構わないだろうか。1982年卒業組の諸君が今座っている場所に私が座ってから長い年月がたったが,その間私は何度もキャンパスへ戻り,いつも大きな喜びとほんのりした郷愁を感じてきた。体育館の私のロッカーをただきれいに掃除するために帰ってきたかというと,そうではない。

そうしたある機会に,私はここ「ニレの木陰」で卒業生を前に演説し,名誉学位を頂いた。私は集まった卒業生に,この栄誉はうれしいが,25年間心に抱いてきた後ろめたい気持ちがこれでまた大きくなると話した。私がもらった最初の単位はお情けだったことがいつも頭から離れないのだ。

伝統に文明を一つにまとめる力があるというのが事実なら,ユーレカはこれまでその面での貢献を行ってきた。本学は小さな社会の小さな大学だ。没個性的な流れ作業式の卒業証書生産工場ではない。諸君が本学の精神と伝統を吸収したなら,年がたつにつれて,ここで過ごした4年間は人生の貴重かつ重要な一部として諸君の記憶の中に生き続けていることに気づくだろう。

そうだ,楽しい思い出と一緒に後悔の念も幾らか覚えると思う。私は,フットボールなどの課外活動が勉学の時間に食い込んだため,成績の平均は全優というより,やっと落第しないで済む「可」の方に近かった。今でも,もっと一生懸命勉強していたらどんなによい成績が取れただろうと思っている。

32年のユーレカ大学と82年のユーレカ大学に違いがあるのは承知しているが,多くの重要な点でユーレカは変わっていないと自信を持って言うこともできる。昔と物事は同じだという私の言葉を諸君が今信ずるのは,まず第一に無理だろう。諸君より先に卒業した我々には,それがとてもよく分かる。50年前などといわず,わずか5年前に卒業して戻ってきた"年寄り連中"に自分たちの生活が分かってたまるか,と我々も考えたものだ。私の言葉をそのまま信じてほしい。年がたつにつれ,学生時代の記憶がいかに新鮮なまま心の中に残り,かつての感動がいかに容易によみがえるかに驚くことであろう。

32年卒業組には,学生生活最後の日々を記録した記念アルバムがない。33年卒業組は,あの大恐慌の苦しい時代で,「プリズム」(訳注=ユーレカ大学の卒業記念アルバムの題名)を出せなかった。それでもこの大学のおかげで,たとえ全く学資がなく家族が恐慌の犠牲で貧困にあえいでいても,私自身を含む青年男女は教育を受けることができた。

この大学は私の胸に深く刻み込まれている。私の人生で良かったことはすべてここから始まっている。

卒業の日は「始まり」の意味もある「コメンスメント」という言葉で呼ばれているが,卒業は物事の完成と同時に始まりを確認する行事なので,この言葉は適切である。私はこの新たな段階,すなわち諸君が今一人前の人間として入っていこうとしている社会についてお話ししたい。諸君はもはや傍観者ではなく,自ら決定を下し,地球上の出来事について意見を表明するよう求められるだろう。それは,これらの出来事が諸君の生活に影響を及ぼすからだ。

求められる西側の結束

私は類似性についてお話ししたが,80年代は30年代と同様,将来の方向を決める歴史の重要な節目に当たっているかもしれない。

1か月ほどのうちに,私は最も親密な友好・同盟諸国の首脳と欧州で会談する。ヴェルサイユでは,世界の主要工業諸国の首脳が,今日の経済的試練に対処するより良い方法を話し合う。ボンでは大西洋同盟諸国の首脳と共に,37年間,西側自由世界の防衛の基盤となってきたきずなを見直すことになっている。またローマとロンドンでも会談が行われる。

これらの会談は,単純だが重要な理由で意味深いものである。我が国の運命は西欧の兄弟民主主義諸国の運命と直接結び付いている。米国はじめすべての民主主義諸国が守ろうとしているもろもろの価値は,西側文化の極致を表している。卓越したノーベル賞受賞者でソ連の勇敢な人権活動家であるアンドレイ・サハロフは,自由世界へひそかに持ち出されたメッセージの中で「私は西側の人間を信用している。実際的で有能で,同時に偉大な目標を追求してやまないその内なる力を信頼している。その善意と決断力を信頼している」と書いている。

