4. ASEAN5カ国及びビルマ

(1) ASEAN5カ国及びビルマの内外情勢

(イ) インドネシア

(a) 内 政

79年の国内政情は,おおむね平穏裡に推移した。

土地問題をめぐる農民の請願運動や労使紛争が散発し,学生運動も一時再燃の兆しを示したが,国内の安定が脅かされるほどのものではなかつた。

他方,治安当局は,9月30日事件関係B級政治犯全員を79年末までに釈放したが,これは国内治安維持に対する自信を示したものといえる。

(b) 外 交

79年のインドネシア外交はインドシナ問題の解決のため積極的な展開を示し,インドシナ問題には,ASEANの結束をもつて対処する見地から,1月の緊急ASEAN外相会議(バンコク),6月のASEAN外相会議(バリ),8月の非公式ASEAN外相会議(クアラルンプール)及び12月の臨時ASEAN外相会議(クアラルンプール),並びに第34回国連総会における「カンボディア情勢」決議において,一貫して外国軍隊の撤退及びカンボディア紛争の政治的解決などを主張した。

また,難民問題については,難民一時収容センター(プロセシング・センター)構想を提唱するとともに,その具体策として自国領土であるガラン島に,プロセシング・センターを建設することに賛意を表したが,同建設は5月にジャカルタで開催されたUNHCR主催のインドシナ難民会議においてこれが正式決定された。

中国との関係では,79年11月中国側が政府代表団の対インドネシア派遣を申し入れたのに対し,インドネシア側は引き続き慎重な態度で対処してきている。他方その間インドネシア政府は華僑登録を推進し,これは対中関係正常化への布石ではないかとの憶測を呼んだ(80年1月,スハルト大統領は,非インドネシア籍華僑に対する国籍付与・国籍の明確化を同年8月17日までに完了すべき旨の大統領令を発出した)。

また,イラン問題については,80年1月スハルト大統領が,予算演説において米国大使館占拠を国際法違反である旨指摘したが,対イラン制裁には消極的態度を示している。アフガニスタン情勢については,政府,回教徒団体などがソ連非難の態度を明確に打ち出しており,青年団体によるソ連大使館に対する抗議行動などが行われた。

(c) 経済情勢

(i)  79年のインドネシア経済は,ルピア切下げ(78年11月)後の最初の年であつたが,原油価格の高騰,木材など一次産品の国際価格の上昇により順調に推移した。

(ii)  輸出は,石油,木材の価格急上昇やルピア切下げによる競争力の強化に支えられて,石油,非石油ともに大幅な増加を示し,79年度で経常収支は5億ドル程度の黒字を示し,総合収支で16億ドルの黒字にも達する勢いであり,外貨準備は80年2月には46億ドルとなつた。

(iii)  ルピア切下げを引き金として起こつた急激な物価上昇は政府の米,灯油などの基礎的物資の価格安定策,財政・金融上とられた引締め政策などにより次第に鎮静化し,79年の年間物価上昇率は22%に収まつた。

(iv)  79年の石油生産は161万バーレル/日で78年の平均日産163万バーレルを下回り,石油生産の停滞と国内需要の急速な伸びは輸出余力を減少させており,新規油田の開発及び代替エネルギーの開発が緊急に必要とされている。

(v)  農業面では,79年の米生産は史上最高を記録した78年の1,750万トンを約2%上回る1,780~1,790万トンの生産が見込まれているが,自給の域には達せず約270万トンの輸入(1979.4~1980.3)が行なわれる見込みである。

(vi)  外国援助については,79年4月の対インドネシア政府間協議グループ(IGGI)会議において,インドネシア政府は79年度分の外貨所要総額を約28億ドルとし,うち政府開発援助(ODA)を19億ドル(うちIGG12国間援助9億5,000万ドル)受け入れる希望を表明した。わが国は右要請に対し550億円(2億5,580万ドル)の資金協力の意図表明を行つた。

(vii)  対インドネシア民間直接投資は,世界的不景気もあり停滞状態にあつて,79年(1~9月)では,2億6,200万ドルと対前年同期比10%の減となつた。わが国はインドネシアにとり最大の投資国であり,対インドネシア外国投資全体の34%を占めている。

