第2章 1981年の世界の主要な動き
1. 全般的特徴
(1) 79年末のソ連によるアフガニスタンヘの軍事介入を契機として大幅に後退を示した米ソ関係は,81年を通じても何ら具体的に修復されるに至らず,12月のポーランドにおける戒厳令布告という事態により,更に厳しさを増した。
このポーランドにおける戒厳令という事態は,東西関係,ひいては国際情勢全般に重大な影響をもたらした。米国をはじめ西側の諸国は,かかる事態は,これまで東西間で進められてきた協力・交流関係への信頼を根本から脅かすものであるとの基本的認識の下に,対ポーランド・対ソ連措置に踏み切り,厳しい対応を示した。このため,米ソ外相会談,欧州における中距離核戦力交渉等対話への瀬踏みが見られていた米ソ関係は一頓挫し,81年を通じての東西関係は不安定のまま推移したと言えよう。
(2) 中東においては,エジプト・イスラエル間のシナイ半島返還のための話合いはほぼ順調に進捗したものの,他方,イスラエルのイラク原子炉爆撃,サダト=エジプト大統領の暗殺,レバノン情勢を巡る緊張といった事態のほか,キャンプ・デービッド合意に基づくパレスチナ自治交渉も進展を見ず,81年を通じて中東和平のモメンタムが促進されたとは言い難い。
他方,湾岸地域においては,イラン・イラク紛争の膠着化,イラン国内の情勢の混迷などが引続き,アフガニスタン問題の長期化と相まって,湾岸地域の安全保障問題に対する国際的関心は高まった。このような状況の中で,サウディ・アラビアを中心に6か国による湾岸協力理事会(GCC)が発足したが,これは,かかる情勢の緊迫化に対応して域内諸国内に醸成された協調の気運の具体化と言えよう。
(3)更に,アフガニスタン情勢,カンボディア情勢は,依然膠着状態を続けて具体的な解決の見通しは立たず,また,その他の地域においても不安定要因が依然存続し,特に,中米においては,エル・サルヴァドル情勢を巡る米国とキューバ,ニカラグァ間の関係等の問題があり,情勢は流動的であった。
(4)81年の世界経済は,79年の第2次石油危機に対する調整過程にあった。
先進工業諸国においては,80年以降のインフレ高進,失業者の増大,経常収支の赤字の増大という困難な局面を打開するための努力が行われたが,景気回復のテンポは,はかばかしくなかった。
他方,非産油途上国においては,総じて,交易条件の悪化,経常収支の赤字増大により,経済運営は一層困難さを増し,加えて,産油途上国の中にも,国際石油市場の需給緩和を背景に石油販売量の減少に陥り,外貨準備の減少を来し,経済開発計画の見直しを余儀なくされた国も出てきた。
また,81年を通じて,東欧諸国及び開発途上国が抱える膨大な累積債務の処理が世界の新しい課題となってきた。
2. 国際情勢の主要動向
(1) 主要国間の相互関係
(イ) 79年末のソ連によるアフガニスタンヘの軍事介入以来,米ソ関係は大幅な後退を示していたが,その中で,12月,ポーランドにおいて戒厳令が布告される事態が生じた。米国を中心として西側諸国は,ソ連の圧力の下にかかる異常事態が生じたとの認識に立って,対ソ連・対ポーランド措置に踏み切ったが,その結果,米ソ関係は更に厳しさを増した。
レーガン米新政権は,発足以来,ソ連の一方的行動によって世界戦略上大きな変化が生じているとの認識を踏まえ,ソ連に対し,その行動の「抑制」と「相互主義」を求める姿勢をとってきている。また,国内的には,「強い米国」を目指して国防予算の増額を図るとともに,戦略戦力総合整備近代化計画の発表等を行ってきた。
こうした米国の姿勢に対して,ソ連は,基本的には米国側の具体的な政策動向を見極めるとの対応を示した。
2月の第26回ソ連党大会において,ブレジネフ書記長は,米ソ首脳会談の開催を含む「平和提案」を行ったほか,8月に米政府が行った中性子爆弾の製造決定及びNATOの核兵器近代化問題などに対しては,逐一対米非難を繰り返した。また,西欧諸国で顕在化してきた反核・反戦運動を支持するとともに,11月にはブレジネフ書記長が西独を訪問するなど一連の対西欧諸国平和攻勢を強めた。