この光栄ある伝統を保ち,守るには,同じ立場にある者との協力がどうしても必要である。力を合わせてはじめて,国際社会の平和という目標を達成することが可能となる。力を合わせてはじめて,我々が高く掲げる民主主義の諸価値や人間の尊厳を守ることが可能となる。

我々が協力関係を進めるに当たっては一つの大きな問題があり,私と欧州首脳の協議ではそれが話合いの根幹となる。すなわち,西側がソ連と今後どのような関係を結ぶかということである。これから先,ソ連にどう対処すべきか。どのような枠組みの中で対ソ行動や対ソ政策を決めるべきか。これほど大きな脅威を呈し,敵対的で,しかも国外への野心がある世界的な大国から,現実問題として何を期待できるかなどの問題である。

東側との関係を首尾よく進める上で基本となるのは西側の団結だと確信している。西側の団結がなければ,我々は論争にエネルギーを割かれ,その一方でソ連は好きなように行動し続けることになる。団結があれば,我々はソ連の行動を変えさせる力を持つ。我々はかつてそうしてきたし,再びそうすることは可能である。

我々がやらなければならないのは,健全な東西関係を持続する枠組みの構築だ。私は楽観的である。ソ連とより建設的な関係を築くことはできる。しかし,そうするにはソ連体制の性格と過去の教訓を理解しなければならない。

増大しつづけるソ連の軍事力

ソ連は,すべての権力とすべての特権を握るエリートが支配する巨大な帝国である。彼らは,ポーランドに見られるように,ほんのわずかな支配力でも失えばどうなるかを恐れるため,それをしっかり握って放さない。彼らは少しの自由でも伝染することを恐れており,この結果として,その体制はいろいろな点で失敗してきた。厳しい中央集権的支配が新機軸,能率性,個人の業績の芽を摘んでしまうため,ソ連帝国はちぐはぐになっている。精神面では,不安感や不快感が存在する。

しかし,社会的,経済的な諸問題を抱えるなかで,ソ連独裁政権は世界最大の軍隊を作り上げた。これは,国民の人間として必要なものを後回しにすることによって実現されたもので,結局このやり方はソ連体制の基盤を揺るがすことになろう。ハリー・トルーマンはソ連について「他の国民を征服したり,巨大な土地に勢力を広げようとしても,長期的には成功し得ない」と述べたが,これは正しい。

それでも,ソ連の侵略性はソ連の軍事力が大きくなるにつれて増してきた。これを相殺するには,我々は過去の教訓を学ばなければならない。西側が毅然たる態度で団結していたとき,ソ連は慎重に行動した。西欧は35年にわたって,ソ連の軍事力の影にもかかわらず,自由を保ってきた。近代史の講義から思い出すように,西側は団結を通じてオーストリアから占領軍を撤退させ,ベルリンにおける諸権利を承認させてきた。

西側の政策にはうまくいかなかったものもある。東西貿易はソ連の自制を促すとの期待の下に拡大されたが,ソ連は貿易の利益を我が物にしただけで行動を和らげなかった。10年間にわたる野心的な軍備管理努力にかかわらず,ソ連の軍事力増強は続いている。そして,ヘルシンキ合意の調印にかかわらず,ソ連は自国民や東欧諸国民への支配を緩めていない。

ソ連は「リンゴ1個と果樹園一つを交換しようと申し入れてきた。この国ではそういう取引はしない」というケネディ大統領の警告を忘れた人が,70年代に我々の中にいた。我々は危うくそうするところだった。

デタント時代の東西関係が欧州で失望をもたらしたとすれば,欧州以外でデタントはソ連の行動抑制を期待していた人たちに大きな幻滅を与えた。ソ連はヴィエトナムのカンボディア占領,ラオスにおける大量のヴィエトナム軍駐留を支援し続けている。ソ連はアフガニスタンに対する侵略戦争を遂行している。ソ連の代理部隊はアフリカや中南米に不安定と紛争を持ち込んだ。

