第7節 中近東地域

1. 中近東地域の内外情勢

(1) イラン,アフガニスタン及び湾岸情勢

1979年における中東湾岸地域の情勢は流動的に推移し,特に,2月のイラン革命,さらに11月には在テヘラン米大使館占拠・人質事件の発生,12月末のソ連のアフガニスタンヘの軍事介入などの地域全体の平和と安定に大きな意味をもつ事件が発生し,このほかにも,南北イエメン紛争,イラクにおけるクーデター未遂事件,サウディ・アラビアのメッカ神殿における騒擾事件,イラク・イラン関係悪化などの事件が起きている。

イランと湾岸諸国とは同じ回教国であるが民族・宗派・規模・国内体制など国情を異にしていることもあり,イランにおける事態の影響が直接波及することはなかつたが,一般に各国ともイラン情勢の推移如何は地域の安定に大きな影響をもつものとして,その動きを注意深く見守つてきたといえる。

ソ連のアフガニスタン介入に対しては,非同盟かつイスラム諸国が多い湾岸諸国では一般に大きな憂慮の念をもつて受け止められており,国連をはじめ国際的な場においてソ連の介入に対する非難がなされた。特に,80年1月のイスラム諸国緊急外相会議においてはソ連の軍事侵略を非難し即時撤退を求めるとともにオリンピックのボイコット,アフガニスタンのカルマル新政権との外交関係断絶などを呼びかけた決議が採択された。

このような中で湾岸諸国は域内の安全保障は,域外国よりの介入を排し域内諸国自らの手で確保するとの基本的立場をとつており,9月オマーンが域内外関係諸国に対して打ち出したホルムズ海峡の安全保障構想もかかる観点より域内関係国より賛同が得られなかつた。

(2) 中東和平をめぐる動き

78年9月のキャンプ・デーヴィッド合意に基づき,カーター米大統領の精力的な仲介努力を通じ,79年3月26日エジプト・イスラエル平和条約が署名された。これにより1948年以来の両国間紛争に一応終止符が打たれることとなつた。しかし,他のアラブ諸国はエジプトのこのような動きに強く反発し,3月27日からバグダッドで開催されたアラブ外相・経済相会議で,エジプトに対する外交関係の断絶,経済援助の停止などを内容とした決議を採択した。しかしながら,アラブ諸国間の足並みの乱れもあり,右制裁はエジプトに決定的な打撃を与えなかつた。

平和条約の規程に従い,イスラエルは80年1月末迄にこれ迄占領していたシナイ半島の3分の2の地域から撤退し,2月末には両国間に大使の交換が行われた。しかしながら中東紛争の核心ともいえるパレスチナ問題に関しては,80年5月末を目標に西岸ガザ地域に自治を付与すべくエジプト・イスラエル間で交渉が行われてきたが,両国間の立場が著しくかけ離れていること,パレスチナ人が右交渉に参加する意向を示していないことなどの理由から実質的な成果を挙げられなかつた。また紛争当事国たるシリア,ジョルダン及びレバノンがイスラエルと平和条約を結ぶとの姿勢を明らかにしていないこともあり,包括的解決への糸口はつかめなかつた。

なお,エジプトの戦線離脱によるイスラエルの相対的な軍事的優位,アラブ諸国の足並みの乱れなどPLOをめぐる政治的環境が不利に展開する中で,PLOは79年6月頃より,アラファト議長の墺首相との会談,スペイン公式訪問,更にはパレスチナ人の自決権を承認せしめるべく国連決議242の修正に向けてイニシアティヴをとるなどの外交攻勢をかけた。しかしながら,米国と直接対話を行い,パレスチナ人の権利を承認させるとの所期の目的は達し得なかつた。

(3) 各国の情勢

(イ) エジプト

(a) 79年は,キャンプ・デーヴィッド合意の実施の年であつた。3月にはエジプト・イスラエル間平和条約が署名され,そのもとで両国間の国交正常化が進められた。

(b) 内政面では,サダト大統領は,国内体制再編成のため,6月人民議会を解散し総選挙を実施した後,ハリール首相を首班とする新内閣を発足させた。なお,キャンプ・デーヴィッドの合意及びエジプトのアラブ世界での孤立化に反対する学生やイスラム教条主義者の反政府運動の動きがみられた。

(c) 外交面では,3月下旬バグダッドにおいて開催されたアラブ諸国外相・経済相会議で決議された対エジプト政治・経済制裁措置に基づき,スーダン,オマーンを除くアラブ穏健派諸国もエジプトとの外交関係断絶に踏み切つたため,エジプトのアラブ世界における孤立は一層深まつた。

