5. インドシナ地域
(1) インドシナ地域の内外情勢
(イ) ヴィエトナム
(a) 内 政
79年初頭のヴィエトナムによるカンボディア軍事介入と中国のヴィエトナム領進攻は,ヴィエトナムの内政・外交に大きな影響を及ぼした。
3月には,ヴィエトナム全土にわたる総動員令が発動され,「生産の増強と国防の強化」が当面の主要な任務としてあげられた。
7月,国会常任委員会副議長であり共産党元政治局員ホアン・ヴァン・ホアンの中国亡命があつたが,レ・ズアン党書記長を中心とする指導体制に変動はみられなかつた。
8月には新憲法草案が発表され,国民の広範な討議に付された。同新憲法は現在暫定的に運用されている北ヴィエトナム憲法にかわり,統一ヴィエトナムの憲法として,次回開催の国会で採択されるものとみられる。
第4回党大会(76年末)以来の懸案であつた党の浄化と強化,党員の質の向上をはかるため,79年末には党史上初めての党員証の交付が発表され,かかる交付の過程において党員の資格審査が実施された。
なお,80年2月には内閣の一部改造が実施され,外務,国防,内務および対外貿易の各大臣,国家計画委員会議長など経済閣僚が変わつた。
(b) 外 交
中国との関係は,前年来の対立が一層激化し,2月17日中国軍は「自衛のための限定的反撃」として,国境地帯ほぼ全域にわたつてヴィエトナム領に進攻した。両国軍の戦闘は1ヵ月にわたつて続き,中国は3月16日に撤兵完了を宣言した。両国関係の改善のため,4月18日よりハノイにおいて第1次中国・ヴィエトナム次官級会談が開催された。6月28日からは北京で第2次次官級会談が開催され,計15回の会合が重ねられたが,双方の立場の隔たりは大きく,捕虜交換を除き何ら実質的進展がみられず,12月の会合を最後に同次官級会談は中断した。その後,第3次会談をハノイで開催することになつたが,時期は決定されていない。
中国とヴィエトナムとの関係が悪化するに伴い,ソ連はヴィエトナムヘの全面支援の姿勢を明らかにした。また,ソ連のヴィエトナムに対する軍事経済援助が強化され,ソ連の艦船,航空機がヴィエトナムの軍事施設を使用するようになつた。ヴィエトナムは78年末に樹立されたカンボディア救国民族統一戦線を全面的に支援しながら軍隊をカンボディアに入れ,1月7日プノンペンが陥落し,1月10日「カンボディア人民共和国」(ヘン・サムリン政権)の樹立が発表された。2月にはヘン・サムリン政権との間にヴィエトナム・カンボディア平和友好協力条約が締結された。その後もヴィエトナム軍は同条約を根拠に引き続きカンボディア領内にとどまり,民主カンボディア(ポル・ポト政権)軍との戦闘を継続している。また,80年1月にはプノンペンにおいてヴィエトナム,ラオス,カンボディア(ヘン・サムリン政権)3国の外相会議が開催され,3国の「戦闘的連帯,特別な関係」が強調されるなど,ヴィエトナムを中心とするインドシナ3カ国間の協力と団結が強調された。
他方,ASEAN諸国は,ヴィエトナムのカンボディア軍事介入及びヴィエトナムからのボート難民の大量流出の結果,ヴィエトナムに対する警戒心,不信感を強め,ヴィエトナムとASEAN諸国との関係は停滞した。
米国との関係については,カンボディア問題,ヴィエトナムからの難民の大量流出問題などにより,関係改善には進展がみられなかつた。
(c) 経済情勢
78年12月,レ・タン・ギ副首相は,79年度経済発展及び長期的発展計画の骨子として,基礎産業の発展,特に食糧生産の増加,工業製品増産,輸出の促進と国民の倹約を呼びかけ,79年度計画達成のための南部の社会主義改造推進とともに管理組織の強化を訴えた。しかし国内経済は,カンボディア紛争,中越紛争,難民流出及び西側諸国,国際機関からの援助先細りという新たな事態のため大きな困難に直面し,79年の国家経済計画の諸目標は未達成あるいは目標値の下方修正を余儀なくされた。かかる状況において,一方においてソ連をはじめとする東欧諸国からの援助に期待をかけるかたわら,国内的にも79年に開催された第5回,及び第6回党中央委員会会議で,生産の効率を重視し,国民生活に直接必要な消費財生産及び地方での工業生産・輸出を刺激する現実的な新経済政策を決議し,国民に一層の努力を訴えた。
(ロ) カンボディア
(a) 内 政
