第6節 ソ連・東欧地域
1. ソ連・東欧地域の内外情勢
(1) ソ 連
(イ) 内 政
(a) 1979年のソ連内政においては,77年10月に制定された新憲法のもとでのはじめての連邦最高会議代議員選挙(3月)が行われ,4月の連邦最高会議第1会期において主要国家機関の選出が行われた(構成員は最高会議関係機関を除いて大きな変動はなかつた)。11月の連邦最高会議においては,前年来の法体制整備の一環として,司法・検察関係の法律が採択された。
(b) ブレジネフ書記長は,79年中もその健康状態が種々取り沙汰されたが,1月のブルガリア,5月のハンガリー訪問に続いて6月にはウィーンにおいてカーター米大統領と会談し,SALTIIに調印し,10月には東独を訪問するなどの対外活動を行い,また国内においても主要な党・国家行事に参加,演説を行つたほか,レーニン文学賞の受賞(4月)など最高指導者としての地位には動揺の兆しは看取されず,後述のとおりこれまで進めてきた人事政策を継続してその地歩固めを行つた。
党指導部においては,2月にリャボフ党書記が連邦ゴスプラン第1副議長に転出し,11月の連邦党中央委総会において,ティホノフ第1副首相とゴルバチョフ党書記がそれぞれ政治局員と同候補に選出される人事があり,ブレジネフ色が更に強化されたと見られた。同時に,79年にも西欧諸国が指摘してきた老人の多くなつた党指導部の若返り策はとられず,その老齢化は更に深まつたといえる。
また2月には日ソ漁業交渉を通じて日本にもよく知られていたイシコフ漁業相が更迭され,後任にカーメンツェフ第1漁業次官が大臣に昇格した。
(c) 社会面では,5月に,「イデオロギー・政治・訓育活動の改善」に関する党決定が発表され,各地で集会が開かれ,9月には,「法秩序の維持と犯罪との闘争の強化」に関する党決定が発表されるなど,引締め傾向が更に強まつた。
他方,わが国を含め欧米諸国で,ソ連著名人の亡命が相次ぎ注目された。
(ロ) 外 交
79年のソ連外交は,引き続きその強大な軍事力を背景として,社会主義諸国との結束強化,西側諸国との緊張緩和及び反帝,民族解放闘争支援を基本線として進められたが,特にSALTIIをはじめとする軍縮,軍備管理の進展による軍事面の緊張緩和の政策が重点的に進められる一方で,中近東,東南アジア,アフリカその他の地域において,ソ連の影響力の増大,軍事的進出の動きが顕著に見られた。
このようなソ連の外交に対して,西側の懸念が高まつたが,79年12月のソ連のアフガニスタンに対する大規模な軍事介入は,米国の極めて強い反溌と,その他の西側諸国,イスラム諸国,非同盟諸国の強い批判をうけ,国際情勢の緊張を高めた。
(a) 対東欧関係
東欧諸国に対してはワルシャワ条約機構,コメコン及び2国間関係を通じて,政治,軍事,経済関係の強化が進められた。経済問題や東西交流の増大の影響などに伴う問題点は存在するものとみられるが,ソ連の対東欧関係に本質的な変化は見られなかつた。自主独立路線を堅持しているルーマニア,独自の道を進むユーゴースラヴィアとの関係もインドシナ,アフガニスタン情勢をめぐつて,多少の起伏は見られたが,大きな変化はなかつた。ソ連の関係正常化の呼びかけにもかかわらず,アルバニアの反ソ的立場は不変であつた。
(b) 対西側諸国関係
米国との関係は,インドシナ,中東などの紛争地域の諸問題をめぐる対立が続いたが,SALTII交渉は妥結し,79年6月,ウィーンにおいて米ソ首脳会談が行われ,SALTII条約が調印された。しかし米国においてはソ連の軍事力増強とその対外行動,特にキューバにおけるソ連戦闘部隊の存在などによる対ソ不信から,米国議会のSALTII批准が難航していたところ,ソ連のアフガニスタン軍事介入により,SALTII審議は凍結され,米国は一連の対ソ制裁措置をとつた。これに対しソ連は,緊張の激化はカーター政権の冷戦政策によるものであるとして対米非難を強め,米ソ関係は冷却化した。
西欧諸国に対する外交は,緊張緩和,特に79年10月のブレジネフ提案などに見られる欧州における軍備削減の提唱と経済協力の増進を中心として進められたが,なかんずく,米国の新型中距離核ミサイルの欧州配備計画阻止のための外交攻勢が活発化した。しかしソ連のアフガニスタン軍事介入により,西欧諸国の対ソ不信は強まつた。ソ連は米国に非難を集中する一方,西欧諸国に対しては,緊張緩和,経済協力の継続を呼びかけている。
(c) 対アジア関係