(ロ) シリア

(a) 綱紀の乱れや経済的困難に加え,宗派上の対立に原因するテロやサボタージュ事件が生じたため,内政面の建直しにつとめていたが,80年1月にはカスム新内閣が成立した。

(b) 外交面では,イラクとの統合問題は7月に至り凍結され,関係は再び冷却化した。中東和平問題については,米国の和平イニシアティヴに反対し一貫して強硬な姿勢を示した。また,アフガニスタン事件に関しては,他のイスラム諸国に同調せず中立的態度を示した。

(c) 財政支出膨張に起因するとみられるインフレが進んだ。

(ハ) ジョルダン

(a) 内政面では,流動的な中東情勢の中にあつて安定的に推移した。12月フセイン国王は76年より政権を担当してきたバドラン首相を更迭し,シャラフ王宮庁長官を首班とする新内閣を発足させた。

(b) 外交面では,アラブ諸国による対エジプト政治・経済制裁措置に参加し,4月にエジプトとの外交関係を断絶した。中東問題については,米国及びエジプトからの和平交渉への参加の呼びかけに応えず,アラブ諸国との連帯を表明し,サウディ・アラビアをはじめとする周辺アラブ諸国との友好関係の維持に努めた。

(ニ) レバノン

(a) 内政面では,国防法の成立及び第2次ホス内閣の成立をみたものの,国内各派の宥和と国家統一は容易に進展せず,ベイルートを中心に慢性的な治安不安が続いた。また,南レバノンではイスラエルとパレスチナ・ゲリラ間の戦闘が激化した。

(b) 外交面では,南レバノン問題を国連及びアラブ首脳会議を通じ解決するよう努めた。

(c) 経済面では,貿易に回復の兆しがみられたがインフレが昂進した。

(ホ) リビア

(a) 内政面では,人民委員会による企業管理の継続及び在欧米リビア大使館の人民委員会方式の導入など,人民革命による直接民主主義の強化が図られた。

(b)外交面では,中東問題に関し依然強硬路線が維持され,PLOファタハ派との関係断絶も生じた。またイラン情勢との関連で在りビア米大使館襲撃事件が発生し,米国との関係が悪化した。

(ヘ)スーダン

(a)内政面では,国内体制を強化するためニメイリ大統領は8月に大幅な内閣改造と,唯一の政党たるスーダン社会主義連合(SSU)首脳部の更迭を行つた。

(b)外交面では,4月にイラクとの外交関係が断絶したものの,全体としては,いずれの国とも友好関係を保つという従来からの現実的政策を推進した。

(c)経済面では,経済再建のため9月に新経済政策を発表して国民の理解と協力を求めた。また,11月には主要債権諸国との間で債務救済の合意が成立した。

(ト) アルジェリア

(a) 内政面では,2月就任したシャドリ大統領が,FLN党,内閣及び軍の人事刷新やベンベラをはじめとする政治犯釈放などの国内宥和策を通じて着実に体制固めを進めていつた。

(b) 外交面では,79年前半はシャドリ新体制発足後の積極的招待外交がみられたが,後半は目立つた動きはなかつた。

(c) 経済面では,従来の重化学工業重視政策から農業・国民生活部門重視への方向転換がみられた。

(チ) モロッコ

(a) 内政面では,79年はじめに生活改善要求ストが発生したが,3月ブアビドが新首相に就任し,最低賃金引上げなどの宥和策をとつた。

(b) 西サハラ問題では,8月のモーリタニア・ポリサリオ平和協定の締結後モロッコは西サハラ南部併合という強硬策にでたため,ポリサリオとの衝突が頻発した。

(c) 経済面では,輸入石油支払いと国防負担の増大に対処すべく厳しい経済・財政再建措置がとられた。

(リ) テュニジア

(a) 内政面では,79年中は不安要因もなく,78年1月の暴動関係者の釈放など国内宥和を進めつつ,PSD党大会,国民議会選挙と大きな行事を行つた。

(b) 外交面では,アラブ連盟のテュニスヘの暫定的移転に伴い,アラブ諸国の団結を図る役割をつとめるとともに,東西両陣営諸国に対し積極的な友好外交を展開した。

(c)経済面では,雇用問題はあるものの,順調な経済成長を遂げた。

(ヌ) トルコ

(a) 内政面では,国内治安の回復と経済再建のために苦悩していたエジェビット内閣が10月の中間選挙での敗北を契機として総辞職し,代わつてデミレル内閣が発足した。

(b) 外交面では,当面の課題である対米関係の改善のための地道な外交努力を払うとともに近隣諸国との関係強化を図り,従来からの全方位外交を推進した。

(c) 経済面では,OECDを中心とする緊急援助,債務救済などの国際的規模での対トルコ支援が行われた。

(ル) イスラエル

(a) 国内政局は目立つた動きがなかつたものの,エジプトと平和条約を締結した後は,国内・政府内部の右派勢力が拾頭して政策の右傾化が顕著となつた。特に政府の強硬な入植政策は内外から批判の的となつた。

