第3節 北米地域

1. 北米地域の内外情勢

(1) 米 国

(イ) 内 政

(a) 79年を迎えたカーター大統領は,政権担当2年間の実績を踏まえ,国民のいわゆる「保守化傾向」と呼応しつつ,着実な政策運営を重ねていくとの姿勢を示した。しかし,悪化するインフレなど経済問題に加え,イランにおけるイスラム革命,アフガニスタンでの米大使殺害事件などの事態が続き,国民の不満と焦燥感は次第に高まつた。5月から7月にかけてのカリフォルニア州を中心とするガソリンの供給不足問題はこれに一層の拍車をかけた。このような事情を反映し,年央以降カーター大統領の世論支持率は極度に低迷するに至り(5~10月,30%前後),その指導力が問われる状況となつた。

(b) カーター大統領は,7月15日,全米向けテレビ・ラジオを通じて演説し,米国の建国以来の理念,米国民の自信が危機に瀕していることを訴えた後,当面の最重要課題としてエネルギー問題について新たな対策を打ち出し,その解決のため国民とともに力を合わせて取り組んでいくとの決意を表明した。続いて7月17日,全閣僚及びホワイト・ハウスの主要スタッフが大統領に辞意を表明し,これを受けて7月27日までに閣僚の大幅入替えが行われた。辞任したのはブルメンソール財務,シュレジンジャー・エネルギー,カリファーノ保健教育厚生各長官などであり,その後任には,ミラー財務(連邦準備制度議長より),ダンカン・エネルギー(国防副長官より)などの新長官が任命され,また,保健教育厚生長官にはハリス住宅都市開発長官が横すべりした。

これらの動きの背景としては,カーター大統領の人気低迷により,この時点で大統領に対する国民の信頼を回復させなければ,爾後の効果的な政策運営を期し得ないとの危機感があつたと同時に,近づく80年大統領選挙に向けての体制固めを目指したものと一般に受けとられた。上記のいわゆるエネルギー演説は世論に好感をもつて受けとめられたが,内閣改造に対する議会,マスコミの評価は必ずしも好意的ではなかつた。

(c) そうした中でケネディ上院議員は,11月,広範なケネディかつぎ出し運動など異例の人気の高まりを背景に,80年大統領選挙への出馬に踏み切り,カーター大統領の再選を疑問視する見方が強まつた。しかし,11月4日の在イラン米大使館人質事件の発生を契機として,米国内の政治的雰囲気は一変した。イランに対する制裁措置などカーター大統領の対処ぶりは国民の高い評価をうけ,国家の危機に際しては大統領のもとに結束する米国の国民性とも相まつて,カーター大統領に対する世論支持率は急上昇した(12月,60%を超えた)。更に,その後のソ連のアフガニスタン軍事介入問題に対するカーター大統領の対ソ強硬姿勢も,国民の圧倒的支持をうけ,カーター大統領が80年大統領選挙の序盤戦で優位に立つ原動力となつた。

(ロ) 外 交

(a) カーター大統領は,今日の国際社会を政治的覚醒と力の再分配による変動の時代としてとらえ,79年の年頭教書では,こうした中での米国の役割について世界の警察官としてではなく平和の形成者として,変動し多様化する世界に建設的方向づけを与えていくとの立場を表明した。そして同盟国との関係強化や地域紛争の解決,国際経済,エネルギー,核不拡散,南北問題などの世界的規模の問題への対処,人権外交の推進など政権発足以来の外交目標に立脚しつつ,SALTやNATO強化,中東和平など外交の諸案件に対処してきた。

しかし,79年末に至り,外交の焦点は11月に発生したイランの米大使館占拠人質事件及び12月のソ連のアフガニスタン侵攻に絞られることとなつた。カーター大統領は,米国内での危機意識の高まりを背景に,80年1月の年頭教書では,一連の強い外交姿勢を明らかにした。

すなわち,カーター大統領は,国際社会が,(i)ソ連軍の増強と進出,(ii)西側諸国の中東石油への大幅な依存,(iii)イラン革命など多くの開発途上国における変革への圧力からくる挑戦を受けているとして,特にイラン,アフガニスタン問題に焦点をあて,国防力増強,NATOその他の同盟の強化,インド洋における米軍のプレゼンスの増強,心要時の徴兵に備えての登録制度の導入など,国の内外において力を強め危機に対処していく決意を表明した。

(b) 79年前半にはカーター,ブレジネフ両首脳の会談(6月)やその際のSALTII条約署名など比較的良好に推移した米ソ関係も,同年後半には,キューバにおけるソ連軍駐留問題(8月に表面化)をめぐる両国間の応酬を経て,ソ連のアフガニスタン侵攻(12月)により対立関係に立つこととなつた。