米ソ両国間の外相会談は,9月の国連総会出席を機に2度にわたり開かれ,その結果,11月末からジュネーヴにおいて中距離核戦力交渉(INF)を開始することが合意された。右交渉に先立ち,レーガン大統領は,一方では戦略核近代化計画などソ連に対する抑止力強化に確固たる姿勢を示しつつ,11月に,(あ)中距離核戦力の削減提案(いわゆるゼロ・オプション),(い)戦略兵器削減交渉(START)の開始,(う)通常兵器の削減,(え)欧州軍縮交渉へのソ連の参加など軍備管理全般にわたる4項目の提案をソ連に対して行った。
右演説の直後,西独を訪問したブレジネフ書記長は,米国提案はソ連の一方的な削減を要求するものであるとしてこれを拒否するとともに,従来の現状凍結(モラトリアム)提案を基調としつつも,ソ連側として現在保有している中距離核戦力の一部を削減する用意がある等の内容を盛り込んだ新たな提案を行った。軍備管理問題を中心とするかかる米ソ間の対話への動きも,その後のポーランドにおける戒厳令布告により,水が掛けられた格好となった。
(ロ)81年における西欧諸国と米国との関係は,ポーランドを巡る情勢の緊迫化などを契機として西側の協調と連帯の必要性が高まったこともあり,80年に引続き協調関係の維持強化のための努力が続けられた。しかし,ECの農産物,鉄鋼の輸出に対する米国の批判が高まる等貿易面では摩擦が生じた。
他方,東西経済関係の在り方については,7月のオタワ・サミットにおいて政治・安全保障上の利益にそって考慮していく必要が確認された。
米国は,その後,欧州がソ連との間に進めている西シベリア天然ガス・パイプライン・プロジェクトに対し,対ソ連エネルギー依存度を高める等の懸念を表明したが,欧州諸国は,右プロジェクトが欧州にとって必要である旨主張した。本プロジェクトについては,米欧間の意見の一致が見られなかったものの,米国・西欧は,同じ価値観を共有するパートナーとして不断の協議により意見調整に努めてきた。
(ハ)81年を通じて,米中間では,ヘイグ国務長官の訪中(6月),南北サミットに出席したレーガン大統領と趙紫陽総理との間の初の首脳会談(10月)などを通じ,関係強化のための努力が払われてきた。しかし,81年末ごろから米国の対台湾武器供与問題が表面化するに伴い,中国側から,「米中関係は国交正常化以来最大の試練」(人民日報)に直面しているとして対米不信感が表明されるに至った。その後,ボルドリッジ国務次官補(82年1月)及びブッシュ副大統領(同年5月)がそれぞれ訪中するなど両国間で粘り強い話合いが続けられた結果,82年8月17日,米中共同コミュニケが発表されて,本問題について一応の決着を見た。
中国と西欧諸国との関係は,キャリントン英国外相(4月),ゲンシャー西独外相(10月)の訪中などを通じ,引続き関係強化が図られた。
しかし,オランダとの間では対台湾潜水艦売却問題が紛糾し,両国関係は代理大使レベルに降格された。
(ニ)中ソ間では,81年を通じてほぼ従来どおりの水準の実務関係が維持され,相互に慎重な姿勢が保たれた。この間,両国間の関係改善のための交渉は,ソ連によるアフガニスタンヘの軍事介入によって中断されたまま再開の目途が立たず,また,ソ連側が9月に提案した中ソ国境交渉の再開についても具体的な進展が見られず,80年に比べても81年の中ソ関係は大きな変化がないまま推移した。2月の第26回ソ連共産党大会におけるブレジネフ書記長演説においては,中国批判が抑制されており,中国新体制の下での対ソ連路線に何らかの変化があるのではないかとするソ連の期待感をうかがわせるものがあった。しかし,中国は,6月の共産党六中全会において,現在の中国の反覇権を柱とする対外基本政策を再確認し,また,第26回ソ連共産党大会でソ連が提唱した「極東における信頼醸成措置」についても,中国は特に反応を示さなかった。中ソ両国間の実務関係については,中ソ国境河川航行合同委員会定例会議,国境鉄道混合委員会が開かれたほか,6月には81年度の貿易支払協定が締結された。
