第6節 ソ連・東欧地域

1. ソ連・東欧地域の内外情勢

(1) ソ連

(イ) 内政

(a) 1980年のソ連内政においては,6月に第26回党大会を81年2月23日に開催することが決定され,市,地方,州など各レベルの党会議が行われた。また,7~8月には,共産圏として初めてモスクワで夏期オリンピックが開催されたが,ソ連のアフガニスタンヘの軍事介入の結果,わが国を含め欧米主要国が参加しなかったことから変則的なオリンピックとなった。

(b) この間ブレジネフ書記長自身は,5月のユーゴースラヴィア訪問(故チトー大統領の葬儀)及び2回にわたるポーランド訪問(ワルシャワ条約政治諮問委員会及びジスカールデスタン=フランス大統領との会談),7月のオリンピック開会式出席,8月のアルマ・アタ市訪問,12月のインド公式訪問など1年間を通じ重要な行事には姿を見せており,健康状態は比較的良好であったものと思われる。また,後述のとおり,人事面においてもブレジネフ体制の強化が見られた。

(c) 80年の党指導部の人事面で特筆すべきことは,64年以来首相としてソ連の行政を指導してきたコスイギン首相が,10月に辞任,12月には死去し,後任にブレジネフ書記長に近いと言われるチーホノフが就任したことである。

このほか,10月にはマシェロフ政治局員候補,白ロシア党第一書記が自動車事故で死亡し,同月行われた連邦党中央委総会において,党中央委書記で農業担当と言われるゴルバチェフが,政治局員候補から政治局員に昇格し,マシェロフの後任として,白ロシア党第一書記となっていたキセリョフが政治局員候補に選出された。

(d) 国内の社会・政治的傾向としては,ブレジネフ称賛が進む中でロシアの栄光をたたえる復古的傾向(クリコヴォの闘い600年祭など)が目立ったが,これと並行して反体制派に対する締付けが強化され,1月のサハロフに対する社会主義労働英雄の称号の剥奪及びゴーリキー市への追放を始め,反体制者に対する裁判などが行われた。また,トリアッチ,ゴーリキーなどの工場におけるストやエストニアにおける学生運動がうわさされた。

(e) 81年2月23日から3月3日の間,第26回ソ連共産党大会が開催され,席上ブレジネフ書記長は,約4時間にわたる中央委報告を行った。

内政面では,61年フルシチョフ時代に採択された党綱領の改定作業を始めることを提唱したほか,労組問題,民族問題,人口問題,勤労者の労働意欲,青少年の思想教育など広範な問題に触れたが,直接,間接に内政面でも複雑かつ困難な問題を抱えていることをうかがわせた。

党大会では,中央委員319名,同候補151名,監査委員75名が選出され,また,党最高指導部(政治局員,同候補及び書記)の陣容が紹介されたが,大会前のメンバーが全員留任となり異動は全くなかった。

(ロ) 外交

80年のソ連外交は,79年末のアフガニスタンヘの軍事介入がもたらした国際的孤立からの脱出を主要課題としてきた。しかし,かかる努力にもかかわらずアフガニスタン情勢は必ずしも安定せず,国際世論も鎮静化するに至らなかった。更に,80年後半には,ポーランド情勢の緊迫化という困難な問題を抱えるに至った。

かかる厳しい国際環境に対し,ソ連はアフガニスタンヘの軍事介入の既成事実化を図る一方,東西関係正常化への道を求め積極的に「平和攻勢」を展開した。なお,第26回党大会においてブレジネフ書記長は,資本主義内部の矛盾対立の増大が軍拡競争の激化など,国際情勢複雑化の原因であると断じながらも,緊張緩和路線の継続を強く訴え8項目の平和提案を行った。

(a) 対東欧関係

東欧諸国に対しては引続きワルシャワ条約機構,コメコン及び二国間関係を通じて政治,軍事,経済関係の強化が図られた。80年5月,ワルシャワ条約締結25周年を記念して,ワルシャワにおいて政治諮問委員会を開催し,緊張緩和,戦争防止を再確認して世界首脳会議の開催を呼びかけた。

