第 2 部
各 説
第1章 各国の情勢及びわが国と
これら諸国との関係
第1節 アジア地域
1. 朝鮮半島
(1) 朝鮮半島の情勢
(イ) 韓国の情勢
(a) 内 政
1979年10月,韓国では与野党間の対決様相と社会的緊張の高まる中で18年余にわたつて政権の座にあつた朴大統領が,中央情報部長によつて殺害されるという事態をみた。韓国は78年の国政選挙を経て79年から朴大統領の主導する維新体制の第2期に入つたが,78年の国会議員選挙において議席数では与党民主共和党が引き続き第一党の地位を占めたものの,得票率では野党新民党が若干ながら民主共和党を初めて上回る現象が見られ,その後,新民党側は次第に政府対決色を強めていつた。また,経済面においてもインフレが政府の諸施策にかかわらず進行すると同時に不況感が段々深まる様相となり,政治的,社会的に難しい局面を迎えつつあつた中で朴大統領の殺害事件が発生したものである。朴大統領の死去後,国内融和を目指しての政治体制の改革があらたな課題として登場し,崔新大統領は憲法改正とその後の国政選挙実施の方針を打ち出した。その具体的実施の道程は深刻な困難を伴うものとなつているが,以下では79年と80年3月頃迄の主要な動きを略述してみよう。
(i) 金泳三の新民党総裁就任とその後の動き
第1野党の新民党は5月30日党大会を開き,新総裁に政府批判色の強い金泳三を選出した。その後金泳三総裁は7月の国会で大統領緊急措置の撤廃,憲法改正などを主張したのをはじめ,政府与党に対する対決色を強めていつた。
9月8日ソウル民事地方裁判所は,金泳三総裁の選出に手続上の瑕疵があつたとして,反金泳三派新民党員が提出していた総裁などの職務執行停止仮処分申請を認める判決を下したが,金泳三総裁は右判決を拒否し朴政権打倒運動を展開する旨宣言した。
更に金泳三総裁のニューヨーク・タイムズ紙(9月16日)とのインタヴューを契機に,一連の金泳三総裁の言動に反発した与党(民主共和党)側は,10月4日与党議員のみで国会本会議を開き,金泳三総裁を国会から除名する旨決議した。新民党側はこの除名処分に反発して新民党議員全員が国会議長に辞表を提出したため(ただし受理されず),与野党間の緊張が高まり国会は空転状態に陥つた。
(ii) 釜山・馬山事件と朴大統領死亡事件
10月16,17の両日,釜山で政府与党側の態度に反発した大学生及び一部市民によるデモが発生し,官公庁,派出所,新聞社などに対する襲撃が行われた。デモは18日馬山にも波及し,同日釜山市一帯に非常戒厳令が,20日には馬山・昌原地区に衛戌令がそれぞれ発動され,軍隊が出動した。
以上のような背景のもとに10月26日,朴正煕大統領が金載圭中央情報部長により射殺される事件が発生し,翌27日済州道を除く全国一円に非常戒厳令が発動された。
大統領権限代行に就任した崔圭夏国務総理は11月10日,時局に関する特別談話を発表し,まず現行憲法に基づき大統領を選出し,その後現実的に可能な早い期間内に憲法を改正した上で国政選挙を実施するとの方針を明らかにした。
(iii) 崔大統領の就任及び新内閣の誕生
12月6日統一主体国民会議は崔大統領権限代行を正式に第10代大統領に選出した。雀大統領は,国民融和を図りつつ政治体制の秩序ある変革を進めていくとの方針に沿つて,12月8日に大統領緊急措置第9号を解除するとともに同措置による拘束者を釈放した。これに伴い同日,金大中の自宅軟禁も解かれた。
次いで12月10日,崔大統領は申鉉ファク副総理兼経済企画院長官を国務総理に任命し,同14日新内閣を発足させた。
なお,11月5日,与党議員が国会本会議を開き新民党議員の辞表差戻しを議決したのをうけて,新民党も国会審議に応ずる態度をとるに至り,国会活動も正常に復した。
(iv) 「12・12事件」の発生
新内閣組閣直前の12月12日,鄭昇和陸軍参謀総長兼戒厳司令官が朴大統領殺害事件に関与していた嫌疑が出てきたとして,国軍保安司令部(司令官全斗煥少将)に連行拘束されるという事件が発生した。これに伴い国防部長官に周永福元空軍参謀総長,陸軍参謀総長(兼戒厳司令官)に李ヒ性前陸軍参謀次長が任命されるなど軍部要人の大幅異動が行われた。
(v) 政治改革の動き