(2) ボーランド情勢
(イ) 2月,カニア第一書記は,ヤルゼルスキ国防相を首相に登用し,事態収拾への固い決意を内外に示した。他方,連帯は,連帯穏健派・教会の収拾努力にもかかわらず,党・政府との対決姿勢を一段と強め,12月のラドムにおける連帯秘密会議においてワレサ議長までも党・政府との対決は不可避と発言するに至ったと言われている。加えて,下部党員の党民主化の要求,党指導部に対する不信・不満が高まり,10月の党中央委総会でカニア第一書記が辞任し,後任にヤルゼルスキが選出され,第一書記,首相,国防相の3職を兼任することとなった。ヤルゼルスキ第一書記もカニア路線を踏襲し,国民との対話姿勢を示し,政治・社会・経済危機を克服したいとの方針を示した。しかるに,国内情勢は一向改善の兆しを見せず,12月13日,ヤルゼルスキは,救国評議会を設置して,戒厳令を布告し,連帯幹部の拘留などの一連の措置を講じて,事態の収拾を図ろうとした。
(ロ) このような事態に先立ち,ソ連は,ポーランド国内の政情の推移,特に,80年夏以降の情勢の緊迫化に不満と警戒の念を強めていたと見られるが,4月にはスースロフ政治局員,次いで7月にはグロムイコ外相がポーランドを訪問した。また,軍事面でもバルト海沿岸などポーランド周辺地域を中心にワルシャワ条約加盟諸国とともに大演習を繰り返し行い,ソ連の厳しい態度を示していた。
(ハ) 12月の戒厳令布告という事態に対し,欧米諸国は,ポーランドの問題はポーランド国民自身によって解決されるべきであるとの立場を改めて表明するとともに,同事態はソ連の圧力の下に生じたとの判断に立ち,ソ連を非難し,その自制を求める一方,ポーランド政府に対しては,戒厳令の解除,拘留者の釈放,連帯・教会との対話再開を要求した。我が国も,これら欧米諸国との協調の下に,ソ連に対し自制を求めるとともに,ポーランド政府に対しては,国内諸勢力との和解を早急に達成し,現下の異常な事態を速やかに終了させるよう求めた。更に,米国はじめ西側諸国は,各国がそれぞれ講じる措置を損なうことのないように留意しつつ,ソ連に対し一連の政治的・経済的措置をとり,また,ポーランドに対しては,債務返済繰延べ交渉,新規公的信用供与交渉の停止など経済面を中心とした措置をとった。
(3) 中近東情勢
(イ) 中東和平問題に関しては,10月,サダト=エジプト大統領が暗殺される事件があったものの,82年4月,イスラエルによるシナイ半島のエジプト返還が予定どおり完了した。また,キャンプ・デービッド合意(CDA)に基づく西岸・ガザ地区についての自治交渉も米国・エジプト・イスラエル間で続けられた。しかしながら,エジプト・イスラエル間の見解の相違が大きく,自治交渉はほとんど進展しなかった。
他方,サウディ・アラビアは,サダト訪米中の8月,ファハド皇太子による8項目の和平提案を行った。
この間,イスラエルは,6月にイラクの原子炉施設を爆撃・破壊し,12月には占領下にあるゴラン高原に国内法,裁判管轄権,施政を適用して,事実上併合するという強硬策に出た。このため,アラブ諸国のみならず西側諸国からも強い反発を受けた。
(ロ) レバノンにおいては,3月,ベッカー平原においてシリア軍とファランジスト武装勢力(右派キリスト教徒)との間で武力衝突が発生し,これを契機として,シリアがファランジストを支援するイスラエルに対抗する目的でベッカー平原に対空ミサイルを搬入したため,シリア・イスラエル間の緊張が一挙に高まった。また,7月には,イスラエルによる南レバノンのパレスチナ・ゲリラ拠点及びベイルートヘの爆撃が行われ,イスラエル・レバノン国境を挟んで両勢力間に砲撃が続いた。このため,安全保障理事会は,7月21日,停戦決議(決議490)を採択した。米国のハビブ特使による調停工作,サウディ・アラビアによるPLOに対する斡旋もあって,7月下旬,イスラエル・PLO間に停戦が成立した。