平和を守る五つのポイント

ソ連の現指導部が新世代に引き継がれつつあるのに伴い,東西関係は極めて重要な段階に差し掛かっている。ソ連の現指導部も新指導部も,侵略的政策は西側の断固たる対応を招くことを悟るべきである。逆に,ソ連指導部が自国民の生活向上に努め,武力による征服をこれ以上行わないなら,西側に好意的な協力相手を見つけることはできるであろう。西側は貿易の拡大その他の形で協力する。しかし,すべてはソ連の行動にかかっている。2千年前,デモステネスはアテネの市場に立って「正常な人間であれば,他人の行動を見ず,言葉だけを見て,この人は友好的だとか,この人は敵対的だとか決めるだろうか」と言っている。

平和とは紛争が存在しないことではなく,平和的手段で紛争に対処する能力を持つことである。我々には対処能力があると確信している。我々の利益を守り,今の世代だけでなく子や孫の代までも平和を維持する現実的かつ永続性ある政策を西側は作り出せるものと確信する。

そうした政策は5つのポイントから成ると思う。すなわち,軍事力の均衡,経済的な安全保障,地域的な安定,軍備の削減,及び対話である。これら5つの手段によって,これから先,ソ連との平和の探求が可能となる。本日私は,将来の東西関係の道しるべとして,この項目計画を詳しく説明したい。

第1に,束西の軍事力の安定した均衡は絶対に必要である。北大西洋条約機構(NATO)は先週,NATO軍とワルシャワ条約軍の総合的な戦力比較を公表した。そこで言っていることは明確だ。すなわち,過去10年の間に,ソ連はあらゆる面にわたって戦力を増強した。同じ期間中,米国の国防支出は実質的に減少した。米国は既に,この怠慢の10年間から脱却するもろもろの措置をとっている。そして欧州同盟諸国の支出は緩やかだが着実に伸びていることを付け加えたい。このことは米国ではしばしば忘れられているからだ。

同盟諸国と意見をまとめなければならない第2の点は経済的安全保障である。東側に対する重要な軍事技術の移転や財政的な信用供与,さらに東側へのエネルギー依存の問題について,西側諸国の間で協議が続いている。一部同盟諸国の経済的な必要性が米国と違っていることは承知している。しかし,軍事転用できる西側の技術をソ連の手に入れさせてはならないし,ソ連経済を財政的に援助してもならない。ソ連は軍事予算と経済的な物不足がもたらす困難な選択を行わなければならない。

第3の要素は,平和的変革による地域的な安定である。私は昨年,フィラデルフィアでの演説とカンクンでの南北サミットで、米国の基本的な開発途上国援助計画のあらましを説明した。そこで示した経済開発諸原則は今でも米国の方針の基礎になっている。これらの原則はソ連に脅威を与えない。それでも,開発途上の多くの地域で,ソ連製の兵器とソ連に支援された軍隊が社会の不安定化とモスクワの影響力拡大を狙っている。

優先的に取り上げなければならないのは,アフガニスタンの和平促進である。ソ連の侵入によって引き起こされたこの紛争の収拾交渉に真剣に取り組む用意が,米国にはある。この問題を解決し,アフガニスタンからのソ連軍の完全撤退を実現し,アフガニスタン国民の自決を確保する国際的な努力に協力する用意がある。

南部アフリカでは,西側同盟諸国やアフリカ諸国と密接に協力し,ナミビア独立へ向けて真の前進をかちとった。これらの交渉が成功すれば南部アフリカ全体に平和的かつ安全な状況がもたらされることであろう。これと並行してのキューバ軍のアンゴラ撤退は,ナミビアの独立を達成し,同地域における長期的な平和の展望を切り開くうえでどうしても必要である。

中米もまた,東西関係を緊張させる危険な場所になってきた。ソ連は中米におけるキューバの活動を支援し,最新鋭軍装備のキューバヘの引渡しを早めており,それから引き起こされた暴力や災難の責任から逃れることはできない。

しかしながら,70年代に希望が最も膨らんだのは東欧であり,最も苦い失望を味わわされたのもまた東欧である。ポーランド国民はより自由な社会を実現できるのではないかと思われていた。しかしソ連は,56年にハンガリー,68年にチェッコスロヴァキアの国民が自らの運命を決めるのを許さなかったように,ポーランド国民にもそうすることを許さなかった。