7月,ポーランドにおいて肉製品の小売価格引上げに端を発して各地にストライキが頻発,自主労組連帯の結成を見たが,ソ連は初期の段階ではこれをポーランドの国内問題であるとの立場をとり,連帯に対しても直接名指しの非難を差し控えてきた。しかし新労組の運動が次第に政治的色彩を帯び,党・政府側の譲歩が続くに伴い危機感を強め,連帯及び同指導部を名指しで批判するに至り,12月,モスクワにおいてワルシャワ条約加盟諸国首脳会議を開催,ポーランドの自力による事態収拾を見守るとの姿勢を示しながらも,兄弟的連帯及び支持を強調した。なお,ブレジネフ書記長は党大会において「諸国民の社会主義の成果を擁護するわれわれの共通の決意」を表明している。

自主路線のルーマニア,チトー死去以後のユーゴースラヴィアに対する関係も表面上大きな変化は見られず,また,アルバニアはソ連の度重なる関係正常化呼びかけにも応じていない。

(b) 対西側諸国関係

アフガニスタン軍事介入は西側主要諸国の対ソ経済制裁を招き,モスクワ・オリンピックも多くの国のボイコットにより所期の成果を上げ得なかった。

米国との関係は更に冷却し,緊張緩和の実質的裏付けとなるべき米ソ軍備管理交渉は停滞し,79年6月に調印されたSALTIIの米側批准も棚上げとなった。11月には対ソ強硬姿勢を示すレーガン氏が大統領に選出されたが,同政権発足以降,ソ連は対等性,平等の安全を基礎とした対米関係の修復を訴え,81年2月の党大会においてもブレジネフ書記長は,米ソ首脳会談を含むあらゆるレベルでの対話,SALT交渉の継続を呼びかけている。

また,ソ連は仏大統領(5月,ワルシャワ)及び西独首相(7月,モスクワ)との首脳会談を実現して東西対話を呼びかけ,後者との会談を端緒として,米ソ間の懸案であったTNFに関する予備的交渉が11月ジュネーヴで行われた。

(c) 対アジア関係

中国との同盟条約は4月に失効した。80年に予定された第2回関係正常化交渉もアフガニスタン問題のため中国側がイニシアティヴを取らず,結局開催に至らなかった。ソ連は中国国内の変革に注目しながらも,対外政策は,依然毛路線を踏襲した覇権主義であるとして非難する態度を変えず,引続き中国の西側接近を警戒している。

また,インドシナ全域への影響力確保に努めているが,カンボディア問題の解決については,将来への展望を開くまでに至らず,他方ASEAN諸国との関係も低調に推移した。

このように低調なアジア外交の中にあって,インドとの要人往来は極めて活発に実施され,12月にはブレジネフ書記長が訪印した。

(d) 対中近東関係

アフガニスタン侵攻は西側諸国のみならず非同盟諸国など第三世界からも激しい反発を呼び起こした。ソ連はアフガニスタン国内のゲリラ制圧とカルマル政権の安定化を策して,同政権の既成事実化を図る一方,米中両国を平和の敵として非難しつつ,その他の諸国には融和的姿勢を示し,これら諸国の関心を緊張緩和,軍縮問題に向けさせることに腐心し,ブレジネフ書記長は訪印の際,ペルシャ湾地域平和構想を提唱した。

9月末に勃発したイラン・イラク紛争には中立的立場をとり,早期平和解決を訴え事態を静観する態度に終始した。10月,シリアとの間に友好・協力条約を締結し中東問題に対する発言権の確保,拠点の確立を図ったが,和平問題については,キャンプ・デービッド合意反対を唱え,アラブ拒否戦線に対する精神的支持を表明するにとどまった。対イラン関係でも米国が人質問題解決に苦慮しているという相対的に有利な状況にもかかわらず,自らの影響力を扶植するには至らなかった。

(e) その他の地域

以上のようにアフガニスタン及びポーランド問題に忙殺された結果,ソ連の外交活動の余地は自ら狭められた。

アフリカについては,引続き反帝国主義,植民地主義及び人種差別反対,民族解放闘争支援を旗印として影響力の維持拡大を図っているが,80年4月独立したジンバブエとの外交関係樹立には,81年2月まで待たねばならなかった。しかし,南部アフリカヘの関心は失っておらず,ナミビアについては,引続きSWAPOを支援している。

中南米に対しては,キューバヘの援助を継続し,ニカラグァとの関係強化を図っている。

(ハ) 経済情勢

(a) 第10次5カ年計画の最終年に当たる80年のソ連経済は,全般として不調に終わった。計画遂行状況は鉄鋼,石油,石炭などの基幹産業部門の不振により鉱工業生産の伸びが,計画4.5%に対し実績3.6%であった。農業についても穀物生産が1億8,900万トンと昨年に引続き不作であったため,農業全体としての生産は,計画8.8%増に対し実績3%減となり,この結果国民所得の伸びの実績も3.8%と計画4.0%に達しなかった。

