第5節 西欧地域

1. 西欧地域の内外情勢

(1) 概観

(イ) 81年の西欧情勢は,80年を通じ悪化した国内経済が回復の兆しを見せず,更に悪化したことを背景に,国民の時の政権に対する期待感が薄れ,各国において変革への動きが生じ,事態は流動的に推移した。

まず,フランスにおいては,5月にミッテラン社会党政権が誕生し,ノールウェーにおいては,労働党政権が総選挙で敗北して保守党が政権に復帰し(10月),続いてギリシャにおいて,同国史上初の左翼政権が成立した(10月)。

その他,オランダ(5月),ベルギー(11月),デンマーク(12月)の各国において総選挙が実施され,いずれの場合も与党勢力が後退した。また,アイルランド(6月)及びイタリア(6月)においては,内閣改造が行われ,フィンランドにおいては,大統領選挙(82年1月)が実施された。

(ロ) 西欧各国の国内経済情勢は,80年に引き続き低迷状態にあり,英国,西独,フランス,イタリアなどの主要国をはじめとして各国とも低成長,消費者物価の上昇,失業率の増大などの諸問題に直面しており,なかなか打開策を見出し得ない状況にある。

(ハ)欧州における東西関係については,79年末のソ連軍のアフガニスタンヘの軍事介入以来陰りが生じているが,ポーランド情勢の悪化は,緊張緩和に更に陰を投げかけた。西欧諸国は,ポーランドにおける人権抑圧を一致して非難し,EC各国は一連の措置をとった。

また,80年11月からマドリッドで行われている欧州安全保障協力会議フォローアップ会議は,現在に至るも「結論文書」を採択するには至っておらず,ポーランド情勢の悪化を背景に82年3月から休会に入っている。

(ニ)81年において注目すべきは,反核・平和運動を巡る動きである。この運動には種々の原因があるが,主として緊張緩和が後退する中で,ソ連の軍備増強(SS-20ミサイルの配備),米国の新型中距離核ミサイルの西欧各国内への配備などが契機となり,欧州の平和の先行きに対する欧州各国民の不安を背景としてこの運動が生じたと言える。

(2) 欧州の東西関係

(イ) 欧州安全保障協力会議(CSCE: Conference on Security and Cooperation in Europe)フォローアップ会議

本件会議は,アルバニアを除く全欧州諸国に米国,カナダを加えた35か国が参加した75年のCSCEにおいて採択されたヘルシンキ最終文書の実施状況を再検討すべく80年11月に開始された。しかしながら,ソ連のアフガニスタン軍事介入,ポーランド情勢など緊迫する国際情勢の影響を受けて,東西両陣営の対立が続き,なかんずく,欧州軍縮会議の開催,人権問題などの取扱いを巡って紛糾し,会期を大幅に延長し現在に至っている。会議は,ポーランド情勢の悪化に伴い82年3月以降休会しているが,82年11月の再開後は,これまでの交渉の過程において東西間で合意した諸点をまとめて「結論文書」を採択する予定である。しかしながら,本件会議には米ソ二大国が大きく関与しているため,会議の進展には両国の相互理解ないしは対話の継続が必要であり,米ソ間の対立気運が強まりつつある現下の情勢では,多くの成果が期待できないとの悲観的見方が支配的である。

(ロ) 中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR: Mutual and Balanced Force Reductions)

MBFRは,中欧における東西間の通常戦力に関する軍事的均衡の達成を目的として,ソ連の提唱によるCSCEに対する逆提案の形で西側のイニシアティヴにより開始された交渉であり,東側7か国,西側12か国の計19か国が参加して,73年以来現在までに26ラウンドの交渉が実施されてきた。しかしながら,「中欧の軍事力は東側が優位にあり,不均衡である」とする西側と,「中欧における東西軍事力は均衡している」とする東側との間で兵力データ問題をはじめ基本的提案事項につき対立し,8年を経過した現在も具体的兵力削減の合意は得られていない。

(ハ) 北大西洋条約機構(NATO: North Atlantic Treaty Organization)81年は,NATOにとって種々の問題への対応を迫られた年であったが,ポーランド情勢の悪化,特に戒厳令の布告後の対応を巡って,活発な動きが見られた。NATOは,直ちに緊急理事会,特別外相理事会を開催するなど対ポーランド,対ソ連措置の検討を含め,緊密な協議を行った(5月の外相理事会最終会コミュニケについては資料編参照)。一方,加盟国間においては,国防力の強化を目指し対ソ連強硬姿勢の目立つレーガン政権と経済不況下にあって防衛力の増強に難色を示し,反核・平和運動などの国内事情もあってソ連との軍備管理交渉の促進を望む欧州諸国との間に,中距離核ミサイル配備問題,防衛費増額問題,NATO域外への対応などを巡って認識の相違が顕在化するという側面もあった。