(b) 外交面では,3月にエジプトと平和条約締結を果たし,イスラエルのシナイ半島からの段階的撤退実施に従つて両国間関係は順調に正常化の道を歩んだ。しかし他方,西岸ガザをめぐる米国を介したエジプトとの自治交渉は,双方の見解が食い違つたまま実質的な進展をみるに至らず,行詰まりの様相を濃くした。

(c) 経済面では,インフレが110%を越え,国民の政府不信が高まつたため,インフレ対策が政府の最優先課題となつた。

(ヲ) アフガニスタン

(a) 内政面においては79年の初頭以来,地方におけるイスラム伝統勢力による反政府ゲリラ活動が漸次活発化し,これに対しタラキ政権は軍による鎮圧を図つた。他方,政権の内部抗争,一部部隊による騒擾も相次ぎ,9月にはアミンがクーデターにより政権の座についたが,その基盤は漸次狭まつていた。

12月末にはソ連の軍事介入のもとにクーデターが発生し,カルマルが革命評議会の新議長に就任した。ソ連軍はアフガニスタンの国内制圧を図つたが,国民のソ連及びカルマル政権に対する反発は強かつた。

(b) 外交面においては,カルマル政権は,タラキ・アミン政権同様非同盟政策を標榜するとともにソ連及び社会主義国との連帯を唱えたが,ソ連の軍事介入に対する各国,特に周辺諸国,イスラム諸国の反発は強かつた。

(c) 経済・社会面においては,内乱の激化,農業生産の不振,流通の困難などの問題を抱えた。

(ワ) イラン

(a) 79年のイランの国内情勢は,2月の革命成功後,ホメイニ師に指名されたバザルガン暫定政府により,新しい政治体制(イスラム共和制)確立に向けての努力と,革命により機能を停止した経済を破綻させないための努力がなされた。しかしながら同暫定政府は,権力の一元化"をなしえぬままに,その対米政策を批判され,11月在テヘラン米国大使館占拠・人質事件の発生を契機として辞職した。政権を引き継いだ革命評議会は12月新憲法制定のための国民投票を実施し,80年1月には,大統領選挙を実施した。イスラム共和国初代大統領には,バニ・サドルが当選・就任した。

(b) 外交面では,新政権は非同盟中立路線に転換し,CENTOよりの脱退,イスラエル,南ア,エジプトとの断交,非同盟運動への加盟などを行つた。11月のホメイニ師の路線に従うイスラム学生による在テヘラン米国大使館人質事件は,国連などの努力にもかかわらず解決を見ず,80年4月,米国は対イラン国交の断絶を行つた。

(c) 経済面では,3月に逸早く再開された石油輸出のもたらす収入を基礎として,政府による不足物資の緊急輸入,銀行及び経営不良企業の国有化などが行われた。このため,インフレ,失業,工場操業率の低下などにもかかわらず,イラン経済は,大きな破綻には至らなかつた。

(カ) イラク

(a) 内政面では,7月に政権内部で造反事件が発生したが,フセイン大統領は断固たる措置をもつて対処するとともに,シーア派宥和政策の推進,国会開設のための総選挙の準備など,内政の民主化に乗り出した。

(b) 外交面では,3月末,アラブ外相・経済相会議を主催し,対エジプト制裁措置を決定することに成功した。他方12月末,アフガニスタンヘのソ連の軍事介入に際しては,逸早くこれに反対する態度をとり,第三世界への発言力増大にも努めた。

(c) 経済面では,豊富な石油収入を挺子に,インフラ,民生部門を中心に開発プロジェクトを順調に推進した。

(ヨ) サウディ・アラビア

(a) 内政面では,11月に武装分子による聖地メッカのハラーム・モスク占拠事件が発生したが,年頭のイラン政変,キャンプ・デーヴィッドをめぐる中東情勢の流動化,取り沙汰された王族内紛説などにかかわらず全般的に静穏であつた。

(b) 外交面では,年間を通じ政府要人の頻繁な往来がみられ,他方,南レバノン問題西サハラ問題,湾岸安全保障など域内諸問題解決に努力した。また,アラブ外相・経済相会議の決議に基づき4月にエジプトと外交関係を断絶した。

(c) 経済面では,インフレ抑制に成功する一方,10%前後の実質経済成長率を維持しており,かつ国際収支は黒字基調を保つている。石油生産は第2四半期に850万B/D程度に減産したが,7月から100万B/Dの増産を再開した。