(ハ) 湾岸地域では,イラン・イラク紛争の長期化に伴い,湾岸アラブ産油国の間で域内の協調を推進する動きが強まり,5月,サウディ・アラビア,クウェイト,バハレーン,カタル,アラブ首長国連邦及びオマーンの6か国による湾岸協力理事会(GCC)が発足した。他方,アラブ諸国間の利害対立の度は一層深まり,81年末流会になったアラブ首脳会議は,その後開催されていない。
また,8月,リビア,南イエメン,エティオピアの3国は,アデンにおいて首脳会談を開催し,米国の中東政策を非難するとともに,軍事同盟的色彩の強い3国友好協力条約を締結した。
(ニ) イランでは,6月にバニ・サドル大統領が解任された後,一時期テロ事件が続発して内政が不安定化したが,秋以降イスラム共和党による指導体制が確立した。
イラン・イラク紛争については,9月以降イラン側は反撃に転じ,戦局は新たな展開を見せたが,停戦に関する両国の立場の開きは大きく,紛争は何ら解決の糸口を見出せぬまま推移した。
米国は,レーガン大統領就任後,中東地域におけるソ連の脅威への対処を重視する政策を進め,11月,中東諸国との戦略的・軍事的協力を促進するとの立場からエジプト,スーダン,オマーンの各国と軍事演習を行った。
また10月,サウディ・アラビアに対する早期警戒機(AWACS)の売却を決定した。
(4) アフガニスタン問題と南西アジア情勢
(イ) 79年のソ連のアフガニスタン軍事介入以降,ソ連軍・アフガニスタン正規軍とアフガン・ゲリラの間の戦闘が継続しており,ソ連軍の駐留は長期化の様相を呈した。
かかる事態の推移については,西側諸国は,依然重大な関心を示し,西側のソ連に対する一連の措置は,米国の穀物禁輸解除等一部の手直しがあった以外は,基本的には,そのまま続行された。
なお,81年中,イスラム諸国首脳会議(1月),非同盟諸国外相会議(2月),欧州理事会(6月),オタワ・サミット(7月),国連総会(11月)での諸決議・宣言の採択等を通じて,アフガニスタン問題解決のための様々の外交的努力が見られたが,いずれも有効な手段とはなり得なかった。ただ,4月及び8月,ペレス・デ・クエヤル国連事務総長の個人代表が,パキスタン,アフガニスタンを歴訪し,国連が問題解決に果たし得る役割について意見交換が行われ,その後も国連による努力が続けられた。
(ロ) 南西アジア地域においては,インドが対パキスタン,対中国関係改善の動きを示し,また,非同盟路線の強調,武器調達先の多様化,IMFからの巨額の資金借入れ,経済自由化政策の推進などを通じて,ソ連とは一定の距離を置きつつ西側諸国との関係緊密化を図らんとする外交上の配慮を示した。
印パ間では,両国外相の相互訪問を通じ,不戦条約の締結,合同委員会の開設等の努力が行われ,両国関係は,緩やかではあるが,改善に向かりた。
パキスタンと米国の関係は,米国による6年間32億ドルに上る対パキスタン軍事・経済援助の実施等進展を見せた。また,パキスタンと中国の関係は,従来どおり良好であった。
同地域7か国が参加する南アジア地域協力構想も順調に進展した。
82年3月には,バングラデシュにおいてクーデターが発生したが,同地域情勢は,徐々にではあるが安定化の方向へ進みつつあると認められる。
(5) アジア情勢
(イ) 韓国においては,新憲法下で2月に全斗煥大統領が選出され,ついで3月に国会議員選挙が行われて,名実ともに第五共和制が発足した。以後,内外に向けての民主化と開かれた社会造りの努力が開始されたが,82年1月,それまで30年間続いてきた「夜間外出禁止令」が解除されたのは象徴的であった。
外交面においては,2月の米韓首脳会議,6月末から7月上旬の全大統領のASEAN5か国訪問及び8月末から9月上旬にかけての南国務総理による北欧諸国訪問が行われたほか,非同盟諸国との関係の進展が図られた。また,北朝鮮に対しては数次にわたり,南北最高責任者の相互訪問を含む南北対話の再開を提案した。