憲法改正問題については,崔大統領は11月の時局に関する特別談話に引き続き,12月21日の大統領就任式において,今後特別な事情がない限り,1年程度の期間内に憲法改正を行いたいとの意向を示し,新憲法草案作成作業に着手することとなつた。他方,国会においても11月26日憲法改正特別委員会が設置された。
また国内融和をめざす政治発展の一環として,80年2月29日,金大中を含む緊急措置違反者など684人に対する公民権回復措置が講じられた。
憲法改正及び政治運用の基本をめぐる政治改革のあり方について野党,在野勢力,一部学生層の間では政府の方針に対する不満がみられていたが,80年3月になるとこれらの不満が表面化し,次第に激化する傾向を示すに至つた。
(b) 外 交
(i) 基本方針
崔大統領は,大統領就任式及び80年の年頭記者会見において,韓国外交の基本方針について次の諸点を明らかにし,従来の外交路線を維持することを再確認した。
(あ)平和・互恵の精神に基づく外交の推進
(い)米韓及び日韓協力関係の強化
(う)ASEAN諸国及び非同盟諸国との協力関係の拡大
(え)理念と体制を異にする諸国との門戸開放と相互主義による関係正常化
(お)石油等資源確保と輸出の増大
(か)朝鮮半島の緊張緩和と平和の定着
(ii) 対米関係
カーター大統領は東京における第5回主要国首脳会議に出席した後6月29日から3日間韓国を訪問し,懸案の米韓首脳会談が実現した。同大統領は,韓国滞在中,朴大統領と2回にわたり会談したのをはじめ,国会,政府関係者,金泳三新民党総裁などと面会し,また政府に批判的なキリスト教界の代表12名とも懇談した。両国首脳の間では,(あ)在韓米地上軍撤退問題,(い)米・韓・北朝鮮の3者会談,(う)人権問題,(え)米韓経済・貿易問題,(お)文化・教育問題などが話し合われた。
在韓米地上軍撤退問題については,カーター大統領は,2月9日,米政府が,(あ)北朝鮮の軍備増強状況,(い)米中国交正常化の影響,(う)南北対話など南北朝鮮間の動き,につき検討を行つており,右検討結果が得られるまで撤退を一時見合わせる旨表明したが,カーター大統領訪韓後の7月20日,米国政府は,米軍撤退問題に関する大統領声明を発表し,地上戦闘部隊の撤退を81年まで凍結することとなつた。
朴大統領死亡事件直後,米国政府は,米国の対韓条約義務に言及しつつ韓国内の事態に乗じようとする外部の企てに対して強く対処するとの政府声明を発し,韓国の安全に対する約束を再確認した。
(iii) 非同盟諸国との関係
79年を通じて非同盟諸国に対する積極外交が継続されたが,特に韓国経済が直面している困難な原油状況を背景として,朴東鎮外務部長官のサウディ・アラビア及びクウェイト訪問(9月),梁潤世動力資源部長官のサウディ・アラビア,クウェイト,オマーン訪問(80年1月)などが注目された。また,インドネシア外相(4月),セネガル大統領(4月),マレイシア首相(7月),サウディ・アラビア内相(7月),シンガポール首相(10月)などの外国政府要人が訪韓した。
(iv) その他
韓国は従来より理念と体制を異にする諸国に対して相互主義に基づく門戸開放政策をとつているが,社会主義諸国との関係では79年を通じて新しい動きはみられなかつた。
他方,朴外務部長官はフィンランドを訪問し(9月),ソ連及び東欧諸国との貿易を同国を通じて行うことについての関心を示したものとして注目された。
また,1979年を通じてコモロ,セントルシア,クウェイト,ナウル,赤道ギニア,セントビンセントの6カ国と新たに外交関係を設定した。この結果,79年末現在で外交関係を有する国は111カ国である。
(c) 経 済
60年末以降,経済の年間平均成長率10%台の高度成長を続けてきた韓国経済は,79年には実質成長率が7.1%の伸びにとどまつた。この成長鈍化の要因としては,韓国政府が内外の情勢にかんがみ,安定成長路線への転換を図つたため,消費抑制と投資の減退をみたこと,年初来の相次ぐ石油価格引上げの影響があらわれたことなどがあげられる。輸出は輸出価格の急騰などにより鈍化傾向をみせ,年額151億ドルにとどまり,他方,輸入は原油価格の高騰,資本財・原材料の増加などにより203億ドルに達した。この結果,貿易収支は53億ドルの赤字(経常収支は42億ドルの赤字)となつた。