中国との関係は,米中国交正常化,中越対立,80年4月に期限満了する中ソ友好・同盟・相互援助条約の中国による不延長通告などにより,きびしい局面が続いたが,ソ連は中国の関係正常化交渉の呼びかけに応じ,79年秋外交交渉を開始した。しかし,交渉が進展しないままアフガニスタン事件により,中国側は交渉を中断した。ソ連は引き続き中国の米国,西欧,日本などへの接近を警戒し,特に西側の対中武器輸出に神経を尖らせている。
インドシナにおいては,ソ連はヴィエトナムのカンボディア侵攻,中越紛争におけるヴィエトナムの立場を全面的に支援し,ヴィエトナムに対する軍事・経済援助を強化し,ラオス及びカンボディアのヘン・サムリン政権を援助し,インドシナ全域への影響力をますます強めるべく,この地域への軍事的進出の拠点づくりを着々と進めた。
かかるアジア情勢の中でソ連は対アジア外交を活発化し,ASEAN諸国に対して,ASEANを機構として認める動きを示し,タイ,マレーシア首脳の訪ソ招待など関係強化を図つている。
南西アジアにおいては,アフガニスタン情勢とも関連して,経済協力の強化などを通じてインドとの友好関係の維持強化に努めているが,パキスタンとの関係は悪化した。
(d) 対中東関係
ソ連はアフガニスタンの親ソ政権に対する援助を強化したが,反政府勢力の抵抗が増大し,79年12月,遂に大規模な軍事介入を行い,米国をはじめ国際世論の強い批判をうけた。また,ソ連は国連安保理の撤退決議案に拒否権を行使し,国連緊急特別総会で圧倒的多数で撤退決議が採択されたことに対しては,アフガニスタンに対する外部よりの干渉が完全に停止されない限り撤退しないとの立場から,かえつて米国への反発を強めた。
イランに対しては,ホメイニ政権支持を表明し,米国とイランの対立にあつてイランを支持する立場をとつたが,イランは対ソ警戒心を強め,両国関係はソ連の期待どおりには前進は見られなかつた。また中東和平問題に関しては,エジプト・イスラエルの単独和平に反発するアラブ諸国,特に湾岸地域への外交を積極化し,南イエメンとは79年10月,友好・協力条約を締結したほか,シリア,PLOなどとの関係強化を図つた。しかしアフガニスタン事件に対して,イラクを含む大多数の中東イスラム諸国はソ連に批判的であり,中東におけるソ連の立場の改善に否定的効果を及ぼしている。
(e) 対アフリカ関係
アフリカ諸国に対しては,ソ連は引き続き反帝国主義,民族解放闘争支援,植民地主義,人種差別主義反対を旗印として,影響力の扶植を図り,特にエティオピア,アンゴラ,モザンビークなど社会主義志向政権に対する軍事・経済援助を強化している。情勢の不安定な南部アフリカに対しても,ソ連は関心を高め,ローデシア,ナミビアの解放勢力や周辺諸国との関係強化を図つている。アフリカ諸国への軍事援助に関しては,ソ連は引き続きキューバなどと共同して行つている。
(f) その他の地域との関係
中南米に対しては,ソ連はキューバヘの援助を継続して,友好関係の維持,強化を図つているほか,ニカラグァの新政権と79年10月外交関係を正常化し,大使交換を協定するなど,この地域への外交活動を局めている。
また,ソ連は南太平洋地域への関心を高めている。
(ハ) 経済情勢
79年のソ連の経済は全般として著しい不振に見舞われた。計画遂行状況は,鉄鋼,(天然ガスを唯一の例外とする)エネルギーなど基幹産業部門の生産不振により鉱工業生産の伸びは計画5.7%に対し,実績は3.4%と未遂行に終わり,農業についても穀物生産が1億7,900万トンと78年より約5,000万トン減少し,農業全体としての生産は計画5.8%増に対し,実績4%減と極めて不調に終わつた。
この結果,国民所得の伸びも計画4.3%に対し,実績2%と半分以下の水準にとどまつた。
また現行5カ年計画の主要目標たる「質と効率の向上」のキメ手となるべき労働生産性も,計画4.7%の伸びに対し,実績ではわずか2.4%の伸びしか示さず,同5カ年計画初年度以来引き続き計画未達成となつている。
このような経済不振の原因は,79年の異常寒波などの自然条件に起因するもののほか,輸送面,管理面での欠陥を含め,より基本的には計画経済下での構造的,制度的な諸困難が集中的に現われはじめていることによるものともみられる。
80年初頭に打ち出された米国による対ソ穀物禁輸などのアフガニスタン問題に関する対ソ経済措置がソ連経済にいかなる影響を及ぼすかは,時間をおいて長期的に見守る必要があろう。
