第8節 アフリカ地域
1. アフリカ地域の内外情勢
(1) 概 観
1979年には,ローデシア情勢に大きな展開がみられた。すなわち,さまざまな曲折を経た後,12月に紛争の全当事者間でローデシアの独立のための合意が成立した結果,80年4月にはローデシアが多数支配に基づく「ジンバブェ」として独立し,南部アフリカ問題の解決に新しい展望をもたらした。
また,国境紛争に端を発したウガンダ・タンザニア戦争の結果,79年4月ウガンダのアミン政権が倒された。さらに8月には赤道ギニアで,また,9月には中央アフリカでそれぞれ専制政治をしいていた政権がクーデターにより打倒されたことが注目された。
他方,9月ナイジェリアでは13年間続いた軍政より民政への移管が行われ,同月ガーナにおいても軍政より民政への移管が行われるなど新しい動きが見られた。
(2) 東部アフリカ
(イ) エティオピア
国内面では,78年11月から国民経済開発キャンペーン,79年6月から文盲撲滅キャンペーンの2大国民運動が行われ,所期の目標をほぼ達成
した。また,12月には長年の懸案であつた「エティオピア労働者党」設立のための準備委員会が発足した。
外交面では,ソ連,東独,キューバ,南イエメンなどの社会主義諸国との関係を深めた。すなわちイスマエル南イエメン党書記長(5月),コスイギンソ連首相(9月),ホネッカー東独党書記長(11月)のエティオピア訪問があり,メンギスツ議長の南イエメン訪問(11月)が行われた。また,メンギスツ議長はハバナの非同盟首脳会議に出席し,非同盟グループ内ではキューバと並んでソ連寄りの態度を示した。
(ロ) ソマリア
8月にバレ政権成立以降初めて憲法草案が人民投票に付され,12月には同憲法に基づく人民議会及び地方議会議員の選挙が実施された。
エティオピアとの関係は依然として改善が見られず,国境地帯での小規模な武力衝突が頻発している。
ソ連のアフガニスタン進攻以来,インド洋沿岸諸国に軍事基地の確保を求めている米国が,ベルベラ基地使用をめぐりソマリアに接近を始め,その成行きが注目される。
(ハ) ケニア
78年10月に就任したモイ大統領は,79年11月の総選挙で再選され,同政権の基盤を固めた。外交面では78年に引き続き近隣諸国及び欧米諸国を訪問し,その積極外交を展開したが,タンザニア及び新政権成立後のウガンダとの関係は依然好転を見せなかつた。
経済面では原油価格の高騰による国際収支の赤字及び失業,インフレ問題などの解決が課題となつている。
(ニ) タンザニア
78年10月に発生したウガンダとの国境紛争は,その後両国間の全面衝突へと発展し,4月には,タンザニアの勝利のうちに戦闘は終了した。この戦争による戦費支出は,石油価格の上昇,同国産換金作物の価格低迷などと相まつて,同国に経済的困難をもたらし,このため政府は,各国に援助を求める一方,厳しい輸入抑制を行うなどの対策を講じたが,依然,経済的には苦しい状況にある。
(ホ) ウガンダ
78年10月に発生したウガンダ・タンザニア国境紛争は,アミン政権とタンザニア・ウガンダ民族解放戦線(UNLF)連合軍との間の全面的戦争へと発展し,79年4月にはアミン政権は崩壊,UNLFの議長ルレが大統領に就任した。しかしUNLFの内部抗争により同政権はわずか2ヵ月でビナイサ政権に交替した。同政権は80年後半に予定されている大統領選挙及び総選挙までの暫定政権とされている。
(ヘ) マダガスカル
マダガスカルは,ラチラカ大統領の就任以来4年目に入り,同大統領はその標榜する社会主義路線の地盤固めを一応終えたものとみられる。
しかしながら,79年には,農作物の不作及び石油値上げと,それに伴う生活必需品の価格高騰により経済面で各種困難が発生した。これに対する有効な対処が焦眉の課題となり,同政府は農業開発を最大目標とする各種計画の策定を進めた。
(3) 中部アフリカ
(イ) ザイール
最大の国内的課題たる経済の再建計画の一環として,7月にIMFの協力を得て「経済安定化計画」を策定し,IMFより新たな借款供与を受けることになり,さらに11月のザイール経済再建のための援助国会議及び12月の対ザイール債権国会議において,各国の協力をもとめた。また,世銀の協力を得て,「中期投資計画」の策定に努めた。
さらに第2次シャノミ紛争の後シャバ州の治安維持にあたつていたアフリカ諸国軍が8月に撤退すると,モブツ大統領は,以後年末まで同州にとどまり,同州の安定に意を用いるなど,経済再建策の実施のための基盤造りに努めた。
外交面でも,78年のアンゴラとの外交関係再開に引き続き,79年には,タンザニア,ザンビア,コンゴーなど周辺諸国との外交関係の改善に努めた。
(ロ)中央アフリカ
9月にダッコ元大統領がフランスの空挺部隊の支援を受けてクーデターを起こし,ボカサ皇帝は失脚した。ダッコ元大統領は帝制を廃止し,共和制を宣言するとともに,自ら大統領に就任した。