80年1月12日,韓国政府は貿易収支の改善を主たる目的として,通貨ウォンを切り下げ(切下げ率はIMF方式で16.6%),また切下げに伴う輸入インフレの抑制を図るべく銀行貸出金利を大幅に引き上げた。
韓国経済の大きな課題となつている物価安定については,韓国政府は4月に経済安定化総合施策を発表するなど努力しているにもかかわらず,12月の卸売物価は前年同月比23.8%の上昇,消費者物価は同21.2%の上昇を示した。こうした中で朴大統領射殺事件が発生したが,政府は経済運営の基本方針に変わりはない旨直ちに明らかにするなど経済に影響を与えないように配慮し,同事件が直接経済混乱を招来する事態はみられなかつた。
(ロ) 北朝鮮の情勢
(a) 内 政
北朝鮮では金日成主席を中心とする指導体制が堅持されている。
79年には主体思想を基本指針とし,社会主義制度の強化をはかる3大革命(思想,技術,文化)路線を推進する動きが従来に引き続き展開された。経済面では,第2次7カ年計画(78~84年)に基づく近代化,科学化及び人民生活の向上に重点がおかれた。
近年の政治動向としては,元老クラスの古参幹部が政務院(内閣)の第一線を退くとともに,国家の指導層において比較的若い世代が進出する動きがみられている。
79年には副総理が7名から9名に増員され,この結果,副総理中5名が経済専門家で占められることとなつたことは,経済建設重視を反映するものとみられている。
4月には平壌でわが国や米国を含む75カ国,約800名の選手団の参加を得て第35回世界卓球選手権大会が開催され,北朝鮮の内外において注目を呼んだ。
また,12月,朝鮮労働党中央委第5期第19回全体会議で80年10月に第6回党大会を10年ぶりに開催することが決定され,関心を呼んでいる。
(b) 外 交
(i) 北朝鮮の外交の基調としては,北朝鮮を友好的に遇するすべての国々と完全な平等と自主性,相互尊重と内政不干渉,互恵の原則に基づいて国家的,政治的,経済的および文化的関係を結ぶとの方針が打ち出されている。
(ii) 北朝鮮は76年8月のコロンボ非同盟諸国首脳会議の後,77年に入り非同盟諸国との間の要人の往来に積極的に取り組んできた。79年中には,朴成哲副主席,李鍾玉総理,許淡副総理兼外交部長,孔鎮泰副総理などを団長とする政府代表団がアフリカ,中近東,アジア諸国に派遣され,他方,ブルンジ大統領,ギニア大統領,ビルマ首相,ワルトハイム国連事務総長などの要人が北朝鮮を訪問した。また,北朝鮮は79年9月,ハバナにおける非同盟諸国首脳会談で調整ビューロー(24カ国とPLO)の一員にあらたに選出された。
(iii) 79年には中南米地域の4カ国(グレナダ,ニカラグァ,セントルシア,ドミニカ連邦)と外交関係をあらたに樹立した。この結果79年末現在で外交関係を有する国は97カ国で,このうら韓国とも外交関係を有しているのは59カ国である。
(iv) 中国及びソ連との関係においては,北朝鮮はバランスの保持に留意する姿勢を続けている。中国との間では79年にはトウ頴超中央政治局委員(故周恩来総理夫人)が北朝鮮を訪問するなど活発な交流と協力が行われている。
ソ連との関係では各種の人的交流や経済協力が引き続き行われている。
(v) 79年1月,ヴィエトナム軍の関与のもとで行われたカンボディアでの軍事行動に対しては,北朝鮮は労働新聞の論説において,カンボディアの民族独立に対する重大な侵害であるとしてヴィエトナムの行動を非難した。しかし,同年2月の中越武力紛争,およびその後の12月のソ連のアフガン侵攻については,北朝鮮は論評を一切行つていない。
(vi) 北朝鮮は74年3月以来現行の軍事休戦協定を平和協定に変えることを米国に対し呼びかけているが,米国は韓国の同席なしには北朝鮮との話合いに応じられないとの立場をくりかえし明らかにしている。他方,79年7月,カーター米大統領が韓国を訪問した際,米韓共同声明で,米,韓,北朝鮮の3者会談開催の提案を行つたが,北朝鮮はこれに応じていない。
(c) 経済情勢