(ロ) マレイシア

(a) 内 政

78年7月の総選挙において連立与党である国民戦線(BN)は圧倒的勝利を収めた。79年は与党第一党である統一マレイ人国民組織(UMNO)の総裁フセイン首相及び副総裁マハディール副首相の政権が一層堅固なものとなつた。同年9月連立与党の一員たる中国人協会(MCA)の党大会を機に,同協会内部の抗争が一部顕在化することもあつたが,全般的には下院補欠選挙及びサラワク州議会選挙など州レベルの選挙において与党が勝利を収めるなど,安定的に推移した。

他方,従来から当国内政問題の底流となつてきたマレイ人と華人の対立は依然として残つており,政府がこの対立を緩和するためにとつた新経済政策(NEP:1971~90)も華人の不満を惹起しており,6月にはNEPに盛りこまれた大学教育におけるマレイ人と華人の割当制度をめぐりUMNOとMCAの間に対立も発生した。また,マレイ人が同国回教徒の大多数を占めているが,ここ数年来回教宣教団体の動きが活発になり,また,社会的風潮としても回教復古の現象が徐々にではあるが,顕在化しつつある。

3月には第6代国王ヤヒヤ・プトラ(クランタン州のサルタン:1975年9月即位)が死亡したことにより,第7代国王として,アハマド・シャー(パハン州のサルタン)が即位した。

(b) 外 交

マレイシア外交の基本方針は11月のリタウディン外相の演説にみられるようにASEANとの協力の強化,回教諸国との協力,非同盟中立,米中ソとの等距離外交,EC,英連邦諸国,環太平洋諸国などとの協力などを主要な柱としており,79年の外交もこれらの原則にのつとり,活発に推し進めてきた。

すなわち,ASEAN外相会議を通じてASEAN外交を積極的に推進し,更にフセイン首相が2月にタイ,3月にインドネシアを訪問し,10月にはクリアンサックタイ首相がマレイシアを訪問した。

また,回教諸国との協力については,リタウディン外相が5月に開催されたイスラム外相会議に出席し,またフセイン首相が1月にパキスタン,5月にヨルダン,12月にサウディ・アラビアを訪問した。他方1月にソマリア外相,2月にイラク外相,3月にヨルダン皇太子,4月にバングラデシュ大統領,5月にはエジプト副大統領がそれぞれマレイシアを訪問した。EC諸国との交流も盛んで,マハディール副首相が4月及び10月に訪欧したほか,リタウディン外相が8月に英連邦首脳会議に出席した。

なお,フセイン首相は5月に中国,9月にソ連を訪問した。

(c) 経済情勢

79年におけるマレイシア経済は当初の予想を上回る経済成長率を達成し,新経済政策(NEP)も着実に進捗した。経済成長率は過去5年間の年平均7.4%を上回る8.1%(推定)を達成し,輸出は一次産品市場の引き続く好況に支えられ伸びたのみならず(前年度比23%増),製品輸出が引き続きゴム輸出を上回つた。

1人当たりの国民所得は1,375米ドルにのぼつている。

消費者物価上昇率は過去5年間毎年5%以内であつたが,79年度も5%程度の上昇率とみられている。

(ハ) フィリピン

(a) 内 政

72年9月に布告された戒厳令のもとで治安回復,経済開発,汚職追放などの施策を強化してきたマルコス大統領は,78年4月の暫定立法議会議員(地域代表)選挙,同年6月の暫定立法議会召集に続き80年1月に地方選挙を実施し,戒厳令体制の完全解除をめざす「正常状態復帰政策」を着実に進めている。79年7月には,マルコス大統領は,戒厳令施行以来初めての内閣改造を断行,人心の一新と現政権の体制強化を図つた。

なお,マルコス大統領の政敵と目されている人物で,戒厳令発動と同時に逮捕されたアキノ元上院議員は,79年末のクリスマス時に3週間以上の異例ともいえる長期自宅滞在を認められ,マルコス政権の政策変更として注目されたが,同人はその後再び収監された。

南部回教徒問題はその後もミンダナオ島を中心に比政府軍とモロ民族解放戦線(MNLF)との間で散発的な衝突が繰り返されている。マルコス政権は,79年4月,トリポリ協定に基づくものとして,南部回教徒自治地域における地域議会議員の選挙を行い,同選挙を踏まえて地域議会(7月),行政評議会(12月)を設置し,南部回教徒問題解決のための努力を払つている。

