6. 南西アジア地域

(1) 南西アジア諸国の内外情勢

(イ) 概要

南西アジア地域情勢は,バングラデシュの政変を除けば平静に推移し,域内の安定が強化される動きが見られた。すなわち,(i)独立以来3度にわたり戦火を交えたインドとパキスタンの関係改善への動き,(ii)21年ぶりの中国要人訪印(7月黄華外相)に象徴されるインド・中国関係改善の兆し,(iii)対パキスタン軍事・経済援助の再開を含め米国・パキスタン関係の進展,(iv)80年以来進められている南アジア地域協力に関する域内7か国間の話合いの着実な進展(81年には,域内諸国の外務次官会議が2回開催された)等,南西アジア地域は徐々にではあるが安定強化の方向へ進んでいると言えよう。

81年の域内各国の経済は,おおむね好調な農業生産に支えられ比較的順調な伸びを示したが,他方,石油の輸入代金が急増しているのに比し,主要輸出品目たる一次産品の国際価格が変動し,貿易収支の悪化及びそれに伴う外貨準備の減少を招き,各国ともに深刻な経済問題に直面している。

また,域内各国は,国連,非同盟運動(域内7か国),イスラム諸国会議(パキスタン,バングラデシュ,モルディヴ)等を通じ,活発な外交活動を展開している。特に,インドは,2月,非同盟外相会議の開催地国となったほか,82年2月には,南北問題に関する開発途上国間の対話促進のため南々会議を開催し,44か国の参加を得た。

(ロ) インド

(a) 内政

81年は,ガンジー政権にとり経済再建の基礎造りの年であった。

まず,2月に第6次5か年計画の策定を了して,政策目標と運営方針を明らかにしたが,7月には,ストによる生産停滞を防ぐため,基幹サービス維持令(スト禁止令)を発布した。また,金融を引き締め,豊作にもかかわらず小麦を輸入する等の物価対策を積極的に推し進めた。その結果,卸売物価の上昇は,鈍化の傾向を示し,農・工業生産も回復基調にある。

なお,ガンジー首相の長男ラジーヴ氏は,6月の下院補欠選挙に出馬して当選し,正式に政界入りした。同氏は,80年6月に事故死したガンジー首相の次男サンジャイ氏に代わり,将来ガンジー首相の後継者の有力候補者の一人となるものと見られている。

(b) 外交

アフガニスタン問題等に関し,従来必ずしも明確な態度を打ち出していなかったインドは,2月のニューデリーにおける非同盟外相会議に際して,開催地国として,アフガニスタンからの外国軍隊撤退呼びかけを盛り込んだ宣言の取りまとめ,採択等を通じ,会議を穏健かつバランスのとれた方向にまとめ上げ,非同盟国としての威信の回復,維持に努めた。また,82年2月には,ニューデリーにおいて開発途上国44か国を集めて南々会議を主催するなど第三世界における指導的地位を保持している。

パキスタンとの関係では,82年1月のアガ・シャヒ=パキスタン外相の訪印に際し,9月にパキスタンの提案した印パ不戦条約締結問題につき話合いを行った。同問題は,引続き両国事務レベルで話し合われることとなっていたが,その後ジュネーヴにおける国連人権委員会でパキスタン代表がカシミール問題に言及したことにインドが反発し,話合いは一時延期された。

対中国関係では,6月に黄華外相の訪印が実現し,続いて12月には北京において,国境問題を中心とする両国関係改善のための事務レベル協議が行われた。国境問題について両国の話合いが行われたのは,21年ぶりであった。

(c) 経済

農業生産は,良好な天候に恵まれ順調であり,工業生産も8%増と上昇傾向にあって,81年度の経済成長率は4.5彩を記録するものと見られている。一方,卸売物価の上昇率も鈍化傾向にあり,インド経済は全般的に回復基調にある。

石油国際価格上昇を主因とする国際収支の悪化は深刻であるが,11月にはIMFから50億SDRに上る借款を得て,一応の手当てを行うことに成功した。

(ハ) パキスタン

(a) 内政

80年の国内政情は,比較的安定的に推移したが,81年に入り,在野9政党の民主回復運動の顕在化及びパキスタン航空機ハイジャック事件の発生等があり,一時的に反政府運動の高まりを見せた。しかし,ハック大統領は,3月には暫定憲法措置令を発布・施行し,また,12月には,国民議会復活までの暫定措置として,官選による連邦評議会の設置を発表することにより,政権基盤をむしろ強化・拡充することに成功した。また,6月には,イスラム・イデオロギー評議会が開催され,イスラム法の整備及びイスラム化の下の政治制度の在り方につき検討が加えられた。