78年末からのヴィエトナム軍及びその支援するカンボディア救国統一戦線側の攻勢の結果,1月7日,民主カンボディア政府は首都プノンペンを放棄した。同政府勢力は,それ以来主として同国西部のタイとの国境山岳地帯及び東北部の山岳地帯に籠り,小グループのゲリラ部隊に分散しながらヴィエトナム軍及びヘン・サムリン軍に対してゲリラ戦による抵抗を続けている。同政府は,ヴィエトナムの侵略に抵抗するため,広範な基盤に立つた民族大連合愛国民主戦線の結成を呼びかけ,9月には自由主義的要素も加味した政治綱領を発表した。更に12月,政府,軍などの代表を招集して国民合同会議を開催し,同政権の国家機構を改め,キュー・サンパン国家幹部会議長が首相及び民族大連合愛国民主戦線臨時議長に就任した(ポルポット前首相は国軍最高司令官兼軍事委員会議長に就任)。シハヌーク殿下,自由クメール諸グループなどのいわゆる第三勢力は戦線への参加に応じていない。
他方,首都プノンペン及び地方都市などを支配する「カンボディア人民共和国」政権は,住民の故郷への再定住,学校,病院,一部工場,電報・郵便業務の再開,民兵組織の編成などを行うとともに,鉄道・道路・港湾施設を整備し,行政組織の確立に腐心しているが,軍事・行政・経済など全面的にヴィエトナムに依存している。
(b) 外 交
民主カンボディア政府は,ヴィエトナムの武力介入に対抗すべく以前に比して活発な外交を展開し,政府要人を諸外国に派遣し,各種国際会議に代表を送るなど,国際場裡における支持の確保に努力を傾注した。9月の第6回非同盟首脳会議(於ハヴァナ)では,カンボディアの議席が空席とされたのに対し,同月の国連総会における代表権問題の討議では同政権の代表権が認められた。
中国はプノンペン陥落後も引き続き強い支持を与えており,80年3月にはキュー・サンパン新首相も政府改革後初の外遊先として中国(及び北朝鮮)を訪問し,改めて新路線下の反越闘争に対する支持が表明されるなど緊密な関係が保たれている。また,ASEAN諸国は,ヴィエトナムのカンボディアヘの武力介入に反対するとの観点から,民主カンボディア政府を引き続き承認しており,6月のバリ島での年次外相会議などの結果を踏まえて,11月の国連総会においてわが国を含む関係諸国と共同決議案(カンボディア難民援助,同国からの全外国軍隊の即時全面撤退,紛争の平和的解決,民族自決権の尊重を骨子とする)を提出し,圧倒的多数(91-21-29)で採択された。
他方,「カンボディア人民共和国」政権は79年末現在で社会主義圏を中心に約30カ国の承認を受げたにとどまつている。ヴィエトナムとは2月に平和友好協力条約を締結したのをはじめ種々の協定を結び,10数万人程度のヴィエトナム軍が駐留している。また,3月にラオス大統領がプノンペンを訪問し共同声明に署名,更に80年1月には,プノンペンでインドシナ3カ国外相会議を開催し共同声明を発表するなど,ヴィエトナムを中心とするインドシナ3カ国間の「特別の連帯関係」が強調されている。また,80年2月にはヘン・サムリン人民革命評議会議長を団長とする党・政府代表団がソ連を公式友好訪問し,共同声明,各種援助供与,経済技術協力協定に調印した。
(c) 経済情勢
カンボディアでは戦乱で国土が荒廃し,生産手段・労働力の不足などにより食糧の生産がほとんど行われなかつたこともあり,国内では250万人の民衆が飢えと病気に苦しみ,また,食糧を求めて大量の難民がタイ国境地帯に集結し,その一部がタイ領内に流入して難民キャンプに収容されている。このようなカンボディア一般民衆の窮状に対して,10月,赤十字国際委員会と国際連合児童基金(ユニセフ)はカンボディア被災民・難民救済のための援助計画について合同アピールを発出し,これをうけてわが国を含む世界の各国及び国際機関による救済活動がカンボディア国内及びタイ・カンボディア国境地帯で行われている。
他方,「カンボディア人民共和国」政権は,同国の農業生産の回復をはじめとする経済復興のため全土で50~70万ヘクタールに上る稲作及び雑穀の植付けを行つた旨発表しているが,その収穫は平年を大きく下回り,大量の食糧を国際機関及び外国援助に仰いでいる。また,75年4月の社会主義政権成立以来貨幣が廃止され,物資の流通は物々交換ないし金・米により行われていたが,同政権は貨幣経済を復活させるため,11月に国家銀行の新設を決定したのに続き,80年3月には新通貨を発行した。更に,工場については一部再開されているが,原料,燃料,部品が欠乏しており,また,貿易については,一部社会主義諸国などと限定的に行われている模様であるが,正常な貿易体制は確立されていない。