(ハ) ガボン
77年以来の緊縮財政と石油収入によつて,対外債務の縮小がみられるなど,経済状況は好転しつつある。また,12月にはボンゴ大統領が3選され,以後引き続き7年間政権を担当することとなつた。
(ニ) カメルーン
11月には,アヒジョー大統領の4選(1975年)以来2度目の内閣改造が行われた。また80年2月のカメルーン国民連合(単一政党)党大会において,アヒジョー大統領は次期大統領選の同党単一候補に指名され,5選への道が確定された。外交面では,8月にアンゴラと外交関係を樹立した。
(ホ) 赤道ギニア
8月4日,オビアン・ヌゲマ中佐による軍事クーデターが発生,68年の独立以来,独裁を続けてきたマシアス政権が打倒された。新政権は,旧政権時代に悪化していた欧米及び近隣諸国との関係を改善した。
(ヘ) チャード
2月首都において,マルーム大統領派とハブレ首相派との間に武力衝突が起こり,内戦に発展した。これに対してナイジェリアなど隣接5カ国が調停に乗り出し,3月に平和協定が締結され,さらに8月,すべての党派(11派)の合意により,ウェディを大統領,カムーゲを副大統領とする暫定国民連合政府の樹立が決定され,同政府は11月に発足した。
しかしながら,各党派の非武装化は実現されず,ついに80年3月には,大統領派とハブレ国防相派との間に武力衝突が発生し,再び内戦の様相を呈している。
(ト) コンゴー
2月にオパンゴ大統領が失脚し,3月にンゲソ大佐が大統領に就任した。7月には新憲法採択のための国民投票が実施され,あわせて国民議会,州議会,地方議会議員の選挙が行われた。
(4) 西部アフリカ
(イ) ナイジェリア
10月にオバサンジョ軍事政権から民政への移管が平和的かつきわめて円滑に実施され,シャガリ新大統領が就任した。同大統領は国家建設,国家の統一・安定を最優先課題とし,とりわけ農業の振興,住宅建設,教育に重点をおく政策を発表した。
経済面においては,イラン革命以来の石油価格の高騰により,石油生産は過去2年間の不振を脱却,またオバサンジョ政権以来の緊縮政策も効を奏して,国際収支は過去3年来の赤字から黒字に転じた。
外交面では,新政権は旧軍事政権以来の外交方針―アフリカ重視・国連中心・非同盟主義・OAU協調など―を踏襲しつつ積極的な外交を展開し,特に南部アフリカ問題では,アフリカにおける反植民地主義・民族解放運動の旗手としてリーダーシップを発揮した。
(ロ) ガーナ
6月にローリングス空軍大尉によるクーデターが発生し,アクフォ軍事政権は崩壊した。その後9月には7年半続いた軍政から民政(第3共和制)への移管が実現し,リマン現大統領が就任した。同政権は,外交政策面においてはやや西側寄りながらも,非同盟中立主義政策をとり,また内政面においては,政情の安定に不可欠な経済再建を最優先事項として種々の経済政策を打ち出した。
(ハ) リベリア
4月,政府の米価値上げに反対する市民のデモ隊と軍・警察との間に衝突事件が発生した。政府は米価値上げ措置を撤回する一方で,デモの首謀者たるPAL(リベリア進歩同盟)の幹部を逮捕した。
しかし,政府与党(単一政党たるウィッグ党)は,結局PALの受入れを余儀なくされ,12月にはPPP(人民進歩党)として,その存在を正式に認めた。80年3月には,反政府のゼネストを呼びかけたため,PPPは再び非合法化された。
外交面では,7月にアフリカ統一機構(OAU)元首会議が首都モンロヴィアで開催されたほか,トルバート大統領は積極的な外交活動を展開した。
(ニ) セネガル
2月の憲法改正により4番目の政党が公認され,76年に始まつた多数政党制の導入が更に促進された。しかしながら,与党社会党をバックにしたサンゴール政権は引き続き安定を保つた。経済面では干ばつ被害による落花生などの農産物生産の不振により,財政緊縮政策や第5次4カ年計画の再調整もみられたが,対外的には,同国は回教国家としてアラブ諸国など世界の回教国の集まつた各種会議において積極的な活動をするなどの動きを示した。
(ホ) モーリタニア
4月には,サレク大佐に代わりブー・セイエフ中佐が実権を握り首相に就任したが,6月回首相は搭乗機事故により死亡し,ハイダラ中佐がこれに代わつた。また,ルーリィ中佐が,国権の最高機関たる国家救済軍事委員会(CMSN)議長に就任した。他方,7月に入ると,ポリサリオ戦線は,対モーリタニア・ゲリラ活動の再開を発表,モーリタニアは西サハラに対する領有権の放棄宣言を余儀なくされ,8月に同戦線との平和協定を締結し,かつアルジェリアとの外交関係を再開,モロッコとの間の相互防衛取極を破棄した。80年1月には,CMSN憲章が改正され,ルーリィ中佐に代わり,ハイダラ中佐が首相在職のまま,CMSN新議長兼国家元首に就任し,同時に軍事政権発足以来3度目の内閣改造が行われた。