(タ) クウェイト

(a) 内政面ではイラン情勢の影響を受けて9月シーア派モスク集会事件などが発生し,国内治安強化策が一段と強化されるとともに,憲法改正及び議会再開問題など国内民主化への動きも見られた。

(b) 外交面では,イランの政情不安,湾岸情勢の流動化を注視しつつアラブの連帯及び湾岸諸国との結束,協力に努めた。

(c) 石油価格の上昇で石油収入は大幅に増大したが,78年からの緊縮予算を継続した。

(レ) アラブ首長国連邦

(a) 内政面では,4月末ラーシドドバイ首長(連邦副大統領)が連邦首相に就任して新内閣が組閣され,連邦の権限強化への動きが見られた。

(b) 外交面では,中東問題,イラン情勢などの進展に伴い,湾岸諸国との協調外交をめざすとともに,特に9月ラーシド副大統領のオマーン訪問によつて対オマーン関係は著しく改善された。

(c) 国内投資は78年に引き続き伸び悩んだが,石油価格の大幅な上昇で消費需要が順調に伸び,国内経済はやや明るさを取り戻した。

(ソ) オマーン

(a) 内政面では,南部ドファール情勢を含め78年に引き続き安定的に推移した。5月政府機構の一部改革が行われた。

(b) 外交面では,イラン革命に伴うホルムズ海峡の安全保障問題をめぐつて活発な動きをみせ,特に対米関係に緊密化をみた。中東問題ではキャンプ・デーヴィッド合意を支持した。

(c) 経済面では,78年に引き続き緊縮予算による健全財政に重点がおかれた。原油生産は新規油田の開発で現状を維持できるものと見られている。

(ツ) カタル

(a) 内政面では,イラン革命の影響も殆んどみられず平穏に推移した。

(b) 外交面では,サウディ・アラビアをはじめ湾岸諸国との善隣外交の一層の推進に努めた。また,他の湾岸諸国と同様4月にエジプトと断交した。

(c) 工業化最重点の開発政策の推進により産業の多様化が着実に成果を収めつつあり,また,民生向上,社会福祉の面で充実が図られた。

(ネ) バハレーン

(a) 内政面では,イラン政変,イラン宗教指導者によるバハレーン領有権発言などもあり,反現体制デモが多発したが当局は厳しい態度で対処し政情は鎮静化した。

(b)外交面では,サウディ・アラビア,クウェイトなど湾岸諸国との協調の強化に努めた。また,エジプト・イスラエル平和条約をめぐりエジプトと断交した。

(c)産業の多様化の一環として軽工業の育成に努める一方,中東の金融,ビジネスセンターとしての体制整備が図られた。

(ナ)北イエメン(イエメン・アラブ共和国)

(a) 内政面では,サーレハ政権は,部族勢力との協調体制を維持しようとしたが,2月の南北イエメン国境紛争後,再開した南北イエメン統合の動きは停滞した。

(b) 外交面では,親米,親サウディ政策を基調としたが,ソ連よりの軍事援助受入れ再開を決定するなど,ソ連寄りの動きを見せる一幕もあつた。

(c) 経済面では,第1次5カ年計画が,一応順調に進められた。

(ラ) 南イエメン(イエメン民主人民共和国)

(a) 内政面では,イスマイル政権は政策路線及び人事などをめぐる内部対立をはらみながら推移した。

(b) 外交面では,10月ソ連・南イエメン友好協力条約締結により親ソ路線を鮮明にし,ソ連の中東戦略の枠組みの中に組み込まれた。

(c) 経済面では,3月,第2次5ヵ年計画が終了した。

2. わが国と中近東諸国との関係

78年1月に園田外務大臣が,また9月に福田総理大臣がそれぞれ中近東諸国を訪問し,わが国と中近東諸国との友好協力関係の基盤が強化された。80年2月19日より3月4日まで,イラン革命,ソ連のアフガニスタンヘの軍事介入など激動する中東情勢が中東地域各国に深刻な不安と懸念を生ぜしめていた時期に,園田前外務大臣は総理特使として,中近東及び南西アジア地域の平和と安定のためにわが国として何ができるかを探求すべく,アラブ首長国連邦,イラク,オマーン,シリア,サウディ・アラビアなどを訪問し,各国の最高指導者と率直な意見交換を行つた。この訪問を通じ,訪問先国よりわが国がこの地域で果たすべき政治的・経済的役割に対し強い期待が表明され,これにこたえ,わが国がこの地域の平和と繁栄のために建設的役割を果たす基盤ができた。

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