(ハ) ラオス
(a) 内 政
革命後4年を経たラオスでは,カイソン人民革命党書記長兼首相を中心とする指導体制のもとで国内の治安維持,ヴィエトナム,カンボディア(ヘン・サムリン政権)との連帯強化,ソ連などコメコン加盟国との協力を進めてきた。社会主義体制になじむことを拒否している少数民族(メオ族)や反政府ゲリラが一部で抵抗を続け,現体制に反対してタイへ逃亡するラオス難民(毎月約3,000人)が跡を絶たない。経済面では,79年は,3カ年経済開発計画(78~80年)の2年目であつたが,経済変革の過渡期の低迷,混乱から脱し切つていない。かかる現状にかんがみて,政府は79年末に通貨改革を実施し,商品流通の自由化,集団農場推進運動の一時中止などの新経済政策を導入することによつて,硬直した社会主義経済運営を改め,沈滞,低迷している生産の拡大及び民心の掌握に努めている。
(b) 外 交
ラオスは,ヴィエトナムとの間に25年間有効の友好協力条約を締結しており,ラオス,越は「特別な関係」にある。かかる関係は,79年も両国間のハイレベルあるいは実務者レベルの代表団の相互訪問によつて一層強化されていつた。また,カンボディアのヘン・サムリン政権の早期承認(1月),スパヌウォン大統領のプノンペン訪問(3月),ヘン・サムリン議長のヴィエンチャン訪問(8月),ペン・ソヴァン国防相を団長とするカンボディア軍事代表団のラオス訪問(80年1月)を通じてラオス・カンボディア(ヘン・サムリン政権)間の連帯も強化している。
中国との関係は,中越関係の悪化とともに次第に緊張し,79年3月には,ラオス北部国境における中国軍の集結を非難する政府声明の発出,中国の道路建設要員の引揚げ(4月),在ラオス中国大使館員数の縮小要求(6月)などにより,次第に対中対決姿勢を強め,中国によるサボタージュや反政府ゲリラ援助が行われている旨の非難が再三にわたり行われた。ソ連との関係は,ヌハーク副首相がコメコン総会(オブザーバー)のためモスクワを訪問(7月)したほか,各種援助協定の締結や実務レベルの代表団の相互訪問などを通じ協力が強められた。外国指導者の訪問も活発に行われ,ネ・ウィンビルマ大統領(10月),ジフコフブルガリア共産党第一書記(10月),バトムンフモンゴル閣僚評議会議長(12月),フサクチェッコスロヴァキア共産党書記長(80年2月)などがラオスを訪問し,ブルガリア,モンゴル,チェッコスロヴァキアとの間にそれぞれ友好協力条約が調印された。
ASEAN諸国特にタイとの関係は,77年11月のクリアンサック内閣の成立とともに好転してきていたが,79年1月及び4月にはクリアンサック首相及びカイソン首相の相互訪問が実現し,メコン河を含む両国国境を平和地帯とすることに合意し,両国国境情勢は一応平穏に推移している。ラオスは,80年1月現在,62カ国と外交関係を有すると伝えられている。
(c) 経済情勢
ラオスは,農・林業を基礎として工業化を推進するという自助努力に加えて,受け入れられる外国援助はこれを活用するなどの方針のもとに,食糧の自給自足(80年までに年間ベースでモミ米100万トン)を当面の緊急任務とし,農業の集団化(79年末までに,約2,800の集団農場が設立された),土地開墾や灌漑面積の拡張に努めてきたが,依然その目標は達成されていない。ラオス経済全体としては,依然として生産の不振(国営企業の稼動率30%),物資不足,外貨不足(79年外貨準備高885万ドル)に悩まされている。かかる現状を打破するために,政府は,79年末に資本主義的経済原理をも活用していくべきであるとの新経済政策を打ち出し,これに基づいて,通貨改革(100分の1のデノミ,75%の平価切下げ),公務員給与の170%の引上げ,公務員用の特別商店の廃止,農産物の政府買上げ価格及び公定価格の引上げ,農業税の減額修正,商品流通の自由化,集団農場設立運動の一時中止などの一連の新しい措置がとられたが,かかる新経済政策が81年から開始される第1次5カ年計画の実施にいかなる影響を与えるかが注目される。