(b) 外交

パキスタン政府は,81年も引続きアフガン問題の解決の糸口をつかむべく,外交的努力を傾注した。また,米国との間には,10月以降6か年にわたる総額32億ドルの経済・軍事援助(F16等の武器供与を含む)が合意され,79年来冷却していた対米関係は修復に向かった。米国の対パキスタン武器供与問題は,インドの対米国及び対パキスタン非難を引き起こしたが,パキスタンの対印不戦条約提案後,インドとは新たな関係改善の動きが見られる。

(c) 経済

80/81年度の経済は,主として農業生産の好調に支えられ,ハック政権以来,連続4年の順調な伸びを示した。

農業部門は,小麦が3年連続の豊作によって主食自給という目標をほぼ達成する一方,米,綿花の豊作は,輸出の大幅な伸長をもたらし,経済の安定化に寄与した。工業部門は,9.2%の成長を示した。

国際収支の窮状は,依然パキスタン経済の最大の問題の一つであるが,出稼ぎ送金の伸び,IMF拡大信用供与措置,ODAの債務繰延べ等により,国際収支の当面の危機は回避されている。

(ニ) バングラデシュ

(a) 内政

ゼアウル・ラーマン大統領は,内政の安定を背景に経済・社会開発に取り組んでいたが,5月末突如,中央政府に反旗を翻した軍反乱分子により暗殺された。同大統領の暗殺後,サッタール副大統領が直ちに大統領代行に就任し,反乱も速やかに鎮圧された。その後,11月の大統領選挙を経て,サッタール政権が発足したが,サッタール大統領は,経済情勢が悪化する中で強力な指導力を発揮し得ず,82年3月,無血クーデターによりエルシャド戒厳令司令官が実権を掌握し,新政府を樹立した。

(b) 外交

81年においても,ラーマン大統領は,善隣友好・全方位外交を推進するとともに,イスラム諸国会議の下でのジェルサレム問題三人委員会及びイラン・イラク紛争和平ミッションのメンバーとして活躍した。同大統領暗殺後も外交の基本政策に変化はないが,政府は内政に忙殺されたこともあり,外交活動は以前に比し幾分低調なものとなった。

(c) 経済

81年度は,食糧生産が記録的豊作(1,470万トン)で,工業部門も順調であったため,7.3%のGDP成長率を達成した。他方,交易条件の悪化及び外国からの商品援助の伸び悩み等により国際収支は極めて逼迫し,また,政府財政も国内資金の不足から厳しいものとなった。

82年度は食糧生産の不振が著しく,GDP成長率は,マイナス0.5%にまで落ち込む模様である。

(ホ) スリ・ランカ

(a) 内政

7月,地方自治拡大を目指す地方開発評議会が発足した。タミル人過激派によるテロ事件を発端として,シンハラ・タミル両民族間の殺傷事件が各地で発生したため,8月,緊急事態宣言が発布された。同宣言は,治安の回復に伴い82年1月に解除された。

(b) 外交

スリ・ランカは,非同盟路線を堅持しており,5月にはASEANへの加盟を申請した。

10月にエリザベス女王,82年2月にレッディ=インド大統領がそれぞれスリ・ランカを訪問し,ジャヤワルダナ大統領は,7月に英国,9月にサウディ・アラビア両国を訪問した。12月,オマーンとの間に外交関係が樹立された。

(c) 経済

スリ・ランカ経済は,農業生産増により前年を若干上回る5.8%の実質成長率を記録した。米の生産も順調で,生産高は150万トン(精米)に達した。他方,依然高いインフレ(18%)により,開発計画実施上若干手直しが行われた。