北朝鮮は,非同盟外交を積極的に推進する動きを示したが,韓国による南北対話の呼び掛けに対しては,従前の主張を繰り返すにとどまり,対話再開には至らなかった。
この間,両国の軍事的緊張状態は,依然続いており,北朝鮮からの武装スパイの浸透・領空侵犯及び米軍偵察機に対する北朝鮮の対空ミサイルの発射事件(北朝鮮はいずれも否定)などが発生している。
(ロ)カンボディア問題については,ASEANのイニシアティヴにより包括的政治解決を求める国際的努力が進められてきた。その結果,7月には,国連主催のカンボディア国際会議が開催され,ソ連,ヴェエトナム等の参加は得られなかったものの,カンボディア問題の包括的政治解決のための宣言・決議が採択された。9月には,民主カンボディア連合政府樹立に向けて,キュー・サンパン民主カンボディア首相,シハヌーク殿下,ソン・サン=カンボディア人民民族解放戦線議長の抗越三者会談(シンガポールにて)が実現し,その後の第36回国連総会においては,民主カンボディアの代表権が前年を上回る79か国の支持を得て確保された。
他方,ヴィエトナム側は,インドシナ3国外相会議(1月及び6月)においてASEAN諸国との対話を呼び掛けたが,ヘン・サムリン政権の支持,越軍のカンボディア駐留を通じて既成事実を積み上げんとする基本姿勢に何らの変化も見られなかった。
中越関係は,悪化した状態が続き,ヴィエトナムから中国に対し,第3次外務次官級会談を提案したが,中国側はこれを拒否した。
また,上記抗越三者会談以降,3派間で連合政府樹立のための話合いが続けられたが,81年中には決着するに至らなかった。
(6) 中南米情勢
81年の中南米情勢の焦点は,中米情勢であった。エル・サルヴァドルに象徴されるように中米地域は,経済開発の遅れ,社会的不公正の存在及びこれに乗ずる形での反政府勢力に対する外部からの支援という不安定要因を抱え,その情勢の展開は,東西関係の観点からも,大きな国際的関心を集めた。エル・サルヴァドルにおいては,制憲議会選挙が,82年3月,国民多数が参加して順調に実施された。同国のゲリラ勢力は,依然活動を続けているが,制憲議会選挙が順調に実施されたことは,その影響力の限界を示すものと受け取られている。ニカラグァでは,サンディニスタ党独裁の傾向が強まり,周辺諸国及び米国との関係は緊張に向かった。
中米・カリブ地域の不安定の根本的な原因である経済開発の遅れと社会的不公正の是正を目指して,米国,メキシコ,ヴェネズエラ,カナダ等により,中米・カリブ開発構想が提唱され,今後の進展が注目されている。
米国のレーガン政権は,カーター前政権が推進した人権外交の結果,円滑を欠いていたアルゼンティン,チリ及びボリヴィアなど南米諸国との関係修復に乗り出し,人的交流を活発化するとともに,武器供与及び輸出信用供与の再開に向けての措置をとるなど注目すべき進展が見られた。
81年を通じ,中南米地域も世界経済の停滞の影響を受け,一次産品をはじめとする輸出の不振,経済成長の鈍化及びインフレの高進が顕著となり,対外債務の累積も一層進んだ。このような経済情勢の悪化が,この地域の多くの国にとっての課題である治安情勢の安定と国内政治体制の民主化に及ぼす影響が懸念される。
(7)アフリカ情勢
81年におけるアフリカは,チャド情勢,アンゴラ情勢等依然不安定のまま推移した地域がある一方で,西サハラ問題,ナミビア問題等では解決へ向けて若干の具体的な進展が見られた。この間,米国・リビア関係の悪化もあり,また,エティオピア,リビア,南イエメンが3国同盟を結成したこともあって,米国,エジプト,スーダンの3国間の軍事協力関係が強化されたのに対し,ソ連など東欧諸国は,エティオピア,リビア,アンゴラなどとの関係維持強化に努め,アンゴラなど南部アフリカ地域でのプレゼンス増強を図ったことが目立った。
フランスのミッテラン新政権登場後,フランスとフランス系アフリカ諸国との間の伝統的に緊密な関係の一部にきしみが生じたが,大きな変更は認められなかった。