こうした国際情勢を反映し,83年末に米国の中距離核ミサイルの配備を控えた欧州各地において,平和・反核運動が活発化し,NATOも対策に苦慮している。

また,スペインのNATO加盟が促進されつつあり,12月の外相理事会では全加盟国によって加盟議定書の署名が終了した。今後,各国での批准手続が残されているものの,NATOは,西独の加盟以来25年ぶりに新規加盟国を迎えようとしている。

(3) 欧州統合

(イ) 政治協力

79年6月の欧州議会の直接選挙は,政治面における欧州統合促進への新たな一歩であり,その後,欧州議会は,EC委員会作成の80年予算を拒否するなど積極的な活動を行い,また,アフガニスタン問題ポーランド問題などの国際問題についても討議し,例えば,81年12月には,82年3月21日を「アフガニスタンの日」とする旨の決議を採択した。なお,1月には,社会党グループのビート・ダンケルト(オランダ)がシモーヌ・ヴェイル前議長の後任として議長に選出された。

また,EC各国は,中東問題,ソ連軍のアフガニスタンヘの軍事介入,ポーランド情勢などの国際問題に対し,一つの声で行動することに意を用い,特にポーランド問題の対処に際しては,外相理事会などの場を通じ緊密な協議を行った。

EC各国の政治協力において重要な役割を果たしているのが,欧州政治協議(EPC: European Political Cooperation)である。EPCにおいては,欧州統合に関する問題のほか,中東問題,CSCE,南北問題などの対外問題に関し各国が共通のポジションをとるよう協議が行われている(ただし,EPCはEC設立を決定したローマ条約に規定された機構ではない)。

欧州政治統合を促進するため,ゲンシャー西独外相は,EPCを取り込み,欧州議会により大きな立法権を認めることなどを内容とした「ヨーロッパ・ユニオン」構想を発表し,各国への働きかけを行っている。

(ロ) 経済統合

81年の欧州統合の動きは,6月に示された「5月30日マンデート」に関する報告書及びそれを巡る議論に集約された。また,鉄鋼問題についても,引続き強制生産割当が行われた。

(a) 「5月30日マンデート」

80年5月30日,EC外相理事会は,英国予算問題について同年及び81年に関してとりあえずの妥協を図るとともに,82年以降の問題については,ECの政策,制度を構造的に改革することによって解決を図るべしとの方針(いわゆる「5月30日マンデート」)を打ち出した。

これに基づき,EC委員会は,6月,欧州の再活性化を図るための包括的な展望を示した報告書を理事会に提出した。右報告書は,トルソ委員長自ら「第2世代の欧州の誕生を企図して」と述べたごとく,極めて意欲的なものであった。

報告書は,まず,欧州には,究極的に政治同盟が必要となること,また,80年代の包括的な戦略が必要であることを説いた上で,共同体の諸政策及び制度のあらゆる局面を洗い出すとともに,経済構造の近代化,共通農業政策の見直し,予算問題の解決という三つの最優先課題の下で必要と考えられる諸施策を提案している。

11月,ロンドンで開催された欧州理事会(EC首脳会議)では,EC委員会の提案が詳細に検討され,多くの問題につき大きな進展があったものの,基本的問題(牛乳・乳製品市場,農業支出,地中海産品アレンジメント,予算問題)について決着がつかなかった。最終的合意は,「5月30日マンデート」が網羅する分野すべてを含む提案全体に対して行われることとなっている。82年に入ってからも議論が継続されている。

(b) 鉄鋼

EC鉄鋼業の不況対策の一つとして,史上初めて発動されたECSC (European Community for Steel and Coal)第58条に基づく強制生産割当(80年10月から8か月間)による生産調整にもかかわらず,鉄鋼需要の落込みなどのため,この強制生産割当は,更に7月から1年間延長された(一部鉄鋼製品については,生産者による自主減産に委ねられた)。また,鉄鋼業再建のため国家助成及び最低価格の見直し,鉄鋼業関連失業対策などの諸措置がとられた。