(b) 外 交

フィリピンは75年春のインドシナ情勢の急変後は対米特殊関係を改め,より多角的な外交を展開している。79年のフィリピン外交白書によれば,フィリピン外交の基本方針として,i国連強化,ii第三世界との連帯と新経済秩序の建設,iii社会主義諸国との関係強化,ivASEANの強化,v西欧との貿易関係の継続,vi日本との友好関係維持,vii米国との新たな関係の設定などが主要項目として掲げられている。

対米関係では,79年1月に長年の懸案であつた比米軍事基地協定改訂交渉が妥結するに至つた。

ASEAN内の協調外交は同国外交の柱の一つであり,最近のインドシナ情勢の中でASEANの一層の結束強化を唱えている。

対共産圏外交では,79年7月にイメルダ大統領夫人が中国を訪問しまた80年3月,黄華中国外相が訪比した。

(c) 経済情勢

79年のフィリピン経済は,2割近いインフレと史上最大の貿易赤字に悩まされながらも経済成長率5.8%を維持した。最大の問題は貿易収支の赤字であり,主要一次産品の市況好調を背景に輸出が対前年比32%増の伸びを示したものの,輸入も大幅に値上げされた原油,国内経済開発に不可欠な機械類などを中心に大幅に増加し,輸出と同率の伸びを示したため,結局17億ドルという史上最高の貿易収支の赤字を記録した。また,従来より注目されていたパラワン島沖合での石油生産は79年2月より開始され,現在までに日産4万バレルに達し,これによりフィリピンの石油消費量の約17~18%が自給されることとなつた。なお,対外債務は79年末現在96億1,700万ドルに達し,その急増ぶりが注視されている。

(ニ) シンガポール

(a) 内 政

シンガポールにおいては,79年2月,国会議員(全議席数69)の補欠選挙が7選挙区(小選挙区制)で行われたが,全選挙区で与党の人民行動党候補者が圧倒的得票率で当選し,人民行動党による議会全議席の独占が続くこととなつた。この補欠選挙と連動した形で内閣の一部改造が行われ,ゴー・ケン・スイ副首相兼国防大臣が副首相兼教育大臣となり,国防大臣には今回の補欠選挙で当選した前総理府事務次官のハウ・ユン・チョンが任命された。

また,3月には大蔵省の貿易・投資関連部門が大蔵省から分離して商工省となり,前大蔵担当国務大臣のゴー・チョク・トンが商工大臣となつた。

6月に政府は,全国賃金評議会の勧告に基づき今後3年間にわたり年率約20%の賃上げを行う旨発表するとともに,企業経営者に設備の近代化を求めた。

このような政治的・経済的変更ないし新政策の発表があつたものの,79年のシンガポールの政情は極めて安定的に推移した。

なお,二言語政策推進との関連で78年8月にゴー副首相を長として発足した教育問題研究・調査のためのタスク・フォースは,79年2月リー首相に対し,能力別教育体系の樹立を骨子とする教育改革案を提出し,政府は,同改革案をベースに本格的に教育制度の見直しに乗り出すことになつた。

(b) 外 交

シンガポールは,ASEAN協調を基軸に国連や非同盟諸国会議などの国際会議の場をも十分に利用し,かつ西アジア諸国及び英連邦諸国との関係の強化,更には日本を含む西側先進国との関係の緊密化を図るなど錯綜する国際関係をにらみつつ,極めて現実的な外交政策を推進している。

リー首相は積極的に首脳外交を展開しており,79年には,2月に香港,台湾,3月にインドネシア(バタム島),ブルネイ,6月に英国,西独,ベルギー,8月にザンビア(英連邦首脳会議),10月に日本及び韓国を訪問し,各訪問先で各国首脳と会談した。

他方,外国からは,5月にワルトハイム国連事務総長,許談北朝鮮副首相及びザルコヴィッチユーゴースラヴィア副大統領,9月にスハルトインドネシア大統領及びジャヤワルダナスリランカ大統領がシンガポールを訪問した。