世界経済の不況の影響等もあり,経済情勢は,一般的に芳しくなく,国内のインフレ,失業,主な輸出産品たる一次産品の国際市況の低迷,累積債務の増大等に加えて,一部地域での難民問題もあり,これらが経済開発への障害となっている。
(8) 国際経済の動向
(イ) 81年の世界経済は,79年の第2次石油危機に対する調整過程にあった。
先進国においては,インフレ対策を最優先課題として通貨供給量の抑制を中心とする金融引締策が維持された。米国経済は,1月~3月期に大幅成長を記録したものの,後半は後退気味に推移した。西欧諸国では,米国の強い金融引締策の結果としての高金利が国内金融市場,為替市場に大きな影響を及ぼし,ひいては,各国の政策手段の選択を狭める結果となって高インフレが持続する一方,失業の増大,成長率の低下には歯止めをかけ得ず,特に,若年失業者の増大は,深刻な社会問題をも惹起した。
非産油途上国においては,年率30パーセントを超えるインフレに加え,先進諸国の高金利と内需不振がこれら途上国の支払金利負担の増大と輸出の伸び悩みを招いた。その結果,これら諸国の経常収支は一層圧迫され,また,81年末には累積債務は4,300億ドルにも達し,南北格差は依然拡大傾向を示した。
(ロ) インフレの持続,失業の増大,国際収支の悪化等の経済困難を背景として,先進諸国においては保護貿易主義的圧力が更に高まりを見せた。
このような中で,6月及び7月に相次いで開かれたOECD閣僚理事会及びオタワ・サミットにおいて,保護主義の圧力を排除し,開放された自由貿易体制を維持・強化するとの決意が先進諸国間で再確認され,また,ガットの場においても開放された多角的貿易体制に新たな政治的推進力を与えるため,82年11月に閣僚会議を開催することが決定された。
他方,世界貿易の約6割を占める日本・米国・EC関係では,それぞれ日本対米国・EC,米国対ECの間で貿易問題が生じた。
(ハ) 南北問題については,オタワ・サミットにおいて途上国に対する協力姿勢が示された。また,我が国を含むカンクン・サミット参加予定22か国外相による準備会議(8月)を経て,10月,南北関係史上初の南北サミットが開催された。参加首脳は,相互依存の重要性を認識し,対決の姿勢は諸問題の解決には資さないとの共通の判断に立ち,世界経済を運営していくことで認識の一致を見た。かかる認識の下で,懸案であった国連包括交渉(GN)についても自由で率直な意見交換がなされ,国連の場においてGNの発足に向けて協議を継続するとの前向きな合意が米国を含め得られた。
(ニ) エネルギー分野では,81年においても先進消費国において,景気の停滞・節約,代替エネルギーの開発・導入等により,引続き石油需要が減退し,また,高水準の備蓄が存在していたこと等により,国際石油需給は春以降緩和基調を示した。このような国際石油情勢を背景に,一部産油国では減産と値下げを余儀なくされるに至り,財政上の困難を来すことが危惧された。従来3本立てになっていたOPEC原油の価格体系についても,市場の実勢を直視せざるを得ないとの認識が高まるにつれ歩み寄りが見られ,10月末のOPEC総会において,基準原油価格の統一(1バーレル34ドル)が実現され,また,同価格を82年末まで凍結することも決定された。更に,12月の総会では,油種間価格差の微調整も行われた。
他方,先進消費国においては,国際石油需給の緩和基調に安心することなく,脱石油に向けた中長期的構造変化の問題に腰を据えて取り組むべき点が強調された。また,イラン・イラク紛争に伴って生じた一部消費国における供給不足の経験にもかんがみ,国際エネルギー機関(IEA)の場を中心に短期的供給撹乱への対応策が検討され,12月の理事会において,平常時における在庫状況についての報告制度の新設をほじめ,一応の結論が出された。
原子力分野では,米大統領が7月の声明において,「進んだ原子力計画を有し,かつ,核拡散の危険のない諸国における民間の再処理や高速増殖炉の開発を禁止したり,抑制したりしない」と述べ,原子力開発に対して前向きな姿勢を打ち出した。