第5節 西欧地域
1. 西欧地域の内外情勢
(1) 概 観
(イ) 1979年の西欧情勢は,前年同様多くの国で与野党伯仲状況が続き,流動的に推移した。3月にスペインで初の総選挙が実施されたのをはじめ,英国(5月),イタリア(6月)など多数の国で総選挙が行われた。
英国においてはキャラバン労働党内閣にかわりサッチャー保守党政権が誕生した。イタリアにおいては長い政治空白の後コッシーガ首相を首班とする3党連立内閣が成立した。
(ロ) 経済面では,西独,イタリアなどにおいて4%若しくはそれ以上の経済成長率が達成され,景気の回復傾向がみられたものの,依然各国とも雇用・物価などの問題を抱えている。
(ハ) 軍事面では,NATOが12月の閣僚理事会において,ソ連の戦域核分野における軍備強化に対応するため,長距離戦域核の近代化を決定した。
(ニ) アフガニスタン問題,イラン問題などについても,EC諸国はあるいは2国間で,あるいはEC及びNATOの然るべきフォーラムにおいて,相互に緊密な連絡・協議を行いつつ対応してきている。
(2) 欧州の東西関係
(イ) 欧州安全保障協力会議(CSCE)
CSCEヘルシンキ最終文書(1975年8月1日署名)の履行状況を再検討するためのベオグラード・フォローアップ会議(77年10月~78年3月)で合意をみた諸専門家会合の一つである,地中海問題についての専門家会合が2月マルタのラヴァレッタで開催されたほかは,大きな動きはみられなかつた。
(ロ) 中欧相互均衡兵力削減交渉(MBFR)
73年の交渉開始以来,兵力データなど基本的問題に関する東西間の見解の相違によりさしたる進展をみせていない本件交渉の暫定的解決を図るため,西側は12月に終了した第19ラウンド交渉で従来の提案の構想を大幅に変更し,米ソ両国の兵員削減規模を縮小するなどの東側構想を取り入れ,かつ装備削減を棚上げして削減内容を簡略化した新提案を提示した。これに対し東側は,西側が東側兵力を依然として過大に推定しているため右新提案により西側が譲歩を行つたとは認められないとの立場をとつており,はかばかしい進展はみられなかつた。
(ハ) NATO
SS-20ミサイルなどに代表されるソ連の戦域核(TNF)分野における軍備強化に対応するため,12月のNATOブラッセル閣僚理事会は外相・国防相合同会議においてパーシングIIミサイル及び地上発射巡航ミサイルから構成される計572の米国戦域核システムを英・西独・伊を含めた加盟数ヵ国に配備することによりNATOの長距離戦域核の近代化を行うとともに,戦域核分野における対ソ軍備管理交渉を推進するとの決定を行つた。これに対しソ連をはじめとする東側諸国は,反対の姿勢を明らかにしている。
(3) 欧州統合
(イ) 政治協力
6月7日及び10日,EC加盟各国において初の欧州議会直接選挙が実施され,政治面における欧州統合に向けての具体的な第一歩が踏み出された。直接選挙後の欧州議会はヴェイユ議長(仏)のもとにさまざまな分野で活発に討議を行い,より積極的な役割を果たそうとの動きがみられた。また,EC各国はアフガニスタン問題などの国際政治問題に対して,ECとして協同歩調をとるために外相理事会や外相政治協議などの枠組みにおいて協議を行うなど種々意見調整を行つてきている。
(ロ) 経済統合
(a) 79年3月13日に発足した欧州通貨制度(EMS)は9月及び11月に中心レートの調整が行われたものの,欧州通貨の安定に貢献した。今後は,EMSの中心的機関となるべき欧州通貨基金(EMF)が,いつ,如何なる形で発足するかが注目される。
(b) 他方ECの根幹をなす農業政策では,その予算の肥大化が問題視されるに至り,80年度EC予算案は欧州議会により否決された。また,英国は予算の純負担額が不当に過大であるとして,自国の負担と受益の改善を主張して譲らず,EC財政上,大きな問題となつた。同国はEMSにも参加しておらず,統合政策上独自の立場をとつている。
(ハ) 対外関係
(a) ギリシャは,79年5月28日の加盟条約署名により,条約批准手続を経て81年1月1日からECに加盟することが確定した。また,ポルトガル及びスペインとは,引き続き加盟交渉が行われており,これが順調に進捗すれば83年初頭の加盟も不可能ではないと見込まれている。