(2) 東 欧
(イ) ドイツ民主共和国
79年最大の事件は建国30周年記念を迎えたことであり,年頭からこの祝典を成功裡に迎えることが強調され,内政的にはおおむね安定的に推移した。経済は,近年の成長率低下傾向が年初の厳寒の影響などにより促進されたものの,一応の安定成長を維持した。
外交面では,ホネッカー書記長のインド訪問及び2度にわたるアフリカ歴訪が注目されたが,自国を舞台とするブレジネフ軍縮提案,アフガン問題などにおいても全面的にソ連を支援し,その対ソ協調路線に何らの変化もなかつた。
(ロ) ポーランド
79年のポーランドは,年初の厳寒と大雪が輸送,電力,農業などの面に大きな打撃を与え,生産国民所得はマイナス成長に終わるなど,ギエレク政権成立以来最も困難な年であつた。他方ポーランド人ローマ法王の里帰りは国民に明るい話題を提供するとともに,教会のプレステージを上げる結果となつた。
外交面では引き続きソ連・東欧諸国との連帯強化に努めるとともに,西側諸国とも経済を中心に活発な交流を推進した。
(ハ) チェッコスロヴァキア
内政面では大きな動きはなく,経済の行詰まり打開に従来にも増して積極的に取り組んだが,著しい改善は見られなかつた。しかし,こうした状況の中でフサーク政権の安定性に変化はなかつた。
外交面では,対ソ協調路線が,中国の越侵攻に対する非難,ソ連のアフガニスタン介入に対する積極支持などを通じて際立つた。対西側関係は,全体として一進一退であつた。
(ニ) ハンガリー
内政上の最大の課題である経済問題には,2回にわたる消費者物価の値上げなどの措置をとつたが,全体として伸び悩みの様相が顕著であつた。他方カーダール政権に対する国民の支持には,基本的変化は見られなかつた。
外交面では,対中国非難が引き続き行われたほかは,米ソ両国をはじめとして,東西両陣営の諸国との関係進展を図るための外交活動が活発に展開された。
(ホ) ルーマニア
79年11月には第12回党大会が開催されて自主独立路線と高度経済成長政策が再確認されたが,内政的にはチャウシェスク大統領の親族登用による政権強化以外特に注目すべき変化はなかつた。
経済面では工業,農業ともに目標に達しなかつたものの,工業では8%の高い成長を達成した。
外交面では,従来の自主独立路線には基本的な変化はなく,77年末に一時的に緊張した対ソ関係は79年中に一応修復した。しかしソ連のアフガニスタン介入に関しては,明示的ではないがソ連の軍事介入に批判的立場を示すとともに,他方ではカルマル政権,パキスタンなど関係国に積極的に接触し,同問題解決に努力の姿勢を見せている。
(ヘ) ブルガリア
79年には,ジフコフ議長の娘のジフコヴァ文化相が党政治局員に登用され,ジフコフ政権の基盤は強化された。
経済面では,79年は農業では穀物生産は持ち直したものの,工業成長は目標を下回り,成長の停滞傾向がみられた。
外交面では,ジフコフ議長がインドシナ諸国を訪問して,越及びラオスと友好協力条約を締結し,またソ連軍のアフガニスタン介入を支持するなど,親ソ路線を維持している。
(ト) ユーゴースラヴィア
年間を通じて「集団・輪番指導体制」確立の努力が続けられた。80年初頭チトー大統領が病にたおれたが,右集団指導体制は円滑に機能しており,国内の結束は乱れていない。
石油価格の高騰は自主管理・市場経済体制をとるユーゴースラヴイアにも深刻な影響を及ぼし,インフレや入超の悪化を招いているが,経済成長率は高く(7%),多くの問題を抱えながらも経済の活力を維持している。
外交面では,9月にハバナで開かれた第6回非同盟首脳会議を成功させるべく,チトー自ら先頭に立つて最大限の努力を投入したことが特筆される。その結果,分裂の危機をも取り沙汰された非同盟運動は,穏健派ラインに沿つて一応の大同団結を達成し得たが,その後アフガニスタンなど国際情勢が尖鋭化する中で,今後特に「チトー後」のユーゴースラヴィアが非同盟運動などにおいていかなる役割を果たしていくかが注目される。
(チ) アルバニア
中国からの援助が打ち切られて以来,経済開発上の困難は次第に深刻化しつつあるとみられるが,ホッジャ政権はもはやいかなる国からも援助は受けないとの態度を変えていない。自力による経済開発のため,近隣・中立諸国との経済関係拡大の努力を強化している。なお,相当規模の新油田が発見されたと伝えられたことは,ホッジャ政権にとつての明るい材料であろう。