(ヘ) ネパール

(a) 内政

前年の国民投票による憲法改正に引続き,5月には,22年ぶりに直接選挙制による国会議員選挙が行われ,王制の安定化に役立った。

もっとも,反体制派の一部には選挙をボイコットしたものもあり,国王のねらいとする民主化の意図は,必ずしも実現されたとは言えない。

(b) 外交

インドのレッディ大統領,ラオ外相,趙紫陽中国総理,クズネツォフ=ソ連最高会議幹部会第一副議長,ラーマン=バングラデシュ大統領,李鐘玉北朝鮮首相等外国要人のネパール訪問が相次ぎ,ネパールはこれらの機会を利用し,「ネパール平和地帯提案」に対する支持獲得に努めた。

(c) 経済

81年も農業生産は天候に恵まれ順調で,米は,前年を3万トン上回る249万トンを記録し,輸出もかなり伸びている。

(ト) モルディヴ

ガユーム政権の下で,政情は安定的に推移した。

すなわち,大統領,閣僚による精力的な地方アトール巡回により,官民間の一層の意思疎通を図りつつ,漁業,観光及び海運の振興並びに教育,医療,運輸及び通信を中心とする地方開発に努力している。

対外的には,モルディヴは非同盟政策を堅持し,ガン島を軍事目的では外国に貸与しない旨言明した。また,同国は,イスラム諸国会議,南アジア地域協力会議に出席するなど,積極的に国際会議に参加した。

(チ) ブータン

国内政情は,ワンチュク国王の親政体制の下で一応安定しており,外交的には,81年にIMF,世銀,IDA,アジア開発銀行等国際機関に相次いで加盟し,開発計画推進の資金調達に努力した。

(2) 我が国と南西アジア諸国との関係

(イ) 各国との関係

(i)  我が国と南西アジア諸国との間には,政府・民間双方において種々の協議の場が設けられている。

インドとの間では,9月,第3回政府間貿易協議(東京),12月に民間レベルでの目印経済合同委員会(東京),82年2月,目印外交協議(東京),同年4月には,ラオ外相を迎え櫻内外務大臣との間での第3回目印外相定期協議(東京)等積極的に対話が行われた。パキスタンとの間では,82年2月,日パ事務レベル定期協議(東京)が開催された。

バングラデシュとの間では,82年2月は両国の外交関係樹立10周年に当たり,同月文化協定が署名された。スリ・ランカとの問においても,政府・民間双方における活動が活発であった。9月に次いで,82年4月には,両国経済界の間で日・ス経済合同委員会の開催(京都),また,82年3月には,エジプトに次いで我が国として2番目の投資促進・保護協定の署名が行われた。モルディヴとの間には,12月に海外青年協力隊派遣取極が締結された。

(ii)  3月には,皇太子・同妃両殿下がスリ・ランカを公式訪問され,同国官民から大歓迎を受けられた。

また,カンクンでの南北サミットにおいて,鈴木総理大臣は,ガンジー=インド首相,アジズル・ラーマン=バングラデシュ首相とそれぞれ会談した。

(iii)  域内諸国からは,3月,バングラデシュのハフィズ国会議長一行が我が国を公式訪問し,6月には,インドからガンジー首相特使として,L.K.ジャー経済行政改革委員長が訪日した。また,インドのヒダヤトゥラー副大統領が非公式に訪日し,スリ・ランカのプレマダーサ首相等が非公式に我が国に立ち寄った。

(iv)  更に,我が国において,バングラデシュ(3月),モルディヴ(5月),スリ・ランカ(82年1月)との間に各々友好国会議員連盟が結成された。

(ロ) 対アフガン難民援助

79年末からパキスタンに流入が始まったアフガン難民の総数は,82年1月現在約240万に達し,パキスタンに多大の負担を強いている。これら難民は,大部分が北西辺境州及びバルチスタン州に居住している。

同難民は避難先のパキスタン民族と言語,生活様式等を同じくしていることもあり,種々の社会・経済的摩擦はあるが,おおむね現地社会に適応している。

我が国は,同難民救済のため,79年度13億8,000万円,80年度5億9,000万円及び81年度には約39億円の援助を供与した。

これら我が国の援助は,UNHCRの救済計画支援のためのもののほか,小麦等の食糧援助,医療車,テント,毛布,亜鉛鉄板の供与並びに飲料水用井戸の掘削(難民及び周辺パキスタン住民利用)等から成っている。

要人往来

貿易関係

投資関係

経済協力(政府開発援助)

 目次へ