特にアフガニスタン侵攻に対しては,カーター大統領は,80年1月4日,議会に対するSALTII条約審議の延期要請,高度技術・戦略物資の売却停止,穀物輸出の縮小,モスクワ・オリンピックの参加再検討などを含む一連の対ソ措置を発表して,西側同盟国にも共同歩調をとるよう求めた。更に,同24日には上述の年頭教書で,ソ連の侵攻は中東に深刻な脅威をもたらしているとし,ペルシャ湾地域を支配しようとする外部勢力のいかなる試みも米国の死活的利益に対する攻撃とみなし,軍事力を含むいかなる手段を用いても排除するとの決意を表明した。

しかし,一方では同教書の中で,核戦争の防止が両超大国の最大の責任であることを強調して,今後とも核管理に努力すると述べるなど,米ソの対決によつて核戦争の危険が増大することは避けるべしとの基本的考え方を表明している。

(c) 79年11月4日,テヘランの米大使館がイラン人学生に占拠され,大使館員が人質となつた事件は,外交問題では第2次大戦以来例をみないといわれる程の国民感情の高ぶりを招いた。

米政府はイラン原油の輸入停止(11月12日)やイランの公的資産凍結(同14日)のほか,国際司法裁判所への提訴や国連の仲介などを通じて本件の早期解決を図らんとした。しかし,事件発生以来5ヵ月を経過しても人質解放の目途が立たなかつたため,遂に80年4月7日,イランとの外交関係断絶,経済制裁の正式実施に踏み切り,同盟国にも強く協力を求めた。

(d) 以上のほか,79年における主な動きとしては,同盟国,特にNATOとの関係強化,アジアとの関係拡大,中東和平などがある。

まず,同盟国との関係では,仏領グァドループでの米,英,仏,西独4カ国首脳会議(79年1月)や先進国首脳会議(同6月,東京)などの場を通じて緊密な関係維持に努めたほか,安全保障の分野で,国防支出の実質3%増というNATO諸国との公約を実施するとともに,欧州戦域核の近代化(79年12月のNATO閣僚理事会で決定)などNATO強化に努めた。

アジアについては,中国との国交正常化(79年1月1日)とその後の関係拡大(1月のトウ副総理訪米,8月のモンデール副大統領訪中など),米比基地協定改訂(1月),カーター大統領の日本,韓国訪問(6,7月),在韓米地上軍撤退の凍結決定(7月),インドシナ情勢を踏まえての対ASEAN支援及びインドシナ難民救済など活発な外交活動が見られた。

中東和平については,78年9月のキャンプ・デーヴィッド合意以後難航していたエジプト,イスラエルの平和条約締結交渉につき,カーター大統領自身これら両国を訪問して条約締結(79年3月)にこぎつけた。

このほか,ローデシアの和平に伴う対ローデシア制裁の解除や,新パナマ運河条約実施のための国内法成立など,アフリカや中南米諸国との関係拡大にも努めた。

(ハ) 経済情勢

(a) 79年全般の概要

74~75年の景気後退の後,拡大基調を続けてきた米国経済も,79年に入ると漸く頭打ち状態になり始めた。すなわち,第1四半期に実質GNP成長率で前期比年率1.1%の低成長を記録した後,第2四半期には同マイナス2.3尾と四半期毎の成長率では75年第2四半期以来4年ぶりのマイナス成長を記録した。成長鈍化の主な原因は,インフレの昂進などにより個人消費支出が落ち込んだこと,春のガソリン・パニックにより自動車業界が不振に陥つたことなどとみられている。

第2四半期のマイナス成長を受けて米国経済はリセッションに突入したという見方が広まつたが,その後景気は予想外の強さを示し,第3及び第4四半期の実質GNP成長率は前期比年率でそれぞれ2.0%,1.1%を記録した。大方の予想と異なつて79年後半景気が持ち直した理由は,年前半に落ち込んだ個人消費支出が,一転景気の下支え要因となつた点にあるといわれる。すなわち,消費者間にインフレ期待心理が浸透し,貯蓄分を取り崩しても買い急ぎを行うほうが有利であるとの意識から消費支出が予想外の堅調を続けた点である。

以上のようなジグザグの景気動向となつた79年の米国経済も通年では2.3%の実質GNP成長にとどまり,基調的には景気のスローダウンを示した。

これに対し,景気の拡大基調を通じて徐々に騰勢を強めていたインフレは,79年1年間に未曽有の高水準に達し,消費者物価で前年比11.3%の上昇となつた。これは海外の石油価格上昇,金利上昇に伴う住宅価格の上昇,労働生産性の停滞など長・短期の種々の要因によるものとみられている。かかる情勢から,米国政府の経済政策上,インフレ抑制策が最重点とされ,特に夏以降ボルカー新議長を迎えた連邦準備制度理事会は厳しい金融引締め政策を実施した。この結果,金利水準も急速に上昇し,プライムレートも年末には15%に達した。