(b) 75年にEC9カ国とACP(アフリカ,カリブ海,太平洋地域)46カ国との間で締結された経済協力についてのロメ協定をさらに強化・拡充した第2次ロメ協定は,79年10月に署名された。
(c) 73年に締結されたEC・ユーゴースラヴィア通商協定の内容を一層発展させ,金融・観光,労働,運輸,科学技術を含む幅広い内容を盛り込んだEC・ユーゴースラヴィア協力協定が80年4月に署名され,ECのユーゴースラヴィア重視の姿勢が看取された。
(4) 各国情勢
(イ) ドイツ連邦共和国
(a) シュミット政権は,連邦参議院における野党の優勢及び連邦議会における与野党伯仲(与党がかろうじて10議席を上回るのみ)の政治情勢を背景に79年においても苦しい議会運営を強いられた。また,与党連立政権の一翼を担うFDP(自由民主党)が,州選挙において環境保護政党や連立与党のSPD(社民党)にさえ票を奪われ,州によつては従来あつた議席全部を失うところまで出てくるに至つた。
(b) 79年の西独経済は,政府予測を上回る成長率4.4%(78年は3.7%)を達成し,失業も年央以降80万人台と低水準に抑えられ,堅調を続ける投資動向と相まつておおむね順調に推移した。また,欧州及び米国の好景気に支えられ貿易も拡大を示したものの石油を中心とするエネルギー及び原材料の値上がりにより,貿易収支の黒字幅の大幅な減少がみられ,65年以来初めて経常収支が赤字に転じた。他方,一次産品価格の高騰により物価の上昇(年率5%)が経済運営上の不安材料となり,金融政策も引締め基調に転じた。
(c) 外交面では西独は引き続きソ連,東欧諸国に対する緊張緩和外交を展開する一方,SALTII調印を背景に米国との連帯を強調しつつ,東西バランスの回復というNATOの要請に応じた西側結束維持に努めた。また,欧州統合・対中東関係の分野においても活発な外交活動を進めたほか,援助政策にも積極的な姿勢を示した。しかし年末に起こつたアフガン問題によりシュミット政権が表看板としたデタント政策が重大な試練に立たされたことから,東西欧州の谷間に位置する西独としては外交面で困難な対応を迫られることとなつた。
(ロ) フランス
(a) 79年の仏内政には特に大きな動きはなかつたが,与党多数派内におけるジスカール派(仏民主連合)とドゴール派(共和国連合)の対立,野党側での社共対立と与野党内部抗争の激化がみられた。3月の県議会選挙で左翼は勝利したものの,81年の大統領選挙の前哨戦とみられていた6月の欧州議会選挙では仏民主連合が他党を引き離す得票率を獲得した。その後も共和国連合は国会審議において政府案採択に棄権するなど与党多数派内の溝が深まりつつあり,他方左翼内にあつても81年の大統領選をめぐる社会党,共産党のリーダーシップ争いは尖鋭化している。
(b) 経済面では,鉱工業生産は全体として上昇傾向を示し,景気は緩慢ながら回復しつつあるが,79年の経済成長率は前年の3.3%をやや下回り3.2%であつた。雇用情勢は悪化を続けており,8月の求職者数は140万人の大台を突破し,その後一時低下したものの79年末には137万人となつた。物価は依然上昇傾向にあり,原油価格値上げ,公共料金値上げなどの影響を受け,年率11.8%と2桁上昇となつた。他方,貿易収支は,輸出面では対前年比19.3%と好調であつたが,輸入が石油輸入額増加もあり大幅に増大したため115億フランの大幅赤字を計上した。
(c) 外交面では,西独と協調しつつECの拡大・強化に努める(EMS実施,欧州議会直接選挙,ギリシャ加盟)とともに,対ソ・デタント政策を推進し,4月ジスカールデスタン大統領訪ソが行われたが,79年後半,欧州戦域核問題,ソ連の対アフガニスタン介入問題により対ソ関係は試練にさらされることとなつた。なお,10月には中国の華国鋒総理が西欧諸国歴訪の一環としてフランスを最初に訪問した。
(ハ) 英 国