(c) 経済情勢

79年のシンガポール経済は,原油価格の大幅引上げと国内における大幅な賃上げという悪条件が重なつたにもかかわらず順調に推移し,実質で対前年比9.3%という成長率を達成した。産業別では,前年同様,電子・電気,運輸・通信,観光・ホテルなどの業界が好調で,これらにより高い成長率が達成されたが,73年の石油ショック以来低迷を続けていた建設部門が業績を回復してきたことが注目される。これら産業界の好調を反映して雇用も増加し,79年末の失業率は3.3%とこれまでの最低水準を記録した。また,20%という高い賃上げ勧告が行われたにもかかわらず,消費者物価の上昇は,年率4.0%にとどまつた。

対外貿易は,輸出(対前年比35%増),輸入(同30%増)とも大幅な伸び率を示したものの,貿易収支は73億9,400万シンガポール・ドルに達する大幅な赤字となつた。しかしながら,海外からの投資の好調,運輸,観光などの好調もあつて,総合収支は11億3,700万シンガポール・ドルの黒字であり,外貨準備高は12月末で125億6,000万シンガポール・ドルに達した。

(ホ) タ イ

(a) 内 政

79年4月下院選挙が実施された。過半数を占める多数政党は出現せず,クリアンサック首相は軍部及び少数派政党の支持を基盤に,5月内閣を組閣した。しかしながら新内閣は当面する物価高騰や石油不足など経済諸問題を有効的に解決し得ず,また「ク」内閣の打ち出した難民受入れ政策についてもタイが難民の負担を負うことに対する国内の批判があり,議会における野党の政府批判攻勢が強まつた。

「ク」首相はかかる批判に対処するため80年2月,内閣改造を実施したが,改造直前に行つた公共料金引上げをめぐつて国民一般に政府批判が高まり,軍部の「ク」政権に対する支持も動揺するに至つたため,「ク」首相は2月末臨時国会を召集して自ら退陣を表明した。3月プレム前国防相兼陸軍司令官が国内各派の支持を受けて,首相に就任し,主要政党連立による新内閣が成立した。

79年における国内共産勢力の動きは,カンボディア情勢及び中国・ヴィエトナムの対立の影響を受けてか,活動は停滞した。「タイ人民の声」放送は7月以降放送を停止している。

(b) 外 交

79年1月のプノンペン陥落及び2~3月の中国軍の対越軍事行動というインドシナ情勢の急変に対し,タイは自国の安全保障を確保すべく「中立」の立場を表明すると同時に,タイの後楯とも言うべきASEAN諸国との連帯強化に努め,一連のASEANの諸会議を通じてASEAN諸国のタイ支援が確認された。

更に西側諸国に対しても「ク」首相の訪日(1月),訪米(2月),訪加(9月),タウィー副首相の訪独(80年1月)などのほか,主要国要人の訪タイを通じて,タイに対する援助強化並びにタイの直面する難民問題に対する協力を求めた。

他方,中国との関係は各界要人の活発な交流及び中国原油の対タイ輸出など貿易面での協力などを通じて緊密の度を増した。

ヴィエトナムとの間ではカンボディア問題をめぐつて見解の対立があり,関係は微妙なものとなつている。ヴィエトナム側はタイがポル・ポット軍を支援しているとの非難を行つており,タイとしてはあくまで中立を標榜しつつもヴィエトナム軍のカンボディアでの掃討作戦の継続,特にタイヘの波及の可能性を強く懸念しており,ASEANなどの支持を背景にヴィエトナム軍のカンボディアからの撤退などを求める立場を貫いている。この関連で当初検討されていた「ク」首相の訪越も実現していない。しかしその半面,10月には来タイしたグエン・コータック越外相と「ク」首相が会談し,相互非難の中止につき合意したほか,80年1月には1億バーツ(約500万ドル)の対越借款を供与するなどヴィエトナムとの関係維持にも努めた。

ラオスとの関係は1月及び4月に首相の相互訪問が行われたのを機に関係正常化が進展した。

また対ソ関係では3月「ク」首相が訪ソして,カンボディア問題に対するタイの中立的立場を説明した。

なお,難民(特にカンボディア難民)問題については当初,難民はタイにとつて過度の負担となるとの観点から受入れに消極的な態度をとつていたが,秋に至り,国際的なカンボディア被災民・難民救済活動の目途がつくや受入れ政策を打ち出し,救済活動に協力している。