(ハ) 対外関係

(a) EC・米国関係

EC・米国間には,ECの共通農業政策に関連した農業問題,鉄鋼問題など種々の経済問題が存在している。特に,レーガン政権が経済への公権力の不介入の観点から,公的補助の削減をECに対しても求めるという態度をとったため,EC・米国の問題が拡大した。12月及び82年2月には,閣僚レベルにおいて意見交換が行われている。

(b) スペイン,ポルトガルとの加盟交渉

本件交渉は,81年を通じ地道に続けられた。84年1月の両国の同時加盟が関係者の努力目標となっているが,これより遅れる可能性が大きいと見られている。

(4) 各国情勢

(イ) ドイツ連邦共和国

(a) 80年11月に成立した第3次シュミット内閣は,与野党の議席差45をもって発足し,安定政権を確保することが期待された。しかし,同政権内部において,連立与党の自由民主党(FDP)は,議席数増大を背景に発言力を強め,特に82年度予算編成に際して,社会保障費の大幅削減などを主張して社会民主党(SPD)と対立した。また,SPD内でも党指導部に対する左派の批判が強まり,この傾向は81年にも引き継がれた。

世論動向は,こうした与党連合内の不安定及び引き続く経済停滞などを反映してシュミット首相に不利となり,5月のベルリン市議会選挙において,戦後一貫して市政を握っていたSPDは敗退し,また,82年3月のニーダー・ザクセン州議会選挙においてもSPDは後退した。

(b)81年における経済情勢は,前年に引続き順調ではなく,一部に経常収支の好転という改善傾向が見られたものの,経済成長,雇用促進,物価安定,対外均衡という経済の4目標はいずれも達成されなかった。すなわち,経済成長はマイナス0.3%となり,これに伴い労働市場も大きく悪化した。失業者数は,81年末には170万人(年平均失業率5.5%)に達し,82年1月には195万人となり,政府は危機感を強めた。

これに対し,政府は,82年2月初め,設備投資への補助金支給を柱とする総額120億マルクの規模の雇用対策を決定した。消費者物価上昇率は,マルク安が輸入品価格を押し上げる結果となり,81年秋には対前年同月比7%近くになった(年平均上昇率6%)。

対外経済面では,マルク安による輸出ドライブ及び内需不振による輸入停滞の結果,貿易収支の黒字幅(279億マルク)が拡大したため,経常収支の赤字は,前年よりも120億マルク改善されて,175億マルクの赤字にとどまった。

(c)外交面では,11月,ブレジネフ=ソ連書記長をボンに招き,「緊張の時こそ対話を」との基本姿勢を貫き,更に,シュミット首相が,12月に東独を訪問して,長年の懸案であった両独首脳会談は11年ぶりに実現した。

また,対西側外交では,対米関係最重視の基本原則に変更はないが,米国の有力なパートナーとして言うべきことは言うとの姿勢をとった。

(ロ) フランス

(a) 81年は,ミッテラン大統領の就任と国民議会における社会党単独過半数の獲得により,第五共和制23年の歴史上初の左右の政権交代が実現した点で,フランス政治史上画期的な年となった。

5月10日の大統領選挙で現職のジスカール・デスタンを破ったミッテランは,5月21日,フランス共和国第21代大統領に就任し(就任演説は資料編参照),続く6月の国民議会選挙でも社会党が圧勝した後,共産党閣僚4名を加えた第2次モーロワ内閣が発足した。

新政権は,発足後,公約の実現を目指して種々の改革を打ち出し,地方分権化,企業の国有化,死刑廃止,税制改革,労働時間短縮などの諸政策を意欲的に推進したが,新政権の掲げた経済政策(特に失業・インフレ対策と景気浮揚策)がいかなる効果をもたらすかは,82年に持ち越された。

(b) 81年は,新政権の誕生に伴い,経済政策面でも大きな変更が見られ,失業問題解決が当面の政策目標とされるとともに,国有化政策(82年2月,金融部門及び11の大企業グループの国有化法が公布された),景気刺激型予算の編成などにより,経済の活性化を図るべく具体的措置が逐次実施された。しかし,81年の経済動向を見ると,実質経済成長率は,80年(1.3%)を下回り0.5%程度と低下し,雇用状況は一段と悪化し,求職者数は80年の145万人から81年末には187万人に増加した。消費者物価も,81年の上昇率は前年(13.6%)とほぼ変わらず,13.1%を記録した。更に,81年の貿易収支は108.8億ドルと記録的赤字を示した。