(b) 80年初頭の動向及び80年の見通し

80年に入つてからの米国経済は,第1四半期実質GNP成長率(前月比年率)1.1%となつており,引き続き低成長ながらリセッションに陥らずに推移している。反面インフレは1~3月ともきわめて高水準にとどまつている。しかし,第2四半期以降マイナス成長となるのはほぼ確実視されており,80年通年の実質GNP成長率は政府見通しでもほぼゼロになると予想されている。

政府は,年初の大統領予算教書で厳しい財政緊縮政策を打ち出し,3月にはさらに消費者金融の引締め,石油輸入課徴金などを含む総合インフレ対策を発表したが,第2四半期に入り景気指標は軒並み悪化を始めており,今後の経済運営はインフレ抑制と景気浮揚の間で難しい局面に立たされるものと見られている。

(2) カナダ

(イ) 内 政

カナダでは,79年5月に総選挙が行なわれ,その結果,トルドー自由党政権に代わつて,クラーク党首に率いられた進歩保守党政権が発足した。11年にわたつた自由党政権に対する国民の飽きが進歩保守党の勝利をもたらしたものと評された。しかし,クラーク政権は少数与党であり,議会運営において野党との連帯が必ずしもうまくいかなかつたことなどから同年12月13日,連邦下院で政府予算案をめぐつて野党提出の政府不信任動議が可決され,翌12月14日,下院を解散する事態に追い込まれた。80年2月18日の総選挙は,逆に自由党に単独過半数をもたらす結果となり,3月3日第4次トルドー内閣が成立することとなつた。

カナダ内政上の最大政治課題であるケベック問題に関しては,79年11月1日,ケベック党同州政権がカナダからの実質的な独立を意味する「主権連合」構想の具体的提案を州議会に行い,事態は新たな局面に入つた。本構想に対する州民の承認を求めるレファレンダムは80年5月に予定されているが,連邦政府にとり,ケベックの分離独立をいかに阻止し,カナダ連邦を維持するかは最大の内政問題となつている。

(ロ) 外 交

(a) 79年5月の総選挙で敗退するまでのトルドー政権下の米加関係は,特にカーター政権発足以来,両国間に経済面での摩擦が少なかつたほか,カーター,トルドー両首脳間の個人的に親密なつながりもあり,良好であつた。クラーク政権も,経済面を中心とするカナダの対米関係の圧倒的重要性という現実に基づき,対米関係の強化を外交の最重要課題とした。

また,イランにおける米大使館占拠・人質事件にあつてカナダ政府は,6名の米外交官をかくまい脱出させるなど,米国に全面的に協力した。

(b) 79年6月,当時のクラーク首相は東京サミットに出席し,先進国間の協力促進に貢献した。

(c) さらに,クラーク首相は79年8月にルサカで開催された英連邦首脳会議に出席し,ローデシア問題の解決にも貢献した。

(ハ) 経済情勢

(a) 79年全般の概要

米国経済と密接に結びついているカナダ経済は,米国と同様74~75年に不況を経験した後,潜在成長力を下回る低成長を続けていたが,79年もこの傾向を脱しきれず,実質GNP成長率は2.9%となつた。一方失業率も前年に比し若干低下したとはいえ,年間を通じて7~8%の間を上下し,インフレも前年に比し若干昂進し,79年の消費者物価上昇率は9.1%となつた。低成長は個人消費支出が伸び悩んだことが主因といわれ,高水準の失業は構造的な面が強いと見られている。

他方,75年以降赤字に転じていた経常収支は,79年にわずかながら改善し,これを受けて前年まで下落を続けてきたカナダ・ドルは比較的安定した推移を辿つた。

以上のような困難な経済情勢のもとで,カナダ政府の経済政策はインフレ抑制,経常収支の赤字ファイナンスのための資本流入,エネルギーの自給を主な目標としたもので,79年を通じ高金利政策を実施するとともに,79年12月には国内石油価格の大幅な引上げを含む歳入予算案を提出したが,野党の反対にあいクラーク政権の新エネルギー政策は実現されずに終わつた。

(b) 80年の見通し

80年の経済成長は,米国の景気後退の影響を受けてほぼゼロになると見通されている。クラーク政権に代わり政権に復帰したトルドー自由党政権は,引き続きインフレ抑制などを中心に経済運営を行うものと見られているが,今後,景気の浮揚に対しいかなる政策を打ち出すかが注目されている。

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