もしポーランドの戒厳令が解除され,もし政治犯すべてが釈放され,もし自主管理労組「連帯」との対話が回復されるなら,米国は経済協力計画に参加する用意がある。ポーランド国民に放水車と警棒が向けられるようでは対話にならず,希望は持てない。ソ連とその配下の諸政権は具体的行動で誠意を示すべきである。

軍備管理基準の確立を急げ

第4の点は軍備削減である。諸君の多くがこの点を特に気に懸けているのを私は知っている。31年の「プリズム」のなかで,我々はカール・サンドバーグの美しい言葉を借りている。サンドバーグは"母なるプレーリー(米中西部の大草原)"を引用して,「私のトウモロコシ畑の一つに赤い太陽が沈み,夜の海岸に星がまたたき,小麦畑が夜明けにうねるのを君は見たことがあるか」と言っている。目に浮かぶような,なんとものどかな田園風景だ。そして,巨大なキノコ雲がいつの日かこうした美を破壊することもあり得ると考えるのは,なんと悪夢のようなことだろうか。大統領としての私の義務は,この行きつくところの悪夢が決して起きないようにし,草原や都市やそこに住む人たちがいつまでも自由で核戦争から確実に逃れられるようにすることである。

核の危険をなくす簡単な政策があればどんなによいだろうと思っている。しかし,あるのは難しい政策の選択だけで,それを通じて,できる限り低水準で安定した核均衡を達成することが可能となる。

ソ連国民が,そしてソ連指導者が,核兵器の使用回避にこの上ない関心を抱いているのは疑問の余地がない。ソ連指導者は全面的な通常戦争が国土をいかに荒廃させるか身にしみて知っており,核戦争が更に悲惨であることも知っている。それでも,ソ連はこれまでのところ,軍備管理交渉を主として米国の国防計画に歯止めをかける道具として使い,自らの軍備増強と相まって,ソ連の力と威信を高める手段として使ってきた。

残念なことに,ソ連は現在ある軍備管理条約の下での義務を果たしていないという疑惑がこのところ生じている。ソ連がラオスやヴィエトナムに有毒物資を提供し,東南アジアの無防備な村民相手にこれを使わせている明白な証拠がある。そしてソ連自身,アフガニスタンの自由のために戦っている人たちに化学兵器を使用している。

我々は80年代の軍備管理のはっきりした基準を打ち立てなければならない。軍備管理を通じてソ連の軍備計画に永続的な規制らしい規制をかけようとするなら,検証可能で公平で軍事的に意味のある協定の締結に努めなければならない。軍備管理の外観を呈するだけの協定は危険な幻想を生み出す。

私は昨年11月,米国は核戦力と通常戦力の大幅削減を図るとの方針を打ち出した。それを受けてジュネーヴでは,米ソ両国の中距離ミサイルの制限を提案し,その中で最も危険な核兵器体系を双方が完全に廃棄するよう呼び掛けた。

ウィーンでは,同盟諸国と協力して,欧州における通常戦力の削減を話し合っている。

40か国で構成される軍縮委員会の場では,米国は化学兵器の全面的禁止を求めている。

現政権の発足以来,我々は極めて重要な問題であるソ連との戦略兵器管理交渉の進め方について協議を重ねてきた。これに必要な検討と分析は複雑かつ困難だった。慎重かつ徹底的に,そして正確に作業を進めなければならなかった。この交渉の確固たる基盤は固まり,議会指導者や同盟諸国との協議が続けられており,今や前進する準備が出来上がった。

START開始は6月中にも

核兵器が今日もたらした平和に対する最大の脅威は,核均衡が次第に不安定化していることである。これは,ソ連が弾道ミサイルを大幅に増強し,破壊能力を増大させたために起きたものだ。

それゆえ,抑止力を高め,安定を損ねる一番の核体系である弾道ミサイル,とりわけ大陸間弾道弾(ICBM)の大幅削減を通じて安定を達成するとともに,紛争の抑止や国家安全保障,同盟・友好諸国に対する義務の遂行に十分な核能力を維持すること―これが我々の目標となる。

私は差し当たって戦略兵器削減交渉(START)の米代表団に対し,実質的かつ段階的な削減をソ連側に提案するよう要請する方針だ。安定を損ねる一番の核体系である弾道ミサイル,その装備する弾頭の数,破壊能力全体を大幅に減らすことが我々の努力の中心となる。