(i) 金日成主席は,80年1月の新年の辞において,79年は社会主義建設の各分野で大きな成果をあげたとし,工業総生産額は78年に比べ115%,電力114%,圧延鋼材115%,化学肥料113%,セメント121%の増大をみた旨,また,農業生産では900万トンの穀物生産目標を達成した旨述べた。しかし,工業総生産高の伸び率をみると78年の伸び率に比して2%下回り,また基幹帝業の部門別伸び率も電力を除いて78年の伸び率に達しなかつた。
80年の金日成主席の新年の辞は前年と同様大半を経済問題にあて,経済及び貿易の振興を重点課題として謳つている。
(ii) 対外債務問題
北朝鮮は,73年以来西側諸国から大量の近代的プラントや技術を導入する方針をとつたが,石油ショックとこれによる国際経済の不振の影響を受け,79年末現在までに西側諸国を含む諸外国に対し推定約20億ドルに達する債務を抱えているといわれる。79年から80年にかけて北朝鮮は一部の関係国業界との間でこの問題解決のため債務繰延べの折衝を行い,わが国民間業界との間では後出のような合意が成立した。
(ハ) 南北朝鮮関係
(a) 南北対話の状況
78年に見られた日中平和友好条約の成立と米中国交正常化という朝鮮半島をめぐる国際情勢の進展を背景として,79年1月朴大統領の呼びかけを契機に2月から3月にかけて3度にわたり南北間の接触が行われた。しかし,責任ある当局者間の対話を主張する韓国側と南北の政党,社会団体などの代表者が参加する全民族大会の開催を目指すべきであるとする北朝鮮側の対立から実質的進展はみられず,接触は中断された。
また,カーター大統領が韓国を訪問した際に,米韓共同で,米・韓・北朝鮮の3者会談開催の提案がなされたが,北朝鮮は,「3者会談提案は極めて非現実的であり道理に合わない」旨表明しこれに応じなかつた。
朴大統領の死亡後80年に入り,対話再開の動きが再び具体化するに至つた。すなわち,80年1月12日,北朝鮮は南北統一問題に関して李鍾玉総理から韓国の申鉉ファク総理にあてた書簡及び金一副主席から韓国各界要人11人にあてた書簡を発出して対話再開の呼びかけを行つたのに対し,韓国側は1月18日,崔大統領の年頭記者会見で南北総理会談を積極的な姿勢で検討する旨明らかにし,次いで1月30日,申総理より北朝鮮李総理あての書簡をもつて南北総理会談のための準備会談を2月6日板門店で開催することを提案し,北朝鮮側もこれに同意した。この結果2月以降南北双方の実務者会談が行われるに至つた。両者の態度にはある程度弾力性もみられているが,実質的進展をみることは容易でないとみられている。
南北政治会談再開の動きが始まつた79年2月20日北朝鮮体育関係者は,韓国側に対し,第35回世界卓球選手権大会(平壌)への参加問題について,双方が統一チームで参加する問題を協議することを提案した。2月から3月にかけて4回南北体育関係者の会合が行われたが,何らの成果もみられず,結局韓国チームは北朝鮮への入国を認められなかつた。また,北朝鮮側が年末に至り,モスクワ・オリンピックに南北が統一チームをもつて参加することを提案したのに対し,韓国側は,80年1月,まず南北間の信頼とスポーツ交流の基盤づくりが必要であるとして否定的回答を行つた。
(b) 軍事情勢
79年の朝鮮半島の軍事情勢は韓国内の政変にかかわらず特に大きな動きはみられなかつた。しかし,7月から10月にわたつて,武装スパイ事件が発生し,また,北朝鮮地上軍兵力の大幅な増強に関連して,7月,在韓米地上戦闘部隊の撤退を81年まで見合わせるとの米大統領の発表が行われたことは,朝鮮半島の軍事情勢が依然厳しいものであることをあらためて印象づけるものであつた。
また,3月の「チーム・スピリット79」が76年の開始以来最大規模で行われたのをはじめ,各種の米韓合同軍事演習が実施された。また,6月及び10月の2度にわたつてブラウン米国防長官が訪韓し,米韓防衛協力の強化について協議が行われた。
また,米国は,10月の朴大統領殺害事件の発生に際し,いち早く,韓国における事態に乗じようとする外部の企てに対して,対韓条約上の義務に従い強く対処する旨の政府声明を発表するとともに,空中警戒管制機及び空母機動部隊を韓国地域に派遣する動きをとつた。