(c) 経済情勢

79年の経済情勢は国内総生産が実質6.7%の成長を達成したものの,物価高騰金融逼迫,貿易収支悪化などの諸問題が表面化し,国内政局にも大きな影響を与えることとなつた。

農業生産はタピオカ,砂糖の落込みに加え当初豊作が見込まれた米が平年並みにとどまつたため,78年に比し1.9%のマイナス成長となつた。他方,製造業は繊維品などの輸出需要に支えられて前年比10%の堅実な成長を示し,石油不足,資金不足の影響はあつたものの非農業部門は全体として78年並みの成長を遂げた。

物価は7月約60%の石油製品値上げを契機として上昇テンポを高め,年率では10.6%の上昇となつた。このため77年以降鎮静化していた労働攻勢が,賃上げ要求,ストライキとして再び活発化の兆しをみせた。

対外貿易は輸出が一次産品の価格高騰及び輸出量の増大などにより好調に推移し,対前年比30.5%の伸びとなつたものの,石油輸入額の急増などにより輸入も対前年比34.2%の伸びとなつたため,貿易収支は18.9億ドルと史上最高の赤字と言われた78年を更に上回る赤字幅となつた。しかしながら,総合収支は,国内の資金不足をカバーするため資本流入が活発化したことにより5億ドルの赤字幅にとどまり,また外貨の純準備高は金価格の上昇により12月末で17億5,000万ドルと大幅に改善した。

79年の投資動向は大型投資も含め活発な設備投資が行われ,投資奨励法に基づく投資額は約35億ドルと対前年比53.4%の伸びを示し,一時低下していた外資比率も高まりをみせた。

(ヘ) ビルマ

(a) 内 政

79年のビルマの内政は,極めて平穏に推移し,また人事面で,閣僚レベルの入替えは皆無であつた。79年半ば頃には,ネ・ウィン大統領の健康が良好でないとの噂も流れたが,その後同大統領は,国内,国外の旅行を頻繁に行うなど元気に国務に専念して,その健在ぶりが示された。

79年の治安状況は,都市部においては非常に良好であつた。他方ビルマ共産党(BCP),少数民族諸派,ウ・ヌ派亡命グループなどの各反乱軍が,辺境地区において活動を続け,国内団結,経済開発に対する一つの阻害要因となつたが,このなかで,BCP反乱軍の活動状況は,近年鎮静化している。

(b) 外 交

79年のビルマの首脳外交は,78年に比し極めて活発化した。すなわち,ネ・ウィン大統領は,タイ(3月),バングラデシュ(5月),ラオス(10月)を訪問して,善隣友好関係の強化に努めた。

他方,中国との交流が引き続き顕著な進展をみせた。マウン・マウン・カ首相が中国を訪問(7月)したほか,中国からは黄華外相が訪緬(11月)し,更に,農業,文化及びスポーツの分野において両国交流が頻繁に行われた。

79年におけるビルマの外交上の最大の出来事は,非同盟諸国会議からの脱退である。ビルマは,非同盟諸国会議の原加盟国であるが,近年同会議が非同盟の基本原則から逸脱しているとして,これに批判的態度をとつていた。特に,79年9月ハバナで開催された第6回非同盟諸国首脳会議における一部急進派諸国の強引な議事運営に不満の意を表明し,その直後の国連総会で,非同盟諸国会議からの脱退を声明した。しかし,ビルマが今後とも従来からの非同盟政策を堅持していくこと自体に変化はないとみられる。

(c) 経済情勢

ビルマ経済は,引き続き拡大傾向にあり,78/79年度のGDPは,5.0%という伸びを示した。その要因として,良好な天候により農業生産が順調であつたこと,経済改革及び外国援助導入の増加により国営企業の生産性が向上したことなどが指摘されている。79/80年度の米作は,78/79年度並みの良好な作柄が期待されている。また,近年における原油の生産は順調に伸び,78/79年度には年産1,000万バレルに達し,輸出余力が生じ,ビルマは79年に,戦後はじめて,原油100万バレルの対日輸出契約を締結した。このように経済は上向きになつているが,国民所得の水準が依然低い上に,物価が高値安定であり,国民生活には各種の困難が伝えられている。

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