(b) 80年は第10次5カ年計画の最終年であったところ,右計画全体の遂行状況についても,鉱工業生産は,計画35~39%増に対し実績24%増,農業生産は計画14~17%増に対し,実績9%増といずれも計画未達成に終わり,したがって国民所得の伸びも計画24~28%に対し,実績は20%程度と見られ,不調に終わっている。

(c) このような経済不振の原因は,天候不順などの自然条件に起因するもののほか,鉄鋼,エネルギー,輸送などの基幹部門の諸欠陥を含め,より基本的には計画経済が内包する構造的,制度的な諸欠陥が顕在化してきていることにあると見られる。

(d) なお,81年2月の第26回党大会において第11次5カ年計画が採択された。同計画は基本的には「質と効率の向上」を主要目標とした第10次5カ年計画の路線を踏襲しているが,その諸指標は抑制されたものとなっている。

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(2) 東欧地域

80年夏のポーランドにおける食肉価格の引上げに端を発した同国の政情不安は,国際的に大きな波紋を投げかけた。このポーランド情勢の展開に対し,他の東欧諸国の党・政府は,一様に警戒ないし危惧の念を示したが,これら諸国の政情はおおむね平穏であった。

ポーランド以外の東欧諸国にとっても,70年代後半以降における経済運営の困難化への対処が大きな課題であり,いずれの国も80年に終了した5カ年計画を達成し得なかった。

ユーゴースラヴィアでは,5月のチトー大統領の死後も同大統領の内外路線が継承された。また,同国の経済情勢も難しい局面にあるが,政情は比較的安定した状況で推移した。

(イ) ワルシャワ条約諸国

(a) ドイツ民主共和国

80年においては,両独関係の冷却化,ポーランド情勢の深刻化などの外的な動きにもかかわらず,政情は比較的平穏であった。経済面では,過去5カ年の実績は他の東欧諸国同様計画を下回ったが,これら諸国の中では相対的に安定した伸びを示した。

外交面では,対ソ協調路線に変化なく,ポーランド国内の動きに対する厳しい態度,アフガニスタンのカルマル政権への支援,ホネカー議長のオーストリア訪問などが注目された。

(b) ポーランド

80年は,ポーランドにとって,戦後社会主義化して以来最大の激動の年となった。同時に,ポーランド情勢の展開は,東西関係の新たな不安定要因となった。

2月の第8回党大会で,70年代半ば以降の経済不振の責任を問われたヤロシェヴィッチ首相が更迭され,バビュフ党中央委政治局員が後任に任命された。新首相は,経済を建て直すために,財政健全化,市場価格の合理化政策の一環として,7月,食肉価格を引き上げた。しかし,労働者は,70年,76年の場合と同様に,これに反発を示し,賃上げを要求したストを波状的に拡大した。更に,8月中旬に至り,グダンスクなどバルト海沿岸地域で自由労組結成の承認,スト権の保障など,ソ連をモデルとした社会主義体制の根幹に触れる要求を掲げたストが発生し,ポーランドを巡る情勢は緊迫した。しかし,企業の横断的な組織である工場間ストライキ委員会と政府との間で粘り強い交渉が続けられた結果,8月末,グダンスクなどで自主管理労組の設立などを認めた合意が成立し,ストはひとまず収拾された。その間,バビュフ首相が解任され,また9月にはギエレク第一書記も辞任を余儀なくされ,カニア第一書記及びピンコフスキ首相の新政権が成立した。

その後11月には,前半に工場間ストライキ委員会を母体にした独立自治労組「連帯」の規約,また後半には「連帯」支部員の逮捕事件と鉄道ゼネスト計画を巡って再び緊張が高まった。このようなポーランド情勢を背景に,12月初め,ポーランド国境周辺のワルシャワ条約機構軍の高度警戒態勢が伝えられるとともに,突如ワルシャワ条約機構諸国首脳会議が開催されたため,ソ連・東欧諸国の軍事介入も懸念されるに至った。軍事介入により,70年代に築かれた欧州の緊張緩和が崩壊し,東西関係に大きな影響を与えることを危惧した欧米諸国は,外部からの干渉を排したポーランドの自力解決への期待を表明した。