(ヘ) マ リ
3月の人民民主同盟党設立会議,6月の大統領選挙(トラオレ元国家解放軍事委員会委員長を選出)及び国民議会議員選挙をもつて,5年前より準備の進められていた民政移管は成功裡に完了した。しかし他方,慢性的な財政危機・食糧不足に加え11月以降には学生の反政府運動が激化するなど,経済・社会的状況は悪化した。
(ト)ニジェール
クンチェ政権下のニジェールは,長年の課題であつた食糧自給を達成し,また10月には開発公社(国造りのため,国民のあらゆる階層・職種の代表者を糾合する母体組織)設立準備のための国家委員会を設立するなど,社会・経済開発の歩みを着実に進めた。
(チ) ギニア
78年11月のギニア民主党大会で,20年来の東側一辺倒政策から全方位外交への路線転換を明確に打ち出したのを受けて,セクトゥレ大統領はいわゆる「外交攻勢」に転じ,1月早々から諸外国歴訪を行い,アフリカ諸国のみならず,ユーゴースラヴィアなど東欧諸国,さらに8月には米国,9月にはキューバなど中米・カリブ海諸国,10月には北朝鮮を訪問した。
(リ) 象牙海岸
かつて「象牙の奇跡」といわれた高度経済成長も,78年に入つて急激な減速を強いられたが,79年に入つて若干の回復を示した。
内政面においては,ボワニ大統領のカリスマ的指導力を基本とする現体制に揺るぎはなく,全体として平穏な推移を示した。
外交面においては,9月末中央アフリカボカサ前皇帝の政治亡命受入れという事件はあつたものの,対仏関係の維持・強化を中心とする現実主義路線に変化はなかつた。
(5) 南部アフリカ
(イ) 南アフリカ
79年においては,ボータ首相が人種差別政策に対する変化を強調して注目されたが,具体的に現われた変化としては,黒人の労働権における若干の改善などにとどまつている。9月には人種差別政策の一環として第3の黒人国「ベンダ」を「独立」させたが,南ア以外にこれを承認した国はない。こうしたことから南アの人種差別政策の根幹に変化はないとみられており,同国は国連など種々の国際的フォーラムにおいて引き続き非難を浴びている。
他方,従来南アは主としてイランから原油の輸入を行つていたが,79年初頭,革命により成立したイラン新政権が対南ア原油輸出禁止を決定したため,その南ア経済への悪影響が予想された。しかし,その後金価格の急騰による金輸出収入の急増が,これを緩和する要因としてはたらいたとみられている。
(ロ) ローデシア
79年に入り「内部解決派」は新憲法を制定し,4月に総選挙を実施した。その結果,6月には黒人のムゾレワ首相を首班とする黒人・白人混合政権のもとで,「ジンバブエ・ローデシア国」が発足した。これに対し急進派黒人団体(「愛国戦線」)は強く反発し,ザンビア,モザンビークなどフロントライン諸国などの支援を得て解放闘争を激化させた。その後8月のコモンウェルス首脳会議でローデシア問題の平和的解決のための合意が成立した。これに基づき9月には,全紛争当事者によるローデシア制憲会議が開催され,12月ローデシアの独立に関し,全当事者の合意が成立した(右合意に従つて80年2月末総選挙が実施された結果,ジンバブエ・アフリカ民族同盟・愛国戦線党のムガベ議長を首班とする政府が樹立された。これを受けてローデシアは,65年11月のスミス白人政権による一方的独立宣言以来,14年余に及ぶ紆余曲折を経て,4月18日ジンバブエの名のもとに正式に英国より独立した)。
(ハ) ナミビア
2月に発表されたナミビア問題解決のための国連事務総長特別代表による報告は,南アフリカ側に拒否されたため,国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)の派遣は実現せぬまま事態は推移した。また,7月には,アンゴラのネト大統領が新たに「非武装地帯構想案」を提示し,これに関し,11月に黒人解放団体(SWAPO),南アフリカ,西側5カ国,フロントライン諸国が参加して,ジュネーヴ会議が開催された。
この結果,フロントライン諸国及びSWAPOが「非武装地帯構想案」に同意し,次いで南アフリカも12月,6項目の条件を付してこれを受諾した(ただし,その後数カ月を経ても,南ア側の慎重な態度もあり,事態に大きな進展はみられない)。
(ニ) ザンビア
カウンダ大統領のもと,ザンビアの国内政治情勢は安定した推移をみぜたが,国民の主食であるメーズの生産不振,銅価格の低迷,輸送問題などにより経済情勢は依然として改善をみていない。
外交面では,8月にルサカで英連邦首脳会議が開催され,ローデシア問題解決のきつかけをつくつた。
(ホ) アンゴラ
アンゴラでは,引き続き国内情勢は安定しているとはいえず,特に南部において反政府活動が依然活発である。
9月にはネト大統領が病死し,ドス・サントス計画大臣兼MPLA労働党中央委政治局書記が大統領に就任した。