STARTによる削減の第1段階が終わるときには,最も重大な脅威である弾道ミサイルの弾頭数は現水準より少なくとも3分の1低い米ソ対等の上限にまで減らされるものと期待している。安定性を高めるため,これらの弾頭の半数以上を地上配備しないよう求める。この弾頭削減とミサイルそのものの大幅削減ができるだや速やかに実現できることを願っている。

第2段階では,弾道ミサイルの投射重量を米国の現水準以下に制限することを含め,戦略核戦力の他の要素に対等な上限を設けるよう努める。第1,第2の両段階にわたって我々は協定の遵守を確保するため,検証の手順を確立するよう主張する。

安定性を高めるため戦略戦力を削減し,編成し直すというこの記念すべき仕事をやり遂げるには,精力を集中しても長い年月がかかるであろう。しかし,今存在する不安定を除去し,核の脅威をなくすことによって,戦争の危険は減らせるものと私は確信している。

私は既にブレジネフ・ソ連最高会議幹部会議長兼共産党書記長に書簡を送るとともに,ヘイグ国務長官に対し,ソ連政府と接触してSTARTの正式協議をできるだけ早い機会に開始したい旨伝えるよう指示した。6月末までには交渉を始めたいと思っている。

我々は交渉を真剣かつ誠意をもって進め,ソ連が示すすべての提案を注意深く検討する。彼らが同じ精神で交渉に臨むなら,核兵器の数を減らし,戦略戦力の拡大を食い止め,更に広範囲な措置を将来講ずる道を切り開くような永続的価値のある協定の達成は可能であると信ずる。

私は,本日の卒業の日(コメンスメント)が,この言葉の持つ両方の意味で新時代の「コメンスメント」になってほしいと願っている。すなわち,本日をより平和でより安全な世界へ向けての新たなスタートの日にしたい。

対話で問題は解決できる

東西関係に関して私が提案する最後の第5の点は,対話である。人々がそれぞれ相手について話す代わりに,互いに話し合うことによって種々の問題は解決できると私は常々信じてきた。私は既に,ブレジネフ議長と来月ニューヨークで会談したいとの希望を明らかにした。これが不可能なら,前向きな結論を予測し得る会談を将来設定したい。そして会談が実現したなら,私はブレジネフ議長に対し,本日お話しした諸原則にのっとった新たな理解を築き上げる用意があると伝えるつもりだ。

また,ソ連政府や国民は,米国を恐れることは何もないとも伝えるつもりだ。国際社会で平和に過ごしている自由諸国は,我々が調和だけを求めている事実を保証してくれるだろう。そしてブレジネフ議長には,我々両国がなぜ行動を相互に自制できないのか問いかけるつもりだ。我々両国民は真の協力から生ずる利益をなぜ享有できないのだろうか。我々は恐ろしい兵器の数をなぜ削減することができないのだろうか。

この大学や本日巣立つ若き卒業生のこと,諸君の将来への希望,諸君の平和への深い願い,そして,脅威を受けたなら自分たちの諸価値を守るという諸君の強い決意,こうしたことを私はブレジネフ議長に恐らく話すはずである。彼がいつの日かこのような儀式に出席できたなら,米国をよりよく理解するようになるだろう。彼が知っている唯一の体制の下では,諸君は政府の決定でここに集められ,多くの人はこの日,政府の代表から卒業後どこで働くかを告げられるのだ。

しかし,我々が会談のため欧州へ行き,この国の直面している重大な試練に立ち向かうとき,私は諸君のこと,ユーレカのこと,そして諸君が代表しているもろもろのことを思い浮かべると知ってほしい。私の記念アルバムの一冊に「プレーリーの任務は,強大な西部の文化育成の土壌になることだ」という言葉があったのを覚えている。

私はユーレカがこの任務を果たしていると信じている。82年卒業組の諸君は今年の収穫だ。

ユーレカは伝統ある大学であり,諸君一人ひとりが西部人の最もすばらしい理想を支えている。私は卒業生の一人として,職務に取り組むに当たり,その同じ理想を失わないよう,最善を尽くす所存である。(世界週報)

 目次へ