深刻な経済危機にあるポーランドの党・政府としては,就労人口の約6割を占める1,000万人を擁する「連帯」との協力は不可欠である一方,事態の進展に不満を表明しているソ連・東欧諸国の理解を得る必要もあり,81年に入っても新たな政労間の対立の都度社会的不安が高まった。このような状況を背景に2月に開かれた党中央委総会でヤルゼルスキ国防相の首相任命が決定された。ヤルゼルスキ首相は,経済再建のための90日間スト中止を訴え,国民の協力を呼びかけたが,政労間の不信感は根強く,情勢が安定化するには至らず,経済困難は一層深刻化することとなった。

(c) チェッコスロヴァキア

内政面では,引続き経済問題への対処がフサーク政権の最大の課題であったが,80年に終了した5カ年計画の主要指標は未達成に終わった。しかし,政情に大きな変化はなく,ほぼ安定している。

外交面では対ソ協調路線が堅持された。ポーランド情勢に対しては,東欧の中でも東独とともに最も警戒的であった。西側及び開発途上諸国との間では,経済を始めとする実務的な外交が進められた。

(d) ハンガリー

80年3月には第21回党大会が開催され,経済問題を中心に討議が行われ,これまでの経済改革路線を更に前進させることが決定された。

経済抑制策の国民生活への影響にかかわらず,カーダール第一書記に対する国民の信頼は厚く,政情は安定している。外交面では,デタント後退の中にあって,西側との交流に意欲を示した。また,ポーランド情勢に対しては,基本的には同国の自助努力を期待した。

(e) ルーマニア

国内の体制には変化はなく,チャウシェスク政権の安定性も揺らぐことはなかった。しかし,国内経済の悪化に伴い物資不足がますます深刻となった。しかも,夏以降のポーランド情勢の展開により,対外累積債務,農業不振という共通の問題を有していることから,内政面でより多くの配慮を余儀なくされた。経済面では,工業成長の鈍化傾向,農業のマイナス成長が見られるに至り,これまでの高度成長政策の転換を迫られた。

外交面では,内政重視の姿勢もあって以前ほどに活発な外交は見られなかったものの,中東和平,対中国友好関係維持,更に,ポーランド問題については,ポーランドの自力解決を主張するなど,自主外交の基本線は堅持された。

(f) ブルガリア

ジフコフ政権は安定しており,内政面での注目すべき変化はなかっただけに,ジフコフ議長の長女のジフコヴァ文化相の建国1300年祭準備などに見られる活発な文化活動が注目された。

経済面では,昨年同様,工業・農業ともに成長の鈍化傾向が続いでおり,かかる傾向を打開するための一助として外資法を制定し,西側資本誘致に努めている。

対ソ協調外交に変化はなかったが,中東諸国への資源外交,対ユーゴースラヴィア関係の改善が見られた。

(ロ) その他の諸国

(a) ユーゴースラヴィア

80年5月4日,チトー大統領が死去し,「チトー後」の時代に入った(同大統領の国葬にはわが国の大平総理大臣始め主要国首脳を含む121カ国の代表が参列した)。

チトー大統領の死に際し,ユーゴースラヴィア指導部は,内政外交共に「チトー路線」を歩むことを明らかにし,また,「集団・輪番指導制」を円滑に機能させつつ,内政の安定を維持している。

しかし,経済は,インフレと国際収支悪化を中心に困難の度を加えており,政府は「経済安定政策」に全力を挙げているが,経済悪化は原油価格高騰など外的要因によるところも大きく,未だ顕著な効果を上げるに至っていない。

西側諸国は,ユーゴースラヴィアが対ソ独立,非同盟のチトー路線を堅持していることに好感を持ち,これを支持するとの姿勢を示し,他方,ソ連もユーゴースラヴィアとの関係改善に努めているが,「非同盟の父」チトーを失ったことは,非同盟に基礎を置くユーゴースラヴィア外交の痛手となっている。

(b) アルバニア

78年中国からの援助を打ち切られて以来,いかなる国とも盟友関係に立たず,援助・借款も受けず,自力で経済開発を図るとの方針を堅持している。このため,近隣国,西欧中立国を中心に貿易拡大に努め,また,閣僚級の相互訪問も行うなど,「孤立主義」から脱皮の傾向が見られるが,米ソ2超大国とはいかなる関係も持たないとの態度は変えていない。

ホッジャ=アルバニア党第一書記の絶対的地位も揺らいでいない。

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