(c) 外交面では,ミッテラン新政権は,発足後直ちに過去のすべての国際約束を遵守する旨を発表し,外交の継続性の重視を表明したが,その後徐々に独自の路線が打ち出されてきている。

新政権は,いち早くNATO同盟国との友好関係の維持,西側の一員としての立場の維持を確認し,更に,世界の平和は力の均衡によって維持されると主張し,中距離核ミサイル問題についても,ソ連によるSS-20配備は東西間の軍事的均衡を崩すものであり,均衡を回復した上で軍縮交渉に臨むべきであるとの立場を示した。他方,中南米の独裁政権に対する米国の支援に反対する態度を表明し,アフリカ諸国との関係強化を図るなど積極的な第三世界重視の姿勢が注目された。

(ハ) 英国

(a) サッチャー保守党政権は,英国経済の再活性化を目的として諸々の経済政策を実施に移してきたが,中でもインフレ抑制を最重要課題として,財政,金融両面から厳しい引締め政策を実施してきた。この結果,インフレは80年6月以降漸次低下傾向を示しているが,反面,生産の低下及び失業者の急増も顕著となった。このため,80年秋ごろから,野党,経済界をはじめ,与党,更には閣内からも政府の経済政策緩和ないし修正を求める声が大きくなった。しかし,サッチャー首相は,1月及び9月,2回にわたる内閣改造を行い,更に,3月には予想外に緊縮型の81年度予算を発表するなど,当初の経済政策を遂行していく姿勢を示している。

他方,79年5月の総選挙敗北以来,左右両派の対立が続いていた労働党は,80年10月の党大会以後,左派勢力の伸張が更に顕著となり,これに不満を抱く右派系議員は同党を脱党し,3月,新たに社会民主党を結成した。更に,社民党は,自由党と連合(アライアンス)を組み,一連の補欠選挙で同連合が勝利を収めたことなどにより,現在,下院において40(社民党28,自由党12)議席を擁する勢力となった。

(b) 81年の英国経済は,80年に続き,内外の経済不況に高金利,ポンド高などの要因が加わったことにより,極めて深刻な状況となった。

消費者物価上昇率は,80年の15.1%から更に低下して,81年は12.0%と一段と鎮静化したが,生産は落ち込み,81年の実質GDP成長率は,マイナス2.0%になることが予測されている(80年はマイナス1.7%)。また,景気の後退により,失業者数は更に増加し,81年末には294万人(失業率12・2%)に達した(81年1年間で約80万人増)。他方,経済不況の影響から相対的に輸入が伸びなかったこともあり,81年の経常収支は,約80億ポンドの黒字が予測されている。

(c) 外交面では,80年のジンバブエ独立に果たしたような際立った動きはなかったが,81年後半,英国はEC議長国として,アフガニスタン問題に関する二段階解決方式提案,ECヴェニス宣言に基づく中東和平達成のためのイニシアティブ,ポーランド問題に関するECの共同措置など活発な活動を行った。

(ニ) イタリア

(a) 80年10月に成立したフォルラーニ内閣は,5月,イタリア国内の脱税,収賄などに関係があると言われる秘密結社「フリーメーソン」に現職閣僚が加入していたことが暴露されたスキャンダルを巡り,僅か7か月の短命で総辞職した。6月に至り,共和党のスパドリーニ書記長を首班とする戦後初の非キリスト教民主党(基民党)首班政権が誕生した。同内閣は,前内閣の与党(基民,社会,社民及び共和の4党)に自由党を加えた多数安定内閣で,しかも閣僚の中核は従前どおり基民,社会両党で占め,特に外務,国庫,国防などの重要閣僚は留任してフォルラーニ前内閣との継続性を維持した。

(b) 81年のイタリア経済は,前年後半からの景気後退が本格化し,GNPは75年以降初めて実質ベースでマイナス成長(-0.3%)となった。失業率も近年最高の水準(82年1月に9.3%を記録)を示している。他方,79年末からの物価急騰は81年に入っても鎮静化せず(81年平均18.7%),イタリア経済は西側諸国の中でも典型的なスタグフレーションの様相を呈している。貿易収支も前年の赤字幅の増大傾向が基本的には改善されず,6月には輸入預託金制度の導入により一時的に改善を見たが,その後再び悪化している。

(c) 外交面では,戦後初の非基民党首班内閣の成立にもかかわらず,イタリアの対外政策に大きな変化のないことを内外に示すべく,コロンボ外相を留任させ,大統領,首相を含め活発な訪問外交を展開している。82年3月には,イタリア元首として初めてペルティーニ大統領が我が国を公式訪問した。