(a) 少数党政権として不安定な政局運営を強いられてきたキャラバン労働党内閣は,地方分権法が3月1日の住民投票で否決されたことが誘因となり,遂に3月28日内閣不信任の決議を受けるに至つた。このため,5月3日,下院総選挙が実施されたところ,保守党が過半数を21議席上回る339議席を獲得し,5年ぶりに保守党政権(サッチャー内閣)が誕生した。
サッチャー保守党政権は,以来,下院における保守党の安定多数を背景に,大幅な所得税減税,公務員数の削減,公共支出の削減,所得政策の廃止,雇用法案(労組活動を規制する法案)の国会提出,国防・治安の強化など種々の新政策を実施している。同政権の基本的経済政策は,自由競争原理の再導入による英国経済の再建という長期的展望に立つたものであり,80年代の英国経済は,これによつて大きな質的転換を遂げようとしている。
(b) 79年の英国経済は,年初のストライキの影響もあつて,停滞気味に推移し,国内総生産の実質伸び率は約0.3%にとどまつた。また,78年1月以降1桁台に収まつていたインフレ率は,79年4月以降再び2桁台となり,12月には17.2%に達した。このため,政府は,11月,公定歩合を17%という史上最高水準にまで引き上げた。
他方,対外面では,ポンド高騰(政府は強いポンドを背景に,10月,為替管理を撤廃した)による輸出競争力の低下もあつて,再び大幅な貿易収支の赤字を記録した。
(c) 外交面では,現政権は極めて積極的な姿勢をとつており,7月のジュネーヴ難民会議,8月の英連邦首脳会議及び9~12月のローデシア制憲会議において,いずれも中心的な役割を演じた。特に,ローデシア制憲会議を成功裡に収めたことは,諸外国からも高く評価された。
(ニ) イタリア
(a) 共産党の閣外協力を基盤とする基民党少数単独の第4次アンドレオッティ内閣は,入閣を拒否された共産党が野党に復帰したため1月31日総辞職を余儀なくされた。その後の政局は選挙管理内閣の含みで成立した基民,民社,自由の3党少数連立の第5次アンドレオッティ内閣(3月21~31日)を経て国会解散(4月2日),総選挙(6月2~3日)とコッシーが内閣成立(8月5日)までの間,めまぐるしく推移し,未曽有の政治空白が続いた。同内閣は基民,民社,自由の3党連立ながら議会の過半数に及ばないため基民,共産対立の中でキャスティングボートを握る社会党の棄権政策(不信任をしない)を存続の条件とする少数政権であつた。このような状況のもとで年末より社会党が共産党の入閣を求めて同内閣に対する支持を撤回したため,同内閣は80年3月19日総辞職した。その後ペルティー二大統領は再びコ首相に組閣を要請,同首相は4月4日基民,社会,共和の3党多数連立の第2次コッシーが政権を樹立した。
(b) 79年の経済は前半の比較的順調な拡大と後半のインフレ昂進という明暗二つの様相を呈した。そのため5%の成長率を達成したものの,物価面では2度にわたる公定歩合引上げにもかかわらず,卸売物価は12月に前年同月比21.1%,消費者物価は同18.8%の高水準を記録した。
他方,国際収支は好調で経常収支は59億ドルの黒字を計上する見込みである。
(c) 外交面では政治危機のためもあり,NATO戦域核近代化の決定(12月)を除き特記すべき動きはなかつた。
(ホ) その他
3月スペインにおいて新憲法下で初の総選挙が実施され,スペインの民主化が緒についた。5月フィンランドでは,コイヴィストを首班とする中道左派連立内閣が成立し,更に6月には,オーストリア,9月にはスウェーデン,10月デンマーク及びスイス,12月ポルトガルでそれぞれ総選挙があり,オーストリアでは社会党が政権を維持したが,スウェーデンでは非社会主義3党連立内閣,デンマークでは社民党少数単独内閣,ポルトガルでは中道右派を主流とする内閣が成立した。5月ギリシャのEC加盟条約が署名された。
ベルギーにおいては78年12月の総選挙後困難をきわめた連立工作の末,79年4月5党連立のマルテンス内閣が成立した。ルクセンブルグにおいては,79年6月の総選挙の結果,中道右派連立のウェルナー内閣が成立した。
78年10月,第264代目のローマ法王に選出されたヨアンネス・パウルス2世は,79年に入つて積極的に外国を訪問したが,特に6月の祖国ポーランドの訪問の際受けた熱狂的歓迎ぶりは東西の注目を集めた。