(ホ) その他

(a) ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は,5月,トルコ人の暴漢に狙撃され,数か月間その活動を中断せざるを得ない事態に至ったが,ポーランド問題,軍縮・核廃絶などの問題に積極的な関心を示している。82年2月には,ナイジェリア,ベナン,ガボン及び赤道ギニアを訪問した。

(b) オランダでは,80年を通じて悪化した経済が依然として改善の兆しを見せないうち,5月,任期満了に伴う第二院(下院)総選挙が実施され,9月,キリスト教民主同盟と自由民主党の中道右派連立内閣に代わり,キリスト教民主同盟,労働党,民主66党から成る中道左派内閣が成立した。新内閣の最大の課題は,財政赤字の大幅削減,失業対策に主眼を置いた抜本的経済再建政策の遂行と,NATO決定に基づく中距離核ミサイルの国内配備問題に対するオランダ政府の統一見解の決定である。前者については,社会保障制度の見直しをはじめとする大幅な財政支出削減を巡り,閣内対立が顕在化し,当面具体的施策を実施し得ない状況にあり,後者については,米ソ間の中距離核戦力交渉に進展が見られないとして最終決定を棚上げする立場を明らかにしている。

81年,ベルギーは,戦後最大の経済危機に直面し,財政赤字削減,社会保障制度改革,雇用の増大,産業の合理化などを巡る連立与党間の対立が激化し,4月には第4次マルテンス内閣が,また,9月にはエイスケンス内閣が次々と倒れ,11月に総選挙が実施された。総選挙の結果成立した第5次マルテンス内閣は,税制の活用による投資増大,賃金の自動物価スライド制の見直し,社会保障の適正化,財政の海外借入からの脱却などを打ち出し,これらを遂行するため,82年末までの制限つき特別権限法案を成立せしめ,積極的に上記措置を実施しようとしている。しかし,これには社会党(ワロン系)及び労働組合が強い抵抗を示しているため,今後の成行きが注目される。

(c) 北欧諸国では,まず,フィンランドにおいて,1956年より25年間その職にあったケッコネン大統領が81年秋病気のため引退を表明し,82年1月に行われた大統領選挙の結果,コイヴィスト新大統領が選出された。新大統領は,ケッコネン前大統領の外交路線を継承する旨表明している。ノールウェーにおいては,9月に行われた総選挙の結果・労働党から保守党に政権が移り,デンマークにおいては,12月の総選挙で社民党が議席を減らしたものの政権は維持した。82年9月に総選挙の予定されているスウェーデンの内政は,5月に穏健連合党が連立政権から離脱したものの,総じて安定していた。

ギリシャにおいては,10月の総選挙の結果,パパンドレウ党首の率いる全ギリシャ社会主義党が勝利を収め,初の社会主義政権が誕生した。スペインにおいては,2月に治安警察隊員によるクーデター未遂事件が発生したが,その直後に成立したカルポ・ソテロ新内閣は堅実な政策運営に努め,12月にはNATO加盟のための議定書署名が行われた。ポルトガルでは,1月に成立したピント・バルセマンを首班とする中道右派の民主同盟政府の下で,現行憲法の改正が最重要課題となった。

アイルランドにおいては,北アイルランド問題及び経済問題が争点となった6月の総選挙の結果,フィアナ・フォイル党政権は,フィネ・ゲール党・労働党連立政権と代わったが,82年2月の解散,総選挙により再びフィアナ・フォイル党が政権の座に就いた。

スイス及びオーストリアにおいては,内政はおおむね安定的に推移したと言えよう。

2. 我が国と西欧諸国との関係

(1) 日・西欧関係全般

国家間の相互依存関係がますます深まり,国際情勢が複雑化するに伴い,基本理念を同じくする先進民主主義諸国が一致協力して諸問題に対処していく必要性が高まっている。西欧は,自由・民主主義という先進民主主義国の基本的価値の発生地であるとともに,国際社会に対し大きな発言力を有しており,また,地政学的にもソ連に隣接するなど我が国と類似した利害関係を有している。したがって,日欧間の伝統的な友好関係を基礎として,先進民主主義諸国の仲間として幅広い友好協力関係を樹立し,世界の平和と繁栄のため責任ある役割を果たすことが我が国にも期待されている。

かかる認識に基づき,我が国は,西欧諸国との関係を一層強化すべく地道な努力を重ねてきている。4月には日英外相定期協議が行われ,更には,ペルティーニ=イタリア大統領及びミッテラン=フランス大統領の訪日を機に,日伊外相定期協議(82年3月)及び日仏外相定期協議(82年4月)がそれぞれ開催され,日・西欧関係の緊密化が図られたほか,要人の活発な交流が行われた。

他方,我が国は,対西欧外交を進めるに当たり,いわゆる大国のみならず,他の西欧諸国ともきめ細かい関係を発展させるよう努めている。このような我が国の政策は,鈴木総理大臣のオランダ及びベルギー訪問(6月),デンマークのマルグレーテ女王及びヨーゲンセン首相の訪日(4月及び10月)などの一連の要人往来に示されているとおりである。

(2) 日・西欧経済関係(日・EC関係)

(イ) 81年の我が国の対EC貿易は,輸出入ともにほぼ同程度の伸びを記録した(輸出は対前年比9.9%増,輸入は同8.6%増)。この結果,対EC黒字は,貿易規模の拡大を反映して80年の93億ドル(ギリシャを含む10か国ベース)を若干上回る103億ドルになった。品目別に見ると,輸出面では,船舶(前年比189.5%増),VTRを含むテープレコーダー(同59.0%)などは好調な伸びを記録したが,テレビ受像機(同10.0%減),自動車(同0.2%減)などはほぼ80年並み,鉄鋼(同54.4%減)は大きく落ち込んだ。一方,輸入面では,非貨幣用金(同328.4%増),肉類(同144.8%増)が顕著な伸びを示したことが注目される。

(ロ) EC諸国は,深刻な経済的諸困難に直面しており,伝統的産業が衰退し,失業が増大してきている。このような状況の下で,保護主義の圧力が強まっており,10月にEC委員会及びEC諸国を訪問した政府経済使節団に対しても厳しい対日批判と要求が行われた。

(ハ) 我が国としては,従来,EC委員会とのハイレベル協議を通じ,主としてECの日本市場開放の要請に応える形で協力してきた。また,我が国の対EC輸出についても,80年来,乗用車などECのセンシティブ品目については,EC側の要請に基づき,一部の国に対する輸出見通しの通報など我が国として適当と認める措置を講じてきた。81年のこれらの品目の輸出は,落ち着いたものとなった。しかし,12月にEC外相理事会は,日・EC貿易関係の改善は緊急かつ重要であるとの認識の下に,我が国市場の一層の開放を主体とする対日要求リストを採択し,我が国の対応を求めた。

(ニ) これに対し我が国は,経済対策閣僚会議において,東京ラウンド合意の関税引下げ2年分一括前倒し,輸入検査手続などの改善,市場開放問題苦情処理推進本部の設置などの幅広い市場開放策を講じた。

(ホ) しかし,EC側は,82年1月末の日・ECハイレベル協議において,これら措置は正しい方向への第一歩であるとしつつも,EC側の要求を満足させるものではないとして,我が国の一層の市場開放努力を求めた。

同3月の外相理事会は,我が国に対し,日本市場開放についてガット23条協議を申し入れることを決定した。

(ヘ) 我が国としては,従来ガットを基礎とした自由貿易体制の維持強化を主張しており,ECとの対話を続けるとの観点から同協議に応じることとした。我が国としては,この話合いが論争のための論争ではなく,建設的な方向で行われるべきであると考えている。

(ト) 我が国としては,日・EC間の貿易不均衡は拡大均衡の方向で改善されるべきであるとの基本的立場から,EC諸国の対日輸出が促進されることを望んでいる。

このため,我が国としては,今後とも一層の市場開放及び輸入促進努力を行うとともに,EC側の対日輸出努力の増強を勧奨していく必要がある。

また,日・EC経済関係は,単に貿易面にとどまらず,相互投資,共同研究開発,第三国市場におげる協力など産業協力・科学技術協力を含む幅広いものとすることにより,更に密接かつ安定したものとする努力が続けられ,10月の政府経済使節団の訪欧を契機として日欧双方に産業協力推進への気運が高まった。

(チ) 更に,日欧経済摩擦の問題は,我が国の官民が一致協力してこれに対処し,効果的な対策を講じる必要があるとの観点から,82年3月末にロンドンにおいて日欧官民経済・貿易合同会議が開催された。

要人往来>  

貿易関係

民間投資

(あ)我が国の対西欧直接投資

(い)西欧諸国の我が国に対する直接投資

 

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